説明:恵利堰建設して床島用水によって筑後川右岸に用水を供給する事業であり、本事業の推進に寄与した地元有力者の功績をたたえたもので、大刀洗町の大堰神社に設置されている。碑文の起草は明善堂を創設した樺島石梁によるものである。石梁は漢文の才能にたけ、藩内における多くの碑文を起草している。

 
 
床島堰記(恵利堰)

 この堰は、正徳2年(1712)、梅巌公(有馬則維)の時つくられた。はじめ、御井郡諸村は農地は肥えているけれども用水に乏しい悔みがあった。稲数村庄屋清右御門(中垣)、八重亀村庄屋新左衛門(秋山)、鏡村庄屋六右衛門(高山)などは意気と知略のある人物で、まえにも筑後川の水について検討し、これを堰によって潅漑用水とする計画をもっていた。 
 しかし大河を相手とする大工事であるため、そのまま数年を経過したが、ある日のこと、どうにもじっとしておれず、「明君といわれる殿様が上におられるいまこそ、この永久に人民の利益となる大事業の好機である」と意見が一致した。
 そこで具体的計画をつくって藩の重役に呈出すると、これは藩主に差しだされた。梅巌公は英明な方で藩政に力を尽くしていたが、一見してこの計画を見て壮快な事業だとされ、野村宗之丞・草野又六にこの役を担当させ、清右衛門など三人をその補助にあてられた。このほか当時藩職についていてこの工事に関係のあったものに家老・総奉行以下いろんな人々がいた。
 草野又六は名を実秋と称し、かれも以前から筑後川に堰を築くことを考えていた。優れた人物で度胸が大きく、実務的仕事の才能も高かった。かれが当時藩のため農業を開発して利益を図った仕事は数々あった。
 一体にこのときの工事に役割をあてがわれた人々はみなひとかどの傑出した者ばかりで、まことに人選の妙を得ていたといってよい。命令をうけると、皆の気持はぴったりと一致しふるって事にあたり、さかんに夫役の徴集にもあたった。さきに藩に呈出していた計画書にもとづき、床島村に長い水道を開通し筑後川に石を積み堰を築いて河流をふさぎ、このため溢れた河水を数子間の長さ西の方に引いた。
 怒り、沸騰するように豊かな水が水路を流れていった。また水道の口近くに地を堀りけずってこれに石を数きつめ、余った水流を河にみちびくようにした。その流れの様子は遠くから望めば天から龍が降るように勢いがある。ここを通って舟は本流にくだってゆくのであるが(舟通しと呼ぶ)、翻々と波濤の中を舞うように動くのが見られる。
 一体にここには大小4個の堰があるが、水道と称せられるのは1個である。その下流は多くの支流に分岐し、その高低曲折にはよく調和があり、水を蓄えるにも減じるのにも立派な工夫が施されており、まったく当初の計画には狂いがなかった。工事は1月21日に始まり、4月13日に終了した。その日数はわずか80日余りであった。
 人夫は延べ数20万人余、金銭は約500余万文を使い、要した大石の数は何万個か数えることができなかった。堰のため石を河中に入れる工事は2月晦日に一斉に開始されたが、背にになって投げ入れる者、船から投げる者など人夫が雲のように集って働き、規律正しく行動し、賞罰の定めを厳重にしたためにみな勇んで行動しその有様は河水の力と人の勇気との競争のようで、見る者の魂を奪うようにいさましい光景であった。
 事業が成功したおかげで、水利の恵みをうけた村は約40村、約1500町歩の良田が得られた。正徳年間といえば今から約100年(文化14年から数えて)前のことでもう大分古い時期である。水道の恩恵下にある住民はいま豊かな暮しをおくり、仕事も楽にできる状況のもとで、床島堰こそ神の授けものといって感謝しているが、この工事を計画・指導した数人の先覚者の功績が、国家と住民のために偉大なものであることを後世の人々は知るべきである。
 
      文化十四年三月 
府学明善堂教授 樺島公禮誌
   
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