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同僚の授業を見ての感想

 ちいちゃんの心情を読み取ろうという趣旨はわかるのだが、ちいちゃんの心情をいくら
読み取っても戦争の悲惨さを読み取る事はできない。ここは場面の状況、背景を読み取らないと
ちいちゃんの悲惨さは読み取れないのだ。
 ちいちゃんは死んでかわいそうと言うが、ちいちゃんは最後まで自分が死んだとは思っていない。
自分が死んでかわいそうとは思っていない。
ちいちゃんの心情の読み取りとしては、それはまちがっている。
ちいちゃんは、「きっとここ空の上よ。」と思っている。
「あたし、おなかがすいて軽くなったから、ういたのね。」と理解している。
向こうからわらいながら歩いてくるお父ちゃん、お母ちゃん、お兄ちゃんを見て、
「なあんだ。みんな、こんな所にいたから、来なかったのね。」と納得し、
きらきらわらいだしているのである。わらいながら、花畑の中を走り出しているのだ。
幸せいっぱいなのだ。

 ちいちゃんの心情に寄り添っているだけでは、戦争の残酷さ、その下ですべてを奪われた
人々の悲惨さは浮かび上がってこない。
発問の工夫である。いくら子どもたちに発言させ、子どもたちに話し合わせても、低次元の
読み取りでぐるぐるまわっているだけである。活動あって、感動がない。活動あって、読み取りが無い、
いやまちがっている授業となる。
 
 ぼくはこうした。
ちいちゃんはどうしてふらふらしているの?
c ごはんを食べてないから。
どうしてごはんを食べてないの?
c空襲でお母ちゃん、お兄ちゃんとわかればなれになって一人ぼっちになったから。
そんなにおなかがすいて、熱もありそうな体でどうしてかげおくりを始めたのかな?
c前、家族みんなでやったかげおくりが楽しかったからもう一度やろうと思った。
一人ぼっちでかげおくりを始めたちいちゃんをどう思う?
cかわいそう。
そうだね。かわいそうだ。ちいちゃんをひとりぼっちにさせたのはだれ?地震、台風、津波?
c戦争。
戦争はだれが起こしたの?
c昔の人。
そうだね。戦争はいけないね。赤の他人の君でもちいちゃんをかわいそうだと思う。
ちいちゃんのお父さんだったら一人ぼっちでふらふらする体でかげおくりを始めたちいちゃんを見て
どう思うだろう。
cもっとかわいそうだと思う。
そうだね。お父さんはどこからちいちゃんを見ているの?
c空の上から。
どうして空の上にいるの?
c死んだから。
そうだね。天国から一人ぼっちのちいちゃんを見ているんだ。だからいっしょにかげおくりを始めたんだね。
「ひとうつ、ふたあつ、みいっつ」でお父さんの声が重なっているよね。
お母さんはどうだろう?
cお母さんもいっしょにかげおくりを始めた。
お兄ちゃんは?
cお兄ちゃんも始めた。
みんなで始めたんだね。でもどうしてちいちゃんのかげしかないの?
c体が無いから。
そうだね、死んでるから、たましいはあるけど体はないんだ。だからかげはできない。でも、「とお」
で青い空に、白いかげが四つうかんだよね。みんなの気持ちがいっしょになったんだ。
「体がすうっとすきとおって、空にすいこまれていく」てどういうこと?
cちいちゃんも死んだ。
空色の花畑てどこなんだろう?
c天国。
天国でいっしょになれたんだね。
でも本当は天国でいっしょになるより、どうした方がいいと思う。
cお父ちゃんもお母ちゃんもお兄ちゃんも生きて会える方がいい。
そうだよね。それをだめにしたのが何だったの?
c戦争。

教師の発問によって、子どもたちの場面の読み取りが可能となるのである。
発問は重要である。発問の質が授業を決める。

指導主事は一問一答の授業をだめだと言う。教師中心の授業はだめだと言う。
教師に向かって発言するのでなく、子どもが子どもに向かって発問し、答える
授業が最高だと言う。子どもは教師に顔を向けるのでなく、子どもに向かって発言し、
子どもも子どもに向かって答える。これが理想の授業と言われる。
それって、授業じゃないよ。サロンだよ。同好の士がけんけんごうごう討論
している状況だね。でもそれって高まるのだろうか。深まるのだろうか。
ソクラテスとプラトン。孔子と孟子。師弟関係は一問一答である。
師の発問によって弟子は考える、深い思考に陥る。禅問答だ。
それが授業だ。それが教師だ。そうでなければ教師の存在意義は無い。
子どもの発言をひたすら板書し、司会者に徹している教師が誉められる。
教師の発言量が多いと叱責される。
くだらん!
日本の国語教育は崩壊している。