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説明 :この碑は国直轄による第1期筑後川改修の完了を記念して昭和36年に内務省によって設置されたものである。もともと小森野町の内務省出張所の敷地内に設置されていたものであるが「筑紫余滴」とともに昭和62年久留米市100年公園の完成とともに現在位置に移設されたものである。 筑後川は,源を熊本県阿蘇郡葛師嶽に発し、豊後日田で玖珠川に合流したあと筑前・筑後を貫いて流れ、筑後三瀦郡久間田村村で海こそそいでいる。その流れは延長35里、灌漑面積は3万1000町歩で、改修工事は明治36年5月に完了した。その経費は267万円余りで、治水工事としては大事業であった。 一体に水の恩恵は広大なもので,万物はこれによりはぐくみ育てられる。しかし・一度大雨が長く降り続くと河川は増水して荒れ狂い,堤防を破壊して全ての物を流失させ,残虐この上ない結果となる。
筑後川の決壊については,中古以前のことはさておき,文政8年(1825年)から慶応2年(1866年)の間に12回おきている。最近、最も激しいのは明治22年であった。沿岸の地である久留米・佐賀二市をはじめ日田・朝倉・浮羽・三井・三瀦・三養基・佐嘉・神崎の8郡はまさに一大湖となり,被害者の救援はひどく困難を極めた。こんな事情から筑後川改修は必須のものとなったわけである。 朝廷では既に早くから国内の大河川,利根・木曾等の改修を決定し、どちらも工事を始めていた。この筑後川では16年に測量を開始し,17年には福岡・佐賀・熊本・大分4県にわたる河川土木を直轄事業とし,事務所を久留米に置き,技師を派遣して監督させた。次いで19年に土木監督署が設置され、翌年4月から工事に着手された。明けて21年5内務大臣山県有朋伯が工事巡視にやってきた。その後27年,署が熊本に移され、翌年には事業拡張策が立てられ,31年、さらに、福岡に署を移し,ついに工事の竣工が見られたのである。この間、内務大臣は引き続きこの工事に尽力し、土木局長西村捨三も技師の指揮と関係者に対する奨励努め、工事の成功に大きな力となった。
技師の言によると,水の流勢は山が迫っておれば狭く、平坦な野では広く流れるものである。広い流れは、氾濫しやすく、狭い流れは荒れやすい。水門や堰によって流れを緩やかにしたり、また激しくするのは水勢を平均するためである。袋野・長野・山田・床島など堰や千栗の堤防などの工事が昔からなされているが,この度の新規工事は,迂回した流れを直にし、4カ所の放水路と、逆水防止のための6カ所の水門を,設け、もとからあった荒籠をとり除いて護岸工事を行い、川幅を広めて氾濫に備える等に主眼があった。 34年に再び、長雨が降った時、水位は昔に比べて最高であったが,被害は全くわずかであった。これによっても改修の効果を知ることができよう。また,昔は各藩が対立し,隣藩に水が流れ込んで自分の藩は被害がないように考えていた。今はそのような悪弊はなく.むしろ協力こそが互いの利益につながることを知った福岡・佐賀の両県人は種種の意見を出し合い、金や物を投げ出して改修費の半額を負担したのである。 明治36年歳發卯冬12月」 |