文部科学省批判

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 ゆとり教育を見直して、国語力をつけるという新聞記事を見た。もう役人の机上の空論につき合うのは飽き飽きした。一体全体、文部省の言う「画一教育で、詰め込み教育」の弊害という実態はどこにあるのか。そういう実像はあるのか。
 自分に言わせれば、ドンキホーテである。そんな実像はどこにも無いのである。1979年に教員になって以来、公立学校の現場は「ゆとり」だらけだった。春、秋の運動会。連合水泳大会。鼓笛隊。連合音楽大会。謝恩会。奉仕作業。ふれあい教育のお祭り騒ぎ。どこに詰め込み教育などあったのだ。6年生など、行事、行事に追いまくられ、3学期はろくに勉強などしていないのが実像である。
 学校という所は指定研究が至上課題。いかに見せるか、いかに発表するかに腐心し、そこをうまくやった教員が出世する仕組みである。落ちこぼれと言われる低学力児に腐心し、休み時間や放課後取り立て指導をする教員は、まったくの個人的善意からやっているのであって、それが評価され、出世につながることは皆無の世界なのだ。
 いかに勉強できなくても全員が無条件に進級できる日本の公教育にあって、詰め込んで教育する義務などどこにもないのだ。国民として必要な資質である基礎学力を身に付けさせる事に、いかに努力しても勤務評定の対象にはならない。どこにもそういう勤務評価基準は無いのだ。
 絶対評価を導入しても、結局は横並び評価だ。落ちこぼれを救ったとか、学級全体の学力を向上させたとかの勤務評価は無いのである。教員の評価は、校内研究、指定研究にいかに貢献したか、あるいは上におべっかを使って気に入られたかに尽きる。
 こんな世界にあって、子どもの基礎学力が低下するのは当然の帰結ではないか。

 大体が文部省の高級役人自体が公立学校で育ったのか。彼らは幼い頃から英才教育を受け、家庭教師や塾のお世話になり、受験競争を勝ち抜いてきた勝ち組なのではないか。
 そんな彼らが塾の方式を学校現場に取り入れようとしたり、民間企業の英才を校長に起用するなどの奇策を立てるのはある意味当然の結果では。蟹は自分の甲羅に似せて穴を掘るのである。
 彼らは現場の教師を馬鹿にしている。あるいは無視している。現場の意見を聞く耳を持っていない。自分たちの机上の空論を現場に押しつけているのである。それが10年ごとの指導要領の改訂であり、教育改革なのだ。

追伸
 自分の意見が正しいと証明することはできないが、しかし自分のように異を唱える者は出世できない。従って高級役人が天下りする仕組みを断罪する公務員が出てこないのは当然の帰結なのだ。教員の世界にあっても、退職後第3セクターなる物に再就職する仕組みを作っているのは校長会であり、出世する者どうしがなあなあで引っ張り合い、助け合っているのである。それを断罪する教員は出世できず、従って自浄作用は働かないのである。