2002.1.20
 ぼくは1953年生まれだから、子供時代は1960年ごろだろう。物心ついた頃からの事を思い出してみた。
学校生活
 小学校は桜山小学校。桜が多かったからだろうか。木造校舎だった。廊下が歩くとぎしぎし音がした。一番怖かった所は職員室だが、便所も怖かった。くみ取り式だったので、落ちるのではという恐怖感があったのだ。自分ちもそうだったのだが、大きさが違うし知らない人がたくさん使う所だから恐怖感があったのだろう。
 給食は脱脂粉乳がまずかった。昔の子だから好き嫌いなく何でも口に入れたはずだが、あの人工的な甘ったるさはかんべんしてほしかった。給食室の大釜でぐつぐつ煮えたお湯の中に、おばさんがセメント袋のような中から脱脂粉乳の粉をそそいでかき回すのを見た。人間の食べるようなものには見えなかった。あまりのまずさに泣き出す子もいた。親に断り書きをしてもらって、免除してもらう子もいて、ずるいと仲間で言い合った。その一方で先生の受けをねらっていたのだろうか、家の弟、妹に分けてあげるのだと水筒持参で入れてもらう級友がいたのには驚いた。アルマイトのおわんになみなみとそそがれたのを残さず毎日飲み干した。食べ残しは許されない事だった。
 ある夏の日、先生の目を盗んで窓からありの行列にそっとかけてみた。死ぬかなと思ったのだ。それぐらいまずかった。
 それでも給食を食べれる自分はしあわせだったのかもしれない。給食費が払えなくて昼時になると家に帰る級友もいた。はたして食べたのかどうかわからないが、給食後またいっしょに勉強するのだ。
 残飯はぶたのえさとして業者に出すという事で、串などが混ざらないようよく注意された。ぶたはもう一度火を通して食べるとの事だった。今はぶたも食べないのでただ毎日大量の残飯を捨てている。もったいない事だ。昔のように食べ残しを許さないような倫理観はないから、まさしく大量の残飯である。子供たちにとって6年間残飯がゴミとして捨てられるのを目の当たりにする事の方が、給食の利便さより恐ろしい事と自分には思える。
 当時の日本の子は栄養不足で、国際社会から援助される立場だったのだ。脱脂粉乳はその象徴的な物だった。そういえば、ビタミンA不足という事で、学校がビタミン剤をあっせんしていた。自分も買わされてあの甘い、なんだろう、菓子みたいな味のするものを毎日食べた気がする。
 くみ取り便所といえば、人間の糞尿は畑の肥やしとして使われていた。ぼくたち悪ガキが人の畑を野山のように駆けめぐっていた時にその悲劇は起きた。肥だめはわらのような物でおおいがされているだけなので、走っているとわからないのだ。まわりに囲いでもしておいてくれれば、そういう悲劇はないだろうが畑の所有者にとっては侵入する悪ガキの方が悪いのであって、あずかり知らぬ事なのだろう。
 そういえば、当時は野菜は煮て食べるものだった。野菜サラダなんて無かった。野菜を生で食べないのは、寄生虫を食べない知恵だったのだろう。人糞を肥料にしなくなった今では必要のない知恵かもしれないが。
 教科書が無償になったのは、途中のことでそれまでは買っていた。だから無償になった時に教科書は学校に置いて持ち帰ってはいけないと言われた記憶がある。宿題もなかったし、学校が終われば遊びほうけるだけだった。習い事はそろばん塾ぐらいのものでしあわせな時代だった。
貧しかったが、時間と空間だけは豊かだった。
家庭
 台所には、かまどがあった。鉄製のおかまにぶあつい木のふただ。まきでご飯を毎朝炊くのである。毎朝がキャンプみたいなものだ。炊きあがったごはんはおひつに移し、畳の部屋に運ぶ。丸いちゃぶだいで親子5人の朝食だ。朝早く、ほかほかの豆を売りに来る行商人のおばちゃんがいた。近所にあったとうふやにどんぶりを持って買いに行く事もあった。おひつのご飯はすぐに冷えて昼も夜も冷や飯だ。お湯を通して温めて食べた。おこげはおやつににぎってくれた。おにぎりがおやつなんて今の子には信じられないだろう。
塩をまぶしたおこげの味は、もう何十年も味わったことがない。
 家の中に水道がなかった。水かめがあってその中にためていた。ひしゃくですくって飲むのである。外には共同水道があった。
 冷蔵庫もない。祖父の家には、氷を入れる冷蔵庫があった。
だから買い物は毎日である。買い物かごを下げて毎日市場に行くのである。魚屋には魚が丸ごと売っている。丸ごと買って、うろこを包丁で落とし、頭を落とし、はらわたを落として調理するのである。
 洗濯機がない。アルミのたらいに水をはって、木のせんたく板に固形せっけんをなすりつけてごしごし洗うのだ。大変な重労働だったと思う。母は大変だった。
 電気炊飯器、電気洗濯機、電気冷蔵庫のこの三つの電化製品は、母を救ったと思う。
20世紀最大の発明と言っていいと思う。パソコンの比ではない。
 夏はかやをつって寝た。とにかく、はえやかなどが異常に多かった。くみ取り便所のせいかもしれない。うじ虫をたくさん見た。夏はうちわと後にやって来た扇風機だけしかしのぐ方法がなかった。
 冬は、炭の火鉢に炭のこたつだ。炭のあんかもあった。ふとんの中に入れて寝るものだから、寝返りをうってけとばして足をやけどする事もあった。
 風呂もなかった。ふろやはおもしろかった。その後家の中に風呂ができたが、石炭でわかすので家の中はすすだらけになるし、湯加減はむつかしいし、大変だった。ふろわかしは自分の仕事だった。だから今でも火をつけるのはうまいです。
あそび
 近所の悪ガキといつも同じ遊びをしていた。たすけ鬼という鬼ごっこだ。ビー玉、パッチンというかけ事もよくやった。やくざと同じで、ルールを破ると戦争になる。おたがいに兵隊を集めて空き地に集まりなぐりあいだ。人数が同数というきまりはないので、相手の人数が多くてびっくりする事もあった。でも最初の叫び声で敵の大将に飛びかかってやっつければ勝ちだ。
ぼくは優秀な兵隊だった。
 テレビはなかった。近所のテレビのある家に夜になるとみんな集まるのだ。若乃花を見た。力道山の空手チョップを見た。
 いつもは神社の境内に来る紙芝居を待っていた。水飴か、あんこを買うのだ。おじさんが声色を使って、自転車の荷台で黄金バットなどを見せてくれた。こづかいは10円だった。5円で菓子が買えた。コッペパンもよく買った。腹がへっていたんだな。
思えば小学教師の今も給食でコッペパンを食っているんだ。運命か。
 映画も歩いてよく行った。50円で見られた。ちゃんばらだ。スターが登場すると場内割れんばかりの大拍手だ。「待ってました!」「日本一!」かけ声が飛ぶ。
 今の映画館はつまらない。
 東京オリンピックの影響で我が家にもついにテレビが来た。友達にじまんした。すごい高かったと思う。だのに日中のほとんどは試験放送の画面とピーという試験音しかないのだ。番組は夕方と夜の一部分だけだった。だからテレビであそびのくらしが変わったことはなかった。
藤田まことのてなもんや三度笠や大村昆のでっち物がおもしろかった。笑いすぎて腹が痛かった。チャンネルはダイヤル式で、画面には水の入ったスクリーンがかかっていた。光の屈折で画面が大きく見えるというしかけだ。よくこんなものが商品になったと今では思うが、当時の大人はだれもそう感じなかったのだろう。
 スーパーマンもはやった。アメリカの生活というものが夢物語でよくわからなかった。
ちゃんばらごっこで刀を悪ガキとふりまわして血だらけになったり(本当の鉄だったのだ!さびた刀を持っているやつもいた)かと思えばふろしきを首にまいて高いところから飛び降りたりほとんど正気のさたと思えないあそびをやっていた。
 裏の家の殺しやジャックという犬が側溝のそばでつながれていたのだが、よくどぶねずみをつかまえて食っていた。冷や飯にみそ汁の残りをぶっかけた食事では、犬としてタンパク質が足りなかったのだろう。このジャックはそれだけでは足りずに日中放されるとよく猫をおそってかみ殺していた。何度も見た。こどもはきらいで自分もかまれた事がある。だからみんなから殺しやジャックと言われていたのだ。
コリー犬の人なつっこい犬とこのジャックがよくけんかした。みんなコリーの応援をした。コリーはいつも勝った。ジャックをあおむけに組み伏せて勝負は決まりだ。
コリーにあこがれたよ。
 当時は犬はみんな放し飼いだった。いつからつながれるようになったのかね。
 林の中に陣地小屋を作った事もあった。捨てられていた畳を引きずってきて、トタン屋根をかけてできあがりだ。大人があそびの中に入ってこなかった。けんかの仲裁もなかった。自分たちの世界は、自分たちでしきった。そういう意味では自立したこどもだった。 
大人は怖かった。あいさつしないだけで、近所のおじさんに頭をこづかれた。
学校の先生も怖かった。先生にたてをついている子を見た事がない。張り飛ばされる子は時々見た。大人はそれでいいんじゃないかな。今の大人と子供の関係はおかしいと思う。子供は自分の飯代をかせげるようになってからえらそうな口をきくべきだよ。