後ろは絶壁。右手は深い森。左と前は人の気配。もちろんそれは味方ではなく、敵のものに違いない。
 ここから味方のいる駐屯地まで、正面を突っ切っておよそ10キロ。長いとはいえないけれど、それでも味方を待つだけの余裕は持てなかった。
 

「なあ、もしかして最悪の事態?」
「………それ以外の何者でもないだろう。さて、どうするかな」
 そう言って、ロイは腕を組む。つられるように俺も左手を顎へと伸ばした。ざらりという髭の感触がいつもより強くて、ああそういえば今朝は整えてねえなあと思う。
 辺りを見渡せば、昨夜からの強行軍が祟っているのか、まわりの兵士たちは冴えない顔をしている。まあ、訊ねれば「そんなことはありません、サー」などと言ってみせるだろうけど。

 けれども、この絶体絶命の状況を理解している人間は一体何人いるのか。

 半分、いや3割。
 戦争下といえども、この状況で使える兵士は、良くてそんなもんだろう。
 少佐が率いる……もとい大尉が率いている隊としても最低の人数であるこの小隊では、残念ながらその割合だと1桁に過ぎなくなる。

 大した任務ではないと踏んでいた司令部が悪いのか。
 それを安易に信じた自分が愚かだったのか。
 今の時点ではどちらに比重がかかるかわからないけど、事実は目の前に突きつけられている。どんなに足掻いても変わることなく、ただ歴然として。
 
        まあ、それを含めての最悪なんだけどな。

 心の中で独白した言葉はきっとロイも思っているだろう。

 だからこそ、ロイは悩んでいる。
 この使えない人間たちをどう守るべきか。
 普通の佐官であるならば切り捨ててしまうであろうこの状況下だ。けれど、ロイは強迫観念のようなその意志で部下を守ろうとする。

 どうしてかは知らない。
 もしかしたら、焔で殺した人間の代わりなんていう感傷かもしれないし、ただ単に人が死ぬのが嫌いなだけかもしれない。
 ただわかっているのは、その意志のせいで、ロイは少佐という立場には似合わない、国家錬金術師という立場としても過剰な露出をしているということだ。
 必要以上に背負い込む任務と、責任。
 下の人間にとっては理想そのものだ。
 ………けれど、上に立つ者の理論としては正しいとは言えない。


 わかっているのか、と時々聞きたくなるけれど。
 それどころか、胸倉を掴んで問い詰めたくなるけど。
        きっとそんなことくらいロイは理解している。
 それでも、あいつは守ろうするのだ。ただ、ひたすらに。

 だからこそなのかもしれない。
 俺がロイの下で働きたいと思うのは。
 下の人間のものではない、そして上の人間をも超越した、そんな感覚の持ち主だから。理想はひどく高く、けれどそのためにどこか危なっかしい。そんな男を守るために、ここにいるのかもしれない。
 




「なあ、俺も行くぞ」
 ぽつりと言う。
 その言葉に過剰に反応するように、ロイは嫌な顔を見せた。きっと俺と同じ作戦を考えたに違いない。
「まだ何も言っていないだろう。勝手に推測するのはやめろ」
「やめろって言われても。隊長さん1人行かせるわけにはいかないし、ほら」
 この状況からの打破として、1番成功率が高いのは森から逃げる方法だ。しかし、ただ逃げるだけでは敵に挟まれ向こうの思い通りになる。
 そうしないために必要なものは囮で、そしてそれが1番効率よくできるのが焔の錬金術師、つまりロイだ。けど、囮は囮で危ないことに変わりはない。
「1人で平気だ」
「確実とは言えないだろ」
「足手まといだ」
「俺が?」
「………。他のが心配なんだ」
「大丈夫そうなのもいるし、何とかなるだろ」
「お前が行けば10%単位で生存率が上がるのに? 彼らが可哀想だろう」
「あいつらのを20%上げるより、お前を1%上げた方がこの場では大事だ」
「なっ……!!」
 ロイが声を荒げようとして、周りの視線で言葉を飲み込んだ。代わりに視線だけで、おかしいと抗議してくる。
 そりゃもちろん、数量的にはロイの方が正しい判断だ。1人と30人。一目瞭然の数字。
 けれども、その1人の価値は計り知れない。
 
 そんなこと言えば、ロイは嫌がるんだろうけど。

「んじゃ、そういうことで。俺、説明してくるわ」
「おい、待て。ちゃんと考えろ! ヒューズ!」
 後ろからの抗議に振り返らずひらひらと手を振って、俺は兵士たちのもとへ急ぐ。上官の大声に不安気な表情になっているのをどうやって説得しようかと思って、心の中で苦笑した。

 唇を歪めて明るく声をかける。
 凡庸な人々を捨てようとしているのは知っている。けれども、それで心は痛むことはない。


 だからこそ、俺はロイの下にいるべきなのかもしれないと思った。



03.以心伝心 了