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2002.11.12
 子どもの興味、関心、意欲から総合の課題が出発する事を文字通り受け止めると、個人個人で興味関心は違うのだから、総合の課題は個人的なものになってしまう。40人の教室内で各人が各様の課題を持ち、その調べ学習や発表の準備に費やすのが学習のスタイルになってしまう。事実自分が今まで見てきた公開授業もこういうスタイルが多かった。
 そこでは、私の町のねこちゃん地図とか、ロボット製作、お菓子づくりなどそれこそ各人の興味関心、意欲を引く学習活動が展開されていた。それはそれで意義ある面もあるだろう。でもそれって義務教育でやる必要があるのだろうか。
 夏休みの自由課題でいいのではないか。個人が家庭でやれば済む事ではないかと感じたのだ。週休二日制が学校現場にも導入され、時間数は減った。その上年間105時間もの授業時数をこのような取り組みに費やすのであれば、教科学習へのしわ寄せがあると思うのが普通だろう。世間の学力低下の心配は当然の事だと思う。
 もういい加減にこのような総合の取り組みはやめるべきだと思う。
 
 総合の課題は教師が決めるべきだ。子どもとの話し合い、相談という形を取ってもいいが、基本的には授業なのだから、教師が教育的観点を持って決めるべきだ。
 例えば、私の町の川探検、老人ホームの慰問、米作りなどだ。
また、子どもの対人能力を育むという観点で、鬼遊びやレクレーションなどの遊びを取り組む時間に当てても良いと思う。ただ漫然と放任的に遊ばせるのではなく、対人関係はどうなのか調べる機会としたり、対人トラブルを解決する力を養う場にするのである。そのためには教師は集団遊びなどのゲーム指導の技術を持つ必要がある。
 また、基礎学力をしっかりと身につけさせる時間として、音読、漢字の習得、計算ゲームの活動や個別指導の時間に当てるのだ。
 そのような取り組みの場として総合の時間を活用するのであれば、学力低下を防ぎ、一人一人の学力を保証する事も可能だし、勉強だけでなく、対人関係を作る力を養う場にもなる。遊びの中で子どもは育つのだから、集団遊びの活動も必要な取り組みである。また、担任がやってみたい実践をやれる場にもなる。福祉活動を体験させたいとか、お米作りを体験させたいとか、クラスのホームページを作って発信してみたいとか、それぞれの担任の個性を生かす実践の場にもなるのである。それこそ、年間計画や指導要領に縛られた教科学習の場ではできない事が、総合の時間でできるようになるのだ。
 
 上記のような取り組みがどの学校でも行われるようになれば、総合の時間が学力低下を招くというようなマイナス評価はなくなるだろう。逆に言えば、そうならなければ総合は国民の反発を招き、消えるだろうし、消えなければならない。
 
 自分が教師になった1979年の頃から文部省はゆとり路線を突っ走ってきた。過去の教育を画一的、教師主導型と決めつけ、学習の場を活動の場にしろ、教師は指導するな、支援しろ、つまり子どもの学習の場を設定しろと言ってきたのだ。学習の場の設定とは教師が教えるのではなく、地域の人材や専門家を招き、子ども達に指導してもらう事だ。教師は指導者でなく子どもの活動を支援すればいいというのだ。支援とは、子どもが学習の主体者だから、学習課題は子どもが見つけ、学習の仕方も子どもが自ら身につけるのだと言うのである。その活動が円滑に進むように教師は課題の見つけ方、学習の仕方を紹介し、材料を揃えなさいというのである。そういう指導を我々にして来たのだ。この弊害は大きかったと思う。なんせあれから24年も経っているのだからね。この24年間、教師は子どもの前に指導者として立つ事を許されず、後ろからサポートする支援者の立場を強要され続けているのである。こどもが教師の権威を認めないのは当然だね。だって教師は子どもの学習活動のサポーターなのだから。活動を理解し、承認し、賞賛する立場なのだからね。
 でもこんな事で、学校教育が成り立つだろうか。子どもが未来を担う主権者として育っていくだろうか。子どもの立場から言っても、基礎基本を教えられないで、創造性を期待されても無い物ねだりだよね。
 相手は大学生じゃないんだ。小学生なんだよ。こんな理念など一部の学者や役人の机上の妄想に過ぎない。妄想に振り回されるのはもう結構だ。現場の教師として、目の前の子どもの姿から教育のあるべき姿を見据えた教育に取り組んでいくしかないと決意を新たにする。