戦争と平和

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2001.8.16

 小泉総理の靖国参拝やNHKの終戦番組などマスコミは今戦争と平和の論議が活発である。でも毎年感じる事だが核心に迫っていかない。それはなぜか。
 タブーがあるからである。天皇制というタブーである。マスコミに登場する評論家も一般人も天皇制に話を持っていく者はいない。だから話が堂々巡りだ。56年前の戦争はだれのために行ったのか。それは忠君愛国のためだ。忠君愛国とは天皇の国を守るという事である。そこをタブーにしているから論議はうそっぽくなる。
 中国や韓国などのアジア諸国は、過去の戦争責任は一部の軍国主義者にあり、日本人全体が悪いわけではないという寛容の立場に立っている。(その一部の軍国主義者の中には天皇一家は含まれてはいない。)だから総理が靖国を参拝するという事は、一部の軍国主義者の戦争責任を日本が認めないだけでなく、過去の歴史認識を肯定するものになるのであり、断じて容認できないわけである。
 この事は外国がどうというより日本人自体が、300万人以上の同胞を戦争に巻き込み死なせた責任をどう考えるのかという問題である。残念ながら今の主流は、一部の軍国主義者に求めるのではなく一億総懺悔なる全体責任で終わらせる立場に立つものである。
 
 ドイツ国民はヒットラーを断罪した。イタリア国民はムッソリーニを断罪した。国家がヒットラーを、ムッソリーニの墓を今日の平和を築いた犠牲者として哀悼する立場に立っていない。自国民を戦争に巻き込んだ犯罪者として断罪しているのである。過去の歴史と決別しているのだ。
 日本の今の立場はどうなのだ。
 総理が靖国を参拝するという事を、今の平和を築いた犠牲者として哀悼するのは当然だという感情論で容認すれば、300万人以上の同胞を死に追いやった責任は一体だれにあったのか。
 戦争は台風や地震などの災害とは違い、ただ悲劇だったと悲しむことではない。戦争でもうけようとする輩がいるから戦争は引き起こされてきたのである。国土拡張の民族主義であったり、資本家の利潤追求であったりしたわけだ。一般の国民がこぞって戦争を望んだわけではない。戦争を推進する者によって多くの戦争反対者や平和主義者が非国民として投獄され拷問され殺されたのである。多くの国民も戦争の犠牲者だったわけだ。だからこそ、戦後の民主主義の出発は財閥や大地主制度の解体であったり、軍国主義の否定であったわけである。ここの所の歴史観を否定して、戦争を単なる悲劇だったと振り返るのでは、未来の平和を維持する事は不可能だろう。
 なぜならいつも戦争は多くの利潤をもたらす魅力ある契機だからだ。それは武器を売りさばく死の商人に限らない。あらゆる景気回復を一気に解決する手段でもあるからだ。だからこそ、国民は戦争を一部の軍国主義者たちが起こさぬよう不断の監視と平和への努力を継続しなければならないのだ。
 過去の真実を伝え、自国民を狂気の侵略戦争に巻き込み多くの同胞とアジアの人々を死に追いやった軍国主義を告発する歴史教育、平和教育の必要性がここにあるのだ。それは世界平和への日本人の義務でもある。

 総理が参拝し、国会議員が参拝すれば次に来るのは天皇の参拝である。そうすれば過去の歴史観は完全に復活するだろう。忠君愛国の日本の復活である。
 日本の民主主義の不完全な所は、過去の戦争責任を完全に取ってないことだ。それは一部の軍国主義者に負わせて天皇を無罪にし、今でも国王としての立場を残したことにある。
 1945年の時点で、日本国民は国民主権を完全なものにするために天皇制も靖国神社も解体すべきだったのだ。アメリカの対日占領政策でそれができなかった所にすべての根幹がある。
 しかしこの事を口にする事は、今の日本では生命の危険を意味する。右翼のテロの標的になるからだ。こんな国が民主主義の国なのか。
 北朝鮮の全体主義を非難する前に、日本がどういう国なのかその事をよく知るべきだ。
 人間平等、国民主権、平和な日本を作る道は忠君愛国には無い事。天皇制の解体にある事を発言していかなければ、またそのような発言がいかなるテロの対象にならない日本の社会であるようにしていかなければこの国の自由も平和もありえない。 一小学教師である自分にそのような発言力があるはずもないが、このホームページを通して世界に公言する勇気を出してみた。