この碑は大堰完成約150年後に五庄屋の子孫によって堰の脇に設置されたものである。樺島石梁に碑文の起草依頼が来たが、高齢により一旦断ったものの当時の藩の重役に説得されて受託したと言われる。碑文を起草したもののこれを書にすることが出来ずに題字のみを書き、残りは石梁の息子が書いたとされている。この碑文はまさに石梁の絶筆となったのである。 |
| 三堰之碑(大石堰) (注−2.ここで言う三堰とは袋野、大石、長野の三堰を言う。) 筑後川は諸史にあらわれ、実に天下の大水なり。我が米府の東辺にて河に随って邑するものを、生葉郡となし、其の次を竹野郡となし、又た其の次を山本郡となす、三郡を合して国は総べて称して上郡という。上郡の地は河の近くして水は乏し、農耕は利あらず、民は大に苦しめり。 ![]() 郡人に夏梅村庄屋次兵衛。清宗村庄屋平右衛門。高田村庄屋助左衛門・今竹村庄屋平左衛門・菅村庄屋作之丞というがあり、皆乞う慷慨にして器幹あり、相謀りでおもえらく、河を堰かば必ず水を得ん、水を得ば貧は憂ゆるに足らずと。 既にして又おもえらく築鑿の事は大難なり、府に請うといえども必ずゆるされざらん、然りといえども、郡は今将に枯滅せんとす、郡が枯滅すれば、死するにしかざるなり、等しく死せば大功に死せんと、議合えり、すなわち血をすすりて相誓い、死を決して将に府に請わんとしたり。 近隣の諸庄屋等之を聞き相奮って身を投じ、其の員に入らんと請いしに、五庄屋はきかずして曰く、後れたり、員は益すべからざるなりと。諸庄屋は皆大に怒り、将に別に上書して以て其の事を阻まんとしたれば、郡中は?々たり。五庄屋は皆吉井大庄屋田代氏の管下に属せり。田代氏の同職なる石井氏は、田代氏と同閭にして相善し、之を聞きて大いに憂之、すなわち二人相共に喩解すること多方にして、和は成りたり。 是に於て寛文初年を以て、五庄屋及び諸庄屋の某々すべて十三人は連署して府にもうして曰く、水来らずば極刑に就かんと、府は大いに之を壮なりとし立どころに其の請いをゆるす。 ![]() 五庄屋は唱首なるを以て、ために五人の磔具を作り、之を村口に立て、勢は必ず罰せんとするに在りて、以て衆を励ましたり。是に於て衆気は百倍し、急に大堰を大石と長野の二所にたてたるに、水勢は猛く流れ、万派は意の如く、ついに美田一千四百余町を得たり。 府より其の功を賞して、物を賜いしこと差あり。五庄屋を賞するには年税各々二百石を免ぜんことを以てしたるに、皆拝して曰く、水を得んことは小人の素願なるが賞を受くることは欲する所に非ざるなりと、辞して受けざりしかば、人は益々其の義なること 高しとしたり。 其の後八年にして郡に又袋野理の挙あり。袋野は郡の最東の地に在り、田代名は重栄と其の千名は重仍とは相与に久しく河水の別に堰くべぎを相し、十二壬子に上議して府にもうしたれば、府よりゆるされたり。 すなわち堰を獺の瀬に作り、巌をうがつこと千間、匿溝を造りて以て大に水を取りしかば、また美田数百町を得たり。此の堰と大石と長野の堰は、国中にて之を上郡の三大堰と稱せり。三堰とも皆奇功にして雄大、鬼作に非ざれば即ち神造にて、絶えて人力の及ぶ所には非ざるなり。 ![]() 上郡はもとやせ地なり、寛文は今によりて百六・七十年、上郡が今に至りても、沃土膏壌と稱せらるる者は、三堰にて水を得つつあるを以てなり。上郡の吏民が大に国になすことありたるは、何ぞそれ盛んなるや。袋野には宝暦の碑ありてすでに立てり、大石と長野には未だ立てし石あらず、今年重栄の玄孫なる重陟、及びかの五庄屋の後えい等石を大石壇上に立てんとし、余に碑文を製せんことを請いたり。 銘して曰く。一国の大利を起して、万歳の鴻美を垂れたり、数子の偉功は、水のごとく遠く山のごとくたかし。 文政10年丁亥冬11月 石梁樺島勇七公礼撰 男小助孝継書 目次に戻る |