2002.3.9
 
 
 

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 休みだ。体力の衰えか、この所家にいるのが一番いい。山に入るのもいいのだが、おっくうだ。庭のこぶしの花を見て一杯やるのは最高。ギターもパソコンも家にある。自由なこの空間がいい。
 さて4月からが総合科の本格実施だ。もう3年も校内研究してきたのだから、そろそろ教科研究に戻ってはどうかと提案したのだが、孤立する。総合科本格実施の前に不安なのだ。何が不安なのだろう。総合で何をやるのか、学校で何をやるのか、何に何時間かけるのかみんなで相談したいのだそうだ。要するに足並みを揃えたいのだ。百足競争なら必要な事かもしれないが、総合科にそういう相談が必要なのだろうか。
 指導要領や教科の目的、年間計画それらに縛られずに子どもの自主性から出発して課題を見つけてよいのが総合科の思想だ。地域や学校、クラスの実情に応じて創造的に行えばいいのだ。躊躇する原因は個人責任を取りたくないからだろう。みんなでやれば全体責任だ。間違った実践をしても個人責任を問われないのだ。「赤信号みんなで渡ればこわくない」か。それはそうだろうが、官僚的保身主義と教育実践とは無関係だと思う。護送船団方式に総合科を進めるぐらいなら、総合科なんて無い方がいい。
 うちの学校は4クラスもあるのだ。150名ぐらいの児童が地域をぞろぞろ歩いて同じ場所を見学するのは不自然だ。一クラスの方が小回りが利くし、児童の声を反映しやすいのは道理ではないか。時々一クラスだけ単独行動に出る事もあるが、いつもいつもというのはさすがに気が引ける。窮屈である。
 教師同士が実践のアイデアを出し合ったり情報を交換するのは大切なことだ。でも何に何時間かけるか相談する事ではないだろう。結果的にそのクラスはそういう事に何時間使ったでいいではないか。足並みを揃える総合科的理由はない。他人の意向を伺いながら実践を模索するのでは、クラスの子どもの声を反映するのは難しいし、結局同一の実践しか出てこない。多様性は進化の重要条件だ。同一性しかもたない種は一気に全滅する。多様性こそ種の生きる柔軟さなのだ。
 話が抽象的になってしまった。要するに自分のやりたいことを自己責任でやればいいのだ。老人施設の慰問、障害者施設の慰問など福祉的な事、平和教育、川の散策、鬼遊び、パソコン、計算ゲームなど自由にやりたい事をやってきたし、4月からもやるつもりでいる。まずければ責任を自分で取る覚悟はできている。定年までの事は考えていない。やれるだけやってみるつもりだ。行けるだけ行くつもりだ。