
重度沖縄病の方から見れば、年間4回なんて少ないのかもしれない。
重度八重山病の方から見れば、片道1万円で行ける本島なんて遠くないのかもしれない。
では、なぜに1年に4回も沖縄へ行くことになったのだろうか?
☆初めての沖縄渡りは小学校高学年の頃だった。
初めて乗る飛行機にワクワクし、初めてみる青い海、白い砂浜に感動していた。
2回目の沖縄は高校の修学旅行。事前学習で「うるまの国の言葉」や「ニライカナイ信仰」などに興味を持ち、関連の本を読んで自己学習。沖縄文化体験では女の子らしく「琉球舞踊」を第1希望にするも、人数調整で第2希望の「沖縄料理教室」へ参加。美味だった。自由行動で座喜味城趾へ登り、友人よったんと「何時かまた沖縄に来たいね」と言う。
修学旅行の影響で、進路を「おもろそうし」など沖縄文化の研究と考えるが、それには沖縄県にある公立大学の文学部でなければいかんと勝手に思いこみ、到底学力が足りず諦め。(今考えれば沖縄にある学校に進学し、地域文化研究で卒論を制作するとか、沖縄出身の教授にご指導頂く等々手段はあった筈だが、高校生の知識では考えつけず)
学生時代は専攻や円高の関係で,国内よりも海外・アジアに目が向きやすく、次第に沖縄のことは忘れがちになるも「南はてうるまの島」への憧れは捨てられず・・・。
☆台湾の離島で沖縄を想う。
社会人になり夏休みを利用し台湾通の友人と台湾旅行、台北から離島の膨湖島へプロペラ飛行機で渡る。この島で単語以外の日本語を聞いたのは金物やのおじいさんに「おや、日本語を話す人は珍しい。」と声を掛けられた時だけだったが、多くの人に親切にして頂いた。シュノーケリングツアーに参加し、剣荘という珊瑚の島へ渡る。白い砂浜、青い青い海と空。時折白い鳥が飛んでいく。ただ穏やかな風と時間が過ぎていく。上空から始めてこの島や海を見た時に「あ。この島と沖縄は似ているヨ」と口にしていた。そういえば、大人になったらまた沖縄へ行きたいと思い始めてから何年たったのだろう。台湾の小さな島に来て、沖縄のことを想った。
☆ 愛しき太陽の下で燃えつきる。
その年の冬、初めて沖縄・離島情報という本を購入。2月になったら沖縄へ行こう。一人でも行こうと考えつく。宮古へ渡り、池間大橋を自転車で走り倒し、最後は自転車ごと海か砂浜へダイブ!そしてつぶやこう。「愛しき太陽の下に燃えゆ・・・」これだ!しかし、まだ超割なんてない時代。見積もった時点で一人で自由旅行は予算が無理と結論。離島情報は本棚へ。この本が実際役に立つのはそれから更に2年後の2001年であった。そう。私の3回目の沖縄渡りは遂に世紀を越えてしまったのだ。
☆遂に沖縄渡り
2001年冬、遂に沖縄の地を踏む。この時は修学旅行時に同じ班だったよったん、OL友のマコが同行。座喜味城趾には行かず、中城城趾へ登ったが、高台の城跡から眺める沖縄の海、空、雲、緑、土、音。みな私が一時期恋い焦がれてならなかったものたちだった。こうして10年は経過しなかったが、長い沈黙の時間を経て、私は遂に沖縄の地を踏んだのだ。
☆で、考察って何を?
考察と思われるは本当に便利な言い回しだ。(←オイオイ)なぜ、こんなに沖縄渡りをすることになったのか。それは長い間、「うるまの国」に憧れ、恋い焦がれてきたから。修学旅行では参加できなかったが、沖縄民謡や琉球舞踊に興味があったから。そしてよりによって沖縄文化体験が料理教室であったことが大きな一因だろう。私は空港へ向かう度に「ラフテー食べていませんゾ!あ、ヒラヤチーも!く〜ッ!また来るか!?来ますとも!!」と思い、その言葉通りまた戻ってしまったのだ。そう。2001年に4回も沖縄に渡ってしまったのは、全て食いしん坊!魂の叫ぶところなのであった。そして、2002年もまた続きます。沖縄道。 ★ここまでお読み頂いた方、本当にありがとうございました。
〜なぜ2001年に4回も渡沖縄をしていたのか考察する〜