解説 この碑は久留米市100年公園内に設置されているものであるが、もともとは小森野町の内務省出張所に設置されていたものを100年公園の設置に伴い昭和62年に移設されたものである。同じ場所に設置されている内務省の筑後川改修記念碑では地元の状況がよくわからないので期成会で発案して地元中心の経緯をとりまとめたものである。同じプロジェクトを著したものであるが、立場の違いが顕著に表現されており興味深い。碑文は漢文であるが久留米大学宮地米蔵名誉教授の現代文への訳文を掲載したものである。


澤千歳(現代文)

日本の大河として、東に阪東太郎(利根川)があり、西には筑紫次郎(筑後川)がある。筑後川は源を熊本県に発し、豊後・筑前・筑後・肥前を貫流し、276流の枝川の水を集めて海にそそいでいる。

その延長は35里(約140km)、流域面積は184方里(約2880平方km)におよんでいる。川の流勢は、筑後に入ると広くゆったりと、いかにも両岸の広大な土地を潤すような趣を呈している。しかし、屈曲の甚しい処では、大雨が永くふり続くと洪水となり、氾濫した水は小さな山や丘をものみこみ、一帯は見渡すかぎりの沼沢となる。とくに三井郡はその中心地で全郡民が永い間くるしんできた。

 文化年間(1804〜1817)、この郡に楢原平左衛門(今山村庄屋)という者がいて、はじめて治水策を考えてこれを主唱し、しばしば藩庁へも建言した。これは大きな土木工事であるため、事業に着手するのが容易でなく、そのうち彼は死没した。

 田中政義翁はこの平左衛門の外孫であった。祖父の意志をつぎ、治水の事を自分一生の任務と考えていた。翁は日本国内を歩きまわり、地形をいろいろと考案し、川を上下してその水勢を詳しく測定するなど、ときには寝食を忘れるほどの熱心な調査を続けた。

 嘉永3年(1830)大洪水がおきた時、翁は藩当局を説いて治水の策をたてるように要望するとともに、現場の救済活動に力をつくして村民の利益に奉仕した。このため、藩では治水係役人をおいてその方法を研究させたが、翁は川流模型をつくって治水工事に関し具体的意見を述べ、聴く者すべて翁の考えに賛同したのである。

 同6年、藩では翁に意見を正式に上申するよう命令した。そこで翁はつぎの3条の方策を建白した。

第一に筑後川に3放水路を開設すること。第二に川幅を拡げて水の積圧を減少すること、第三に荒籠を取り除いて水流を順調にすることであった。しかし藩庁では、巨額の経費が入用であることを心配してなかなか決定にいたらず、そのまま数年を経過するうちに明治維新となり、すべてが新しく出発したため以前からの事は打ちきられてしまった。
治水事業も同様であったが、田中翁の志は前よりも強固であった。

 その後明治11年、ふたたび洪水がおとずれた。翁はまた氾濫地方を奔走して水害除去に努力した。

 この年、福岡県庁では翁の治水策が大いに用いるべき方式であることを認め、その意見を提出させた。この頃、水害は毎年の事となり、耕地の荒廃はひどい状態であった。

 このため、13年に三井郡大会が開かれ、陳情委員が選ばれたが、翁もその人選中にあった。さっそく、県令に従って上京し、内務省に出むいて懇願した。まさに声涙ともにくだる真剣な陳情に当局も心を動かされ、ついに技師を派遣して沿川の地域を測量させた。これでようやく翁の年来の志が実現される糸口が開けたのである。

 明治17年、政府は河川の制をしき、久留米に土木監督署を設置し、石黒五十二技師に筑複・川改修を担当させた。技師は3年にわたる調査のあと、19年、ついに計画を決定した。

 その案は、田中翁が嘉永年間に工夫したものとほとんど同じであった。このため人々は翁の識見の高さにますます敬服したのである。

 これよりまえ、県庁は土木制度改正案を県会に提出し、これを審議させていた。この改正案によると、予算関係において筑後川改修工事費がその大部分を占めることになっていたため、県下の三州(豊前、筑前、筑後)はたがいに利害を異にする結果となり、議論入り乱れてまとまらなかった。当地方選出の議員田中新吾・佐々木正蔵両氏は、あくまで剛直な態度で県の原案を終始支持していた。すでに政府の方では改修工事費の県分担(半額は沿川地域負担)を命令していたが、県会では、工事のやり方が当を得ていないという理由でこれを議決しなかった。

 当時の福岡県知事は安場保和であったが、被は聡明・果断な性質で、県会の否決は時の政治的任務を妨害するものと見なし、原案を固執してゆずらなかった。ついに知事は政府へ申請をおこない、同時に田中・佐々木両氏も上京して陳情につとめた。
 この結果、政府は知事申請を容認し、20年4月から改修工事に着工したのである。
 その後、佐々木氏は衆議院議員に選ばれ、国会で河川改修の急務をとき、一方、田中氏も県会議員として議会で土木制度の改善に努力した。この結果、24年に土木制が改正され、25年には筑後川の総工事費はすべて県負担となった。ついで29年、改修区域が大拡張され、その費用は政府予算に組み入れられた。

 これらはみな佐々木・田中その他の諸氏の尽力の賜である。36年に至って工事はついに完成し、全郡民は生きかえったような思いをすることができたが、田中政義翁の多年の念願もここに始めて達せられた。この年の12月、政府から翁に藍綬褒章が贈られ、その善行が表彰された。人々が心から喜んで言うのには「堤防を整備してこれに水流を通し、洪水を一掃して農業を勧め、今日の安らかな生活を私どもに与えたのは田中翁やその他の諸氏である。その功繍と思徳は永遠に記録されるべきである」と。 そこでみなが協議し、碑を筑後川の水辺に建てて後世の人たちに伝えることにした。これからのち、筑後川の洋々たる流れを見るとき、あわせて田中翁など諸氏の功徳を思いかえさねばならない。


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