説明:この碑は山田堰北岸の神社の敷地内に明治21年に設置されたものである。三堰のうちこの堰は福岡藩によって設置され、残りの二堰は有馬藩によるものである。この水路の下流に有名な三連水車がある。


 
堀川紀功碑(山田堰)

 利して用ふれば則ち天地棄物無く、之を利せざれば則ち萬物皆く贅疣たり、千歳川の豊筑の間に在るも亦一害物たり、其利して之を用ひたるは、寛文年中より始まる。
 初め渠を開きて水勢を岐ち以て民田に注ぎ、名づけて堀川と日ふ。享保7年福岡藩の奉行川崎傅次郎、麻生四郎衛門と言ふ者、更に地形を相し上流三十余歩の処に於て、巨巌を鑿開して以て水門を為る。口径五尺、門扉水の増減に随って閉闔す。 民皆之を利とす。宝暦9年、大川奉行十時源助、之を増広して十尺と為す。郡奉行寺田某更に属吏森喜作と大庭村の荘屋古賀十作とに命じて、水利堤防の事を掌らしむ、寛政中、十作の従子古賀百工と言ふ者、大いに之を修補す。
 今に存する所の山田の石塊は即ち其の遺蹟なり。是に至って水勢増々加はり、滾々として上座郡山田、菱野、古毛、田中、多々連、長渕、入地、大庭、石成、下座郡の中島田、福光、鵜木、片延、中村十有四カ村に注派し、潅漑する所の田、四百八十七町九段有余歩にして、其利大なり。明治七年洪水堰を攘つこど、二千五百余坪、国庫金一万七千余円を発し、福岡県属某々等に命じて以て之を修理す。
 十八年洪水又二千六百八十余坪を攘つ。郡長山田正修、郡吏調円吾をして役を董せしむ。郡民又委員八名を公選して以て之を輔け、七ヵ月にして工を竣る。夫寛文以降、民の利を享くること今に二百二十有余年、口碑の傳ふる所、野乗の載する所、将に湮滅せんとす。
 今や有志者相謀って碑を渠口に建つ。前人をして不朽ならしむるに庶幾からんか。銘に曰く。稲田青々、維れ水の利するところ。渠水滾々、維れ誰が賜ぞや。於戯古人、労にして恵を垂る。之を貞aに勒して、以て後世につなぐ。

 明治21 香月恕経 撰
    関 秀磨 題併書

 この碑の裏面には次の文字がある。

 明治十八年郡民公選委員

(工事掛)  
 古賀茂七郎 朝倉孝雄  
 長野信平   星野次郎平  
 大内十三郎
 加藤啓五郎

(仕役係)  
 林譽八郎  森部隆造


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