ふるさとの歴史紹介(将軍梅)                           
 
  
遠く流るる千歳川 高くそびえる高良山

   遺風ゆかしき大原や 将軍梅も薫るなり


 いわずと知れた
中学明善校の校歌の一節である。私の生家は筑後川のほとり、朝夕、高良山の風景は縁側の窓を額縁として眺めてきた。将軍梅は歩いて3分のところにある。この校歌にまつわる南北朝時代のふるさとの歴史を紹介したい。     宮の陣町 今村瑞穂
南北朝時代の北部九州

多々良川の戦い

 建武3年西暦1336年、京都の合戦に敗れ、逃れた足利尊氏は僅かな軍勢で九州に西下した。足利尊氏が大友、島津、宗像大宮司、後に松浦党(水軍)などの援軍を得て、多々良川(現在の福岡市)の戦いにおいて、南朝方の菊池武敏、阿蘇惟明らの大軍を撃破した。
 余勢を駆って東上した尊氏は、湊川で新田義貞を破り楠木正成を自害に追い込み、遂に1338年8月、征夷大将軍に任じられ室町幕府を樹立する。
 この戦いによる戦死者は六千余人。戦乱は筑豊などにもおよんだと伝えられる。いわゆる多々良川の戦いで、天下分け目の三大合戦のひとつといわれている。
大保原の戦い

 一方、南朝方は、後醍醐天皇が征西将軍として九州に派遣した8歳の皇子・懐良親王(かねながしんのう)と、彼を奉じた菊池武光は高良山・毘沙門岳に城を築いて征西府とした。
 その後懐良親王、菊池武光、赤星武貫、宇都宮貞久、草野永幸ら南朝勢約4万は1359年7月筑後川の北岸に陣を張り、大宰府を本拠とする北朝・足利勢の少弐頼尚、少弐直資の父子、大友氏時ら約6万と対峙し、両軍合わせて約10万の大軍が戦った。その苛烈さについては頼山陽の詩にも詠まれている。
 この戦いで足利側の少弐直資は戦死、南朝側の懐良親王や菊池武光も負傷し、両軍合わせて2万6000人余が討死にしたといわれる。戦いののち、傷ついた菊池武光が、刀についた血糊を川で洗ったところが、筑後国
太刀洗(たちあらい)、 現在の福岡県三井郡大刀洗町である。この戦いに敗れた足利軍は大宰府に逃れ、九州はこの後10年ほど南朝の支配下に入ることとなった。

  この写真は姉川昌弘君の提供です。
宮の陣神社

 筑後川の合戦の際、征西将軍懐良親王はこの地に陣を張り、念持仏である阿弥陀像をここに安置され、手向けに一株の紅梅をお手植えになり、百万遍の念仏を唱えられたとされている。これが「宮の陣」の地名の由来とされている。
 星霜をかさね、
親王が手向けた紅梅は老樹となり、里人の語り草となってこの老紅梅を人々は「将軍梅」と呼ぶようになったのである。3月上旬頃になると遠い昔の思いを秘めて写真のような美しい紅梅が咲く。
 宮の陣神社は、このような故事に因んで、高良神社宮司船曳鉄門が主となって、明治21年に神殿を創建し、後征西将軍宮良成親王(懐良親王の甥)を祀ったのがはじまりといわれている。その後、明治44年に懐良親王の霊が合祀されて今日に至っている。 (参考、宮の陣の由来につながる。)

 将軍梅より東方約1キロ高速道路脇に五万騎塚と刻された塚がある。当時の戦いの際戦死した兵士を敵見方ともに葬り塚を築いたものといわれている。往時、塚の範囲は数千坪に及んだといわれる。      
                  

 戦いに倒れた戦士は数千におよび、菊池武光の弟武邦は追慕のあまり出家してこの紅梅のほとりに庵を結び、親王の念持仏に戦死者の冥福を祈ったという。これが、神社境内の片隅に建つ偏万寺である。  蛇足であるが、寺を守る住職は、今でもその名は「菊池さん」である。


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