筑後三堰と明善校


 樺島石梁

 樺島石梁は江戸に遊学して12年、寛政7年(1795)42歳の6月、若君のお供をして帰国した。寛政8年(1796)2月、講談所再建の監督を命ぜられ12月に完成し「明善堂」と名づけられた。
 当時の学問所では、身分による席順がやかましく、些細なことで争いが絶えず、激しい反対もあったが、「学問の府の中まで必要以上に格式を持ち込むのはいけない。学問によって礼儀正しくなれば席は自ずから定まる」という理由で、石梁は断固として学校本来の立場を堅持した。
 石梁の教育方針は「ひろく諸書を熟読し、一身を修むるは勿論、和漢古今の治乱興亡を考え、人情物態を暗んじ、天下国家の制度沿革を講じ置、まさかの時ひとかどのご奉公あらん事専要の事なるべし」と実用の学問を奨励した。
 また、樺島石梁は、漢文和文の才能に長け、求められて数多くの碑に撰文を書いている。
 文化14年(1817)樺島石梁撰「床島堰碑」、文政10年(1827)樺島石梁撰文による「三堰碑」が建立されている。  
 床島堰は正徳2年(1712年)に建設されているから、完成後100年を経て「床島堰碑」は建立されたことになる。 さらに、大石堰に到っては寛文4年(1664年)の完成であるから150年後に「三堰碑」は建立されたことになる。  
 ところで、「三堰碑」は文政10年11月に建立されているが、石梁は同じ文政10年(1827)11月30日に74歳で没している。
 このあたりの経緯が碑の背面に男小助(石梁の息子の孝継)の補足文として記されている。

 吉井の大庄屋田代茂次郎は大石堰の脇に碑を建て以て祖先及び管下の五庄屋の功績をたたえたいと久しく思い続けてきた。去年の冬父石梁のところに来て碑文を起草して欲しいと請うた。
 石梁は病にかかっていたため「自分は病にかかっている。また、大石堰の工事誌があるのに何故に碑を改めて作る必要があるのだ。」と茂次郎の申し出を固辞した。
 茂次郎はあきらめきれずに、このことを公に願い出たが、公はそれはよいことだと許可を出し、石梁に対して碑文の起草を命じた。
 これを受け、石梁は熱心に起草文の作成に取り組み、11月上旬に完成したものの下旬にはついにこの世の人ではなくなってしまった。「三堰の碑」は実に石梁の絶筆となったのである。
 この様なことで、題字は本人が書いたが、文章は遺命により不肖息子の孝継が代わって書くこととなった次第である。         
   文政11年8月 樺島孝継誌
 
 死の直前まで力を振り絞って力強い文章を起草した石梁の精神力には圧倒されるばかりである。

 小説になった五庄屋の偉功(水神−帚木蓬生)
 
 五庄屋に関する記述は30年程前に林逸馬と言う作家による小説「筑後川」があります。勿論、樺島石梁の三堰碑の碑文が下敷きとなった長編小説です。
 新たに今年の9月、同じようなパターンで五庄屋をテーマにした小説が出版されました。見事な筑後弁で構成されており、時間の過ぎるのを忘れて楽しく読むことが出来ました。
 ホットな情報を早速(多少自慢げに)東京の仲間に紹介をしました。ところが、私の提供した情報の何倍もの蓬生さんに関する情報が返って来ました。自分の軽挙妄動を恥じると言うより、むしろ、たくさんの情報を頂いてますます元気が出たと言ったところです。頂いた情報の横流しも含めて若干の紹介をしたいと思います。
 作者は帚木蓬生(ははきぎ ほうせい)、小郡の出身で明善の後輩です。本名は森山成彬、同級生の森山嘉威君の親戚かと思って確かめたところ、小郡市大保の隣組としての交流はあるけど親戚ではないとのことでした。(写真を追加致しました。)
 明善から東大仏文科に入り卒業後TBSに入っています。TBSは1年でやめて九大医学部を目指して受験勉強に入り明善大学(時習館)で模擬試験を受けていたそうです。昔習った先生に悟られたくなかったので帚木蓬生という偽名で受けていたと言うことです。帚木も蓬生も源氏物語の巻の名前から採ったと言うことです。
 全国的に有名な作家により取り上げられ我がふる里の歴史(五庄屋の物語り)も全国的になっていくのではないでしょうか。
 なお、水神は2010年度新田次郎文学賞を受賞しています。
 より詳しい人物紹介と書評は下記のURLからアクセスしてみて下さい。

 帚木蓬生に関する情報 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%9A%E6%9C%A8%E8%93%AC%E7%94%9F   
 小説「水神」の紹介ページ
 http://www.asahi-net.or.jp/~wf3r-sg/nthahakigi3.html#suijin

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