教育雑感
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2002.5.13
 先日テレビの討論番組を見た。録画しておいたものだ。武田鉄矢が出るので少し興味があったのだ。
女子高生が朝礼の時並んでいなかったので、教師に投げられた。それでパンツ丸見えの屈辱を味わった。体罰は憎悪を生むだけで意味がない。ちゃんとわかるように話してくれれば、指導に従うのだ。
というような趣旨の事を言っていた。
 女子高生を衆人環視の下で投げるのは野蛮な行為だし、第一かわいそうだ。でも投げられたのは並ばなかっただけだろうか。他にも並ばなかった子はいる、どうしてわたしだけがとも言っていたが、その辺の不満顔もあったのでは。
 普通に考えて大の大人がしかも教員という社会的立場のある人間が、いきなり投げ飛ばしたりするだろうか。その場の雰囲気というものが何かあったのだと自分は思う。だから子どもの言い分だけで判断はできない。ただ、体罰は禁止されているのだから、体罰がいいか悪いかという論議は不毛だ。結論はすでに出ている。体罰は禁止されているのだ。やれば処分の対象だし、けがをさせれば傷害罪にもなる。

 自分がおかしいなと思ったのは、
「ちゃんとわかるように話してくれれば指導に従うんだ、いきなり体罰はないだろう。」
という言い分である。朝会に出たら、おしゃべりをやめて、静かに並ぶという事を毎回ちゃんとわかるように何百人の高校生一人一人にその都度教師は説得する必要があるというのである。
まあ、外国からの帰国子女なら最初の朝会の時に、
日本の朝会というのは黙って、静かに整列して校長先生の話を聞くルールがあるんだよぐらいの説明はあってもいいかもしれないね。

 でも日本で育ち、小中9年間の教育を受けたこの高校生たちに、その都度、なぜしゃべっちゃいけないのか、なぜ並ばないといけないのか、ちゃんとわかるように一人一人その子が納得できるように説明する義務が教師にあると言うのか。
 仮にそのような義務があったとしても、じゃこのような高校生を納得させる論理なんて世の中に存在するのだろうか。

 「おもしろいかどうかもわからない、いやこれまでの経験でおもしろくないと知っている校長先生の話をなぜ黙って聞く必要があるんですか。その話を聞くことが自分にとってどういう利点があるんですか。それより隣の友達と昨日の事をわいわい雑談する方が楽しいと思うのだけど、先生はどう思う。」
 こんなふうな頭の中身の高校生を、しかも何百人と集まっている体育館の中で、40人あたり一人しかいない教師が、おそらく整列させるのに5分ほどの余裕しか与えられてない時間の中でどうやって説得できるのか。著名な教育評論家の尾木なんとかも出ていたけど、この人ならできると言うんですかね。
もしそんなことをできる人がいるとしたら、それは天才的な集団催眠術氏にちがいない。

 ばかばかしい限りだ。常に対等な存在として子どもと大人が話し合っていかなければ行けないと言うのは愚論である。そんなことを文字通りに全国の教師が忍耐強く実践していったら、学校は一月で崩壊する。大人とは子どもの保護者である。教師とは教える人である。対等な存在として話し合う関係でないのは自明の理ではないか。その当然の論理が、民主主義とか人権とか個性尊重とかの美辞麗句で破壊されようとしている。文化大革命の時の毛沢東語録であり、戦前の天皇のお言葉と同じ類だ。それさえ持ち出せば、正当な論理が引っ込んでしまっているのが、今の日本の教育界だと自分は思っている。

 教師がこどもと対等な存在だったら常に理解と承諾を求める立場になってしまうのは当然ではないか。そんな関係では朝会一つできなくて当然である。授業が成立しないのは当然の帰結だ。
学校という社会、集団の中でそれを維持し運営していく規範は教師である。教師には権威が必要だ。その下で集団に規律が生まれてくるのである。権威のない教師の下に規律など生まれるはずがない。
話がおもしろいから聞くのではない。教師が話すから聞かなければいけないのだ。
挨拶したい相手だから挨拶するのではない。教師が相手だから挨拶するのだ。
教師から権威も尊敬も奪い去ろうという今の日本の学校から、規律が消え、暴力と崩壊がまんえんするのは自然の流れである。

 体罰がいいとか悪いとかでなく、教師に権限を与えるべきだ。教師に懲戒権を与えればいいのである。そうすれば教師は個人的な暴力に出る必要は無くなる。学校の存在、教師の権威それらをはなから否定する子どもを出席停止にする権限を現場の教師に与えればいいのだ。
その懲戒の是非は後で客観的に判断すればいいのだし、その間にこどもと保護者はその懲戒の意味について自省すればいいのである。

 自分は女子高生を投げ飛ばすなどしたくもないし(そんな腕力も無いが)、そんな女子高生と対等な立場で話し合いたくもない。
教師として正当な扱いを社会からしてもらいたいのだ。朝会だから並びなさいと言って、それで子どもともめたりする学校なんて学校じゃないのだから。それは動物園の檻の中だよ。

追伸
と言ってもその檻の中にいるのが、現場の教師です。
自分は言葉で通用しないこどもは首根っこをつかまえてねじりふせています。床に正座させています。これが体罰だというならそれで結構です。処分できるならおやりなさい。裁判で争う覚悟はあります。
いずれにしろ自分は自分の教室が崩壊するより、自分の首が飛ぶ方を選ぶ教師ですから。




2002.5.20
 地区研究会の会費集金が職員室でまわっている。自分の所にも来たが今年も払わない。額は以前として500円だった。
 会費も払わない自分がどういうわけか今年の地区研究会の公開授業者になりそうである。
例年11月に各校は研究発表を行う。授業を公開する定めはないので、レポート報告ですます学校もあるが、大半は公開授業もやっているようだ。
この公開授業者にだれもなりたがらないのだ。まあ押し付け合いになるわけですね。果てはじゃんけんで決める場合もある。こんなにいやがられるのはなぜだろうか。

 民間の研究団体の場合、レポート報告はすすんで手弁当でやっているのだ。自分の実践をみんなに聞いてもらうのが研究会に所属している目的でもある。そこで仲間の批判を受けるのが自分の勉強になるのだ。
では、地区研究会の場合はどうしていやがられるのか。
それは自分の研究実践の場にならないからだ。研究の答えは文部科学省の方針だし、その解答者は指導主事と決まっているのだ。文部科学省の方針に沿った授業、指導主事にほめられる授業をやらなければならない。そのために、職場のみんなに納得してもらえる指導案にするために何度も書き直すはめになる。膨大な時間とエネルギーをほめられるために費やさなくてはならない。

 こんな答えの出ている研究が研究と言えるのか。だからやり手がいないのだ。押し付け合いになってしまうのだ。ばかばかしい。自分は10数年前地区研究会をやめると管理職にも宣言したし、それからずっと会費を払う事も拒否している。でも勤務時間内に行う公開授業を拒否する事はできない。
「じゃんけんで決めるぐらいなら私がやります。」
と今年も言ってしまった。同様の経緯でこの10数年間に何度も地区研究会の公開授業者になってきたのだ。

 授業はいつ、だれに対しても公開していいと自分は思っているので、公開授業者になる事が別に苦痛ではない。指導要領という規範はあっても、目の前の子どもと接して授業を行っているのは教師である。机上の教育論は通用しない面があるのだ。
通用しないだけでなく、誤った方針である場合もありうる。現場の教師がそれを批判して何がいけないのか。自分は現場の立場で試行錯誤し、もっともいいと思う実践を重ねている。それを公開する事になんのためらいもない。ただそれが新学習指導要領に沿った物であるか、指導主事に気に入った物になるかは保証できない。自分が正しいと思う物、同僚に勧める実践を公開したい。指導主事に一方的に批判される事になったとしても。今年は反論してみようかなー。

追伸
 県の研究指定校になった時には、この指導案の作成にまで指導主事が口を挟んできた。指導主事の納得できる内容に書き直しを要求してくるのだ。これではだれの指導案だかわけわかんなくなってくる。
 極端に言えば指導主事の作った指導案でこちらが授業を公開し、それを指導主事が指導講評するのである。茶番だ。
 教育界にはこの手の茶番が多い。○○市指定自主研究校なんていうのも茶番だよね。指定と自主という言葉が並列する事に違和感を感じないというのが恐ろしい。

 今はやりの「生きる力」の育成にしても、それがしめすものは「自ら学び、自ら考える力」だと定義されているんだ。一般の人が「生きる力」て何だろうと考えて、それは「自ら学び、自ら考える力」だなんて思うかね。そのへんが教育界のずれている所だと思うのですね。
 「自ら学び、自ら考える力」なんて新学習指導要領ができる前から、ずっとずっと前から言われてきたことだ。別に目新しい言葉じゃない。要するに主体的に勉強に取り組んで欲しいという事なんだけど、これって小学生の課題かね。今時のみんなが行くから自分も行くという頭の軽い大学生に、なんで君は大学に入学して学ぶんだねという事を一度は考えてみたらと勧める課題じゃなかろうか。
 小学生は、勉強は大事だよと言えば取り組む素直さは持っている。でも小学生に、自ら課題を見つけて自らその答えを見いだすために情報を集めてごらんと要求する事に何の現実性があるのだろう。そこの所が机上の教育論だと思うのですよ。この机上の教育論にこたえようと懸命にがんばっているすなおな教師集団もいますよ。彼らは子どもに課題を見つけださせ、インターネットで情報を収集させ、パワーポイントでプレゼンテーションまでさせているんだ。ばかばかしい。40人いる子供たち全員にパソコンを与えているのか。ブラインドタッチはできるのか。パワーポイントに習熟させているのか。40人の内の一人の言葉を引き合いに出して「子どもから出た要求だ、子どもの意見だ。」なんて言っているんじゃないかね。ネットを使うのもパワーポイントを使うのも一部の知的な子に決まっている。一体どれだけの授業時間をつぶしているんだ。断言してもいいが、こんなクラスでは一部の知的な子が活躍しているだけで後の多くの子の学習権は阻害されている。主役が引き立っているだけで、後は脇役だったり大道具、小道具だ。ひょっとするとただの観客になっているかもしれない。新学習指導要領の机上の教育論を無批判に現場の教師が受け入れて、なおかつ全力で取り組んだら、こういうことになるんですよという見本みたいな実践だね。この子たちは新学力観の犠牲者たちだよ。
 「一人一人を看取る」なんてみょうちくりんな言葉が平気でまんえんするのも教育界の恐ろしいとこですね。そんな変な造語を考えたり、教育界に流行させる事に税金を使うんじゃなくて、40人学級を35人学級にする事に税金を使えば一人一人に教師の手がもっと届くんですよ。余剰教員を指導主事にしたり、加配教員にしてチームチーイング(ええい、英語は面倒くさい。要するに特定の教科に限って担任以外に加わる教員がいるという事です)する事で役所はお茶を濁しているんですね。

 小学生がネットで情報収集したり、パソコンでプレゼンテーションする必要なんてない。読み書き計算の基礎学力をしっかり身につけさせる事に時間もエネルギーも注ぐべきだ。後は集団性を養うために遊びを組織したり、集団生活のしつけに力も時間もかけるべきだ。音楽や図工、体育などはあってもいいゆとりだ。パソコンや英語はなくてもいいゆとりだね。

 「生きる力」の育成などと大上段に構えるんじゃなくて、基礎学力や集団生活のしつけを身につけさせる事に文部科学省は金も力も注ぐべきですよ。大体、普通の親が学校の先生に自分の子どもに「生きる力」を育てて欲しいなんて思うかね。生きる力とは、自分の事は自分でする身辺自立の能力だし、人間関係のトラブルを自分で解決していく能力だ。それは親が身をもって子どもに日々付けさせていく力なんですよ。公教育の教師ができる事じゃない。おこがましいってもんだ。
2002.7.3水曜日
 絶対評価て何?
 まったく困ったもんだ。新指導要領の改訂に伴って評価が絶対評価になった。今、現場では一学期の成績付けでこれにふりまわされている。ネットで教科書会社のホームページにアクセスして、評価基準の文章をダウンロードしてそれが職場に配布されている。文部科学省でなく、教科書会社だ。学校独自に作るのが前提なので文部科学省はそこまで面倒を見てくれないのですね。勢い教科書会社のサービスに飛びついているわけですね。
 絶対評価の評価基準を学年で作ってほしいと言われている。でもそれって何なんだろう。

 小学校では担任がほぼ全教科を一人で指導している。学年で共同で指導しているわけではない。同じ教科書を使っていても同じ指導をしているわけではない。担任はロボットではないし、教育観も違う。指導方針も違う。鈴木という担任が田中という児童にAという評価を下したとして、それを隣の担任がおかしいと言えるのか。田中という児童も知らないし、授業を指導もしていない隣の担任におかしいと言える根拠があるのか。結局担任しか田中君を評価できないし、責任を負えないのである。
だとしたら、絶対評価と言っても担任に委ねるしかないではないか。学年で何を相談しろと言うのか。そこの所が自分にはわからないのである。
 市販のテストを使って90点以上をAとしようとかいう相談を学年でするというのなら、まあわかる。でも市販のテストだけでは評価できない事も多々ある。
「思考、判断」「知識、理解」「表現」「技能」などの観点を市販テストだけで評価するのは無理だし、普段の発言力、思考力などは、児童の発言、作文などを見ての担任の主観的判断に委ねるしかない。その主観に担任は責任を持てばいいと思うのだ。テストに責任を負わせるのではなく、自分の主観に責任を負う勇気を持てばいいのである。

 担任が責任を持って自分が指導した児童に、学力が充分ついているとか、努力を要するとか評価する事に何の問題があるのだろうか。学年で評価基準を持て、話し合えという事が何をしろというのか自分には理解できないのだ。

 第一落第も飛び級もない日本の小学校において、絶対評価て何の意味があるのだろうか。学力がついてないからと言って落第させるわけでも、補習させるわけでもない。0点を取り続けても、進級できるのである。こんな制度の下で絶対評価をする事の意味が自分には理解できない。

追伸
 思うに、要録が相対評価の時代のものなのに、その入れ物を変えずに絶対評価を導入する事の矛盾だ。「思考、判断」「知識、理解」「表現」などの観点は、絶対評価できるものではない。一般的な小学3年生を標準としてその子が相対的にどの位置にいるのかを表す指標にすぎない。それを絶対評価しろというのだから、現場が混乱するのだ。
 絶対評価に一本化するなら、評価する物を選別すべきだ。「関心、意欲」まで絶対評価しろというのだから狂気の沙汰としか思えない。
 かけ算九九や鉄棒の逆上がりなどは、絶対評価できる。できたか、できないかだけだ。でも、今度のは十分できたか、できた、努力を要するの3段階に評価しろと言うのだ。この3段階評価というものさし自体が相対評価のものさしなのだ。矛盾している事を現場に強制するから混乱が起きる。

 落第のない学校において、絶対評価にしろ相対評価にしろ、保護者に渡す必要があるのかという気がする。テストは返している。作品もだ。それで充分ではないかと思うのだ。特別に指導に困っている児童は保護者に連絡しているし、ことさら学期毎に子どもをランクわけする事に何の意味があるのだろう。要録にしたって成績を残す事に何の意味があるのだ。それが就職、結婚に何か影響があるのかね。

 みんなお役所仕事、アリバイ工作だと思う。評価とは例えばかけ算九九ができてないと次の指導に進めないから教師がクラスの中でだれができていて、だれができていないか知りたい情報だと思うのだ。その情報によって、教師は次の指導の対策を立てる。それが評価する事の意味だ。
 親に家庭学習を要請する事の資料にもなるね。でもそれを期待する事はむつかしいけどね。

今、文部科学省が押しつけている絶対評価は、矛盾している作業を現場に強制し、混乱させている最悪のお役所仕事だ。
7月14日日曜日
 ともかく成績をつけ終える。校長に一覧表を提出し、その許可を得てから自宅で作業だ。まあ一覧表も学校でやっている時間はないから全部自宅ですね。本業なのに内職のようにやらないと間に合わないのである。土日が連休になったのでいきおい内職が多くなりました。
 絶対評価の基準だが、例示が80%以上がA、40%以上がB、それ以下がCだった。あくまで例示だからこの通りにやる必要はないのだろうが、全国の学校でこの例示がふれまわっているのだから、これで行く学校は多いだろう。本校もこれで行くか、市販テストの絶対評価の基準で行こうという話だった。
充分満足できるのが80点以上、できたが40点以上というのは、社会常識とちがうんじゃないかと自分は思ったのだが、権威ある筋からの例示だと事はすんなりと進むのが、役所という世界だ。
 ちなみにこの基準でやってみると、Aはなんと36人中25人もいた。最下位が61点だからCはいない。昨年のAは11人ぐらいという割合の縛りがあったので、ずいぶんAの価値が下がったわけだ。学年内の話し合いでは、今学期は取りあえず昨年通りの90点以上をA、60点以上をB、それ以下をCにしてはどうかという自分の提案が認められたので、結果的にはAの数は昨年同様か、少し甘いぐらいに押さえられた。
 まあ今年はこれでうちの学年は行くとしても、学校によってこの基準はばらばらでしょうね。それでも絶対評価て言えるのか。何が絶対なのか。理不尽なものを感じる。

 でもまあそんなに目くじらを立てる事柄でもない気がしてきた。良い面もあるのだ。それはCを無理につけなくてもいいという事だね。
 市販テストの点数だけで評価するなら客観的な気もするが、それだけでは評価できない。授業中の発言、レポート、作品なども評価の対象になる。それらをテスト同様点数化する事は可能だが、結局は主観的な評価にならざるを得ない。指導者が評価するのだから、それで何の不自然も不合理も無いと自分は思う。主観的な評価でいいのだ。評価に責任を負えばいい。その結果Aが増えようが、Cがいなくなろうがそれは結果論でいいではないか。公立学校の田中という教員が指導要領に沿って授業をして、その評価をした。それでいいではないかと思う。Aの数が隣のクラスと違おうと、隣の学校と違おうと
気にする事はない。それを気にし始めたら、結局A、B、Cの割合を定めて評価する相対評価に戻ってしまう。まあ、成績処理が終わっての今の感想はそんな所ですね。

 落第も補習もない日本の公立学校でこんな評価の問題にエネルギーを注いでも意味はないですね。
指導要録が公開されるのに応じてあゆみと要録との整合性を持たせたというのが、校長会の説明だった。確かに、それで漢字だらけの教育専門語だらけのあゆみの内容は納得できた。でも一方で「子どもの励みになるような内容に努めた」とはどういう事だろうか。小学生に読めるのはA、B、Cと○、△しかないではないか。矛盾した指導と矛盾した体裁の「あゆみ」が今自分の手元にある。こんな評価に心血注いで何の意味があるのだろう。夜遅くまで評価に苦しんでいる同僚もいる。「まじめな人」が教員には多い。そういう点、自分は不まじめだ。大事なエネルギーだ。もう年だし、大事に大切なとこだけに使う気です。
8月8日木曜日夏日
 市主催の研修会に参加する。希望参加という事だが、実際には各校1名以上という規定があるので、いわゆる官製研修だ。この年になると人生観ができあがってくるし、現場の実践では講師以上の体験を積んでいるので、話をそのまま鵜呑みする事ができない。いくつかの事例を上げて、あるべき教師の対応というのが解説された。その中で納得できなかった物。
 中学3年生のある男の子が進路希望票をいつまでも持ってこない。その事を問いただしたのに対し、
「ウッ」
という返事をする。「はい。」じゃなく、「ウッ」という返事はなんだと詰問すると、
「ウッ」とは言ってない、と言う。
言った、言わないになり、謝れ、謝らないになる。常日頃からの言葉づかいの悪さもあって、業を煮やした教師は親を呼び出す事になる。
 この対応を先生方はどう思いますかというのが設問だ。確かに中3の子と対等にやり合うのは大人げないかもしれない。でも謝らないからといって激高し張り飛ばす体罰教師もいる中で、保護者に仲裁に入ってもらおうとしたこの教師は理性的かもしれない。教師も人間だ。いつもいつもベストな対応ができるわけではない。子どもも自分がいつも正当に理解されるものではないと学ぶ事も必要だと思うのだ。
 正解は講師によると、大人である教師の方が一歩ゆずって、
「頭ごなしに叱って悪かった。でも君も何々じゃないの。」
という風に譲歩を求めるものだった。どちらが正義かというより、折り合いをつける事の方が大事だというわけだ。思春期の子供たちは教師より主導権を取ろうと挑発してくる。その挑発に乗ってはいけない。主導権争いに巻き込まれない事だというのだ。
なるほど、角を立てない方法だ。でもいつもいつもこんな対応を教師が求められるとすると、疲れるなー。
 確かに子どもは「ウッ」と言っていないと言うのだから、言っていないのだろう。でも教師は「ウッ」という返事を聞いたのだ。自分が聞いた事実まで曲げて譲歩する事は、教師に大きなストレスを強いるものではないだろうか。
 子どもに、教師も子どもも対等だという事を認識させる事は、この子の社会性を育てる事にはつながらないと自分は思う。むしろ子どもの時は大人に命令されたり、自分の気持ちを理解してもらえない、メンツをつぶされる経験をする事も必要な体験だと自分は思う。自分の欲求が満たされない事、自分が半端物扱いされる体験も必要である。何の労働も社会的責務も果たしていないのに同等の扱いをされないと立腹する子どもを育てる事の社会的意味はどこにあるのだろうか。
 数年前、授業中の態度を指導された事に立腹して女教師にナイフを突きつけた中学生の男の子がいた。この時、取りあえずこの女教師は一歩譲って、この生徒のメンツをつぶさずに譲歩を求める指導をすればよかったのだろうか。女教師はナイフに背を向ける事無く指導を貫徹しようとした。それを毅然とした態度と評価するか、きまじめで硬直した態度と評価するかは他人の自由である。でもその時どういう対応をしようと致命的なまちがいではなかったはずだ。
 女教師は全身をめった刺しされて殺された。1才に満たない赤ちゃんと小学教師の夫を残して。
普通の子がナイフを持って登校できる国、指導に立腹したからといって教師をめった刺しできる国にあって、教師の対応の仕方を研修する事に何の意味があるのだろう。問題はそういう所にないはずだ。
 ナイフは学校に持って来れない国、教師の指導には従う常識のある国、こういう社会的通念のある国である事の方が重要な問題だ。子どもに社会性を身につけさせる事の方が優先すると自分は思う。メンツをつぶされても人を殺さない耐性、社会性を身につけさせる事に全力を注ぐ事。今この国が努めるべき事はこれだと思うのだ。そうでなければ、人はこの国で安心して生きていく事ができない。
 常識はその社会の構成員の安全をつなぐものだ。挨拶をする、呼ばれたら返事をする、大人には敬意を払い、老人には席を譲る、これらの価値観が社会共有の物、すなわち常識になれば人は安心してその社会で生きていける。学校の使命の一つは、その社会の常識(それは時代により変化していくだろうが)を次の世代に伝えていく事である。学校の中で常識が通用しないとなれば、それは学校では無いのではないか。
教師と子どもとが対等な人間関係にあるというのは、常識だろうか。
大人が子どものメンツをつぶしてはいけないというのは常識だろうか。
全体の前で個人を叱ってはいけないというのは常識だろうか。
大人が子どもに命令してはいけないというのは常識だろうか。
大人が子どもにも大人同士のような対等な言葉づかいをするのは常識だろうか。
教師が保護者に子どものマイナス面を伝えてはいけないというのは常識だろうか。
 講師の話には、子どもの行動を評価するのはいいけど、人格を評価してはいけないなど自分には共感できる所も多々あった。でも、日本社会の常識とずれている事を学校現場にのみ期待する事は、教師に混乱を招く物だと思った。自分のように素直でない教師はいいけれど、純粋に講師の話に耳を傾けた教員は明日から実践に悩むのではないだろうか。


2003.8.29
 大阪の池田小学校に乱入して1,2年生をめった刺しにして8人も殺した宅間被告に死刑判決が出た。もう2年前の事件になる。2001.6.8の事だったそうだ。こいつのせいで学校では始終門扉を開けたり閉めたり、来校者には名札を付けてもらったりと面倒この上ないのだ。それにしても反省のかけらも見られないとは。弁護団は無実を主張しているらしいが、無垢な児童を8人も殺して無実になったら、裁判制度は崩れてしまうよ。リンチが横行するだろうね。

 ここで言いたいのは、世の中には悪い奴がいるという事を教えなくっちゃいけないんじゃないかという事だ。日本人もそろそろ性善説や、疑うより信じてだまされる方がいいなんていう甘っちょろい教育観は捨てた方が、子供の幸せに通じるのではないだろうか。
 北朝鮮は日本人をさらって舟で運び出していた。それなのに日本の政府はずっとそんな乱暴な事はないと北朝鮮を信じてきたのだ。事がはっきりした今になっても懲罰を与えるわけでもない弱腰だ。信じてきた保険の利子は勝手に引き下げられ、年金は約束を反故にされ65才から支給だ。受診料がただだった健康保険は3割負担に勝手に引き上げられ、スト権を凍結させる見返りとしての人事院勧告が賃下げを勧告しだした。福祉のためと導入された消費税は3%から5%に上げられたのに、介護保険まで天引きが始まってしまった。取られる一方だよ〜。
 世の中隣の国も自分の国も、保険会社も銀行もどこも信用できないじゃないか。信じてた奴が馬鹿を見る。終身雇用は勝手に古い制度だと切り捨てられ、リストラが横行している。労働基準法は勝手に改悪され、人材派遣会社が急成長し、世の中アルバイトにフリーター、失業者の山だ。あくどい取り立てをしているサラ金の裏には銀行がいて、資金援助をしているのだ。そんな銀行を政府は税金で支援している。世の中働く者がだまされて、働きもしない人材派遣会社や金貸し業者が大もうけしている。そして政治家がそれに群がって、高級官僚は天下りで退職金の山だ。


 子供たちには人を信じるんじゃない、甘い話、うまい話に乗るんじゃない、信じるのは自分だけだ、家族だけだと教えてあげるのが親切ではないか。悪い奴ほど善人ぶった顔で近づいて来るのだよ、人の親切や弱みにつけ込んで来るのだよ、嫌な事ははっきり嫌と言え、人に金を貸すな、保証人になるな、家には鍵をかけろ、鍵は見えないように隠せと教えてあげるのが親切ではないか。
 そういう親切をかけてあげないと、過労死する若者、借金のかたに売春を強要される女の子が後を絶たないじゃないか。酔わされて中毒死する若者、レイプされる女の子、山といるじゃないか。
 今度はイラクに自衛隊派遣だ。国を守るためとだまされて若者が見たこともない外国で殺される事になるのだ。

 
人を信じるんじゃない、国を信じるんじゃない、教師を信じるんじゃないと教えてあげるのが本当の親切じゃないのか。


 追伸
 教員の研修にカウンセリングというのがあるのだが、これが気持ち悪い。初対面の教員同士がペアにさせられ、見つめ合わされる。小学校の教員で男は少数者だから、相手は当然女性だ。若い女性だともっと恥ずかしい。気持ちは悪くはないがね。
 一方が聞き手になり、相手の話にいちいちうなずいて聞く事を指導される。しかも相手の目をしっかり見つめなさいと指導されるのだ。これが自分には苦痛だ。初対面の、しかも若い女性の目を見つめるなんてできるわけがないじゃないか。最後には共感の意思表示として握手しなさいと指導もされるのだ。これってセクハラじゃないのかね。相手が藤原紀香でもぼくはいやだ。
 第一こんなカウンセリングの研修が小学教師になんの役に立つのかね。そこんところがわからないのですね。共感的理解と言われるが、教員は40人の子供と接しているわけだ。個別指導もするが、一人一分で一時間の授業は終了してしまう。その間、つまり39分は子供にとって待ち時間なわけだ。つまり一対一の指導は例外的な場面なのですよ。しかも相手は9、10才だ。50の自分に何が共感できるというのだ。いちいち握手するのも子供にとってセクハラになるのじゃないだろうか。自分は基本的にスキンシップはしない事にしている。

 自分が気持ち悪いと思うもう一つは、孤立し困惑している自分をよそに、周囲の教員は見事にこの研修をこなしているところだ。教員は集団暗示にかかりやすいんじゃないかね。浅原しょうこうに洗脳されちまうよ。勝共連合(統一協会だっけ)のなんとかと言ったおとうさん(じゃなかった教祖様だね)に、簡単に洗脳されちゃうよ。こういう教員集団は日本が戦争モードになったら、昔そうだったように日の丸、君が代を正義と教え込んで、教え子を戦場に送る指導者に早変わりするんじゃないだろうか。ぼくはあまり同僚を信用してはいないのだよ。

2003.9.13
 いわゆるジェンダー反対論者だ。何が気に入らないかって、朝会の並び方だ。
 民主主義とは男女同権である。そして男女が共に生活する事を自然なこととして学ぶ事だ。
だから学校のクラスは男女が同数になるように配慮されている。だから男女が机を並べて学習する事がいいとぼくは思うのですね。朝会もだから男女が並ぶようぼくはしているのです。
 ところがジェンダー主義者は、氏名順に並ばせるのだ。そこの所が理解できない。朝会は前の人が見えやすいように小さい順に並ぶ事に合理性があると思うのです。しかも男女が並ぶ事がいいと思うのです。なのにジェンダー主義者は身長も男女も考えずに機械的に氏名順に並ばせて、それが民主主義だと言うのですね。そこんところがわからない。まあ身長を考慮して、小さい順に並ばせている実践もあるが、男女が並ぶのは拒否しているのですね。つまり男の列と女の列があるのは民主主義ではないと言うのですよ。
 身体検査や着替えなど男女別に配慮しなければならない場面があるのに、どうして男女に分けるのにそんなにこだわるのでしょうかね。言っている事が首尾一貫してないと思うのだ。ジェンダー主義者よ、反論してください。

2003.9.29
 医者と教師だ。
 学校にはこのごろ情緒障害というかADHDとかいう子が現れてきている。倫理観が乏しく、暴言や暴力を繰り返す。説諭しても改善が見られない。情緒を落ち着ける薬を投与すると、おとなしくなり、集団生活での問題行動が少なくなる。教師一人で40人もの児童をあずかっているのである。薬で問題行動が抑えられるのなら、そうしてもらいたいというのが、教師の心情だろう。
 しかし投薬とは医療行為である。従って医者の権限に属するものなのだが、教師が直接医者に接する事ができない。保護者の同意が必要なのだ。保護者が拒否すると、病名も投薬の必要性も保護者を通じてしか医療行為の是非がわからないのである。

 その医療行為にしてみたって、保護者の自由判断なのである。医療行為が気に入らなければ通院しなくていいわけだ。もらった薬を飲ませるかどうかも、保護者の自由判断である。教師は保護者を通してその病名を教えてもらうだけで、その真偽を病院に直接確かめる事もできない。投薬の必要性も同じく病院に直接確かめる事はできないのである。
 医者にすれば、保護者が通院しなくなれば医療行為はできないわけだから、
「うちの子が集団生活できないのは担任の指導力不足なんです。」
とか、
「家庭ではとてもいい子なのに担任はうちの子の良さをちっともわかってくれず、叱ってばかりなんです。」
とかの不満をある程度は受け入れざるを得ないだろう。

「お母さんのおっしゃる通りですよ。その担任の先生がちょっとおかしいですよね。周囲の理解があればお子さんはもっとのびのびと集団生活できるはずですよ。」
とかの同意を示してもおかしくないだろう。
 その結果はどうだ。保護者は
「うちの子はADHDなんです。周囲の配慮が必要なんです。お医者さんは担任の指導がまちがっていると言ってますよ。そこの所をまず改善する必要があるんじゃないですか。」
とか言ってくるわけだ。それに対し、
「担任の指導がまちがっているというのは、どうしてそんな事が言えるのですか。お医者さんに会わせてもらえないですか。」
と抗議しても、保護者が同意しなければ医者に会う事もできないのだ。話は一方通行である。

 そんな一方通行の中で、時には医者から学校生活の様子を逐一ノートにメモして報告する事を求められる事もあるのだ。40人の子を抱えあくせくしている教師にとって、ADHDの子の問題行動に振り回される事でもう限界を超えているのだ。その子の暴力や暴言で傷つけられている他児の面倒を見なくてはいけない。あまつさえ被害児童の親からの苦情や怒鳴り込みにも対応しなくてはならないのだ。そんな担任にさらに逐一の報告メモを記す余裕がどこにあるのか。それでもせいいっぱいがんばって報告メモを書いても、それがどう医療行為に生かされるのか。医者に会おうとしてもそれは保護者の一存でかなわないのだ。
 こんな理不尽なことがあっていいのか。

 医者よ!何様のつもりなんだ!自分の患者なら大学病院の診察室で見るだけじゃなくて学校に来て集団生活の中で荒れているその子の実態を見ろよ。担任から聞き取りをしろよ。名医とは患者宅に往診する人ではないのか。往診もしないで、自分の診察室に来る親子の聞き取りだけで診察して、自信はあるのか。それだけの情報で「担任の指導がまちがっています。」なんて、何の権限があってそんな事があんたに言えるんだよ。ふざけんな!
 エリート意識に固まって、現場でもがき苦しんでいる人の声に耳も傾けない。そんな馬鹿がお医者様ですと大学病院の診察室で診断している今の日本の現状に、
ぼくは怒りと悲しみと絶望を感じる。
 公教育に権限を与えてくれ。現場の教員に権限を与えてくれ。医者が学校現場に往診に来て、自分がADHDと診断した患者の実態をつかむよう要請できる権限を与えてくれよ!教師が保護者の同意なく医者と接する権限を与えてくれよ!
 何の権限も与えられず、何の権威も認められず、それで子供の面倒を見ろという事がどだい無理なのだ。

 文部省は養護学校も特殊学級も廃止して、普通級に障害児を在籍させる方針だと聞く。必要なら普通級から特別指導学級に通級すればいいという方針なのだそうだよ。
 それって結局教育費削減という事でしかないのでは?
 医者には馬鹿にされ、保護者にも馬鹿にされ社会的地位も低く、そんな教員が40人の子供の中に障害児を抱える。在籍が無ければ特別指導学級を設置する保証はどこにあるんだろうかね。その時の財政事情、余剰教員の数で行政にどうにでも扱われるのじゃないだろうか。通級の保証なんてどこにあるのだろうか。恐ろしい未来がぼくには見えるよ。
 それは教師にとって恐ろしいだけでなく、障害児が必要十分な教育を奪われ、普通級に閉じこめられる恐怖でもある。今までは健常児の何倍、いや何十倍の経費と人手が費やされているのだ。それが人間平等という理念の美名の下に奪われるのだ。許してはいけない事だよ。本当に。

2003.12.1
 いや〜この年になると、もうだめだね。なんか頑固だよ。でも世の中の方は勝手にどんどん変わっていくから困るんだよ。この落差がね。
 「教室日記」で書いたが、家庭訪問が管理職の意向で夏休みに変更された。おそらく明治の学制以来の出来事ではないだろうか。戦前家庭訪問なる制度があったかはしらないが、戦後はずっとあったはずだ。「人間の壁」という小説に、洞穴のような住居に生活している貧しい教え子を訪問するくだりがあった。1953年生まれの自分も、家庭訪問の記憶が生々しい。やはり教師が来るというのは、子供心にも緊張したものだ。今の子はどうだかわからないが。
 学期はじめに、新しく受け持った児童の家庭を訪問するという事は、親の顔を知り、家を知り、地域を知るという事でそれなりに意義ある事だと思う。個人主義の強いヨーロッパでは、学校が家庭教育に口出しをする事になるので、家庭訪問という発想自体がないそうだが。それはそれなりに理屈が通っている事なので、自分はいいと思う。
 でも、この夏休みに家庭訪問をするという理屈はどうなっているのだろうね。学校は夏休みでも、親は夏休みではない。学校本意の理屈ではないか。教育の必要性から言うと一学期に実施する事が望ましいではないか。しかし、校長によると時数確保のため、やむを得ない処置なのだと。
 そんな事を言っても、親に時数問題は関係ないし、どう説明すればいいのですかと再度問いただすと、保護者から
「校長先生、うちの学校は時数は足りているのでしょうね。」
という心配の声をすでに頂いているのだと言うのだ。
 そんな事心配して、校長にねじ込む親がいるのかね。まあいたとしても、それを売り口上にするのはどうかと思うよ。

 そんなこんなで、自分は時代遅れの教師、黒板とチョーク一本で画一教育をしている過去の亡者となろうとしているのだ。リストラ対象だね。

 でも黒板とチョーク一本の画一教育てそんなに悪い事なんだろうか。
今のはやり、いや文部省の押しつけは、子どもひとり一人の要望に基づいた、自主的、創造的教育、個性の伸張だそうだ。ひとり一人の要望に基づくて言ったって、文部省は一体何をしてくれたんだろうね。自分の在籍したこの25年間の変化は、45人学級がやっと40人学級になった事くらいだよ。それで家庭教師みたいにひとり一人を看とれって言うんだから、何をいわんかねだね。
 教員の人的配置はそのままで、総合科という教科を導入したから、それを年間110時間設けたから、そういう個別教育が可能になると思っているのかね。それは夢物語か詐欺か、どっちかだね。
 でも教科書、指導書を見ると、プレゼン、発信、パソコンの羅列だ。
基礎基本を養わないで、やれ発信しろ、プレゼンしろだのと要求する事は、無い物ねだりだよ。


 ぼくはこう思う。個性を伸ばすなんて事は集団教育の目的ではない。個性なんて他人が伸ばすものではないし、まちがっても学校の先生が伸ばすものではない。自分で形作っていくものだよ。ぼくは個性の塊かもしれないが、これは学校の先生が作ってくれたものじゃないよ。
 だれだって自分の個性が、学校の先生が作ってくれたなんて思ってやしないよ。そんな事本気で思っているのは文部省だけだって。
 じゃあ学校で伸ばす力てなんなのだろう。それは人間に必要な社会的常識だよ。いろんな人間とふれあって、その中で人間に必要な思いやり、誠実さを学ぶのだよ。それらコモンセンスは、いろんな人間とふれあう事がなければ養う事ができない。そして何が人として大切なモラルなのか、それを規範してくれる指導者が必要なのだ。それがなければ、こどもはめいめい勝手な判断をし、共有する倫理観、やさしさ、思いやりの心が育たないのだ。だから、教師に最も求められる資質は、社会的常識を有している事だ。その上で、その社会の常識を押しつける強さが求められる。

 イスラムの学校で育てられる子ども、アメリカの学校で育てられる子ども、日本の学校で育てられる子どもに違いが出てくるのは、そういうことだよ。

 ぼくは21世紀を生きていく子に新しいコモンセンスを身につけてもらいたいと思っている。それは基本的人権の尊重、人間平等、民主主義、世界平和だ。これらは憲法前文の理念に合致する。残念ながら天皇制を認めている憲法前文には合致しないがね。

 この所学級崩壊が全国的に広まっているが、教師が社会的常識の規範として立ち、強制していくという理念が否定されている事に遠因があると思われる。なんでもかでも子ども中心、子どもの発想重視では、教師のリーダー性が否定され教師から自信と力を奪うものになると思うのだ。
2004年4月30日 金曜日  
 どの学年を担当しても、問題児と言われる子が在籍するものだ。
今回はそういう子のしつけ方について。
 まあ、小学生だから、何年生でも見た目はかわいい。
今まで受け持った子には、男子が多かった。多動、暴力、暴言、固まるなどの問題行動が目立つ。
医師に薬を処方されている子もいたし、相談センターに通っている子もいた。
 まったくそういう特別扱いを受けてない子もいた。
ただ、自分から見て共通している特徴は、社会性が育ってない事だ。
大人を指導する存在として見ていない。自分が王様だと思いこんでいる。
だから、指導してくる教師に対して反抗的にならざるを得ないし、学習も成立しないのだ。
学習という面では、がまんする力が希薄というか、育ってないので、成立しない。能力的には優秀な子もいて、そういう子は、学習の場面を強制すると、伸びてきた場合もあった。
さて、自分の方針。
1 特別扱いはしない。
  あくまで集団の構成員の一人としての扱いをする。だから、掃除も当番も学習も、遊びも他児同様にさせるし、しない場合は強制していく。
  そうは言っても、反抗的であったり、他児へ暴力をふるうので、机を自分の近くに置くとか休み時間自分について歩かせるとかは一時的に行った。あくまで、一時的である。恒常的にはやらない。
2 教師を指導者として認識させるために、反抗的、暴力的な場合は力の差異を見せつける。
  具体的には、力で押さえつけるとか、抱き上げるとかで、力ではかなわないという事を認識させるのである。指導に従って、学習なり、掃除などをやった場合は、ほめて認める。集団の構成員としてのその子の存在を認めるのである。これはかなり効果的であった。
3 集団の一員に過ぎない、特別な存在ではないのだという事を認識させるために、時には無視する事も必要だ。低学年の頃から特別扱いされているので、思い上がっている節がある。
  あんたを特別扱いはしないよというメッセージを出すのである。そういう事で、集団の中で普通にふるまう事がだんだんできてくる。いつもいつも担任の注意が、その子にのみ注がれているというのは、他児に取っては不公平な事だし、その子をいつまでも集団の外に置く事になる。
  無視する事、他児と同じ注意しか払わない事をその子に認識させる事が大事なのである。

  1,2,3と指導が進んでくると、だいたい普通の子になってしまう。もともと普通の子だったと思うのです。それが問題児になってしまうのは、「○○さん、静かにしてください。」というような理解と承諾、子どもと教師の対等、平等を文字通りに行ってしまう、まちがった教育理念にあると思うのだ。
  相手はまだ不完全な人格しか持っていないのだ。それを言語だけで説得しようと試みて、「くそじじい、死ね!」とか悪態をつかれて、けりを入れられる事で、指導が崩壊し、問題児になっていくと思われる。そこから、その子の特別待遇が始まり、やれ問題児だとかADHDだとかレッテル貼りが始まっていくのですね。
  体罰ではなく、力の差異を見せつけるとか、強制していく事は、小学校教育には絶対に必要な事です。
  体罰禁止、イコールすべて言語による説得では、こういう幼児的自己中心の子にはまったく効果はないです。それだけでなく、集団性、社会性の育つ小学校時代に、幼児的自己中心を増長させ、固定してしまうという、その子にとって取り返しのつかない教育的弊害になるのです。
2004.6.23
 「コッペパンよさらばだ!」
 給食のコッペパンを食べていて、笑ってしまった。思えば、40年前の子どもの頃もコッペパンを食べていたのだ。まあ、あの頃は敗戦の痛手が日本中にまだ残っていたので、米軍の放出の脱脂粉乳や小麦粉で作ったコッペパンは致し方の無い所だっただろう。 
 でも、どうしていまだにコッペパンなんだ。おかしいじゃないか。
戦後もう60年になろうとしているんだ。日本は世界第二位の経済国だと言われているんだ。(それにしちゃあ確かに国民の生活は貧しいが)
 今時、コッペパンなんてどこにも売ってない。コッペパンを昼食に食べているおじさんは学校の先生だけだろうよ。コッペパンを食べ続けて40年だ。笑ってしまったよ。
 日本人としての正しい食習慣を付けるためにも、完全米食に切り替えるべきだ。パン食にこだわる必要はどこにもない。ときどき、カレーにナンなんか出るのだけど、カレーにごはんにしてくれよ。ただでさえ、ごはんに牛乳という苦痛に耐えているのだ。変な組み合わせは勘弁して欲しい。国際食なんて大人になって食べればいいじゃないか。それにいつまで教室で食べさせるんだ。ランチルームてありゃなんだ。年に数回、面倒なだけじゃないか。いつまでお茶を濁しているんだ。アメリカみたいに食堂で食べさせてあげるつもりは、この国には無いのかね。
 コッペパンよさらばだ!ご飯にみそ汁。デザート無し。これが正しい日本の食生活だ。変な物を食わせるな!どこの家が食後にプリンやゼリーを食べるかよ。もうやめてくれ、勘弁してくれだ。

2004年8月3日 火曜日 19:02:47
 5日しかない夏期休暇を使って帰省する。父も母も年老いた。まあ、このぼく自身がもう初老に入っているのだから当然だよね。いつ最後の別れになるかも知れない。できることはすべてやっておきたい。2年ぶりに孫を連れて帰る事ができて良かった。喜んでくれたよ。
 昔と違って自宅研修が実質認められなくなってきたので、ぼくは夏期休暇以外は登校する予定でいる。行事黒板を何気なく見ていたら、校長会夏季研修会、教頭会夏季研修会という旅行日程が目に入る。どうも旅行会社が作成した物をそのまま掲示してあるようだ。視察らしいものはなく、どう見ても物見遊山だ。夜には宴会という文字もある。下々の我々には物見遊山と研修とは違うとのたまわっている御仁が、これはどうしたことか。ムッとする。しかし、よく見ると休日を利用しているし、平日にまたがっている所は年休を行使している。だったら、はなから親睦旅行と書いときゃいいじゃないか。研修なんて言葉を使っているから誤解を生じるのだ。
 ともあれ、公費を使っての親睦旅行など許される事じゃないからね。警察が裏金を作って、それで宴会費に当てたり、上司の転任の際の餞別に当てていたという記事が載っていた。組織ぐるみでやれば恐くないという所だろう。社会の不正を正すべき警察が情けない事だ。振り返って教員の世界ではどうなのだろう。下っ端の教員生活25年の自分に詳しい事がわかるわけはないが、体験的に知っている事は記録しておこう。

 新採用の頃驚いた事は、職員会議の紛糾の原因だった。当時は夏休み中に6年生を引率してキャンプする慣例があった。キャンプ地での夜の宴会費を6年団のリベートから支出する事で紛糾したのだ。教材費の集金業務に対するお礼として、その何%かが、リベートとして学年団に業者から支出されていたのですね。半学校行事として行われる夏のキャンプなのに、どうして6年団が金銭的負担をしないといけないのかという憤りだったと思う。なんかぽわーんとしてその話を聞いていた記憶がある。
 その後、九州の一教員が職場八分になりながらもリベート禁止を訴えて、全国的に教材業者からのリベートは無くなった。

 今は話が来なくなったのだが、以前は県外視察に行けと強制的に行かされていたね。県外の小学校を視察して一泊するわけだ。本人がどうしても視察したい学校があるなら別だが、自分のように子どもを自習させてまで視察したくない教員もいるのだ。それが慣例という事で研修旅行を強制されているのはおかしいよね。複数の同僚と出かけるわけだが、親睦旅行と言われてもしかたない一面はあったと自分は思うよ。
 そうそう、全国有名研究校なる冊子が各学校に配られてあって(学校で購入したのかもしれないけど)それを見て決めるわけですね。そして電話でアポイントを取るわけです。先方の了解が得られたら、出かけるわけだ。自分も3回ぐらい出かけたと思う。着任順とかなんとか言われて、断れなかったのですね。まあ、喜んで出かける人もいたが、自分は迷惑な話だった。それでも1,2回は断ったはずだ。まあ、リフレッシュ休暇的な意味合いもあったのかも。一人だけ断り続けるのも職場の和を乱すのだろう。しかたなく電車に乗って出かける。先方の校長室で、教頭なり、研究主任の話を伺う。まあそれで、半日が過ぎてしまうので、その後県内視察つまりフリーになるわけです。フリーになるって言ったってね。大した事はないですよ。名所旧跡を見たい年頃でもなかったし、まあ夜、同行した同僚と飲むぐらいだったかな。

 教育研究所の県外視察を、これも一度断ったのだが、2回目は校長がどうしても行けと言うので断れなかった。確かに視察はしたよ。でも名所、旧跡での食事、ホテルでの宴会。クラスの子を自習させてまで行く必要があるのかね。物見遊山と言われてもしかたない一面はあったと自分は思う。
 校長会、教頭会の研修旅行も以前は同様に行われていたのではないだろうか。これは証拠は持ってないけどね。でも韓国まで視察していた事もあったのだから、変な話だよ。一介の校長、教頭が国外まで研修視察する必要があるのかね。

 運動会の夜は宴会で盛り上がるのだが、その費用の一部が運動会の来賓の寸志から充当されていた。公務員である以上、他人の金で飲むべきではない。それよりとにもかくにも地域の名士、自治会長などから寸志を受け取る制度自体が問題があると自分は思うよ。受付を無くし、一切受け取らない事が大事だ。宴会に使うからいけないという問題ではないと思うけどね。
 うちの自治会でも、パーべーキュー大会に地域の保守議員を招いてその寸志を当てにしている所がある。これは出す方も悪いが、受け取る方も悪い。運動会で寸志を受け取る慣例自体に問題がある。
 この事で意見を出したこともあるが、通らないのですね。
 職場八分にはあってないが、意見が通らないのは同じ事かもしれないなあ。最近は馬鹿馬鹿しくなって職場の夜の会合は全て欠席している。しっかり宴会費だけは取られているがね。どうもいっしょに酒を飲んでも楽しくないのだよ。

2004年8月13日 金曜日
 先日職場で雑談していたら、県外の研究大会に自費で行ったという話を聞いた。研修として認められたのに、出張費も宿泊費もすべて自腹と言うのだ。これはおかしいよね。今までの物見遊山の研修を見直すのは、税金の公正な出費という点で適正な事だと思うが、こんな当然な研修に対してまで一切旅費を支払わないというのは、おかしいよ。役人のアリバイ工作のために、教員の当然な研修権まで侵害されている一例だろう。研修権にかこつけて物見遊山をしていた事例は厳しく罰し、当然の研修権の行使に当たってはこれを保証、支援すべきではないか。



2004年8月23日 月曜日 18:59:06
 マイカルワーナー海老名に行く。華氏911を見るためだ。ドキュメントだ。ブッシュがサウジの石油王、それにオサマビンラビンと利権がある。それを9.11のテロから国民の目をごまかすためにイラクを標的にしたというのだ。それだけでなく、世界第2位という石油埋蔵量をねらい、大資本のもうけ口、戦争による軍需産業のもうけ口だと言うのだ。
 ブッシュを支持していたおばさんが、息子の戦死により胸も裂けるような後悔の苦しみに突き落とされるのをじっと撮影していた。この場面は辛かった。涙が出てきたよ。
 日本人のボランテイア3人がナイフをのどに押し当てられて、脅されている場面も出てきた。自民党の馬鹿たちが自己責任と言い立てている時に、アメリカ人のこの監督はしっかりと見ているのだ。情けないのは日本人ではないか。
 頑固者と呼ばれていい、変人と罵られていい、自己の良心、日本人の良心に恥じない日本人でいたい。反戦を力一杯叫びたい!
2004年9月8日 水曜日
 9月7日の朝日の朝刊に神奈川県教組委員長、小中義隆さんが逮捕されたという記事が載っていた。逮捕されたからと言って、刑が確定したわけではないのだから、罪人というわけではない。誤逮捕の可能性、権力の弾圧という事だってある。ただ、この記事に目が行ったのは個人的な思い出があるからだ。今から21年前、ぼくは湘北教員組合の執行委員になった。その時の書記長が彼だったのだ。当時の日教組は社会党を支持していて、執行委員になると自動的に社会党員になり、党費を払い、選挙運動をすることになっていたのだ。ぼくは多数決で社会党を教員が支持して、その選挙運動を組合活動として行う事が全体主義に思えた。民主主義の根幹は秘密投票である。だれがどの政党を支持しようが自由だし、その事は個人の秘密である。だからこそ自由な意志表示が保証され、権力の弾圧を逃れて庶民が政治に参加できるのだ。それを日教組の組合に入ったら、多数決で社会党の選挙運動をしろというのは民主主義の否定、ファシズムではないかと抗議したのだ。
 当時の執行委員の中でそのような意見表明をするのは自分一人だったので、書記長の彼の説得を受ける事になったのですね。まあ、納得できない説得理由なのだから、何時間説得されても同じである。ぼくは執行委員だった一年間、社会党にも入らなかったし、選挙運動もしなかった。
 当時のプレハブのおんぼろ組合事務所で、社会党の捨て看板を作る作業にも一人参加しないわけだから、同僚から
「どうしてお前だけやらないんだよ!」
と怒鳴られた事もあった。まあ村八分にあったわけですね。でも自分としては立候補の公約にも特定政党を多数決で決めるあり方に反対しますと書いて当選したわけだから、だれにも後ろめたい所はなかった。それでも毎日の孤立というのは、少なからず精神的に参る所もあったわけだ。
 21年過ぎて、彼の逮捕である。社会党は消滅し、今は民主党を支持しているらしい。そのために現金を渡したと言う買収容疑である。事の真偽はどうあれ、あれから21年間彼はその道を進み続けたわけだ。個人的には、人柄の良さが表面に出て、組合の闘志らしからぬ好感の持てる人だった。逮捕、刑確定となれば懲戒免職、退職金無し、年金無しとなるらしい。同情を禁じ得ぬ所だ。
 だが、教員組合のリーダーが民主主義を否定し、今や自民党と変わらぬ権力政党に過ぎぬ民主党を支持し、あまつさえ買収したという事になれば、日教組の教員はどう世間に対し申し開きをするのだろうか。

2005.5.29日曜日晴れ
 職場に新採用が来た。最近は異常に新採用教員の研修が多いのだ。それに今年からは監督教官まで付いている。完全な半端物扱いですね。まあ、確かに半端物かも知れない。でも、免許は持っているのだ。運転免許だって、ベテランだろうが若葉マークだろうが、道路を走る事に違いはない。教員だって同じ事だ。子どもにとっては先生なのである。ベテランとか新採用とかは身内の話であって、子どもにとっては関係ない話である。特に教員の場合は、教室に入れば指導者は自分一人しかいないのである。自分一人で何とかしなければいけない世界なのだ。その中から自分なりの答えを見つけるしかない。その中で学んでいくのである。
 振り返って自分の場合はどうだったのだろう。今から27年前の事だ。
障害児学級の担任だった自分は、毎日大便のついたパンツを足洗い場でごしごし手洗いしていた。言葉の無い子どもたちを受け持っていた。排便の自立ができていない子がいた。大学で学んだ高邁な教育理論は、何の役にも立たなかった。教員免許はただの紙切れでしかなかった。毎日の授業は、手探りで見いだすしかなかったのだ。
 今の自分ならもっと違った対応ができたかもしれない。でも、あの時の自分は純粋だったと思う。何の技術も経験も持っていなかったが、目の前の子どもから誠実に学ぼうとしていたし、何より一生懸命だった。
 何の折りだったか、自分のような若造で申し訳ありませんと父母に話したときに、
「いや子持ちの先生より、若い先生の方がいいですよ。ご自分の子と比較して見られるのは嫌ですからね、それに若い先生は一生懸命やってくださるから。」
と励まされた事がある。
 そんなものかなと妙にその言葉が記憶に残っているのだが、この年になってみるとそういう親の気持ちもわかるのである。

 次の新採用が来て、ところてん式に自分は普通学級の教員になり、障害児学級から遠のいていった。その後、障害児学級を受け持つ事は無かったので、長い教員生活の中でほんの短い体験だったと言っていい。でも、自分には教員生活の原点である。
 初めての職場を、クラス1減で自分一人転任することになった。離任式のステージには、当然の事ながら自分一人しか立っていない。何かしら話さなければならない場面だ。何の思い出を話そうかと思いめぐらしていたら、障害児学級を受け持っていたある日の事が思い出された。それは、大便の付いたパンツを洗った事でも、体中毎日のようにつねられて青あざだらけになった事でもない。
 右半身が麻痺している女の子が、校庭の隅に咲いていたタンポポの花を左手で摘んで、自分に差し出してくれた事だ。片足を引きずりながら、麻痺してない左手で自分に差し出してくれた。笑顔で、
「先生にあげる」
とくれたのである。
教員という職の重さをあの時ほど感じた事はなかった。
 ステージ上の自分は、不覚にも涙を禁ずる事はできなかった。
あれから多くの子と出会ったが、忘れられない思い出である。
老いぼれと化し、過去の画一教育しかできない教員となり、出世街道はおろかリストラ対象の窓際教師である自分だが、まだ誠実を尽くせる事があるのではないかと思い直した。

2005年8月24日水曜日
 カウンセラーの講習会に参加する。まあ自主的に参加というより、例によって動員で参加しているようなものだが、いつも話はしっかり聞くようにしている。
 今回は共感できる話だった。いつもは、管理、強制している教師に
「子どもの思いに寄り添え」
とか、
「子どもの心を受容するように」
というカウンセリングマインドを強要するもので、同じ人格者がそんな相反する事ができるはずがないじゃないかという反感というか、納得できない気持ちだった。第一、一対一で相対しているカウンセラーと40人を相手にしている教師とではスタンスが違う。しかも向こうは進んで受診に来ている患者が相手だからね。こっちは患者の意識もない子が40人の児童の中にいて、その子の対応に苦しめられているわけだ。どうも参考にならない話だなあと思うのも無理ないでしょう。

 今回の先生は、
嫌いな物は嫌いでいい、出来ない事は出来ないでいい、そのマイナス思考はそのまま受容してほっとけばいい、そのマイナス思考にこだわらせていると、そこからいつまでも抜け出せない。
 大切なことは、プラス思考に変えさせる指導だ。
好きになれるといいなあとか、出来るといいなあと思わせること、そのプラスイメージを持たせてそれを確固な物にさせる事。それが本人の心の中でできあがれば、マイナス思考の中から抜け出せて、良い行動に繋がっていくという事だった。それを大学の先生だから、まあ学説めいた理屈にしているわけだが、要は上記の内容だと思うよ。

 でもこれって、現場の教師の営みじゃないかな。もちろんニンジンが食べれない乃木将軍に三度三度ニンジンのおかずしか出さなかった母親みたいな指導は教師に出来ないが、
「ニンジンも食べれた方がいいよ、少しずつでもいいから食べてみようよ。」
みたいな指導はこれまでもしてきたわけだ。
 参考になった点は、少しずつ食べさせるという行動にこだわらず、まず美味しく食べられる自分になれたらいいだろうなあというイメージトレーニングをさせるという視点だった。
 これなら、イメージするだけだから、実際に口にするよりずっと苦痛が少ない訓練になる。これならいつでもどこでもできる訓練だ。そうしてプラス思考が確固な物になった時に、少し口にさせる。それで食べられたら、マイナス思考からの卒業になるのだ。

 乃木将軍は別として、普通の人ならニンジンを一生食べなくたって生きていけるわけだから、教育の世界の取り組みとなると、反社会的なマイナス思考、
友達をいじめる、
掃除をさぼる、
勉強をしない、
教師の指示に従わない、
これらをどうするかだろう。
ぼくが思うに、
教育とは子どもに希望を語る事だから、
「君は将来りっぱな人になりたいのか、それともやくざになりたいのか、どっちなんだ。」
と問いただすようにしている。そうすると、やくざになりたいという子はいないのだ。
どんな問題児でもりっぱな人になりたいと言うのである。これは27年間の真実です。
だったら、今回の事(問題行動を叱った後)をちゃんと反省し、これからはりっぱな人になるよう少しずつ努力しようと指導するわけですね。
 まあ毎日がこれの繰り返しですよ。りっぱな人、それは人をいじめない、人から信頼され、尊敬される、そういう抽象的概念でもいいし、野球選手、医者、弁護士、警察官などの具体的姿でもいいわけだ。
どの子も社会の嫌われ者で、アウトローのやくざになりたいという子はいないのである。どの子も社会に認められ、できれば尊敬される人になりたいという向上心を持っているのである。そのいう人になろうよという理想、希望を子どもに語る人が教師でなければならないという信念を自分は持っている。そういう姿勢で子どもに臨めば、どんなに厳しく叱っても子どもは内省し、ついてくるのである。
 ただ問題児の話を受容的にカウンセリングマインドで聞くだけでは何の指導にもならない。大事な事は指導する事だ。将来のなりたいという自分のビジョンを持たせ、それに近づく努力をさせる事が教師の務めだと思う。

 同様な事は、教師にも求められるね。はっきり言って問題児は可愛くはないよ。こっちの指導には従わない、悪態をつく、罪もない他の児童を理由もなく「むかつく」「うざい」というだけでなぐったり、陰湿ないじめを繰り返すのだ。人間として怒りに震える方が自然である。それをどの子も好きになれという方が無理っていうものだよ。
 だからぼくは、嫌いなら嫌いでいいと思っている。嫌いな子を無理に好きになろうと思う事が、教師にストレスを与え、苦しめる事になる。人格を分裂させ、教師自身が不登校になる可能性もある。
 だから嫌いな子は、嫌いだと思ってればいいんですよ。だけど、口に出してはいけない。仕事として教師をやっているわけだから、その子の前では教師として振る舞わなくてはいけないんですよ。
 その子が悪いことをすれば、教師としてのスタンスで叱る。積年の恨みをここで晴らそうなんて憎しみに燃えて叱ってはいけないのだ。その子が反省して立ち直る道筋をつけたしかり方をしないといけない。もちろん、良いことをすれば他の子と同様にちゃんとほめてやらなくてはいけない。えこひいきは、プロとして許されないのです。そういうスタンスで子どもと接していけば、超問題児と言われる子を担任してもそれほどストレスにはつながらないですね。自分の経験から言って。


 以前、腕立て前回りを連続でできる女の子を受け持っていて、その子が鉄棒でぐるぐる回るのを羨ましく見ていた。40を過ぎて鉄棒なんて逆上がりと足かけあがりしか模範演技ができない自分に、あの技ができるとは思えなかった。でもできたらいいなあと思った。まねてやってみた。できない。
 でも夜布団の中でその女の子のくるくる回る姿を思い浮かべるんですね。その姿がいつのまにか自分がくるくる回る姿に変わっている。これがイメージトレーニングだと思うのです。イメージの中では、その女の子と同じようにくるくる回る自分がいるわけです。その事をいつもイメージして、毎日少しずつ練習を重ねていった。そしたら、できるようになったのですよ。50を過ぎた今でもできますよ。本当に鉄棒をくるくる回れるんです。イメージトレーニングて大事だと思う。人生はプラス思考です。でも根本になるのは、なりたい自分になりたいという向上心、理想、希望、夢を持つ事ですね。

2005年12月15日

校長室に呼ばれ説教を受ける。次元の低い教員だと罵倒される。なんでこうなったかと言うと、自分の職員会議での発言が気に入らなかったらしい。

「下校時間は学校の管理下だから、集団下校なり、パトロールなり、職務として我々が責任を負う必要がある。が、登校時間は、朝の7時台であり、勤務時間の前である。保護者の責任の範囲だ。保護者が学校まで児童を引率したり、地域で集団登校させたりする手だてを取る時代になるのではないか。学校が集団登校を管理し、それに責任を持つというのは無理がある。」というのが気に入らなかったのですね。校長によれば、登校時も学校管理下であり、責任があるというのである。だったら、勤務時間を朝7時台に変更して、帰りを夕方4時に変えればいいのである。そうはしないで、勤務だと言い張るのはおかしい。朝の指導はあくまで教員のボランティアであると自分は言ったのだ。それが次元の低い教員だという罵倒につながったのですね。まあ確かに子どもたちは8時過ぎには登校している。教員の勤務時間は8時半からだ。その間の保安要員は用務員と管理職だけである。後は実質教員のボランティアで運営されているのである。だったら、行政が保安要員なりなんなりをそれように確保すればいいのではないか。何でもかんでも、学校の責任にし、教員に押しつけるのは無理があるのだ。日本も残念ながらアメリカのような犯罪国家になろうとしている。セキュリティが必要なら、教員にすべてやらせるのではなく、保安要員なり必要なシステムを構築すべきだと思う。学校長とは、そのような要望を行政に出すのが仕事なのではないか。教員は教育を司るのが仕事である。警備員ではないし、それようの訓練も受けてない。その上、女性教員主体の小学校に置いて、警備まで教員にやらせるのは実際的ではない。自宅から学校までの通学まで教員の責任の範囲内だとする考えは自分には理解できない。昔、組合の執行委員をしていた時にも、こういう事を言って早朝、職員を集団登校の各ポイントに立ち番させていた校長がいた事を思い出した。

 朝の交通パトロールや、日直の門の立ち番など、勤務時間前の仕事が多い。でも、これはボランティアだと自分は考えている。第一朝の交通パトロールなどは、親はボランティアでやっているわけだから、教員だけ勤務というのはあり得ない話ではないか。だから、まあ都合のつく範囲内で自分はやっている。

 ところが、これを勤務だと管理職が言い張るものだから、従順な教員はきちんとやっているのですよ。まあ、本人が納得してやっているのなら自分がとやかく言う事ではない。でも、本当は納得してないわけですね。だから回復措置が取られてない事に不平不満が出てくる。

 ずれ勤務なら回復措置というより、ずれがあって当然なのだが、管理職から何も言われないものだから、超勤実態が恒常化しているわけです。で、何とかして欲しいという当然の要求が会議で出されたわけだ。自分はボランティアだと思っているので、回復措置をとか、ずれ勤務をとかいう要求には同調しなかった。で、黙っていたわけだが、校長が今後は取るようにします、今回は申し訳ないの一言で、この一年の超勤がただ働きになってしまった。反論する者はだれもいなかった。まったく従順である。勤務なら、その裏には賃金がある。ごめんなさいの一言でどうして引き下がってしまうのだろう。自分なら絶対引き下がらないね。第一、ボランティアだと公言して、日直の門の立ち番など一度もやっていない自分がいるのに、どうして同調しないのだろう。

 本当にずれ勤務なら、自分は懲戒されているわけじゃないか。実質ボランティアだから、おとがめ無しなのでしょう。

 なんとも釈然としない職場の雰囲気なのだ。

 ドラえもんの大山のぶよが、小学生を教師がさんづけで呼ぶのはおかしいとテレビで言っていた(自分も同様の事を職員会議で発言してきた)影響か、最近は君づけで呼んでいるのですよ。自分の反論を無視していた同僚がね。なんとも釈然としない職場の雰囲気なのである。

2006年3月12日 日曜日春二番
 職員室のパソコンの入れ替え作業が終了する。セキュリティを強化するという事でえらい、大ごとな作業となっていた。連日大の男が何人も終日パソコンルームを閉鎖して作業するのだからね。一体何事かと思ったよ。係として簡単な説明を受ける。今までパソコンの入れ替えで説明を受けた事がないからね。これも何事かと思ったよ。
 要するに個人情報の保護という事だった。学校にある個人情報と言ってもねえ。保護者から回収した家庭環境調査票ぐらいしかないでしょう。それをデジタル化しているものというと住所録ぐらいだ。それにしたって、内容は住所と電話番号の抜粋ぐらいだからねえ。そんな機密事項とも思えないのだが、まあ個人情報である事にはまちがいない。昔はこれを印刷して配布してた事もあったからねえ。だから、クラスの子の住所と電話番号は、クラスの親なら公開事項だったわけですよ。今は、電話番号しか公開されていない。これは電話連絡網を印刷して配布しているからだ。
 で、これを以前は学校のパソコンの中に入れていたわけだが、それが禁止され今はMOなどの外部記憶媒体に保存して、耐火金庫に保管しておくよう指導されている。自宅への持ち出しは禁止です。
 でもまあ、学校で仕事が終わらないから自宅に持ち帰る人がいるわけですよ。それが帰り道買い物に寄った駐車場で車上ドロに会ってしまうという事件が何度か新聞報道された。
 そこで我が委員会の精鋭デジタル部隊が、サーバーに入れて置いても大丈夫というシステムを開発したわけですね。本当にハッカーよりえらいのかな〜。素人の自分にはわからないが。
 で、もうMOなどの外部記憶媒体に入れて耐火金庫にというアナログシステムを卒業しようというわけでしょう。確かに、これだと自宅に持ち帰る人はいなくなるでしょう。できなくなる仕組みだ。
 ただいっぺんには無理でしょう。成績という個人情報もあるからねえ。丸付けも学校でし、成績処理ソフトも学校で操作し、住所録の作成、変更も学校で操作し、一切自宅に仕事を持ち帰らないで帰宅しなさいというと、一体何時に帰宅できるのでしょう。家庭崩壊が目に見えるようだ。
 でもまあ、将来的にはそういう方向に進むのでしょうなあ。
 竹千代では、セキュリティが邪魔してうまく機能しないという説明だったから、エクセルの自作成績処理シートを活用する事になるのだろうか。一応作っては見たけれど、自作となると自分が使う分にはいいけど、同僚に薦めるにはね。エクセルの知識が無くても使えるほど簡単操作の物は作れませんよ。そんな技術があるなら別の仕事をやってます。
 ネット上のフリーソフトをダウンロードしていじってみたが、こういう物を使った方が手っ取り早いよね。でも、自分が検証したものでもないのに、それで成績付けるっていうのもどうかな。やっぱり、名のある企業が作った成績処理ソフトの方が信用できるじゃないですか。エクセル自体にまちがいはないが、数式の設定にまちがいは有り得るわけだらかね。
 まあ、今すぐアナログ方式が全面禁止になったわけでもないので、テレビのアナログ放送打ち切り同様まだ猶予期間があるわけだ。そう思う事にしよう。

2006年5月26日 金曜日曇り
 今日の朝日新聞によると、とんでもない事が自民党の馬鹿共により法案化され、可決されるようだ。ここ数年教員の給料、年金は切り下げられているのだが、ここに来てまたもや下げられるというのだ。まあ、公務員だからしょうがないという覚悟は自分にはあるのだが、今回の場合理由が納得できない。
 教員は人材確保法により他の公務員より優遇されているというのだ。で、下げると言うのですね。でもねえ、他の公務員には残業手当は出るのですよ。教員はいくら残業してもただなのです。ここを無視して論議するなんて詐欺まがいじゃないですか。
 おまけに、今日の夕刊だ。教員免許を更新制にし、現職も対象にすると言うのだ。有効期限は10年というのだから、定年まで後7年しかない自分には関係ない話かもしれないが、腹が立つじゃないか。
 免許というのは国家が認定する最低条件だと思うのですよ。その免許を元に、10年なり20年なりやっていれば充分プロと言えるのじゃないですか。そのプロに対して素人の役人が免許を取り消すなんて権限が一体どこにあると言うのだ。何を基準にして、その道のプロに対して役人が判定を下せるのか。そこの所がおかしい。免許更新というならすべての免許に対してやれよな!
 医師免許、弁護士免許、調理師免許、運転免許、すべて更新制にするなら、引き下がるよ。教員にだけ免許更新制というのは、結局日の丸、君が代をやらない教員を処分する方便ではないのか。そう思うわけですよ。国家による教育統制ですね。ファッショですよ、これは。それ以外考えようがないじゃないですか。我々教員は、このファッショに対してどう抗弁すればよいのだろう。日教組は民主党の後援会だし、民主党は自民党と保守路線を競っている仲だ。組織として闘うなんて方策は無い。
 まったく、四六のガマだね、これじゃあ。ただ、脂汗を垂らしているだけしかないのか。

2006年7月24日月曜日雨
 昨日、NHKのワーキングプワーという番組を録画していたのを、今夜見た。働いても生活保護水準より貧しい人の事を言うそうだ。34才の男性が出ていた。高校も卒業したのに、現在ホームレスだ。働いても月10万ぐらいにしかならないので、アパートを借りる事もできない。働いても働いてもホームレスだ。
 マルクスの資本論で、労働の再生産という言葉を知った。労働者は新しい労働者を生み育てるため、賃金は自分が食べるためだけでなく、その分も必要だという事だったと思う。
 ところが、今の日本資本主義は、小泉自民党政権の下この労働の再生産もできなくなっている。
本当の貧困がやってきている。私企業の私利私欲のために、労働基準法を改悪し、人材派遣、いわゆる口入れ屋稼業を認めたからだ。アルバイト、パート、フリーター言い方は様々であっても、要するに使い捨ての労働者群である。彼らは、結婚どころか自分の食い扶持も失いかけている。アルバイトで食えるのは20代までで、30を過ぎるとアルバイト口も無くなってしまう。勢いホームレスにならざるを得ないのである。
 すでに家庭を持っている者もリストラで、子どもを養う事ができなくなっている。離婚、家族離散。養育放棄による労働の再生産の崩壊である。
 米所秋田では、離農者が増えている。米作りでは、食っていけないのである。ここでは労働の再生産だけでなく、日本の食文化の崩壊が始まっている。

 こんな中で、まともな教育などできるわけがないじゃないか。

2006年9月1日 金曜日雨  
 某月某日、某場所で県の義務教育を指導する立場にあるえらい役人さんの講演を聞く。
話の内容はともかく、腹の立ったことはその人の自慢話にある。聞かれもしないのに自分の子の自慢話をしはじめたのだ。小学校から進学塾に通わせ、中高一貫の有名私立に入学させるのに成功したと言うのですね。そして現在はめでたく有名大学に通っているという自慢話である。
 教育に関わる公務員が自分の子弟を公立学校に入学させる義務や規定があるわけではない。私立に行かせたいなら行かせればいいのである。日本は自由の国である。
 しかし、公立学校を充実させる立場にある役人が、自分の子弟は私立に通わせるとはどういう事なのか。本来それは隠すこと、内緒にする事ではないの?
 自分の方からぺらぺらと自慢するその神経が理解できないのだ。
 彼は県内の公立学校を100校以上講演に歩いていると自慢げに語っていたが、そうするとこの自慢話を公立の中学や高校の先生の前でもしているの?
 低学力や非行で、学力指導、生活指導でてんてこ舞いしている現場の先生方を前にして、自分の子弟を私立学校に通わせ、有名大学に入学させる事ができたという自慢話をする神経が理解できない。現場の先生方がどういう気持ちで聞いているのか、他人の気持ちがどうして想像できないのでしょうねえ。
 高級役人として税金から高給をもらっているわけでしょう。その経済的余裕が自分の子弟を小学校から進学塾に通わせ、私立に入学させる基盤になっているわけじゃないですか。税金を納めている多くの県民は、この不景気の下苦しんでいるのです。父子家庭、母子家庭など生活上の困難を抱え、塾代はおろか学費を納めるのにも苦労している実態があるわけですよ。
 少人数学級の実現とか、障害児に手厚い教育ををするためにもっと現場に先生を増やして欲しいという要求には、予算がないとかすでに県の予算の中で教育は人件費の多くを占めているとこの人たちは言うわけでしょう。県民には貧しい教育環境を強いておきながら自分の子弟は私立に通わせる、これってずるくないですか。
 義務教育の充実を図るのが仕事でありながら、自分の子弟は経済力に任せ私立に通わせる、これが自分の仕事に誠実な姿勢だと言えるのでしょうか。意地でも自分の子弟を公立学校に行かせろよ。それができないなら、せめて黙っていろよ。ぺらぺらと自慢する事か!自分という物が見えてないと言うか、馬鹿じゃないのかこいつは!
 でもこういう馬鹿が上司なのです。ぼくのね。ぼくら現場の教員を指導しているボスがこういう人たちなのですよ。

 ま、彼個人を責めても仕方ないか。大体が、「ゆとり教育」とか「心の教育」なんて言って公立学校をいろいろいじっている高級役人自体が私立の卒業生ではないのか?そして自分の子弟を幼いときから金をかけて英才教育をさせているわけでしょう。自分も公立学校に行ってないし、自分の子弟も公立学校に行かせる気がない。そういう高級役人が、公立学校のあり方についていろいろとえらそうな意見を言い、ぼくら下々の教員が右往左往させられているっていうのが、実態なんでしょうねえ。

 長い夏休みが終わり、久しぶりにクラスの子と合う。かわいいと思う。がんばらなくてはと思う。自分のできるせいいっぱいの誠実さと良心でこの子たちの教育に当たらなくてはと思った。まだ、現場で働ける事の喜びを感じた。上が馬鹿だろうがずるかろうが、自分にできる事をせいいっぱいやるだけだ。
 定年まで後7年。
2006.9.22
 朝刊を読む。東京地裁が日の丸君が代を教員に強制するのは、内心の自由を侵害し教育に対する不当な支配に当たると断罪した。当然の判決だと思う。でも全体的に大きく右傾化している日本の現状から言って画期的な判決なのだろう。裁判官は自己の良心に従って勇気を持って判断したのだろう。歴史に残る判決になるかもしれない。
 高裁でひっくり返される可能性も今の政治状況から言って考えられない事ではないが、でも地にはいつくばっている教員にとって、胸を張って前を見られる状況を開いてくれる判決だ。自分も職場で喧伝していこうと思う。

 高校の頃、社会科の教科書で内村鑑三の不敬事件を知った。キリスト教信者の大学の先生が、日の丸に敬礼しなかった事を非国民と非難されて職場を追われたというような事だったと記憶している。それから日本全体が皇国史観、全体主義、ファシズム国家に傾倒し、雪崩を打って戦争の時代に突入する事になったのである。その結果が300万の戦争犠牲者であり、広島、長崎の原爆被害である。その反省の下に平和憲法が誕生し、財閥や地主が解体され、天皇は人間宣言をしたのではないか。もはや国の主権は天皇ではなく、国民に存する事が決定されたのではないか。だのに、学校の先生が日の丸や君が代に起立や斉唱をしない事で処分がなされているというのはどういう事なのか。
 処分を下している東京都教育委員会が皇国史観、ファシズムに害されているとしか思えないではないか。それらの処分が内心の自由を侵害し不当であるという判決は当然である。
 世の中、なんでも多数決で決めていい事ではないのである。法律だから、起立しろ、法律だから歌えというのは強制できないのだ。何か悪い事、他人の人権を侵害する事をすれば罪を問われるのは当然だ。でも、国家の象徴である旗に敬礼しない、歌を歌わない事が犯罪であるというのは、全体主義、ファシズムである。国民が自ら敬い、歌いたくなるような国になるよう努力するのが、国家の責務であり、民主主義の国家ではないか。それを、従わない国民は非国民であると捕らえ、罪に問うのは、王の国であり、ファシズムの国である。

 思うに、自分の半生もこの内心の自由を守る闘いだったと思う。20代で教員になり、即加入した日教組はファシズムの組合だった。執行委員になった自分に、社会党に入党するのは義務だと強要したのである。どの政党を支持するかは内心の自由だが、日教組に加入した以上は社会党を支持し、その選挙運動をし、組合費から献金する義務が組織人として存在すると強弁するのですね。日教組の組合員に許されている内心の自由とは、投票所で行う秘密投票しかないと言うのですよ。電話で社会党の指示をお願いし、街頭に社会党の選挙ポスターを貼りだし、組合費から選挙応援費まで拠出して、それで内心の自由は保障されていると強弁するのです。自分を説得にかかっている先生方の頭を疑いましたね。
「馬鹿か、こいつらは。」
結局自分は、20年近く日教組にいましたが、愛想が尽きてやめました。その間、社会党員になる事は拒否しましたが、ずいぶんと金は払ったと思いますよ、社会党に。その社会党は二大政党制を日本に根付かせるだのなんだのわけのわからない事を言っているうちに無くなってしまいました。今は、なんですか。元自民党幹事長だった小沢さんの率いる民主党を支持しているのでしょう、信じられないと言うか、当然の結末というか、そうなのでしょうねえ。
 自分が組合員の間、分会長会議などで日の丸、君が代でどういう態度を取るのだと問われる度に、
「日の丸、君が代については今後とも学習していきます。」
と返答するのが、執行部の常套句になっていましたが、学習を何十年も続けている内に、教員でもなんでもない裁判官が自己の良心にもとづいて当然と言えば当然、りっぱと言えばりっぱな判決で答えを出してくれましたよ。

2006年11月1日 水曜日
 学校にバイクで寒い思いをして着いたら、さっそく同僚の女性教師に、
「先生のクラスの子がフェンスに首をかけて自殺、自殺て言ってましたよ。
 そんな遊びをしてはいけません。どこのクラスですかて聞いたら先生のクラスでしたよ。」
と教えてくれる。ありがとうございますと礼を言っておいたが、だったら名前まで聞いといてよ、
クラスでだれか特定する作業が増えるでしょと内心不満をつぶやいた。

 さっそく朝の会で問いただす。わりとすなおにある男児が自分ですと打ち明ける。
どうしてそんな事をしたのと聞くと、
「わかんない。」と言う。じゃあ、自殺という言葉はだれに聞いたのと聞くと、
「テレビでいじめとか自殺と言っていた。」
それはどういう事と聞くと、
「わかんない。」と言う。
じゃわかる人、説明してくださいと聞くと、
利発な女の子が
「悪口を言われたり、からかわれたりして、それがいやで死ぬ事。」
と説明してくれた。
じゃ、死なないためにはどうすればいいんだろう、と聞くと、
「お父さんや、お母さんに言えばいい。」と答えるのですね。
「でも、テレビで自殺したと報道された子は、親には言ってないのです。どうしてでしょうね。
 その気持ちを想像してみてください。」
と聞くと、
「お母さんが悲しむから言わないと思います。」
と別の子が答えてくれた。
じゃだれに言えばいいんだろう。ウルトラマン?でもウルトラマンが来るとこの教室は壊れちゃうからねえと聞くと、
「先生。」と別の子が答えた。
「でもその先生がいじめのきっかけだったらしいんだよ。」
と言うと、
「校長先生に言えばいい。」と答えてくれた。
「でも、その校長先生がいじめがないと記者会見で言ってたんだよ。
 だれに言えばいいのかねえ。」

 まったく恥ずかしいというかなげかわしい話である。
「110番すればいい。」
という意見が出たが、ばかとかでぶと言われたから110番してそれで警察が来てくれると思うかいと聞くとみな首を横に振るのである。
そこでぼくが子どもたちに提案した解決方法。
それは学校に行かない事だ。自殺を選ぶより、そっちの方がいい。行かなければ、親も先生もいじめた子達も気づく事になるだろう。そうしようよ、そうしてくださいとお願いしておいた。

 まあここまではかわいらしい我がクラスの子たちとのほほえましい会話であるが、じゃあ何で学校の先生はいじめに気づかないというか、自殺した子がいるのに校長はいじめは無いと言い張るのであろうか。
 それは事なかれ主義である。当事者として問題解決力が与えられていない事から来る無責任体制にある。いじめに気づいても、指導できないのだ。なぜ指導できないのか。いじめた子や、その保護者からの反発により指導を貫徹できない事が洞察できるからである。
負けるとわかっている事はやらないのだ。普通の大人はね。

 ぼくがまだ20代の頃、クラスの女児がいじめられていると他の子から告白された事がある。いじめている子、いじめられている子、共に事情を聞いた。大人の自分から見るとたわいのない事がきっかけだったが確かにいじめと言っていい事柄だった。で、二度としないよう指導した。もともとぼくの前ではやらない行為だったので、ぼくは気づかなかったのだが、その後もいじめは続いた。で、放課後残してきつく叱った。ひっぱたいたりなどの実力行使はしなかったが、理を尽くして説得しても同じ事を繰り返す子にいささかこちらも切れて感情的に怒鳴りつけたことは事実だ。
 ドラマはここから始まった。いじめている子の親が学校に怒鳴り込んできたのだ。
何の証拠があって、うちの子がいじめていると決めつけるのかという談判である。管理職はそれに屈服して、いじめっ子の親といっしょになって、自分を非難するのである。
 朝、学校に行ったら、校長室に来いと言うのだ。行くと、いじめっ子の親と校長、教頭が並んでいる。
教務主任が自習体制を作っているので、先生は授業に行かなくていいと言うのだ。
で、何十分だったか延々といじめっ子の親と管理職に糾弾されるのだ。
何の証拠があると言われれば、証拠などあるはずが無いじゃないか。こっちは刑事じゃないし、相手は犯罪者ではない。そういう世界ではないのである。でも毎日接している担任の自分がいじめだと判断したのだ。学校にいない親に何がわかる。まして授業を持っていない校長、教頭にぼくのクラスの何がわかると言うのだ。そんなわけのわからないやつらが一方的に自分を糾弾するのですね。
 ぼくは屈服はしなかった。こんなくだらない仕事など首になってもいいと思った。でも、いじめている子たちが自分の思いを誤解している事があるなら、もう一度怒鳴るのでなく説明しなおそうと思った。で、教室に戻ってその旨をみんなの前で説明した。いじめはやめなさいという自分の指導はこれまで同様に続ける、だれが何を言おうと変わらないと宣言したのである。

 で、どうなったかって。いじめはぴたりと終わったよ。いじめっ子たちも親を巻き込む大事になったので、うそを突き通す事ができなくなったのだ。担任は馬鹿信念の持ち主だからね。こっちが筋を通そうとしたら、むこうが引っ込んでしまったというわけだ。
 でも、他の教師にこういう事が期待できるだろうか。やらないんじゃないの、みんな大人だし。自分みたいな馬鹿はほんと珍しいよ。

 まあ、自分みたいな馬鹿教師は別として、体制としていじめを無くすにはどうしたらいいのか。それは当事者、現場の教師に問題解決力すなわち懲戒権を与える事である。体罰を認めろという事ではない。出席停止などの懲戒権を与えろと言うことだ。現場の判断を最優先しろという事なのですよ。それをしないから、現場の教師が事なかれ主義の無責任体制になるのだ。そうなんですよ、真実は。

2006年11月14日 火曜日
 全国に今燎原の火のようにいじめとそれによる自殺が広がっている。悲惨な事だ。当事者である学校長の自殺まで報じられている。まさに学校に問題解決能力が無い事、子どもたちが救われない事を示している。、学校崩壊、日本沈没である。
 どうしてこのような事態になってしまったのか。
 先日、バライティとも教育番組とも言えない物を見た。その中で使い古されたせりふというか、
「授業がつまらないから、子供が聞かないのだ。」
という意見を聞く。
じゃ、授業がおもしろかったら、立ち歩いたり、紙飛行機を飛ばしたりしている子が授業を聞くようになるのかね。反対にぼくは聞きたいよ。今静かに授業を受けている子は、授業がおもしろいから聞いているのかと。
 そんなことはないよね。彼らは授業がおもしろいから、静かにしているわけじゃないよ。授業中は静かに先生の言うことを聞くべきと思っているから、静かにしているのだよ。それは静かにしないと先生に叱られるという外的強制によるのもかもしれないし、親にそう言われているからかもしれない。いずれにしろ、授業がおもしろいから静かにしている子はごく少数に過ぎないとぼくは思うね。
 何がおもしろいかなんて、千差万別、人によって違うじゃないか。どんなに教師が工夫しても万人におもしろい授業なんてできるわけがない。だから、授業がおもしろければ荒れる子はいないなんていうのは、うそだよ。
 教師がやるべき事はおもしろい授業を作る事ではない。授業を黙って聞く子を作る事なのだよ。
板書を写しなさいと言われれば、すなおにノートに写す子、教師の音読を反復しなさいと言われれば、すなおに音読する子を育てる事なのですよ。それができない教師に、おもしろい授業を期待しても無理だって言う事です。まず授業の前提になる学習の姿勢を作る事です。それができれば、おもしろい、笑いのある授業ができます。ぼくの経験です。
 今のいじめによる自殺だって、教師に叱る力が無いからです。本当に人間としての怒りに燃えて子供を叱る事ができれば、子供は変わります。でも、そんな事をしたらこっちの首が危ないって事なんですよ。だから現場は事なかれ主義になっている。いじめ自殺の記者会見では、現場の教師が表に出ず学校長や教育委員会がメモを読み上げてるだけじゃないか。
 これじゃだめなんだよ。もっと現場の教師に権限を与えるべきだ。先生がいじめだと思ったら、それはいじめなんだよ。この子がいじめていると判断したら、それが正解なんだよ。取りあえずはね。その上で、いじめている子を叱責するとか、出席停止にするとかの懲戒の権利を現場の教師に与えるべきだ。それしかないよ。そういう権限を現場の教師に与えない以上、事なかれ主義の無責任体制は変わることはない。学校長をリーダーとする事実隠蔽の集団性が存続するだけなのだよ。


2007年2月1日 木曜日晴れ
 NHKのクローズアップ現代を見る。「要求する親、問われる教師」というテーマだった。苦情の電話で現場が混迷しているというドキュメントだった。退職に追い込まれた教員や、校長。果ては自殺にまで追い込まれた女性校長まで報道されていた。精神疾患に追い込まれる多くの教員が、不適格教員ではないという精神科医の感想も報道されていた。
 要するに問題の根幹はシステムの欠陥だと思いますね。千人保護者がいれば、一人二人わけのわからない人がいるのは当然じゃないですか。それをあくまで理解と承諾を得ようというのは、役人的事なかれ主義ですよ。できっこない事を現場に求めている。だから精神疾患に追い込まれるのです。
 教育としての筋を通せばいいのですよ。筋の通らない人は無視するしかないじゃないですか。それでも学校や教室に怒鳴り込んでくる輩は、力で排除するしかない。話し合う相手ではない。
 もちろん端から切り捨てるのではなく、保護者の苦悩に寄り添う誠実さは求められますが、筋の通らない要求には毅然と対応すればいいのです。
 30年近い現場の経験の中で、管理職から保護者に謝れと強要された事は、何度かあります。まあ、問題教員ですからね。でも頭を下げた事はないです。自分で悪いと思った時は人に言われなくても謝ります。大人なんですから。他人に強要される事ではない。やめればいいんです、教員を。でも生活がかかっていますからやめませんでした。管理職も自分を処分する事はできませんでした。やればこっちも法廷闘争をする覚悟でいますからね。向こうも根拠の無い処分はできないのですよ。
2007年2月11日 日曜日晴れ
 ベクターにも登録させてもらっているエクセル自動計算シート集3本立てがようやくバージョンアップが終了した。まあ、こまかい不具合や改善点はこれからも出てくるかも知れないが、基本的にはもうお終いだ。ずいぶん苦労したね。エクセルに詳しくなったという実感はまったく無いし、人に教える事もできない。でも、自分の仕事に便利なシートを作れるようになったのは、楽しかった。
 一番使えると思うのは、「担任事務処理ソフト」。こういうのは、他には無いと思うので、そういう意味でも価値があると思う。自分でもよくできたと思うよ。
 関数の勉強になったのは、「成績処理ソフト」だ。成績ソフトは他にいくらもあるが、これはわかりやすいし、ただだしね。使う人が自分なりにいじる事もできるし、結構重宝じゃあないかなあと思っている。
 「計算ゲームソフト」は、一番始めに必要に迫られて作ったシートだけど、今でも日常的に使っている。ほんと、往復算の答えを用意するのはこの年になると結構大変なのですよ。これを職場のパソコンに入れておくと瞬時に印刷できるしね。
2007年6月13日水曜日晴れ
 年金である。社会保険庁だ。問い合わせが殺到しているそうだ。マスコミでも問い合わせを煽っているし、当の役所も街頭に出てちらしまで配って問い合わせをしてくださいと言っているというのだから当然だろう。自分も平日は無理だから夏休みにでもという気にもなった。でもこれって、変だよね。大体前から変だと思っていたのだよ。自分も年金を積み立てて早30年になろうというのだが、一度も銀行の残高証明みたいな通知が来た事がないのだよ。生命保険や火災保険など年に一度は通知が来るじゃないか。あれがないのだね。で、60の定年を迎えて役所に行ったら、記録がありません、年金の支給はできませんという話なんでしょう。それじゃ詐欺じゃないか。取り立ては強制的に有無を言わせずやっている役所が、支給にあたっては本人の申請待ちていうのがおかしいと思う。今回の騒動にしたって問い合わせをする人にはお答えしますというのでしょう。筋が違うじゃないか。国民みんなの不安を解消するために、全国民に年金積み立ての証明書を配布するのが筋だと思うのですよ。大体今まで何の通知も出さなかったという事がおかしい。
 見え透いたパフォーマンスはやめて、いついつまでに全加入者に積み立て証明書を配布します、お待ち下さいという宣言をすれば、騒ぎは静まるし、無駄な人件費、労力を使わなくて済むのだよ。その分の労力を本来の年金業務に当てればいいと思うのです。やることもやらないで政府自民党は法案を強行採決し、すでに社会保険庁を民間に移行する事を決めている。こんな法律、差し戻しだよ。まず、国民の不安をちゃんと解消してからだ。5千万もの行方不明の年金記録があると言うのでしょう。1300万の未入力の年金記録があると言うのでしょう。役所の責任を取ってからだ。責任も取らないで民間委託したら、国家による大詐欺行為だ。
追伸
 グリーンピアという保養施設の建物に、まあいわゆる箱物行政ですよね、年金から4千億円もつぎ込んだそうだ。世論の批判に慌てて売ったはいいが、十分の一の40億円ぐらいでしか売れなかったという話だ。まったく、これなんか政治家と官僚とゼネコンが結託して年金を食い物にしたとしか思えないね。金が余っているならプールしておけばいいのだよ。はなから福祉にまわす気がないんだね。だから湯水のように使い果たして、老人社会になるから、少子高齢化だからと理屈を付けて財源はないと年金支給を切り下げる魂胆なわけでしょう。
 同様な事例はダムにもあるそうだ。不必要な、自然破壊にもつながるダムを政治家と官僚とゼネコンが結託して作るわけだ。税金を食い物にしているのですね。
 これだけ歴代の自民党政治が国民を馬鹿にしているのが暴露されているのに、いまだに自民党に投票する人は真性の馬鹿か、ゼネコンのおこぼれをもらっているかどちらかだね。
2007年6月20日 水曜日 
 教育改悪法案が自民党、公明党の多数の暴挙で可決される。小選挙区が通ってから数の暴挙だらけだね。でも、本当にこんな悪法が施行されるのだろうか。4年生の大学を出て得た免許が、現場で10年実績を積んだら失効するというのだ。20年後も30年後も失効するというのだ。教員の世界にはベテランという言葉は存在しないという事か。有能な才能がこの世界には入ってこないと思うよ、馬鹿馬鹿しくて。更新に当たっては、30時間の講習を受けないといけないらしいが、大学に受け入れ体制はあるのか。教員の方に受講できる体制はあるのか。仮に夏休み全部をそれに当てるにしても膨大な人数である。不可能だと思うがね。まあ、馬鹿が押し通した法案だから深い考えは無いのでしょう。
2007年8月11日 土曜日 
 古本屋で「学級崩壊」という本に出会う。内容は、特に目新しい物は無かったが、考えさせられる事柄である。今やどこの学級も崩壊してもおかしくない状況である。以前、担任を無視して授業中に廊下にエスケープする子らを指導する機会があった。担任からの要請である。担任自ら崩壊を宣言して同僚に支援を求めている状況なのだ。こっちは空き時間に対応する事になる。空き時間と言っても暇ではない。学級事務が山となっている。それを承知で要請されているわけだから、応じないわけにはいかない。授業中担任を無視して廊下にエスケープする子を、
「どうしたの?教室に戻りなさい。」
と説得するわけですね。それに対して、
「くそじじい、くそばばあ、あっちに行け。お前に関係ないだろう。何でここに来るんだよ。息が臭いんだよ。」
など、ありとあらゆる罵詈雑言を浴びせられる事となる。そのうち、手をぶたれたり、引っ掻かれたりの暴力も受ける事となる。一発張り飛ばせばいいと思うのだが、そうもいかない。相手の思うつぼである。体罰だ、暴力だ、謝れという事態になるのは目に見えている。なだめたり、後ろから抱きかかえたりしながら相手の興奮が冷めるのを待つ事を担任は期待しているのだろう。他の同僚は恐らくそういう対応をしているのではないだろうか。
 でも自分にはそういう対応はできない。なんで教師である自分がそういう侮蔑を子どもに受けなければならないのか。
「お前にそういう事を言われる筋合いは無いんだ。授業中は黙って席に座っていろ。」
と、首根っこを押さえてねじり伏せた。
 こういう支援は担任は迷惑なんだろうなあとは思うのだが、致し方ない。組織として動かなくてはならないが、最終的には自己の信念や良心に基づいて判断するしかないではないか。
 学校に登校しながら、教師に暴言や暴力を振るう子を自分は許す事はできない。許すぐらいなら、教師をやめた方がいいと思っている。それで首になるなら、それならそれでしょうがないではないか。
 そこまで子どもに迎合する必要はないし、迎合してはその子の教育のためにならないと思う。

 一番いい方法は、できないかも知れないが、やはり担任がその子と格闘する事である。格闘している間、他の多数の子が心配ならその面倒こそ同僚がすればいいのである。指導に従う、その他大勢の子を指導して、指導に従わない子を同僚に任せるやり方がよくないと思うのである。それでは根本的な解決にならない。その他大勢の子は見ているのだ、担任の姿勢を。
 担任は、語弊を恐れず言えば学級のボスにならなければならない。担任がボスでなければ、子どもは安心して登校できないではないか。担任が力ずくでいわゆる問題児を自己の指導に従わせてこそ、学級は安定する。その子も学級の一員になれるし、他の子も安心して担任の指導に従う事ができるのである。それを指導に従わない子を児童指導の教員に任せたり、校長室や保健室に送ったりでは、その子は学級から疎外される事となる。悪循環の始まりである。
 体罰容認とか暴力肯定とかではなく、相手はまだ人格として完成されてない子どもなのだ。言っても聞かない存在なのだ。だったら、力で押さえつける場面があるのは当然ではないか。それを説得や説諭ですべて解決しようとするから、学級から疎外される問題児が生まれる事になるのだ。誤った児童観、指導法から問題児は生まれていると自分は思う。
 そして残念ながらこの誤った児童観、指導法は文科省が今全国にあまねく流布している所だ。全国至る所で学級崩壊が起こる所以である。

2007年11月4日 日曜日晴れ
 学校が荒れているのだ。荒れている学級を立て直すには、自分に担任を持たせるしかないと無責任な会話が先日職員室でされていた。自分のクラスがしっかりしているというありがたい評価と尋常でない教員でないと押さえつけられないという揶揄と半々だと思ったので、無責任な会話だと感じたのだ。
(以下はあくまで一般論です。自分の職場に学級崩壊とか不登校の実態があるわけではありません。ぼくの妄想と受け止めてもらって結構です。)
 この人達は、自分が毎日どういう思いで学級経営に当たっているか知っているのだろうか。自分は、首覚悟で子どもと向き合っているのだ。叱らないといけない子を自分は叱っている。説諭できない子は力で押さえつけている。へたしたら、体罰だ、暴力だと非難されて首である。それを承知でやっているのだ。だから、子どもたちは自分の指導に従っている。教室は平和で安全な空間になっている。自分が学級のボス、警察官、判事になっているからだ。
 翻って荒れているクラスはどうだ。担任は指導できる子を指導しているだけじゃないのか。本当に叱らないといけない子を、叱っていない。言っても聞かない子は、指導放棄している。そういう担任の姿を子どもたちは見ているのだ。だから、反発の輪が広がってくる。担任がボスでないから、子どもたちは弱肉強食のジャングルの中で戦々恐々として、怯えながら暮らしているのだ。まじめな子ほど、苦悩し、いじめられ、不登校になる。教師に楯を突いて、好き放題にしている子たちが学級を仕切ってやり放題だ。まじめな子の学習権は疎外され、不登校に追い込まれる。それでも、担任の責任は問われないのだ。暴れるのは、暴れる子の責任で、担任の責任ではない。いじめられ、不登校になるのはその子の資質の問題で担任の責任ではない。担任は法律に従って、必要な指導をしている。それ以上の強制力を行使すれば体罰になる、それは担任はやっていない。合法的、許容範囲の指導をしているだけだ。

 お役所的保身主義である。担任は責任を問われないのだ。学級が崩壊してもね。自分は責任を問われるのだ。しっかり学級を経営してもね。この差を同僚はどう捉える。どっちの実践の立場に立つ。
 あなたが職業として教師の立場でいたら、定年までどっちの立場に立ちますか?
自分が職場で孤立している理由がわかるでしょう!

 ぼくは首は恐くない。でも破れかぶれの実践を重ねているわけでもない。そんなふうに荒れている子を叱りとばして、力で押さえつけても彼らは決して不登校になったりしないのですよ。もちろん反発はするし、もめるけど、所詮子どもです。筋を通して叱っているわけだから、その内指導に従ってきます。それは表面的な服従かもしれないけど、公的な面で彼らはがまんする事を学ぶわけだから、りっぱな学習結果ですよ。教室は平和で安心した空間となります。だから、ぼくの実践は正しいんです。首になったとしてもね。

2008年1月20日 日曜日
 Excel雑誌に、今年も自作のソフトが掲載された。宝島社発行ムック『スグ使えるExcelテンプレート2600本』に成績処理ソフトが、成美堂出版の「使える!EXCELフリー&シェアソフト厳選360 2008年版」に計算ゲームソフトが掲載されたのだ。近くの本屋に見に行った。偶然かも知れないが、パソコン雑誌売り場に二冊とも並んで販売されていた。小さい扱いだったが、でもうれしかったね。VBA言語もわからない門外漢が必要に迫られて作ったソフトが評価されたわけだからね。
 でも、逆にそれが良かったのかも知れない。Excelというソフトは、素人でも、自分本位にプログラムを組み立てられるのが利点なのでしょう。だから、自分のようにVBA言語がわからない人でも使えるというのを立証できたわけだからね。Excelを使っていても、VBA言語まで駆使している人はほんの少数でしょう。そういう人に、
「なんだ、こうやればできるんだ!」
というサジェスチョンになったわけだから、そういう所が評価されたんじゃないかな。

 自分の住んでいる部落は、東京電力の送電線が通っている、いわゆる電波障害地域です。それで、東電の子会社というか、関連会社のケーブルテレビがアナログ放送を流してくれているわけです。
 だから自分の家にはアンテナはないです。写りは非常に鮮明です。14型のブラウン管ですが、満足しています。ところが、2011年に国の施策でアナログ放送がうち切られるわけですね。
 とんだ迷惑です。しかも自分は部落のテレビ視聴組合の役員になっているので、余計に面倒な事になっているわけです。自分の対応だけでなく、部落の人たちの対応までお世話しないといけないわけなのです。どうしたものかな〜?
 この間、東電の説明会を開いたりしたわけですが、送電線による電波障害はデジタル放送によって無くなった、従って東電にテレビ受信の法的責任はありません、後は個人の問題というわけですね。
 このデジタル放送、東電にとっても渡りに船というやつじゃないですか?全国に何百、何千とある電波障害地区の補償を2011年を限りにやらなくてすむわけですからね。何千万、何億という補償費用が帳消しになるのでしょうねえ。
 後は個人の問題だ。アンテナをつけるか、地域のケーブルテレビに加入するかどっちかだろうね。元々谷間にある部落なので、デジタルになったからって写る可能性が100%ではない。テレビ視聴組合の役員をやっている関係で、みんなに合わせざるを得ないし、個人の問題ではあるが、完全に個人の問題でもないわけです。頭の痛い問題だ。国の施策ってやつに、一揆を起こすわけにいかないのでしょうかねえ。「竹やりでドンと突き出す二分五厘!」というのは、明治時代の話で、現代にはあり得ないのでしょうか。

2008年1月21日 月曜日曇
 小中連絡会という事で、中学校の先生をお招きして懇談会が持たれた。納得できなかったというか、怒りを感じたのは、話し合う前提として、ある文章を提示された事だ。教師の指導を「突き抜けた児童」が出現すると、教師集団の中に「日和見教師集団」が現れ、組織がバラバラになるという指摘だ。「突き抜けた児童」は教師との「権力闘争」の中で自己の存在をアピールしていく。だから、敵対するのではなく、親身になって面倒を見ていく立場に立たないといけない。そして、教師の個人的なルールに従わせるのではなく、公的ルールというもので指導していかなくてはいけない、組織として指導に当たっていかなくてはいけないという文章だった。
 「突き抜けた児童」が教師との「権力闘争」に入っていくという表現が納得できない。何か教師の管理体制を突き破っている英雄のようである。その英雄が教師との「権力闘争」で前衛のように闘っているようだね。そんな格好いいものか!単なる幼児的自己中心的子どもが駄々をこねているだけじゃないか。何が「突き抜けた児童」だ、何が教師との「権力闘争」だ。おまけに「日和見教師集団」とは何だ。
 この文章を書いたのは、昔の全共闘の、保守権力に鞍替えした奴じゃないのかね。
 現場の小学校教師は必死に働いているのだ。昔と違って、子どもは教師に楯突く、保護者はクレーマだ。子どもがいる間は、「くそじじい」「くそばばあ」と罵倒され、子どもが帰った放課後は、職員室にクレームの電話が山ほど来る。何が「日和見教師集団」だ。確かに、職員の管理体制が強まり、校長に楯突く教員は皆無になった。でも、現場の教員は、子どものため、保護者の期待に添おうと懸命に努力しているのだ。「くそじじい」「くそばばあ」と罵倒されても、それは自分の指導がいたらないせいではないか、子どもへの説明が足りないせいではないかと自分を責めているのだ。保護者の無理難題のクレームに対しても、そんな事教師の仕事ではありませんと、開き直るのではなく、何とか期待に応えようと自分の生活時間を犠牲にしてまで懸命に努力しているのだ。そんな教員の努力を見ることもせず、何が「日和見教師集団」だ。ふざけるな!
 お前が現場に来てやってみろ!
 おまけに個人的な教師のルールでなく、公的なルールで指導しろだと!「俺がルールブックだ!」なんて自信を持って子どもの前に立っている教員なんて一体どこにいるんだ。みんな自信が無くて、不安で、ストレスを抱えているのだ。そんな自信に満ちた教員なんているわけないじゃないか。何を言っているのだ、この馬鹿は。

 こんな文章を前提に話し合いを進めたら、教師はうつ状態になってしまう。まじめな教師ほど自分を追いつめ、心身症になってしまうだろう。そうではなく、自分たちが実践している事に自信を持ち、こんなに頑張っているのにうまくいかないのは、システムの問題ではないか、現場の教師に権限を与えてくれないからではないかと考える方向に持っていかないといけない。そうでなくては打開策にならないではないか。そんな事を熱弁していたら、いつものように孤立していた。

2008年1月24日 木曜日

 上の表は、神奈川県教育委員会の表記の規定だそうだ。自分の勤務校で研究冊子をまとめる時に
この表記の約束に従うよう指示があった。「持つ」が×で、「もつ」が○なんて、こんなの社会常識に合致するのかねえ。第一、国語学者でもない一地方教育委員会がこんなの指示する必要や、あるいは資格があるのだろうか。教育委員会の仕事とは、こんな余計な口出しをする事なのか。だったら、委員会なんて無用の長物だ。行政が直接学校現場を指導する方が、こんな非常識な指導など起こり得ないのではないだろうか。
 ともあれ、学校現場は役人の下っ端なのだ。意義を唱える者はいなかった。自分が不満げに質問しただけだ。何の論拠も無いのに、上が言うだけで従うのが学校の先生の集団なのか。「現場の先生」も情けない。頑強に反対しても、委員会の規定の方針という事で、迷惑がられるのがわかっていたから、質問するだけで意見は述べなかった。でも発言すべきだった。その場の空気なんて読む必要なんかないんだ。孤立することを恐れるな!

2008年1月27日 日曜日晴れ
 妻とアレン・ネルソンさんの講演会に行く。一年生を週一回図書室に連れて行っているのだ。前の校長は指導要領では、週一時間読書に充てる国語指導などあり得ないと否定されていたのだが、まあ、子どもを図書室に連れて行ったからといって、首になるまでの事はあり得ないだろうと思って、無視して今もやっているのだ。子どもたちには、本を大切に扱おうとか、おしゃべりしてはいけないなど、まあ睨みを利かしているわけだが、それだけでは羊の群を追う犬みたいでおもしろくない。子どもが落ち着いたら、自分も適当に本を選んで読み始める。その時たまたま「ネルソンさん、あなたは人を殺しましたか」という題名に引かれて読み始めたのだ。ネルソンさんが、戦場から帰り、戦争の後遺症からホームレスにまでなった頃、小学校で戦争の話をして欲しいと同級生に懇願され講師を務める事になる。一般的な戦場の話の後、質問コーナーになり、この質問を浴びたのですね。無垢な子どもの前で彼は嘘をつく事ができなかった。イエスと答えた後、彼は涙が止まらなくなる。それを見たクラスの子どもたちが皆彼を囲んで泣いて慰め始めたのだ。このくだんを読み始めたら、自分も嗚咽を抑えられなくなった。
 子どもにはそういう特別な力があるのだ。彼に戦場の自分と向き会える力を与え、生きる勇気を与えたのは、この子どもの純粋な瞳だろう。それが彼を人間として救ってくれたのだと思う。
 だから、妻からこの講演会の話を聞いた時、なぜか運命を感じたのですね。実際見た彼は予想と違って小柄だった。もっと大男の黒人男性を思い浮かべていたのだが、柔和な老人だった。体格はがっしりしていて、元海兵隊員を想像させたがね。ギターとハーモニカの「アメージンググレース」はすばらしかった。英語は単語が時々わかるだけで、当然聞き取れない。通訳の女性の話で意味がわかるわけだが、彼の声を聞くだけで、気持ちが伝わってきた。会えて良かったと思った。

2008年2月3日 日曜日大雪
 今回は内部告発になるなあ。これがきっかけで、首になるかも。
パソコンルームの機器一式が、5年のリース期限が切れて入れ替えとなった。まさか5年後もパソコン係でいるとは思わなかったが、立ち会う結果となる。いくつか税金の無駄遣いと思える事柄があるのだが、細かい事柄はまあそういうミスもあるだろうとは思う。でもこれはミスではないが、無駄遣いだね。あるいは、業者の言うがままの発注だと思う。常識にかなっていない。だから告発する気になった。
 5年前の入れ替えで、PCゼミという端末機が廃止された。これは、先生機から子機を操作できる便利な機械だった。まあ、子どもの間を歩き回って、
「これ、わかんない!」
などの声に答えて、子機の操作をしてやれば済む事なのだが、一々歩き回らなくてもこの端末機の操作で対応できるという優れものだった。でもこの機械が高いものらしく、ソフトで代用するとの事でアドバンテージというソフトが導入された。これは、先生機モニターの画像を子機に転送できたり、子機のモニターを巡視できるなど一通りの事はできるのだが、子機の操作を遠隔できる機能がなかった。
まあ、歩いて行ってやればいい事で、導入された当初は不満があったが、5年もやっていれば慣れてしまった。ところがこの端末機が復活したんだね。もちろん同じ機械ではないし、いわばバージョンアップした物と考えればいいのだが、この値段が250万もするというのだ。こっちから値段を聞いたわけではない。市教委の担当者から出た言葉に驚いたのだ。大体、一台の子機は高くても十数万でしょう。もっと安いと思うけどね。それがパソコンルームに20台しかないのだよ。全部でも200万ちょっとでしょう。それを操作する端末機が250万だなんて。個人だったらこんな機械を買いますか。商売でパソコン教室を開くとして、こんな端末機を買いますか。ソフトなら十数万で済むでしょう。どんな高いソフトでも、そんなもんでしょう。
 5年もソフトで操作してきたのです。現場からソフトでなく端末機械の復活を!という声があったとは思えない。現場の要求があったとは言えない、こんな高級な機械を買う必要があったのかねえ。確かに子機の遠隔操作ができるようになったので、便利になったからとやかく言う事はないじゃないかと言われればその通りだが、出所は税金なのだからね。ちょっとひどいのではないかと思ったわけです。

別件
 能力給のシステムが学校現場に導入され、会議のシステム、組織のあり方も変わってきた。なんか金太郎飴だね。どこを切っても金太郎の顔しか出てこないのだが、今の学校のシステムもこれだ。どこを切っても校長の顔しか出てこないのだ。校長、教頭、総括教諭の三役が取り仕切っているのだが、こういうのって会議って言えるのかねえ。教頭は校長を補佐するのが役目だし、総括教諭はさらにそれを補佐する役目でしょう。だったら、校長の意見にごもっとも、その通り、さすがという声しか返ってこないのじゃないの。普通に想像して。
 さらに従来は、体育部や情報部などは、各学年から一人ずつ代表者が出て全学年の声が反映される仕組みになっていたのだが、今は二人だけで専門部が成り立っているのだ。二人って会議なの。恋人関係なら二人以上いるとややこしくなって困るだろうが、二人なら会議にならないでしょう。企画を立てるにしたって不安でしょう。でどうするかっていうと、事前に校長の了解を求める形になる。校長の了解さえ得れば、後は企画会議だろうが、職員会議だろうが単なる伝達機関にすぎなくなってしまうのですね。反対意見(今は言う人も少ないけどね)が出たって、専門部で話し合った意見です(二人で専門部?)企画会議を通ってますと言われると、まあその通りに通るよね。たまに多数決(東京都では多数決は禁止になっているらしい)なんて事になるけど、今はその多数決に校長が手を挙げるのだよ。校長に逆らって手を挙げるのは自分ぐらいだよ。
 だから今の学校現場の会議は金太郎飴なんだよ。こんな組織ってあるのかねえ。ワンマン会社だね。校長の意思決定がすばらしいものなら、学校は急速にすばらしい変化を遂げるだろうけど、反対ならどうなるのかねえ。校長が責任を取るのだろうか。まさか、「一億総懺悔」ていう事になるんじゃないだろうね。第一、そんな勇断、創造性、自主性を持った人物が校長になるだろうか。市教委、文科省の意向を伺う人物でしょう。その枠内でのその人の趣味的、恣意的思考に従わなくてはいけなくなるのだ。
これがストレスが溜まる結果となる。教師を辞めたくなる一因です。

 でもじゃあ、今までの学年会を中心にしたシステムが民主的、理想的なものだったかと言うとそうともぼくには思えない。目標を数値化し、教員の評価にも反映するという新しいやり方も一概に悪いとも思えない。まず、学年会というやつだが、今は廃止された学年主任という職務を中心にした組織だ。学年主任は校長が指名するし、お手当も出ていた。組合は反対して、拠出闘争というお手当を受け取らず組合に拠出するという闘争をしていたがね。
 この組織の欠点は、学年主任が企画会を構成し、校長の意向、学年主任の意向が組織を貫く上意下達のシステムだった。大体、この学年会の決定というものが、「赤信号、みんなで渡れば恐くない」的なもので、横並びを個人に強制するものだった。授業の内容、進度、成績の付け方、学級通信の発行数、宿題の出し方など学年主任の足並みに揃えてやっていれば、万一保護者や管理職、他学年からのクレームに対して自分たちを守れるという安全策だったわけですね。まあ、その気持ちもわからなくはないし、みんなで助け合うという日本人的和の心でもあるのですね。学年の親睦会費を集め、学年会でお茶菓子を持ち合う。たまには夜の町で飲食を共にする。家庭での悩みも共有し、まるで家族のような一年を過ごす場合もあるのでしょう。教育実践の切磋琢磨より、親睦、和の心、助け合いが優先されるわけです。だから、ぼくのような人間は浮いてしまう。協調性の欠如という評価をもらうわけです。
 教育目標の数値化というのは悪くない面もあるとぼくは思う。クラスの中でどれだけの子がかけ算九九が言えるようになったのか、漢字の書き取りで何人が満点を取れるようになったのか、逆上がりは何人の子ができるようになったのか、リコーダーの演奏が基本的にできるようになったのは何人なのか、それらは数値化できるし、そういう成果を上げた教師の努力、工夫に対して評価を与える事は、同僚がそれらの実践を学び、実践の共有化がなされ、学力の向上をもたらすと思う。従来の学年会のシステムでは、それらの切磋琢磨が不十分である。互いを守り会う意識の方が優先され、例えば学芸会の発表や運動会の表現、卒業式の形態など目に見える実践に時間数もエネルギーも消費されすぎである。そのため、学力の基礎基本が徹底して指導されない原因となっている。
 数値化されてない教育目標では、学力の基礎基本がどれだけ達成されているのか検証する事ができない。そのために数値化できる物はして、評価を与える方式には、一定の進歩があると思う。
 ただ、教師の実践だけを評価、指摘するのは片手落ちだ。学校に来て
「くそばばあ、くそじじい」
と教師に悪態をつき、授業をエスケープし、暴力を繰り返す子らにも、その保護者にも責任を求めないといけない。極端に言えば、停学や落第などの制裁措置を現場に与えるべきだ。
 その上でこそ、実践は効果を持つし、全体の物となるだろう。
 ただ、能力給を安易に現場に導入する今のやり方は、結局教員の給与を減額するのが目的のように思える。校長にごますりする教員を増やすだけの結果になるように思える。ちがうだろうか。

2008年2月17日 日曜日
 教師になって30年にもなろうとしている。公務員の端くれだが、総合科のおかげで役人の傲慢さにつき合わされる事が度々ある。
 ○○運動公園の見学を申し込んだ時の事。電話での申し込みはダメと言われて、窓口で申し込む。申請書を出せと言われたので、では用紙を下さいと言ったら、そっちで適当に申請書を作れと言われる。しかも校長の職印が必要と言われる。で、他の公文書を手本にそれらしきものを作り、職印を押して再度窓口に持っていく。それでようやく許可をもらう。
 で、当日だ。こどもを100人以上も引率して出かけたら、そんな話は聞いてないと窓口の別の人に言われる。愕然としたよ。引き返す事もできず、拝み倒す。それならという事で見学を許可してもらったのだが、あの手間暇は一体何だったのか。あれだけえらそうに言っておきながら、自分は内部連絡もしてないのだ。役人とは一体どういう人種なんだと煮えくりかえったね。
 で、まったく同じような体験が続くのだ。今度は、警察署の見学。申請書が必要だ、電話ではダメと言われる。では、用紙を下さいと言うとそちらで適当に作って持ってきて下さいだ。やな予感はしたが、また適当に他の公文書を手本に作成して、校長の職印を押して持参する。で、やっと許可。当日、子どもを引率して訪問したら、そういう話は聞いてないと言うのだ。どうなっているんだ、役所という所は。内部連絡もしてないのか。引き返すわけには行かないから、この時も拝み倒して見学させてもらう。
 まだあるのだよ。今度は公民館。例年は電話での申し込みで済んでいたのに、担当者が替わったのだろう。電話での申し込みはダメ、窓口で申請しなさいと言われる。で、出かける。用紙を下さいと言ったら、そっちで適当に作って持って来て下さいだ。申請用紙がないものを申請させるなよ!と怒鳴りたかったが、ケンカをするわけにも行かないから、一端引き下がる。職場に戻って例によって他の公文書を手本にそれらしきものを作り、職印を押して申請する。この時はドタキャンは無かったが、まったく、担当者の思いつきで言っているとしか思えない。大体、窓口に申請用紙を置いてないのに、なんで文書で申請しろと言うのか。また形式は申請者が適当に作れって、おかしいだろ。役所が必要なものなら、自分たちで形式を決めて作るのが当たり前じゃないの。
 こんなので、給料をもらって、えらそうに許認可権を振りかざしているのが、役人なんだね。自分もその端くれなんだろうが、学校の先生ていうのは、何の権力もありません。もっとも謙虚な弱い人たちです。哀れです。

2008.3.17 
 登校班名簿をこれまでパソコンでプリントアウトしたものを地域に配布してきたのだが、それを班長さんの保護者に手書きしてもらう方法に変えてみた。わざわざ書き写す手間暇を押しつけるようで申し訳ないのだが、地域の事は地域で話し合ってもらう契機にしたかったのだ。どうしてもパソコンでプリントアウトしたものだと、すべて学校が管理運営しているように見える。いろんなもめ事、トラブルが学校に押し寄せ、放課後の職員室の電話は苦情の山となる。ただでさえ、ご近所づきあいがむつかしいご時世だ。隣の人に意見するより、役所や学校に電話で文句言う方が楽なのでしょう。先生に間に入ってもらってなんとかしてもらいたいという事なのでしょうね。まあ、そういう気持ちもわからなくはないが、なんでもかんでも教師の仕事にしてもらっては、本来の仕事に支障が出てくる。やはり、地域の問題は地域でまず話し合う事が先決だと思うのですね。それで、こういう余計な手間暇をお願いする事になってしまった。

2008年7月6日 日曜日晴れ
 ボーナスが出た。今回から能力査定となる。自分の評価は○○だった。妥当なものかどうか自分にはわからぬ。だが、自分より評価の高い同期の者はいるのだろう。だったら理不尽な事と思う。教育の世界において仕事のよしあしをどうやって計るのか、校長にそういう権限を持たす事に理不尽なものを感じるのだ。これでは、夏目漱石の「坊ちゃん」の世界と同じである。うらなりが校長に5円の増額を願い出るのですね、校長にそういう権限があるのです。そんな権限を校長に与えるより、出席停止なり現場の裁量権を校長に与える方がよっぽど教育的だと思うけどね。
 先日廊下で担任に暴言を吐いている男児を見た。暴言の内容より、ショックを受けたのは、その子が担任の目をまともに見て暴言を吐いていたことだ。まったく対等の関係というか、男児の中では自分の方が上の存在なのでしょうねえ。自己ちゅうじもここまで行くと、担任もやり切れないだろうと思った。
 子どもと教師の関係というか土俵を降りて、暴言を吐く子どもを前にしながらそれを受容する事を強いられる担任とは実にストレスの多い職業ではないだろうか。いや、そんな事より、それではもはや教育の世界とは言えぬとぼくは思うのだ。もやは学校ではない、教師に悪態をつき教室をエスケープしながら何の罰も与えられない世界がどうして学校と言えるのか。そこから一体何を学ぶというのか。自己の尊大さ傲慢さが野放図に解き放たれているこのような世界が小学、中学、高校と続くのが今の公教育なのだろう。教育には規律と尊敬が必要である。そのようなものが崩れ去った現場に、校長の裁量権という力を与える事が必要ではないか。ボーナスの査定などくだらぬ事だ。
 何の懲戒権も与えられていない自分は、首を覚悟でそのような尊大な子を叱りとばし、躾ているのである。後5年だが、定年退職は無理だと思うね。
2008年7月22日火曜日晴れ
 大分県教育委員会の不祥事だ。教員採用試験に賄賂あり。自分の子息を合格させようと、現役管理職の親が委員会に賄賂を贈ったとの報道。それだけでなく、現役管理職が出世しようと委員会に賄賂を贈ったとの報道。つてとコネで就職、出世するという話は巷ある話ではある。自分の町でも市役所職員は議員の紹介が必要だとか、二世が多いとかいう噂は聞く。教員にも二世が多いし、校長、教頭に出世するのも二世が多い。でも、まあ噂だし、根拠のある話ではない。大分では、根拠が見つかったという事でしょう。いわゆる「だら幹」が不祥事を起こし、何であんな奴が出世してきたんだと思われる事がよくある。そういう出世の仕組みなら不適格者が教員になり、不適格者が管理職に出世する事となるのでしょう。何年も臨時任用に甘んじ、それなりに保護者や同僚の信頼を得ている教員が、不採用となる現実。
おかしいよね。委員会なんて無用の長物だと思う。選挙で選ばれている行政が直接指揮監督した方が民主的ではないかと思うね。
2008年7月24日木曜日晴れ
 一日健康診断だ。と言っても、実は半日しか出張扱いにならない。後は勤務するか、年休を行使するわけだね。この健康診断、共済組合の負担で一万円ぐらいかかっているのだろうか、もっとか。いずれにしろ相当な金額が毎年医療機関に支払われるわけだね。個人的には受けたくない。レントゲンを毎年浴びる方が怖い。でも、法廷闘争で負けた教員がいるというのをネットで見た事があるので、取りあえずレントゲンだけは受けている。胃のバリウムは気持ち悪くなったので、その後拒否している。今年は採血で激しく内出血したので、来年からはこれも止めようと思った。大体検査してからひと月もふた月も経ってから職場に結果が届く事自体が納得できない。ひと月あれば、体調は変わるよ。その間に死んだら、なんのための検査なのか、そんなに時間がかかるのは、医療機関の都合だと思えるね。人間死ぬ時は死ぬんだよ。用もないのに自然界の数十倍の放射能を浴びたり、注射針を打ったりする事の危険性の方が高い。C型肝炎だったか、B型肝炎だったか注射針が原因だったと言われている。院内感染という言葉もある。用もないのに医療機関にかかるのは時間と金の無駄遣いだし、危険な行為である。みんなが川を渡るから自分も渡るというのは、賢明な行為か愚かな行為か判断の分れる所でしょう。

2008年8月25日 月曜日雨
 行きつけの山の中でラジオを聴いていたら、林芙美子の放浪記の一節という事で朗読が流れてきた。女性の朗読だったが、すばらしい物だった。文章の読みも良かったが、詩の朗読がいたく気に入った。
金の無い若い女が手持ちの二銭銅貨で遊ぶというものだった。で、放浪記を読みたくなった。これまた行きつけの本屋で新潮文庫に収められていたものを購入する。743円也。
 三部作を一挙に収録したもので、かなり分厚い文庫である。読み始めたら、これが読めない。とにかく貧しさが痛いのである。自分も貧乏な生活に苦しんだ事があるので、痛みがわかる。わかるから痛くて読めない。口内炎ができて、物が食えない、あんな感じかな。適切な比喩が思い浮かばないが。
 そこそこ貧しいのはがまんできるが、ここまで貧しいと耐えられない。そこそこ貧しいというのは、まあ三度三度の飯は食えるという事でしょう。もちろん、外食は無しだ。本も買えない、服も買えない、車なんか持てない、これがそこそこの貧しさというものでしょう。文化的な生活はできないけど、飢えまでは行かないというやつですね。本当の貧乏というのは、三度三度の飯が無い、明日食えるかどうかわからないというやつだ。これは耐えられないね。林芙美子の放浪記はこの貧しさですよ。だから痛くて読めないのだ。それでもなんとかページをめくっていって最後まで読み切った。あの朗読の場面がいつまで読んでも出てこないので、舞台か映画の脚色された物を朗読したのかと思っていたら、なんと三部作のそれも最後の場面で出てきた。まあ、痛みに耐えて最後まで読んで良かったと思いましたね。

 ぼくの放浪記。
 放浪した事は無いのだけれど、貧しさに耐えかねた事はある。19才の時上京して法政大学に学ぶ。金が無いので、住み込みの新聞配達をやる。一年がまんしたが、やめる。当時の奨学金が9千円だったか、アパートの家賃が1万円だったか、どっちがどっちだったか不明だが、家賃で奨学金は消える。仕送りは月3万。これだけでは食えない。いろいろアルバイトをした。それが3年間続いた。卒業して、就職したのだが、ひと月ぐらいでやめてしまった。生協活動の意義を感じて、意欲的に都民生協に就職したのだが、なじめなかった。普通のスーパーの店舗と変わりなかったし、毎日野菜の顔を見て暮らすというのに幻滅した。先輩は高卒の年下の子だった。それなりに親切にしてもらったと思うのだが、その子がパートのおばちゃんに切れて怒鳴り出す場面もあったりして、幻滅する一因でもあった。その内、アルバイトで30才ぐらいの男性が来てしばらく一緒に働く。元中学の教師だった。何が原因だか一度やめたのだが、再度教員採用を目指しているというのだった。その彼が社会は自分を必要としていない旨の遺書を書いて自殺してしまう。それがショックだった。彼の自殺を聞いたのは、自分がすでに浪人して教員採用を目指す生活に入ってからだった。家賃を払わないといけない、食っていかないと死んでしまう。もう、親の仕送りは無い。アルバイト生活の傍ら、受験勉強をするのだが、これが貧乏だったね。一年がんばったが、採用試験に落ちる。社会は自分を必要としていない、そんな貧乏の苦しさ、恥ずかしさ、惨めさを痛いほど感じた。腹が減るのもつらいし、かぜをひいて発熱しても一人で治さなくてはならない、働かなくては食っていけない。家賃を払わなくてはという意識がいつもあった。
 あれから30年以上たってしまった。今は家もある、車もある、貯蓄もある。家族もある。豊かなものだ。ローマの王侯貴族のような生活である。毎朝、妻の味噌汁と漬物に納豆の朝食だが、本当にローマの王侯貴族のような生活だと自分は思うのである。まあ、ローマ人が納豆を食うわけはないが、意識としてですよ、本当に有り難いと感謝の気持ちでいっぱいになるのだ。
 先日職場に資産運用の手段としてワンルームマンションを持ってはいかがですかという勧誘の電話が自分を指名して来た。どこかで自分のデーターが売られているのだろう。資産運用として効果的かどうかはわからぬが、家賃に苦しめられた自分が大家になる事は許せない事だと思えた。
 日本国の裏切りに会い、今の貯蓄がたんなる紙切れになろうとも、他人の家賃で暮らす生活だけはすまい、それは許せないと思うのだ。それをやるぐらいなら、金丸信のように自宅に金塊をため込む方が道徳的に思えるのだ。金塊でも買うか。漬物石の代わりに使ってやるか。円が紙切れになったら、その漬物石を売り飛ばせばいいのだ。家賃収入なんか糞くらえだ。すべての大家よ。まっとうに生きる者としての恥を知れ。

2010年1月1日 金曜日晴れ
 退職まで、後4年と3カ月となる。毎年昇給通知はもらうのだが、給料は下がっているのです。年収はどんどん下がってしまい、いつかは一千万に届くのだろうかとおろかにも夢見たのだが、現実は年々下がっていきとうとう900万を割り込んでしまった。どういうこっちゃ、責任者出てこい!私は金のために働いているのです。50万も年収が減ってしまって、勤労意欲なんて出てくるわけないでしょう。
 でもこんなふうに息巻いているのは職場では自分だけなんですねえ。みんな道楽で働いているのだろうか。趣味なんでしょうか。朝、7時半に職場のドアを開けたらみんな席について何やら仕事らしきものをしている風景を見て背筋が凍る事があった。たまたま用事があってその日は早めに来る必要があったのだが、驚いたね。しかもその面々たるや、いつも自分より遅くまで残っている人たちなんですよ。ここで生活してるの?一日いったい何時間職場にいるのだろう。12時間はいるんじゃないの。
 そんなに従順にまじめに働いているのに給料下がっているのに文句言わないんだからねえ。なんか連帯感が持てません。孤立してます、私。
 時々学年会なんかでこういう話をするのだが、まあ一応学年主任なので話は聞いてくれるのだが、なんかそんな話初めて聞くなんて顔しているんだよね。関心無いのかなあ、生活苦しくないんだね。
 学期末もずっと5時間、6時間授業が続き、学級事務の時間が無い。おまけに個人情報保護のため、テスト類持ち帰り禁止と来ているのだから、年休消化の余裕なんてないよ。必死に成績処理などの学級事務をやるはめとなる。こんな事の繰り返しで後4年過ごすのだろうか。もうボロボロのよたよたの、すれっからしの老人になって
「もう使い物になりません。頭も体も老化してますからね。」
て言われて(まあ、言わないだろうが)
職場から放逐されるのですね。自分の場合、親睦会にも入ってないから花束贈呈も無いだろうから、それこそ石を持って追い出される形になるのだろうねえ。

 なんか給料も下がったし、後4年仕事だけに打ち込むなんて馬鹿馬鹿しいと思えてきた。もちろん今まで仕事だけに打ち込んで来たわけではないが、何か趣味らしきものを準備しておく期間にした方がいいのではないかと真剣に悩んだわけです。仕事がらみでギターは覚えた。パソコンもそこそこ使えるようになった。鉄棒もできる。でもそんなの趣味って言えるものではないしねえ。あの世へ行った父は詩吟や碁、尺八などの趣味人だったようだが、自分にはそのような素質が無い。碁は頭が悪くてとうとう物にならなかったし、今さら詩吟や尺八を始めてもねえ。
 書斎にこもって考える。書斎と言ったって机と椅子しか入らない、要するに納戸ですよ。周囲は本棚に囲まれている。まあ、手を延ばせば何でも取れるという利点はあるが。寒いので、デロンギのヒーターをつける。寒いので、熱燗を持ち込む。あったかくならないので、ウイスキーのお湯割りを持ち込む。もう思索しているのかただ酔っぱらっているのか本人にもわからなくなってきて、ギターひいて歌いだしたり、バイク雑誌を眺めたり陶然としてくる。
 バイクも趣味と言えるほどのものじゃないしねえ。しかも左手は関節症でスクーターしか運転できない。125ccを乗りまわして趣味といばっていいのか。思い切って、大型の免許を取るか。後4年をそれにかけるのはどうだろうか。左手が持つかわからないが。大型取ってハーレーというのも通俗と言えばもろ通俗ではあるが、魅力がないわけではない。後4年仕事だけやってボロボロの老人になるより、免許でも資格でも取ることにかけるか。船舶免許もあるなあ。スキューバーダイビングのライセンスというのもあるねえ。通俗路線にかけるか、今年は。新年の抱負です、ちゃんちゃん。

2010年3月11日 木曜日晴れ
 愛子様、皇族だから子どもでも様付けなのだろうけど国民主権から言うとおかしいよね。ちゃん、あるいはさんでいいのではないの。で、その見るからにかわいらしい2年生の愛子ちゃんが乱暴者によって不登校になったとの事。天下の学習院も学級崩壊らいいのだ。聞くところによるとすでに1年生のころから立ち歩きや大声、走りまわる、教室内で縄跳びを振り回すなどして教師の指導に従わないというのだね。保護者もいわゆるモンスターペアレントなるものがいるらしいよ。この学級崩壊、自分も痛めつけられたからね。教室内は無法状態、廊下に出てたむろしているならまだましで、キャッチボールなどしている輩もいるのだからね。こっちは支援の美声の下、空き時間に指導に行くわけですよ。でも担任の指導に従わない輩が言う事を聞くわけがないでしょう。
「なんだよおめえは。お前は関係ないんだよ。」
と悪態をつかれたり、胸を押し返されたりする。
あまりにも生意気なお子様は、こっちも教師と言うか職業人の土俵を下りて人間として許せない気持ちになり、物置など人目に付かない所にご案内してちょっと怖い思いを体験して頂く事となる。で、翌日からぼくの言う事は素直に聞くようになるのだが、それは担任とは関係ない事なので学級崩壊の事態がなんら好転する事にはならないのですね。当たり前の事だが。
 同僚として問題だなと思ったのが、この担任、自分の学級経営には問題がないと言い張るのですね。指導に従わない子どもが悪いと。自分は教師としてできる事はすべてやっていると。だから言う事を聞かない子は校長室に連れて行くとか、空き時間の先生が面倒を見ればいいんだと言うのですね。そのために支援教育の体制があるのではないか、あるいは必要だと力説されるのです。ご意見、いちいちごもっとも。おっしゃる通りです。反論の余地がありません。教師としてやるべき指導はされているわけだし、教師としてやってはいけない体罰などはしてないわけです。だからちゃんと身分は保障され、お給料も私と同様に出るわけですね。なんら職業人として落ち度が無いわけです。で、このようにして学級崩壊の輪は広がり、学年崩壊、学校崩壊と突き進んでいくわけです。
 職業人としての反論はできないが、でもおかしかぁないかあ。自分のクラスの子が人権侵害されているわけでしょう、自分も馬鹿にされ罵倒されているのでしょう。同僚には迷惑をかけているわけでしょう。なのにどうして教師としてやっていけるのだ。そんな教師をだれが必要としているのか、て事です。
 ぼくなら、やめちまうか、体罰教師の道を進みますね。首をかけて自分のクラスは押さえこみます。自分のクラスに正義を貫きます。弱者が安心して生活できる空間を保証します。そういう教師を子どもは必要としているんじゃないの。

2010年3月26日 金曜日曇り
 4月からも教師を続けることになった。自分ではそうは思っていないのだが、社会的には自分は奇人、変人の類に属するらしい。風貌はひげだらけで小学校教員らしくないし、服装も背広やネクタイなんてほとんど着た事が無い。
 教員組合は分会長、執行委員まで務めたのにやめた。理由は今北海道教員組合が民主党議員への裏金で逮捕者まで出しているが特定政党支持の締め付けである。(当時は社会党だった。今は解党して無くなったので日教組は民主党を支持している。)それに反対していたのだが、分会長選挙で敗れたのを機に見切りをつけた。
 厚生会は初代役員だったが、結局教員の厚生になってないし、第二の給与、いわゆる裏金でもあり天下り先でもあると思いやめた。
 親睦会も何度も幹事長を務めたが、結局校長のファンクラブだと思い、馬鹿馬鹿しくなってやめた。公立学校の教員もしょせん役人仕事だと思い、やめたいのだが、こればっかりは生活がかかっているので4月からも務めるはめとなった次第である。
 でも心の中は自由である。自分は役人ではない、心の中はね。自分の信念や良心に従って教育活動に当たる。その結果組織人として不都合と処分される事態になるならそれはそれでしょうがない。裁判で争う覚悟である。
 大体、挨拶もしないで登校できる今の学校がまちがっている。全校児童をしかり飛ばすわけにはいかないが、自分のクラス、クラブ、委員会の子たちはしっかりあいさつをするよう躾けていくつもりだ。それが体罰だ、強権指導だと問題になるならもうこんな仕事やめちまうよ。担任に挨拶もしないで登校できる教室なんて教室じゃないよ。首根っこを押さえつけても挨拶をさせなきゃ。相手はもう幼児ではない、年端も行っている小学生なんだからね。
 本来そんなことは親が躾けて学校に送り出す事柄なのだが、それがそうなっていない所にこの国の不幸がある。もはや公立学校は崩壊していると言っていいだろう。公立学校の教員が自身の子息を私立にやっているのだからねえ。職業として教員をやっているだけだ、期待してないから自分の子どもは私立にやっているわけです。まあ、その気持ちはわからないわけではないけどね。今後そういう傾向は強まるでしょうねえ。金のある家庭は私立へ、貧しい家庭の子どもは公立へと流れ、ますます公立学校は崩壊していくのでしょうねえ。

2010年8月10日 火曜日雨
 夏休みだ。今年は年休を15日申請した。せっかくの年休日なのに雨。致しかたない。神様には勝てない。暇だから教育雑感である。
教育現場で一番苦労するのは、子どもが言う事を聞かないという事だ。まあ、勉強なり集団行動なり、子どもが嫌がる事を強制するわけだから言う事を聞かないのは当たり前といえばそうなのだが、自分が子供の頃はそうではなかった。教師の存在は絶対的だったから、いやでもやったのである。でも今はそうではない。いやなものはてこでもやらない、教師の揚げ足取り、はやし立て、親からのクレームまあ信じられない現実が目の前に次から次へと出てくるのである。これは現場に立った人でないとちょっとわからないでしょうねえ。それは時代の流れなのだから、個人の努力ではいかんともしかたない事だと自分は思う。だからその中で自分のできる事、自己の良心に基づく信念を貫けばいいと自分は思っているのだが、そうは割り切れない同僚が多いのですね。それが精神疾患に結び付いていると思う。
なぜ、割り切れないか。外圧ですよ、上からの。
体罰はいけない、大声の叱責はいけない、子どもの声に耳を傾け、カウンセリングマインドで接しろ、叱るときはみんなの前でなく個別にやれ、後ろからささやくように声かけしろ、頭ごなしの叱責は教育ではない、親からのクレームには複数で当たれ、学年主任、総括教諭に相談、報告しろ、まず相手の言い分を聞け、電話でなく家庭訪しろなどなど。
指導要領が改定されれば、今までの画一教育ではなく、新指導要領に適応した新しい教師像を目指せ、自分を変えろなどなど。
まあ、組織の中にいれば当然の要求なのかもしれないが、上からの、官僚からの机上の空論、思いつき、世間体を考えた指導法なり教師像がそのつど押しつけられるのだ。組織の一員でいる以上、役人の端くれでいる以上、そのような指導にこたえ、自分を適応したい、適応しないといけないと思い込むのは当然でしょう。体罰や、大声の叱責でなく、子どもを指導できたらと思う。頭ごなしに叱るのではなく、カウンセリングマインドで子どもと接し、子どもの声に耳を傾ける教師になりたいと思う。当然でしょう。
 で、そういう指導が実際にできるの?という事ですね。目の前の子どもと現実に20年、30年向き合って来てそういう指導が可能だったかという事ですよね。
現場で見立ていたら、ゆとり教育とか総合科とかおかしいですよ。大声の叱責も体罰も必要だと思う。でもそれは現場の声。現場の声は取り上げられないのです。役人の世界は上意下達ですからね。20年やろうが30年やろうがそういうベテランの声はどうでもいいのです。上からの官僚の声が神の声なのです。
 先日も児童指導のケース会議があったが、外部からの有識者を呼ぶのですね。その人が神の声なのです。職場には20年、30年のベテランがいるのに、そういう経験者の声はどうでもいいのです。指導、講評は上下関係で決まっているのです。現場も知らない有識者がその指導はいいとか悪いとか指導講評してそれへの反論、異論は禁じられている。これじゃ結局精神疾患に陥る同僚を黙って見て行くしかないのですね。

 ぼくは子どもは頭ごなしに叱るべきだと思います。少なくとも学校という集団教育の中では一々一人一人に説諭などできない。子どもは半端者扱い、じゅっぱひとかけらの扱いを体験すべきです。自分が半端者だという社会性をしっかり身につけさせるべきです。そうすれば体罰や大声の叱責の出番は少なくて済みます。カウンセリングマインドなど担任には無理です。40人もの子どもを抱えて一人ひとりにそんな立場で接するなど物理的にも不可能。そんな無理な事を担任に要求し、、それができないと無能扱いするから精神疾患になるのです。7才か8才の子をさんづけで呼び、理解と同意を一々求める指導法自体が子どもの幼児的自己中心性を増長させ、社会性を育てない最悪の結果となっています。
 では具体的にどういう仕事をするのか。
まず内面の指導はしない。そんなものは担任の教育目標からは、端からはずします。そんな高等なむつかしい課題は最初から相手にしないのです。楽しい学校、笑顔のある学校、なかのいいクラス、親切、思いやり、そんな内面の指導結果を求める教育からはおさらばです。何が楽しいかなんて個人の問題。そんなもの目標になんかなりません。
やることは、外面の指導です。子どもの行為、言動を規制します。それは徹底します。そのために首になってもいいと思っています。
まず、朝の担任へのあいさつを強制します。
「先生おはようございます。」
これぐらい子どもに言わせられない担任ならやめるべきです。
次は返事です。
「はい」
と、しっかり言わせます。呼ばれないのに返事をする子は叱ります。二度と言わせないようにします。
よく公開授業で「はい」「はーい」を大声で叫び続けている子がいますが、ぼくのクラスでは皆無です。
授業中のおしゃべり、立ち歩きは絶対させません。力づくで座らせます。どうしてもしゃべる子は黒板の前で一人っきりで座らせます。
「うるせえ、くそじじい!」
ぐらいの罵倒は力でねじ伏せます。げんこつやはり手はしませんが、首根っこをつかまえて床にねじ伏せます。体罰教師と告発されて、この時点で首になる事を覚悟の上でやります。
 一週間でクラスは変わります。

 子どもが授業中に勝手な事をわいわい大声で叫んだり、立ち歩いたりしているのに、やさしいクラス、思いやりのあるクラスにするにはどうしたらいいのかしらなんて悩んでいる同僚を見ると、そんな内面の指導結果を求める前にまず、外面的な指導、私語の禁止、立ち歩きの禁止などを徹底しろよと思います。そう直言する事もありますが、ベテランの言う事は聞かないのです。大工や職人のような徒弟社会じゃないですからね。指導主事や管理職の言う事が正解なのです。カウンセリングマインドで、後ろからささやくように声かけする指導が正しいと思って懸命に努力している最中なのですから、ぼくのようなのは奇人、変人扱いなのですよ。

で、外面の指導が徹底したら授業が成立します。心に響く授業ができます。でも、内面の指導はしません。思いやりや親切、勇気などは担任が引き出すとか目標にする事ではないと思います。あくまで心に響く授業ができたらいいわけで、この子は心のいい子とか、性根の悪い子とかの内面の評価はしません。子どもの行為、言動で良い事をしたら承認し、悪い事をしたら矯正すればいいわけです。だからどの子もいい子だし、どの子も悪い子なのです。子どもにラベル貼りはしません。
 外面の指導が徹底すると、担任にとって教室は居心地がよくなります。これが大事だと思いますね。担任自体がいじめのターゲットにされる事もあるのですから。ぼくは内面の指導に責任は負わないので、「うちの子の心のケアを」なんて要求には応じません。そうすると保護者への対応も限定されたものになりますので、余計な心労もしなくて済むのです。そんなぼくを子どもや保護者がどう思っているのかもぼくには責任が無いのです。厳しくて嫌でもいいし、ごちゃごちゃ言わなくてすっきりしていたでもいいし、なんでもいいのですよ。内面の指導には責任を負わないのですから。


2010年8月20日 金曜日曇り
 文科省の伝達講習とでも言うのかなあ、
「先生は地区研には参加されてないですけど、これは地区研とは違いますから参加できるでしょう?。」
と上司に言われ仕方なく参加する。
評価の話だった。寝るのはいやだったのでしっかり話は聞いた。
要するに、評価のすべてが内面の評価なのだ。そりゃ教育だもの、知能、情緒、そういうものに訴える必要はあるでしょう。でも人が人を評価しようとしたら公平を期すため万人が納得できる客観的な形に近づくべきでしょう。具体的に言うと、何なにができる、できないで評価すべきだと思うのです。できるから合格。できなかったら不合格でしょう。○×を付けて点数を出せば評価される者も納得できると思うのです。それが内面の、心の評価だったら納得できますか。担任の心証で、主観的に評価されているみたいで納得できないですよ。そりゃあ、主観的評価もありとは思いますがそれだけではねえ、合理性、根拠というものを疑われますよね。
〜に愛情を持とうとしている
〜を考えようとしている
〜を表現している
〜を理解している
の項目の羅列なのです。まあ、理解しているかどうかは○×でテストできるかもしれないが、
後の物はレポートを書かせるしかないのでは?発言は録音しておけば別だが、そんな事現実的にはやってられないから文章を書かせてその文面で評価するしかないでしょう。それをABCの3段階にランク付けするのは極めて根拠曖昧、主観的な作業になるねえ。で、それを学校内、学年内で共通化する評価基準を作れって言うのだから、何をどうやればいいのか、どう話し合えばいいのか雲をつかむような話ですよ。膨大な時間とエネルギーをこの曖昧模糊とした作業に費やしてやったとしても、それがなんだと言うのでしょう。元々日本の公立学校には落第制度は無いのです。無駄な作業だと思います。

結局入試の時は知識で○×されて点数化されるのです。そのために受験勉強は勢い暗記中心にならざるを得ない。評価を万人が納得できる物に近づけようとするとそうならざるを得ないですよね。それを小学校の現場だけこういう内面的評価を強制する文科省とは一体なんなのでしょう。
もう内面的指導、内面的評価に教師を強いる教育行政はやめましょう。百害あって一理無し。外面的指導ができれば教師を評価してあげる教育行政で行きましょうよ。
先生のクラスはよくあいさつをしていますねえ、
掃除をよくしていますねえ、
授業中立ち歩く子がいませんねえ、
黙って人の話を聞いてますねえ、
で、教師を評価してくれればいいのです。
そんなむつかしい高等な仕事をしているわけじゃないですよ。子どもを半日安全に預かり、集団生活のルールを守らせ、日本人として必要最小限の文化を教えればいいわけです。
大学卒程度の教養を持ち、犯罪歴が無く、犯罪の可能性が低い成人であれば勤まる仕事だと思います。指導要領が改訂されるたびに全国でこういう講習会が持たれるのだろうが、そのたんびに教師も新しい指導要領に適合できるよう強いられるのだろうが、もっと現場の声に耳を傾ける姿勢が必要ではないか。いつもいつも上意下達の役人の発想ではうまくないのである。
自分は役人の端くれだが、目の前の子どもを見ていると役人の発想についていけないというか、馬鹿馬鹿しいと思う事が多い。今朝のNHKの連続ドラマ「ゲゲゲの女房」で、竹やりで戦争に勝てという馬鹿馬鹿しい事を戦前は強要されたが、自分は参加しなかった、千万人と言えども我行かんだというくだりがあった。戦前も戦後も役人の世界は馬鹿馬鹿しい常識が通用する。俺は参加しない、現場の声で動くぞ、省みて直かれば千万人と言えど我行かんだ!

2010年12月31日 金曜日晴れ
 民主党の菅首相が唯一リーダーシップを取って断行したのが、法人税の5%減税である。これで1兆5千億の減税になるという。これだけ国民が生活に苦しんでいるというのに人間でもない法人に減税するというのだ。その行き先は資本家である。腹立たしい限りである。日教組が推した政党なのに免許更新制はそのままである。自民党よりたちが悪い。かと言って自民党に戻ってもしょうがないのだが。
 私の職場でも、教材費(保護者負担)で教材を買う事に反対して、できるだけ教科の消耗品(公費)や学級費(私の市では公費)で買うよう孤軍奮闘したのだが、少数否決というやつでだめだった。平教員ががんばっても通らない。でも5%減税でなく増税してもらえれば、教材費も給食費も公費で賄う事が可能ではないのか。義務教育はこれを無償とするというのが憲法の精神である。それを戦後60年を裕に過ぎていると言うのにこのていたらくである。許せないと思う。日本の政治は狂っている。それを批判もしないマスコミも狂っている。狂っているこの国で公務員であり続けようとしている自分もまた狂っているのだ。金さえあれば、決別できるのだがね。まあ、みんな同じ気持ちだろうよ、御同輩。

2011年1月1日土曜日晴れ
 今年の元旦はお屠蘇も飲まず、神社にも参らず、山の中を徘徊する。今年の目標、抱負、夢など歩きながら2時間ばかり考えたが何も浮かばず。若いころの夢だったオートバイは昨年かなえた。高速道路を100キロ(実際はもうちょっと上)でぶっ飛ばすのは快感だったが、それは今年の目標にはなり得ない。空手でもやるか、膝と腰が悪い。囲碁将棋でもやるか、頭が悪い。何にも浮かばないのだ。唯一浮かんだのは、10数年ぶりにテレビゲームを再開するかという事だけだった。どこにあるのかもわからない。自宅に帰って探す。押し入れの中にしまわれていた。子どもがソフトを散逸している。でも、いくつかは見つかった。当時やったのは、任天堂のスーパーファミコン。その後セガサターンまで進んだ。息子は任天堂64とかプレイステーションだとか、今も何かやっているようだが、自分はやめてしまった。マックのミストだとか、ドーム2だとかコマンチマックなんかもやったなあ。その中で再開したいと思ったのは、テレビ画面に向かって銃をぶっ放すもの(バーチャコップ2)だった。これは単純で爽快だった記憶がある。
 そろそろ還暦にもなろうかというおじんがリビングでやるのには我ながら抵抗がある。そこで中古ショップであるハードオフに電話。ブラウン管テレビはもう扱ってないが、液晶ならあると言う。さっそく車を走らせる。14インチの薄型テレビ、7千円。ついでにビデオデッキ、DVD再生共有機も買う。DVDはいらないのだがビデオデッキ単体はなかったのだ。4千円。自宅に持ち帰りさっそくやる。ところが何度やっても銃を認識しない。ネットで調べたらブラウン管でないと認識しないのだと。走査線が液晶には無いのでできないのだ。液晶テレビ自体は、コンパクトで書斎の机に置くには適していた(すでにマックのデスクトップが乗っているので狭いのだ)のだが、無用になる。リビングのブラウン管テレビと交換したら映りが変と家人から抗議。さからえないので諦める。
 その日からネットで検索したり、、量販店を回ったり、リサイクルショップを覗いたりの日々が続く。どこにも売って無い。わずか1年前は量販店で新品が9800円で買えたのにね。扱ってないのだ。地デジの関係で大量のブラウン管テレビが廃棄されているはずだが、無いのだね。これらのゴミは海外に輸出され、その地で修理され商品化されているらしい。日本では野や山に不法投棄すらされているゴミなのだ。何がもったいない精神か。何がエコポイントか。笑わせるな。
 でも努力のかいがあり、楽天の中古ショップで14インチのブラン管テレビを代引5千円で入手できた。書斎の机はますます狭くなったが、これで家人に気兼ねなく銃を乱射する事ができるようになった。
 我が家はケーブルテレビと契約している。スルーパス方式で月500円だ。だからいつでも地デジテレビに替える環境にはあるのだが、もったいない精神で地デジチューナーも5千円で入手している。1階にアナログテレビとビデオデッキの一式。パソコンとテレビ視聴機器、ビデオデッキの一式。2階にアナログテレビとビデオデッキの一式。計3台あるわけだね。だからチューナーも3台買いそろえておいたのだが、総務省のの指導なんたらで2015年までアナログに変換して流すと言うのだ。で、今の環境で後5年は存続できる。5千円のアナログテレビ、4千円のビデオデッキというのは自分には正解である。
 視聴料金を取っているNHKも、マスコミも政府のお先棒かつぎで地デジ化による無理、無駄について何も言わない。まったく狂った国である。自分はささやかな抵抗であるかもしれないが、後10年は地デジ化はしない決意である。後10年生きているかはわからぬが。
 教室で40インチの地デジを見ているが自分にはちっともいいとは思えない。なんか自然な写りではないのだよ。ブラン管の方が自然な写りに見える。

2011年2月12日 土曜日雪
 乾燥しきった土地に雪が降り続いた。ネットで教師のいじめ(教師がいじめられているの意味)で検索していたら、福田ますみ著「でっちあげ」という本が存在する事を知る。さっそく図書館より取り寄せる。読んで驚愕する。事実は小説より奇なりというが本当だね。詳しくは同書を読んでもらうのが一番なので解説はしないが、自分にも思い当たる事はある。
 管理職の恫喝の言葉、
「あんたにも家族があるんやろ」
である。首になりたくなかったら謝罪しろという事だ。自分は責任は取る覚悟だったし、事実でない事は認めるつもりもないから謝罪した事はない。でもこの小学教師は生活を守るため事実でないことを認め謝罪したのだね。馬鹿な管理職にだまされた善良な市民なのですよ。おまけに許せないのは、保護者の言うがままに診断書を書いた精神科医である。これら馬鹿校長、馬鹿医者が社会的には権威があり、信用があるという事だ。
 冷静に考えてみれば取るに足らない苦情が、役人の事無かれ主義、自分の責任を取らない無責任主義でいいようにつっこまれ、話が巨大化し、でっちあげられていった事だ。
<教訓>
@謝罪しない事。謝罪するようなことはしない事。
してしまったのなら、ごまかさず、責任を取る覚悟を持つ。
A校長や同僚は信用しない事。信ずるのは自分の良心だけでいい。
B教育委員会や精神科医など権力を敵に回す勇気を持つ事。
 以上。


2011年6月19日 日曜日曇り
 強面の教師のためか、本当は気弱な性格のためか、からかわれるのですね、悪童どもに。
前任校ではサッカークラブの点呼の時に自分の番でもないのにハイハイと返事を繰り返す悪童がいて怒鳴りつけたら体罰教師として訴えられ校長室で査問を受けるはめとなる。
 今の学校では朝の挨拶運動で帽子をかぶってない子に帽子をかぶりましょうと言ったら、かぶってんじゃんと悪態をつかれる。かぶってないから、かぶってないと言ったまでだ。違うかと怒鳴ったら体罰教師として査問を受ける。廊下でボールをついている子に廊下でボールをつくなと怒鳴ったら、自分が見えない所でこれみよがしにボールをつく音を聞かせる悪童どもに悩まされる。ほっといていたのだが、たまたままたボールを廊下でついているのを見たので、見たぞと怒鳴ったらまた体罰教師として査問だ。
 5月に教室移動している高学年のクラスの列の横を通り過ぎたら、大声を左耳に叩きこまれ一瞬鼓膜が破れたかと思った。振り返った時には、列は進んでおり、やられっぱなしで終わる。先日また同じ事をされ、振り返った時にだれがやったのかはわからなかったのだが、止まれと怒鳴ったらひるんだ子がいたのでお前だろうと言ったら、友達に言ったので先生に言ったんじゃありませんとうそぶく。首根っこをつかんでこっちに来いと列から引きずり出したら、すいませんと謝ってその場を終わらせようとする。謝らなくていいからなんでそんな事をするのか理由を言えと問い詰める。ふざけただけだと言うだけでなぜ自分だけにそういう事をしたのかの理由を言わないものだから小一時間問い詰める結果となる。翌日体罰教師として校長に指導を受ける。問題教師だよ、自分は。体罰教師だ。でも何が悪い。悪いのは理由も無く大人をからかう悪童どもだろう。あいつらは自分に怒鳴られたり、首根っこをつかまえられたりしてカルチャーショックを受けている。それでいいんだよ、それであいつらは恐い思いをして学習したのだから。それが教育ではないのか、それが教師ではないのか。自分は自分のやり方が体罰だ暴力だとして葬り去られるまでやり続けるだけだ。

2011年7月3日 日曜日曇り
 4月の遠足の下見の時カーナビを持っていないため電車でいったのだが、それ以来気になっていたのだ。で、店頭で見る。安いのでも3万台だ。ネットで調べるとアマゾンで29800円。代引で購入。マニュアルを見ながら設定するが、パーキングブレーキ信号の設置がよくわからない。ネットで調べると解除できる裏技がある。試行錯誤の上、付属の本来信号読み取りのミニジャックを差し込み、その導線を歯で剥き出しにしてねじり合わせる。これで信号解除できた。
 試しに走ってみたのだが、知らない近道も教えてくれたし、右左折の音声案内もしてくれる。助手席に優秀なナビを乗せてハンドルの上に動く地図を広げているようで夢のようだった。考えてみれば若いころこんなものはなかったし、人工衛星の情報を読み取って普通の車が走るなんて空想上の事だった。でももっと考えると米軍の人工衛星からこっちは丸見えという事だよね。レーザー光線で狙い撃ちされちまう。
 携帯電話も便利だ。自分はけちだから一年一万円のプリペイドで済ませているのだが、これも若いころはなかったし空想上の事だった。でも今は糸電話と言うか単なるおもちゃになってしまっている。こんなおもちゃのためにアナログ放送が廃止されてしまうのだ。家のただでさえ画面の小さいアナログテレビにはカウントダウンが始まってしまって画面の4分の一が占められている。不愉快である。

2011年8月18日 木曜日晴れ
 「天上天下唯我独尊」これはお釈迦様が誕生してすぐに発した言葉だそうだ。これだけ聞くと、鼻もちならない奴とかやはり神様だけあるなあという感想になるのだろうが、自分が教師をやって後2年半で退職なのだが、これはいいなあと思う。教員に限らず、すべての働く人、、組織の中で歯車のように扱われている人の座右の銘にすべきだと思うのだ。
 自分もこれまで、一生懸命、誠実に働いているのに自分のやり方、自分の存在そのものを全否定されるような事を言われてきた。それは上司であったり、同僚であったり、保護者であったりと様々であるが、自分がこれまで一度も処分を受けた事が無い事を考えると一方的な物言いなのである。他人とは無責任にそのような発言をするものなのである。本当に自分が全否定されるような存在であったなら今日まで現役の教員でいられるわけがないではないか。だから他人の言う事、批評などは参考にすればいいぐらいの事で自分自身が自分の審査員、審判であればいいのである。まさに「天上天下唯我独尊」である。これが生きていく力、自信となるのである。
 自分の実践、信念、判断それが「天上天下唯我独尊」なのだ。自信を持て。一生懸命考え、判断した自分を信じろ。君の考え、、君の実践こそ最上の物なのだ。よっぽどの馬鹿でなければ、反省はできる。反省は自分でやれ。他人に任せるな。

2011年8月21日 日曜日雨
 まあ58にもなったのだから、最後の夏休みかもしれない。この年で夏休みがあるのはしあわせな職業、役得であろう。教員バッシングのため自宅での研修はできなくなったが、30年以上も働いて来たので年休は20日以上はある。多い人は40日。それに夏季休暇なるものが5日あるので、まあかなり休めるよね。全員出勤日なるものもあるので全部休むわけにはいかないが、それにしても子どもはいないのだ、授業は存在しないのだから休めないわけではない。職場での評判、人としての印象はすこぶる悪くはなるけどね。まあそんなことは気にするたちではないが、一応人並みには出勤している。
 失業したら年中夏休みになるわけで、それへの適応訓練、リハーサルという意味合いもある。
 性格が悪いので遊び友達はいないし、誘われても断るのでいきおい一人遊びとなる。もう子どもは成人しているので誘うわけにもいかないし、彼女も自分の生活パターンがあるのでおいそれとは誘えない。誘う時はかなり念入りにデート計画を立てないといけないし、それでもご機嫌を損ねる事もあるので面倒だ。いきおい一人遊びとなる。

 一人遊びで簡単にハッピーになれるのは飲酒だ。でも朝からやると社会人失格、アウトロー、廃人、路上生活いろんな悲惨な行く末が想像される。できればこれはやらない方がいいだろう。
 次は食べ歩き。これも簡単でハッピーになれるし、朝からやっても社会人失格にはならないでしょう。でも金がかかるし、第一24時間食べれるわけではない。肥満、成人病の危険もある。これもやらない方がいいでしょう。
 となると月並みだけど読書かな。新作なら金がかかるけど図書館で借りればただだ。これはいいね。
後は自分で書くのもある。自分史なら書きやすいし、エッセイ、小説でもいいだろう。自費出版さえしなければいくら書こうと24時間熱中しようとただ。
 映画鑑賞。映画館は高いがレンタルDVDならかなり安い。でも積もればけっこう金がかかるかもね。
 パチンコ、ギャンブルこれは論外。却下。せいぜい年末宝くじぐらいだな。
 登山は金もかかるし、危険も伴う。散歩がいいよ、ただだし。でも年がら年中ご近所を歩きまわるというのはねえ、ちょっとできない。

 自分が今年やったのは、朝5時過ぎからのCB400。雨が降っていたらやらないけど、涼しいし、空いているので実に快適だった。金はかかるね。高速を走ればもっとかかる。
 昼間はアドレス125。CB400に比べればガソリン代はかからないし、エンジンがむき出しではないので、かなり暑さはしのげる。前に遅い車がいてもオートマだから疲れない。第一技術がいらないのでイージライダーに即なれるのだ。CB400だと法定速度プラス10キロぐらいなら走れるのだが、なんせ100キロぐらいで公道をぶっとばすライダーが多いのだ。そういうのに峠道であおられると最悪。下りだともっと最悪。道幅が狭いとアドレス125みたいに脇に寄ってお先にどうぞみたいな芸当が技術がないため困難。まあそんなこんなでお天道様の下で走っちゃなんねんどう、俺たち渡世人は的状態になるのです。ナビを買ったので日中や雨模様の遠出にはモビリオを多用した。
モータースポーツは金がかかるので、プールにもけっこう行ったなあ。公営だと300円か400円。共済組合の利用券があればただ。市内だと
「あ、○○先生だ!」
と指差される事態が想定されるし、一応まだ現役なので無視するわけにもいかない。一々お愛想を言うのもいやなので他市に出向いている。公私混同は避けるという個人的方針です。
 美術館や博物館めぐりというのも好きなのだが1500円はするし、交通費もかかるのでめったにはいけないしねえ。やはり貧乏と言うのが常にネックとなる。生きるのに金は付き物だが、できるだけ低コストで行きたい、行かざるを得ないのです。
 ギターの弾き語りもいいね、カラオケみたいに金はかからないし、どこでもできる。へただけど自己満足の世界だ。おもいっきり青春できる。

 畑仕事に精を出す、車やバイクを手放して買い物は徒歩で行く、こういう一挙両得な生き方は今の所できません。畑仕事は彼女におまかせして邪魔はしない事にしておこう、当分の間は。一生でもいいが。

 先日は○○革新懇談会なる平和サークルが主催した無料映画会に夫婦で参加する。田中好子さん主演の「黒い雨」だ。田中さんが亡くなってから見たかったのだが、レンタル店に無いのだ。いい機会だった。最後の田中さんが、これまた戦争でトラウマというか精神的に廃人になっている近所の若者にだっこされて病院に運ばれるシーンで涙が止まらなくなる。これで嫁入りがかなうのか、そして死んでしまうのか。たぶん死んでしまうのだろうと思ったら物語は終わってしまった。
 戦争が終わって8年たって自分は生まれた。戦争の記憶は当然の事何も無いが、戦場から帰った父が時々戦争の話をしたり、テレビに映る天皇を見て、
「こいつのせいでたくさんの人が死んだ」
というつぶやきを覚えている。幼いころ市場で物乞いをしているたくさんの傷痍軍人を見た。
それらがぼくの戦争の記憶なのだろう。平和運動をするでもなく、政治活動をするでもなく、だらしない個人的享楽に生きて来た人生である。他人にえらそうなことを言える立場ではない。でもしたり顔で平和ボケだとか押しつけ平和憲法だとか言っている馬鹿どもとは違う。父の思い、平和の大切さ、戦争をおこす馬鹿どもを告発する勇気は持ち続けたい。王様は裸だ、王様はまちがっていると叫んでやる。
 今年も1学期の終わりには、広島、長崎の被爆写真を使って平和授業を行った。小学校3年生でもわかるように言えばわかるのだ。こういう実践も指導主事の馬鹿どもに言わせると年間計画に無いとか指導要領からの逸脱とかになる。教師として人として当たり前の実践だと思うけど、今の情勢の中では勇気ある実践になってしまうのだ。これで処分を受けるなら裁判闘争をこれからのライフワークにするだけだ。

2012年1月7日 土曜日晴れ
 長かった冬休みも終わり3学期が始まる。運動会のソーラン節でがんばりすぎた代償か、膝痛が治らない。毎週消炎剤やらヒアルロン酸を関節注射されるが効果が無い。まあ年も顧みず限界を超えてがんばりすぎた天罰だ。身の程を知れと言う事でしょう。
 新学期が始まるに当たり一番いやなのは、また
「ごめんね。」
「いいよ。」
の仲裁を一日に何十回もやらないといけない事だ。
自分が子どもの頃は、教師にけんかの仲裁を頼む事など、見た事も聞いた事も無かったが、今はこれをやらないと子どもからも、その後ろに控える保護者からも信頼を失い、路頭に迷う事になる。こんなことを小六までやることは、子どもの生活力、問題解決能力を育てないだけでなく自己中心性を増大させるだけだ。でもわかっていてもしかたないのだ。教師として自分が望む事と教師として自分が望まれている事が違う事に遅まきながら気がついて来た。要するにサービス業としてのサービスを自分は要求されている。教師としての指導や躾けはいらないのですね。職業として生きて行く以上ある程度は体制に順応していかなくてはならない。その上で自分らしさを出して行くしかないでしょう。子どもの言い分によく耳を傾け、その想いに沿ってあげる事も子どもに安心感を与える事にはなる。突き放すだけでは今の子供はついてこないし、問題解決にもならない。膝痛をがまんし、膝を折って子どもの話を聞く毎日が始まる。

2012年2月25日 土曜日雨のち晴れ
 自宅で成績付だ。学校でやる時間なんて無いからね。いつものように持ち帰りだ。当然残業手当てなんて無い。ただ働きだ。でもそんなことどうでもいい。いくつものクラスが荒れている。やはり指導には実力が伴わないと子どもはわがまま放題になる。いくら怒鳴ったって、いくら説諭したって荒れた子は手を出さないとわかると指導には従わないのである。これは真実である。体罰がいいとか悪いとかの問題ではない。真実なのである。体罰がいけないなら、出席停止の権限を現場の教師に与えるべきだ。繰り返しになるが、ぼくの持論である。
 いじめや物隠し、器物損壊などの人権侵害につながる問題行動に対しては説諭だけでなく、出席停止などの保護者に反省を促す処分が必要である。実際上それらの強制力のない公教育では、学校は荒れるに任すしかない。保護者をクレーマー扱いし、その対応をマニュアル化するのは事なかれ主義の小役人的発想である。事なかれ主義の下でどれだけの教師が精神を病み職場を去る事になったか。善良な同僚ほどそういう傾向が強い。自分のような馬鹿が長生きしている。でもそれももう終わりになるが。

 最後になるかもしれない成績付だが、本当に馬鹿馬鹿しい。本来人間の能力とは総合的なものである。それらを国語とか社会とかに分類する事にどれだけの意味があるのか。まあそれは意味ある事だとしても、それをさらに関心意欲態度、知識理解、思考、表現処理能力にまで細分化し評価するのだからねえ。そんな抽象的な評価をするためにそのための評価基準表まで作らないといけない。一人の児童を評価するのに国語で6項目、社会、算数、理科、音楽、図工、体育で各4項目、合計30項目に細分化しそれをそれぞれ3段階でランク付けしないといけないのだ。こんなもの9才や、10才の子が見てわかるわけないでしょう。生活指導的な物は11項目に分類して評価する。一人の児童を計41項目に分類して評価する。それに加えて文章表記もする。それを40人分作成しないといけないのだ。まあ仕事だから文句言う筋合いではないと言われればそれまでだが、全員進級、全員合格というのがあらかじめ決められているのだからねえ。なにもこうむつかしくする必要はないでしょうが。よかったね、がんばったねという文章表記だけでいいとぼくは思うのだ。テストも作品もそのつど保護者に返しているのだからねえ。相対的に順位付けしているわけでもないし、落第するわけでもないのだからそう神経質に考える必要も無いと思うのだが、現場の教師の意見は無視されるわけです。

2012年7月16日 月曜日
 朝ボーとしてバリカンを頭に当てたら、えらい事になる。キャップ式の4ミリ、8ミリ、12ミリのアタッチメントを装着するのを忘れていた。血は出なかったが、そり込みとなる。頭の真中で無くてよかった。真ん中だったら、もう坊主にするしかない。幸い、横だったので、ごまかしようはないのだが、なんとか回りも短くして事なきを得る。もうすっかりぼけているし、老化しているのだ。これは否定できない。でもこの年になってわかったのだが、心というのはボケない。ぼくは19才である。ほんとは後一週間で59才になるのだけどね。まあ経験値と言うのはそれなりに積んできているから、まったくの19才とは言えないだろうが、気持ち的には、何も変わる所は無い。これは実感である。自分だけがそうなのか、みんなもそうなのかはわからないが。周囲がおじいさん扱いをするから、こっちも便宜的におじいいさん風を装っているだけで心は若者のままなのである。魔法をかけられているようなもんである。
 さて大津の中二の男の子が自殺した件。警察が捜査のため、教育委員会と当の中学校を捜索した。前代未聞である。なぜこのような展開になるのか。もう警察しかないのか。無いのである、現状では。現場には何の懲戒権も与えられていないのだから。現場の教師にはいじめている子を出席停止にする申し立てもできないし、立身出世を懸命にがんばってここまで上り詰めた校長が出席停止などするわけがない。一番の問題解決は現場の教師に懲戒権を与える事である。校長はいじめっ子がいたって自分が直接指導しているわけではないし、直接関わりを持っているわけでもないから別にそう困らないのである。むしろいじめが存在することを認める結果になる事をいやがる。だから校長に懲戒権を与えたってやるわけがない。現場の教師なら、いじめっ子とその保護者に自分自身の良心を傷つけられている。学級を崩壊させられている。だから告発する可能性は高いのだ。現場に任せようではないか。

2012年7月23日 月曜日曇り
 59才になる。年休を取る。CB400で山中湖を一周する。涼しくて助かった。午後、中古パソコンが届く。知識が無いためXPプロインストール済み、ワープロ、計算ソフト同梱と書いてあったので、excel、wordがあるものと思い込んでいた。入っていたのは、オープンオフィスというフリーソフトだった。フリーのセキュリティソフトも同梱されていたので、こういう手もありなのかと思った。デジタルドラゴンと言う大阪の通販会社。代引で10925円。手持ちにオフィス2000があったので、インストール。wordもexcelも使えるようになった。今のビスタも4年たつのでいつお釈迦になるかわからぬ。大体ハードディスクは2年以上たつといつへたるかわからないそうだから、中古を買いつなぐ方法もいいかもしれぬ。だが、今のソフトはライセンス認証が厳しいのでそのたびに新品のソフトを買うはめになるかも。
 夕飯は妻がリクエストに答えて天ぷらを揚げてくれた。インドネシアの海老らしい。麦とホップという偽ビールで祝う。退職まで後1年と半年ある。体が持つだろうか。

2012年7月24日 火曜日曇り
 妻と海を見に行く。無料駐車場に止め、砂浜を歩く。蒸し暑くて汗ばむ。帰りはたっぷりエアコンを効かせる。妻の作ってくれたそーめんは絶品。先日だめだったミレニアムパソコンの修理に再挑戦。だめ。ハードディスクはないという表示が交換しても変わらないのだ。ハードディスクはハードオフで1480円で購入。2.5インチの内蔵型、中古品だ。原因は自分のパソコンにあるのだろう、マザーボードなど他の部品がいかれているのかもしれない。でも、中古品の初期不良ということにしてもらって現金を返してもらえた。ハードディスクがないことにはブートCDを用意してもだめだろう。ネットで調べたら、無料OSのリナックスが今ではウブンツというすぐれものになっているらしい。これにはあの無料オフィス、オープンオフィスも同梱されているとの事。ためしにダウンロードしようとしたら2時間以上もかかるという事。やめた。雑誌の付録にあるらしいが、金出して買ってもなあ。しかもホームページビルダーが使えないのでは意味が無い。「現場の先生」はこのソフトに依存しているからねえ。今さら他のフリーソフト、しかも無料OS上で動くのを使うというのは体力的に無理というものでしょう。

2012725() 
4年ぶりに前の職場の同僚に会う。先生が学年主任で助かった、先生のおかげですと何度も頭を下げられる。助けた覚えもないし、そんなに親切にした覚えも無いのだが。まあ確かに荒れた学年ではあったし、いろいろ一人で切り盛りしたような覚えはある。でも同僚もせいいっぱいやっていたし、自分も自分の事でせいいっぱいのようだった気がする。特に同僚を助けたという意識は無いのだが、こうおっしゃっていただけるということは、何かしら役に立ったと言う事でしょう。何事も誠実に努力していれば、見る人は見てくれるということでしょうか。

2012727()晴れ

 職員作業だ。炎天下の学校農園で雑草取り。倒れるかと思う。汗だくだ。インゲンが大豊作。これは良かった。午後はパソコンルームの整理作業。FDソフトはもうゴミだなあ。でも捨てるわけにも行かず、ロッカーを無駄に占有している。こんなにたくさんのソフトがみんなゴミなのだ。まったくもったいない事をしているなあ。印刷命令を子どもに自由にやらせているのだろう。たくさんのプリントアウトがそのままだ。すぐ印刷できないので、何度も印刷命令を出す。それが授業後、だれもいなくなったパソコンルームで印刷される。だれも知らない、見向きもされない、ごみとなるのですね。もったいない話だ。やはり印刷命令は教師が出しましょうよと共通理解を図る。

 自宅の壊れたミレニアムパソコンを生き返らせるため、ブートcdを作る。ウブンツだ。結局雑誌を買ったのですね。1380円。DVDが付録だったので、そこから自己起動CDを作る手間がいる。CD付きが売ってなかったからしょうがない。苦労して作ったのに起動しなかった。残念。原因はわからないが、あきらめた。中古パソコンを書斎用に買うか。Wordexcelが使えればいいから、スペックにはこだわらない。小説家を目指すのだ。目指すのは自由だからね。このホームページに連載小説を乗せるのだ。当面無理だが。そのうちにね。退職してからかな。退職小説家だ。これでは小説家を退職したのか、退職問題を専門に書いている小説家なのか、意味不明だね。

201282()晴れ

 デジタルドラゴンという会社より中古パソコンを購入(送料、代引き手数料等込みで1万925円)した。家族のネット使用頻度が高まり、自分のパソコンなのだが触りづらくなったからだ。それで書斎用に購入。もちろん使用は自分専用となる。エクセルもワードも入ってないので手持ちのオフィス2000をインストール。これはネット承認も電話承認も入らないので便利。中古なのでいつお釈迦になるかも知れぬ。そこで外付けハードディスク代わりとしてUSBフラッシュメモリーを近所のコジマで物色。4GBの物が590円で売っていた。手持ちの物は5千円もしたのに64メガしかないのである。破格の安さ。工業製品は大衆化するとどんどん安くなる。ただみたいな値段だ。もちろんただではないが。

使い道は日記とホームページの原稿書きである。そのうちこれで小説も書こう。エクセルもあるので表計算など他の用途にも役に立ちそうだ。ウインドウズXPプロということもあり、今のところサクサクと動いていて満足である。

 壊れたノートパソコン(ミレニアム)をリナックスで復活させるという野望は果たせなかった。自己起動CDは雑誌付録のDVDから作れたのだが、そこから動作しなかったのでね。

 夏休みももう8月に入ってしまった。故郷に帰り、母の話し相手になるという目的は達成できたのでそれはよかった。新幹線のグリーンで帰る。贅沢だが、まあ他に旅行に行くわけでもないのだから許してもらおう。(だれに許しを請うているのか)バイクも車もない生活だったので、勢い散歩三昧となる。帽子とサングラス、ハンカチは必携。汗だくになりながら、海と路地の入り組んだ散歩を楽しむ。右ひざがかなり回復したので可能となったことだ。歩けるとはありがたいこと。自宅に戻りまたバイクと車という生活に戻る。今日は夕立を恐れて車で山中湖に出かける。途中大型トラックと出会い、すりぬけに苦労した以外は楽な運転ができた。バイクと違い疲労度が全然違う。

 テレビは連日ロンドンオリンピックだ。世界の精鋭が集う大会だ。最高の試合や演技が見たいと思うのだが、日本の選手が絡まないものは放送がない。メダルが何個などという絶叫型放送はいいかげん勘弁してもらいたいものだ。各国のオリンピック放送というものもこのようなスタイルなのだろうか。

201283()晴れ

 国立西洋美術館で行われているベルリン国立美術館展に行く。昔はこういうものは研修扱いになったのだが、今は単なる休暇扱いだ。従って有給休暇を使う。入場料1500円。音声ガイド機器貸し出し500円。常設展も見たのだが、こっちの方が内容が豊かだった。その後運動を兼ねて秋葉原まで歩く。汗だくになる。帽子、サングラス、短パンの格好でないとやってけない。腹が減る。回転寿司、ラーメン、餃子、生ビール、ありとあらゆるB級グルメが並んでいる。食べないで済ませようかとも思ったが体がもたない。何十年も入った事のない吉野屋に入る。牛丼並380円。味は昔のまま。合格点。でもバイトの兄ちゃんが忙しく立ち歩いているのが煩わしい。一生懸命がんばっているんだけどね。食事時にそれは見たくないのだ。その後やっぱり生ビールが飲みたくなって、幸楽苑に入る。餃子を魚に一杯と思ったのだが、生ビールはすぐに届いたのだが餃子が来ない。注文のやり方を餃子が来てから生ビールとやればよかった。ここはカウンター席に座らせられたのだが、狭い。何の飾りもない壁が正面。まるで囚人の食事のような感じ。囚人の経験はないので、違うかもしれないが。椅子を少し後ろにずらしたくてもがんとして動かない。回転しかしない作りなのだね。ますます閉塞感を感じる。隣席ともくっつきすぎなのである。チープだなあと思う。まあ安いからね、致し方ないのでしょう。545円だった。

 やはり妻の手料理が一番だなと痛感する。もう外では飲まないし、食べない事にしようと思ったのでした。五日間しかない夏期休暇はかようにして終わりになってしまった。夏休み終了である。日本人の夏休みは実に短いなあ。

201286()

 今日は年休を取って公営の50mプールに行く。夏休みとあって親子連れの姿も見られたが、圧倒的に老人の男女が多い。まあ自分も老人に見られるのだろう。59才だからね。でもほっとくと若者の側に立っているんだからおかしい。プールに行って、水泳の練習をするんだから研修と言ってもいいのではないかと思うのだが、そういう扱いにはならないのですね。クロールと平泳ぎを交互に50mを泳ぐ。何本泳いだのだろうか、1時間でもうせいいっぱいとなる。ここは公式記録会の会場にもなるらしく、水温が少し低いので体が冷え切ってしまった。温水シャワーが壊れているのか冷たい。3台目にやっと熱いシャワーの出るのに当たったので生き返る思いだった。

税金もこういう福祉に使われるのなら納得できる。泳いでいる老人たちは医療費の削減にもつながるだろう。いつまでも健康で病院と無縁ならプールの使用料など安いものだ。老人には無料にするだけでなく、来たら入場料をごほうびとして支払うぐらいのこともしていいのではないか。毎日通うだけでこづかいももらえるとなると、みんなはってでも来て、健康増進につながるのではないか。ぼくだって通うよ、そうなったらね。

外へ出るとどしゃぶりの雨。小雨という予報とはえらい違いだ。車でどしゃぶりの中走る。洗車になるだろう。

201288()曇り

 肌寒いぐらいである。早朝といっても4時55分だが、CB400で近所を一周する。散歩もいいなと思い、自宅に戻って田んぼの周りを歩く。今朝からグルコサミン+コンドロイチン(膝の軟骨用)、ポシュロムオキュバイト+ルティン(加齢黄班変性用)を飲み、真向法をやり、五十肩用ストレッチをやり、ブルーワーカー、腕立て伏せ、スクワット、懸垂(家の鴨居に手袋をして)と多忙である。

 モビリオで公園に行くが、トラックが多く閉口する。特に橋を右折するところが込み合っていて、平日は直進コースにすべきと反省する。公園は涼しくてきれいで最高であった。ずいぶんのんびりしたので、プールに入ったのは11時40分だった。プール券を出したので400円は無料。貴重品ロッカーはコインの必要なし。更衣室のロッカーは無料だが100円が必要なので忘れずに。思ったとおり老人の集団(自分は老人と気づいていない)は随分いなくなっていて(おそらく9時開始早々に入場するのでしょうね。2時間もすれば退場するでしょう。)50mを何本もクロールや平で泳ぐ。くたくたになったので、後はコースから離れて自由スペースの所で潜水を楽しむ。すっかり体が冷える。水温29度しかないのだ。大会準備用に低く抑えているのがここの欠点。熱いシャワーで暖めてから13時ごろ出る。

帰りスーパーに寄る。寿司が599円で昼時を過ぎたので1割引で売っていたので逆上する。11貫も入っているので一貫約50円。回転寿司並である。ついでに惣菜コーナーを見るとなんと串かつがあるではないか。掻き揚げもある。これも逆上して購入。合わせて800円でおつりが来たから安いものだ。結局自分はこういうスーパーのお寿司、惣菜で満足するタイプなのだな。自宅でプール道具の片づけを済ませ、2階の書斎でやれ冷えたビールで寿司を流し込もうとしたらさび抜きと書いてある。逆上していたので気づかなかった。残念。でもおいしかったからいいか。いつも少食なので食べ過ぎた感じ。反省。

退職したら一日一食にする予定なのだが、本当にできるのか。

ところで国家公務員の退職金を消費税を10%上げる前提に400万削減するそうだ。2013年1月から一年半かけて完遂するとの事。ぼくの退職時期にぴったし合うではないか。これでは来年の3月に勧奨退職を受けたほうがいいかも。一年汗水垂らして働いても400万減額されるのだ。1年ただ働きとは言わないが、400万減額される前に退職した方が賢いかも。ひどい話だ。国民に負担をお願いする以上公務員も身を切れということなのでしょうが、平の公務員は庶民と同じ生活をしているのです。それが400万も退職金を減額された上、10%消費税増額ではまさに踏んだりけったり、弱きをいじめ、強きを助ける野田政権と言わざるを得ない。

2012810()曇り

 昨日ネットを見ていたらとんでもない記事が載っていた。アメリカの史上最多のメダルを取った何とかという水泳選手。2時間もプールで練習していたら途中でおしっこのためにプールから上がるなんてありえない。みんなプールの中でおしっこしている、水泳選手にとってはごくノーマルな事だと。とんでもない発言である。この選手にとってはノーマルな事かも知れないが全部の選手がそうだと断言している事は許せないし、本人の行為自体もプール使用のルール違反である。メダル剥奪すべきだ。全世界の子供たちがオリンピックのメダリストを尊敬し、目指しているのだからね。いくら速く泳いだからっていったってこの発言、行為はだめだよ。社会のルール違反をしているものにメダルはあげるべきではない。メダル剥奪だね。

 剥奪といえば日教組。これもだめだね。自分も若いころは組合員だったし、執行委員も勤めていた。同期の執行委員が今の日教組委員長だ。日教組が支持する組織内政党が昔は社会党、今は民主党だ。その民主党が教員免許更新制度を維持するは、退職金は400万も減額するは、消費税は上げるは、原発は再開するは、ダム建設は再開するは、財界一辺倒である。こんな組合あってもしょうがないんじゃないの。反権力、反共産党が売り物だった組合だったが、結局反共体質だけが残ったんだね。今や完全な御用組合になりさがった。名誉剥奪だね。

 その民主党、自民党、公明党の3党合意なるもので消費税10%が今日押し通されるらしい。ロンドンオリンピックに浮かれている時じゃないね、こりゃ。ラジオで日銀総裁が消費税増税は財政建て直しに有効なんて言っていたが、政府は消費税は公共投資の財源にもするというのだから、ダム建設再開になってしまったんじゃないの。ダムも道路もどんどん公共工事発注、財界潤う、足りない分は消費税でという事で、全然財政建て直しなんて事にはならないじゃないか。現に政府は赤字国債を発行すると言っているのだから、日銀総裁というのも単なる財界のお先棒担ぎなんだね。財界の打ち出の小槌だよ、消費税は。民主党、自民党、公明党の3党合意なるものが続くと、10%が20、30、40、50、60%とどんどん上がるだろう。恐ろしいがそうなるしかないではないか。国民がこの三党を支持し続ける限り致し方ないことだろう。

2012812()曇り

 早朝CB400に乗る。もう日課だね。1万7千キロに届く。

妻は九条の会の活動で出かける。故新道兼人監督「一枚のハガキ」の上映会のお手伝いだそうだ。自分も会員なのだが活動はしていない。前売り券を千円で購入しておいたので、午前中、山の尾根道を縦断するトレッキングで汗を流した後、午後アドレスで出かける。会場はいっぱいだった。老人が多い。自分も老人なのだがすぐにその事を忘れてしまう。若者が一人座っている横に空き席があったのでそこに座る。娯楽性もあり、舞台を見るような感覚もあり、すばらしい映画だった。主演の大竹しのぶ、共演の豊川悦司もよかったし、脇役も皆すばらしかった。生きるとはやはり食べていく事なんだと思った。食べて、働いて、子供を作って、それが人の営みなんだ。そんな当たり前の事を戦争は引き裂いてしまうのだ。涙があふれる。

昨日まで昼から風呂に入り、ビールを飲み、寝ると言う生活をしていたので、大汗をかいたのにもかかわらず風呂にも入れず、ビールも飲めずは少ししんどかった。

今日初めて小説を書き始めた。いずれこのホームページ上で公開する予定だが、多少差し障りがあるかもしれないので、公開はよく吟味してからにしよう。あくまで小説なので架空の作り話なのだが、教師としての体験を踏まえて書くので特定の人物や事件を連想されても困る。そういう誤解のないよう表現にも配慮しないとね。でもこうすらすらと文章が進むとは思わなかった。まあ締め切りがあるわけでもないから、気長に楽しもうと思う。誰も期待してないと思うけど、乞う御期待という奴だ。

2012823()晴れ

 最後の年休を行使した。明日からはずっと勤務だ。最後はどうしようかと迷う。バイクにするかプールにするか山歩きにするか、それとも三つ全部やるか。それはちょっと無理なのでバイクにした。CB400で山中湖一周である。富士五湖めぐりも考えたのだが、山中湖を過ぎると渋滞につかまる。バイクの快適さが無くなるので413号線を堪能する事に専念した。往復4時間ぐらいバイクの上で過ごす。午前中だったので、内股を低温火傷する事態は避けられた。メッシュのバイクウエアを着たのだがそれでも熱風の中を走るので暑かった。山伏峠を過ぎて山中湖を走る時はすこぶる涼しかったが。

でも楽しかった。羽が生えた感じだ。どんな急坂でも自由自在に走れる。この走るという感じは車では難しい。体がむき出しの分だけよりリアルに感じられる。高速道路もおもしろいが、タイトな急カーブが連続する413号線はおもしろい。生きてるという感じがする。自分の足で全力走するのが一番なのだろうが、それはできなくなったのでね。致し方ない。

 小説の方はできあがったしまった。もう少し加筆できるかもしれないが、一応できあがってしまった。まあこれはこれでいいかもしれない。でも公表はやはり差しさわりがあるかもしれないので退職後と考えている。まあ2学期も始まるからちょうどいいかもしれない。機会があれば別の作品に取り組む事としよう。

 

 アドレスが朝タイヤ圧を計ろうと思ったら、なんとパンクしていた。後輪がぺったんこである。つき合いのあるバイク屋に修理を依頼する。おじさんが来てくれたが、この人自分よりも年上なのだが、一気に軽トラにアドレスを押し上げてしまった。腕力というより要領なのだろうが、驚く。たいしたものだ。

 先日、朝のことゆえ無人の公園駐車場で苦手のUターンの練習をした。柏秀樹さんのDVDをまねて後輪のブレーキを踏んでのUターン。これはできた。右にハンドルをいっぱいに切って、足つきでのUターン。これはいつもやっているのでできた。問題は右にハンドルをいっぱいに切って足をつかないでのUターン。これがふらつく。何度かやっているうちにエンスト、前ブレーキをにぎっての立ちごけをする。ちょっと右に傾いて、あれ、危ないなと思ったがもうどうしようもない。回復できなのである。ゆっくりとスローモーションのようにばったりと倒れる。けがは無かったが、ミラーがゆがんでいる。風防もだ。取り合えず、サイドスタンドを出してから全力で起こす。腰を痛めてしまった。ミラーのゆがみ等は後で自力で直せたのだが、腰の痛みが治せない。金輪際Uターンの練習はやらない事にした。白バイや教習車のように大きなガードが前後についていれば倒れてもバイクにダメージは無いし、引き起こしも楽である。普通車では代償が大きすぎる。あんな大きなガードって普通車には付けられないのかね。恥ずかしいからだれも付けないのか。

 

 おじさんというよりもうおじいさんなのだが、意識の上ではまったくそういう気持ちが無い。町で老人を見ると老人と思うだけで、同類とは思わない。かといって若者を見て同類と感じているわけではないが、自分が老人の仲間という意識はまったく無いのである。朝、鏡を見るとだれ、この人という感じだが、肌のしみとかたるみとかしっかりとそこには老人がいる。膝、腰、肩の痛み、いやでも老人だと教えてくれる。でも意識の上では老人ではないのである。これは他人にいくら説明してもわかるものではないだろうなあ。面倒だからおじいさんのふりをしているが、それは演技なのである。

20121123

ぼくは地区研究会の会員ではない(おそらく管内で脱会したのは自分ひとりだけだろう)ので出張はしないのだが、本校でやる分には勤務時間内なので不本意ながら参加している。先日の地区研究会の分散会で

「○○先生ですか。先生の教え子です。」

と同席の先生に聞かれて驚く。今でも何人かの教え子が年賀状をどういうわけかくれるのだが、この子はそうではない。だからぼくにとっては25年の歳月を超えて現われたモンスターである。でもしばらく記憶をたぐっていったら、小さくておとなしい男の子の姿が脳裏に浮かんできた。

 どうして教師になったのだろうか。ぼくはげんこつ先生である。とてもぼくを理想にして教師になったとは思えない。まあ反面教師という可能性もあるなあと自分を納得させた。

あの頃の自分は憲法前文の歌を歌わせ、運動会では組体操を指導した。水泳大会も陸上大会もあったと思う。そういう行事に燃えるタイプではないが、けっこう子どもたちには強制する事が多かったと思う。人としての道を叱りつけて押し付けたように思う。若かったので体力も情熱も今の比でない。でも本質的には今も変わらないのだが。

 もう一つ奇遇だったのは、昔の同僚に会えた事。一読総合法がいいなんて言うんだね。ぼくは一読総合法の信者ではないから、別にこだわっているわけではないが、三読法はつまらないと思う。それ以上につまらないと思うのは、今の指導主事というか文科省が教師の教授の自由を認めない事。教師は教えるなと彼らは言っているのである。物語の読み取りというのは、読者の生活体験によって違いがあるのは当然である。どれが正しい読み取りというのは無い。でも小学生どおしの読み取りではその次元に留まるのである。だから教師の読み取りを提示してこそ次元が高まる。同じ教師といっても20代の教師と50代の教師とではやはり読みが違うだろう。同じ50代でもその人の生活体験、人格によって読み取りは違うだろう。でも子どもの読み取りよりは高い人生経験に裏打ちされた読み取りができるはずである。そういうものを提示する事によって授業は高まるのである。

 でも現実に教師に要求されていることは、子どもの読み取りの司会者になれということだ。ああ、鈴木君はこう思うのね、そう田中さんはそうなのねと黒板一杯に板書する事が教師の仕事となっている。つまらない授業である。子どもの読み取りの次元をうろうろするだけで何の驚きも高みも無い授業である。それが子どもの発言が多かったとか、発言の質が高かったとかの評価で論議されている。くだらない。子どもどおしが話し合うことが学びだと誤解している。学ぶ相手は教材であり、教師である。子どもどおしが話し合って学ぶ事は基本的には無い。どんな小さな読書会でも読みの先生の下にみんなが集うのである。烏合の衆ではない。先生もいないサークルにだれが集まるか。何か読みのヒント、新しい視点そういうものを求めて集うのである。だからそこには先生が必要なのである。

いくらぼくの意見を言っても最後の指導主事の発言が解答とされているからどうしようもない。馬鹿馬鹿しいから地区研究会はやめたのである。

 

 この年になってこういう事を言うのも恥ずかしいが、天職ではなかったと思う。子どもが好きで教師をやっている人もいるらしいが、ぼくは子どもが好きで教師になったわけではない。そりゃ見ててかわいいとは思うが、毎日付き合いたいと思っているわけではない。病人が好きで医者になる人はいないだろう。

 教師をやっておもしろいなと思えたのは、仕事を自分で組み立てる事ができたことだ。職員室では共同作業を強いられるが、教室に入れば指導者は一人だ。一人は不安もあるが、自分で仕切れる自由もある。教材の選択、運用、実践、すべて自由にできる。本当は自由ではないのだが、そこまで管理職が点検する事はよっぽど睨まれてない限りありえないし、保護者から苦情さえ来なければ比較的自由に仕事が組めるのだ。これが教員を辞めないで続けられた一つの理由だと思う。そういう意味ではおもしろい職だったと思う。でも専科ではそういう自由裁量が無い。特に得意という教科も無い自分に取って専科というのは死に体である。まあ中学、高校の社会科教師となると話は別だが。

多方面の能力を要求される小学校教師としては、専科能力が低いと自覚せざるを得ないね。

「今年は家庭科をお願いね。」とか、

「音楽をお願いね、鼓笛隊も。」

なんて言われたら困ってしまう。自分のクラスだけならいいが、学年全部とか複数学年を専科として指導しろと言われたら万事窮すである。やはり天職ではなかったと言うことか。

 国語、算数、社会、理科、音楽、図工、体育いずれも好きなのだが、得意と言えるのは国語、算数、社会、体育ぐらいではないか。後は人並みか以下だろう。


2012122()

パソコン雑感

 2008年に今のノートパソコン、ビスタに買い換えたものだからもう4年になる。一度は液晶が映らなくて修理に出した。コジマの5年保障に入っていたけど。それでも3万支払うはめとなる。ハードディスクは一度も交換してないので、いきなり壊れる可能性は今後いつだってあるわけだ。

 で、買い替えを考える。しかしこのバージョンアップというのに付き合うのはいい加減嫌気が差してきた。今のままでいいのである。何も要求していない。だのに勝手にバージョンアップだ。昔のままで使いたいのに使えなくなる。選択肢が無い。エクセルもワードも操作方法が全然違ってくる。一つの項目を探すだけで手間取る。馬鹿馬鹿しい苦労だ。操作方法は同じにしておけよ。車だったら新車になっても運転方法は同じでしょう。サイドブレーキの位置とかは代わるけど運転に戸惑うという事はないじゃないか。それにどうして車みたいに長持ちしないんだろうねえ。机の上に座っているだけの代物なのに。

検討1

 中古ノートパソコン

デジタルドラゴンの中古パソコンは今書斎でスタンドアローンとして使っている。ハードディスクの交換は永久に無償というからこれでいいか。でも中古なわけだから故障も多いだろう。そのたんびに郵送の手間と金を使うのもねえ。ただこの会社の考えというのはなかなかいい。パソコンとOS自体は有料だが、添付されているオープンオフィイスもキングなんとかというセキュリティソフトもフリーソフトを採用している。ライティングソフトも閲覧ソフトもみな無料ソフトを使っているのだ。これは賢いというか合理的。

検討2

 外国製の安いノートパソコンを量販店かネットで買う。マイクロソフトのオフィスの入ってない奴。3万か4万で買えるそうだ。手持ちにオフィイス2000があるのでそれを入れる手もある。2000は認証を必要としないので、中古のXPに入れている。オフィイス2007より、ぼく的には使い勝手がいい。サクサク動くよ。ウインドウズ7や8で動くかどうかはわからないが。

仕事をやめればエクセルやワードにこだわる必要はないわけだから互換性を心配する必要は無い。2000が動かない時は無料ソフトでやればいいんだよ。ハードは中古パソコンよりは長持ちするだろう。

検討3

 OSも無料の物にして無料にこだわる。ウブンツのCDは先日作ったので準備はできている。それ用のパソコンがないだけ。退職後の暇つぶしとしてこれに習熟するのも悪くないと思う。

上記3点を見ると、NECのノートパソコンを買う可能性が無くなってしまった。いっそワープロに戻るという手もあるなあ。昔のワープロは家に埃をかぶったままあるし、多分動作するだろう。でもネットを閲覧できないからなあ。ネット閲覧のためのパソコンは老後も必要だ。ネットで図書館の予約をしたり、買い物もしているからなあ。ネットの無い生活に戻るのは辛い。ホームページも持っているしね。

2013年3月9日土曜日晴れ

 春を思わせる陽気だった。CB400で田舎町を徘徊する。

 自宅に帰って昼食後、アドレスで二輪館に行く。その後ブックオフへ。バイクの整備書105円。パトリシアコーンウェルの推理小説3冊、いずれも105円。たまたま石坂啓という人の「学校に行かなければ死なずにすんだ子ども」違っているかも知れないがそういう本を立ち読む。自分の息子が小学校に入学した早々担任を変えろと夫婦揃って校長室に抗議に行く場面だった。校長がコーヒーを入れてくれて、しっかりと話を聞いてくれてよい校長だったと評価。抗議の内容は

「担任が息子を何回か教室の後に立たせた。あなたは校長先生に職員室で話を聞いてないという理由で立たされても納得できるのか。それと同じではないか。」

というのだね。同じではないと思うのだが。大人同士の関係と教師と子どもとの関係を同列に考える方がおかしいと思うが。

「担任を変えないなら転校する。自分はマスコミで仕事をしているから転校したらこの顛末を書く事になる。それでもいいか。」

これでは恫喝だね。脅迫だよ。体罰は禁止されているが、教室内に立たせることは懲戒権として認められている。でもその後、コーヒーを入れるぐらいの校長だから何らかの指導があったのだろうね。この担任は立たせる指導を一切しなくなったそうだ。それで筆者は納得したらしい。

 担任の事を大はずれと言い、中年の管理型女教師と罵倒していたが、マスコミ関係者とはかくも権力者なのかねえ。一方的な物言いだ。なんだかんだ一年間自分の子どもがお世話になったのでしょう。校長はコーヒーは入れたかもしれないが、何かしたのかねえ。問題を荒立てないために担任に法的に認められている懲戒権すら禁止した事無かれ管理職としかぼくには思えないけど。筆者にはいい校長であり、悪い担任。自分は正義の見方で勧善懲悪を成した自慢話となっているのである。これで本が出来、印税も入るのだからねえ。いい商売だ。教師をやっている自分が馬鹿馬鹿しくなってくる。辛いよ〜。

2013年8月19日月曜日薄曇り
松江の教育委員会がはだしのゲンの閲覧禁止をしたそうだ。
どうもこの教育委員会という所は行政のお先棒を担ぐというか、
行政ができない右翼的な事をさっさとやってしまう所がある。
はだしのゲンがいかんという意見が市議会に出されたそうだが、
市議会はこの請願を拒否している。なのに教育委員会がこういう事を
やる。お先棒担ぎである。本来政治から中立な立場で教育行政を行う機関として
教育委員会があるはずなのだが、実態は違っている。
むしろ教育委員会が無い方がすっきりすると思うし、こういう異常な事も起こらない。
仮に起こったとしても、選挙で信を問えばいいという事になる。
教育委員会には市民の信を問う所が無いし、上を見るばっかりで民主的ではないのだ。
さっさとつぶしちゃった方がいいんじゃないの。

2013年8月29日木曜日晴れ
「はだしのゲン」の閲覧禁止を松江の市教委が撤回した。世論のバッシングに
耐えられなくなったからだね。いきなり頭をさげるのでは格好がつかないと思ったの
だろうね。まず校長会にアンケートをしている。現場の要請で閲覧禁止にしたわけ
じゃないのだから、これはおかしいでしょう。するなら事前にアンケートだ。
アンケートも取らずに上意下達で閲覧禁止を指示したわけでしょう。
アリバイ工作なんですよ。まあそれはそれとして、驚いたというか、がっかりというか
まあそんなもんでしょうと思ったのは、このアンケート結果です。
閲覧禁止の必要なしが小学校校長は48%、中学校校長は50%だというのだ。何を
恐れているのだ。世論はもう閲覧禁止を否定している。市教委は折れるのは目前である。
だのに半分しか閲覧禁止反対を言っているにすぎない。賛成は10%もあるのだ。
これじゃ平目教師と言われてもしょうがない。上しか見てないのだ。
自分の保身、出世しか考えてない奴しか校長に上がってこないのだよ。
 現場叩き上げの校長といっても、現場にいるのは長くても10数年でしょ。後は
市教委の指導主事やなんか行政にいて、そこから校長になるわけだから、そんな奴しか
おらんのだよ。
 これじゃ大阪の橋本市長が民間から校長を引っ張って来ているのを批判しても
説得力がないよね。民間も、現場も平目には変わらないのだから。

 閲覧禁止が具体的にどんな事をするのか想像できなかったのだが、なんと図書室から
取りだして倉庫にしまうというのだね。お倉入りだよ。燃やしたり、捨ててはいないが、
焚書であるのにはまちがいない。21世紀の時代にこんな焚書を校長が認め、
かつ実行していたなんて、実に嘆かわしい。自分を恥ずかしいと思わないのか。
それでも子どもに真実を教える教師か。お前らたんなる役人だろう。恥を知れ!

2013.10.9水曜晴れ
 行事黒板を見ると、女性校長教頭会なるものの出張が書かれている。
いまだにこういうものが大手を振ってまかり通っている。
まあ校長会というなら情報交換というので勤務とも言えるかもしれないが、
なぜ女性の校長だけで会う必要があるのか。そこで行う情報交換とは勤務と
言えるのか。そんなものが勤務と言えるなら女性教員のつどいがあってもいいはず。
土日か勤務時間外にやるならともかく、堂々と勤務時間内に出張手当も付けて会議
とはあきれかえる。こんなものを認めているから、教育委員会など不要だと思うのだ。

2013年11月27日

最後の赴任校の思い出

○○に赴任して退職まで後5年持つかなあと思ったのだが、いきなり洗礼を受ける。

算数の少人数指導教員の扱いだ。自分はテストの丸付けは自分でしたいのだ。丸付けをして子どもの理解力を把握できる。丸付けを他人に任すと確かに楽だが、子どもを理解する選択肢を減らす事になる。だから自分で丸付けをしたいと言ったまでだ。ところが、それは協調性が無いと言うのだね。○○ではテストの丸付けは少人数教員に任すのがルールだと言うのだ。そんなルールがどこにあるというのだ。自分が指導している子どもの丸付けをして何が悪い。丸付けを少人数指導教員に任せたいと言う人は任せればいいのだ。自分は他人の指導を縛る事はしない。同時に自分の指導を他人に縛られるのも嫌だ。

 で、話は校長先生に審判してもらおうという話になる。教務が御膳立てをする。馬鹿馬鹿しい。そんな事、校長に審判してもらうことか。一応自分が学年主任だったので、学年主任の意見を曲げるには校長の審判が必要だったのだろう。でもぼくは同僚が少人数指導教員に丸付けをやらせる事に反対はしてないのだ。自分はやらないと言っているだけなのだ。それなのに、自分にも同じように少人数指導教員に丸付けをさせるルールを校長の職権で押し付けようという同僚の思惑なのだね。実に馬鹿馬鹿しい話だと思った。

 結局自分が説を曲げないものだから、校長もそれでいいという話になった。なんかこの職場でも同僚とうまくやっていけないのだなという気になったものだ。



2014年1月4日金曜日晴れ

 年賀状が来る。もう出さないので返事を書くだけだ。昔の実習生や教え子が先生、定年ですねと書いてくる。定年だ。3月で退職。首。でもぼくの年から年金が繰り延べになるので1年間無収入なのだ。で政府が救済措置として無条件に希望者は採用してくれるそうだ。ただし給料は半分以下になる。いやなら無収入。救済というより、人の弱みにつけこんだ措置といった方が正確なのではないだろうか。

 迷ったが応募した。「おねげえします、お代官様」という卑屈な百姓気分だ。やっと奴隷から解放されるのに、やっと年季奉公から解放されるのに、やっと苦界から見受けされるのに、やっと防人から家に帰れるのに、自ら奴隷に戻る事になった。

 正式には今月中に採用通知が来ないと確定しない話だが、面接も無かったし無条件採用なのだろう。後はどこに飛ばされ、どんな仕事を押し付けられるかだ。まあ、本当に最後だから何があったっていいや。それより早く退職金をもらいたい。もらうものさえもらえれば、後は気楽に働けるだろう。

 今日も自宅近くの里山を歩く。歩く人も少なく、人気が無いのは人気(ひとけ)も無いので、自分にはいい所だ。散歩というか、徘徊といった方がぴったりくる感じだが。両足に一`ずつの足かせをつけて歩くのが奴隷気分でいい。

自宅に戻って昼食後、今度はCB400に乗る。凍結が恐いのでもっぱら町中を走る。つまんないがしょうがない。教習所のコースだと思って走っている。毎日乗れるとうまくなると思うのだが。最も車やスクーターは毎日乗らなくても自分の体の一部として運転できるし、不安感は無い。やはり200`のバイクは自分には無理ということか。行きつけのDVD屋をのぞくが気に入ったものは無かったので今回は返却のみ。この冬休みだけで、20枚ぐらいダビングしたかなあ。

2014年5月23日金曜日

昨日の大相撲を見て嫌になる。横綱白鳳の相撲だ。天敵のきせの里との立会い。右手を横綱が付いたのを見て、つっかけるのだが、横綱は待っただ。それも2回。3回目、右手を付いたのできせの里がつっかけるが横綱が応じないので腰を下ろす。そしたらそれを見て横綱が突っ込んできた。勝てるわけ無いじゃないか。一方的に寄り倒される。

 まったく横綱相撲なんてない。受けて立つのが横綱だろうが。モンゴル人の白鳳にはそういう気質がないのだろう。立会いの駆け引きで上位の横綱に合わせろと言わんばかりの立会いでこれまでも勝っている。これではおもしろくない。客を喜ばせてプロと言える。勝てばいいというのではアマチュアである。

 その後これまたモンゴル人の横綱鶴竜が土俵に上がったのだが、平幕の豪栄道にはたかれて負ける。そうすると白鳳が右手を上げたのだね。髷をつかんだ、反則だと言うのだ。どうやら控え力士にも物言いを言う権利はあるらしい。でも審判の親方衆はだれも意義は唱えなかったのだよ。異議を唱えなかった審判団が土俵上で協議。その結果反則負けとなる。おかしいでしょ。だれも意義を唱えなかった者通しが話し合ったら、意義無しとなるのが当然ではないか。一人でも意義を唱えた者がいれば、そいつの意見に説得されるというのもわかるが、だれも異議を唱えなかったのだよ。だのにどうして反則負けという判定になるのだ。横綱の意見に押されたとしか思えない。白鳳は今や大相撲の屋台骨だからね。でもその事と審判は関係ないじゃないか。モンゴル人通しで助け合って、それに日本人の親方衆が押し切られる。おもしろくもない。もう大相撲を見るのはやめた。3人ともモンゴル人の横綱が占めていて何が国技だ。笑わせるなって。

2014年6月29日日曜日

 心と身体が同一でない、同一性障害が話題だ。具体的には身体は男だが、心は女だとか、その反対を言うらしい。ぼくの場合、身体は男だが心も男だ。だからそれではないが、別の同一性障害だ。身体は老人だが心が老人ではないのだ。これは信じてもらえないかも知れないが本当にそうなのだ。若者だったのは、もう30年以上も前の事になるが、その頃の記憶ははっきりしているし、感覚と言うか性癖というか、まったく変わっていないのである。確かに朝鏡の前に立つとこの人だれ?というぐらいに別人になっている。頭も身体もボケてきて、時々つんのめって転びそうになる。老化が進んでいるのは日々実感している。でも心が老化しないのだ。このギャップはいいのか、辛いのか。青年の心を持ったまま、老人の仲間に入っていくというのは、魔法をかけられたみたいな感じだ。カエルにされた王子様みたいなもんだ。王子だとは思ってないけどね。

 周りは老人として接してくるし、時々面倒なので老人のふりをしているのだが、この辺の心境は心は女性なのに男性のふりをしているのと同じなのでは。どっかでカミングアウト(告白)しないといけないと思うのだが、したとしてもまた冗談を言っているぐらいにしか受け止められないだろうなあ。

2014年7月28日月曜日晴れ
 大相撲だ。稀勢里が白鵬に勝つ。先場所があれだっただけに喝采だ。
もう見ないと決めたのだが、豪栄道が先日白鵬に勝ったというニュースを見て
この一戦だけはと見たものだから、溜飲が下がったね。
 ところがだ。先日の鶴竜戦。もろ差しになったのにもかかわらず鶴竜が負ける。
変だね。千秋楽、日馬富がいい体勢になったのに転がされる。モンゴル横綱同士で
優勝を持ちまわっているんじゃないの。
 八百長という証拠はないが、おかしいでしょ。

再び白鵬について 2015年2月4日

 先場所白鵬が大鵬の優勝回数を越して前人未到の大記録を樹立した。めでたいことだ。これが世論というやつだと思うが、ぼくは癪だった。気に入らない、気に食わないのだ。何がだって。白鵬がだよ。大記録樹立後のインタビューで稀勢の里との取り直しの一番について、審判の親方連中を子どもでも見て分かる勝負が分からんやつらだと罵倒している。

どうも稀勢の里が相手だとこの人揉めるんだねえ。ビデオ判定でも同体に見えたし、そもそも審判に物言うのはおかしい。それだけでは足りぬと見えて、肌の色の違いで人を差別するのはうんぬんと言っていたが、肌の色なんて同じじゃないか、黄色人種なんだから。笑ってしまった。自分を黒人かなんかだと思っているのかねえ。それとも白人か。

 白人と言えば大鵬は白人とのハーフだったが、審判の判定に物を申したことがない。なにより、立会いにこざかしいことは一切しなかった。下位の者に胸を出していたよ。受け止めて投げ飛ばすなり、つき返すなりの相撲だった。まさに横綱相撲。白鵬は勝負にこだわりすぎ。下位の者に立会いを合わすどころか、自分に合わさしている。平気で待ったをするし、じらす、タイミングをはずす。勝ちゃいいというのは横綱ではない。とぼくは思うが。優勝回数なんてどうでもいい。やっぱり大鵬は大横綱。とても白鵬の及ぶ所ではない。大鵬の前に大鵬無く、大鵬の後に大鵬無しだ。役者が違うんだよ。どうも朝青龍の姿がだぶって見えてきたね。

 まあ白鵬としては人種差別的なものがあるということで自分を被害者にしたてあげたかったのだろうが、おこがましい。横綱3人がみなモンゴル人でどういう差別が行われているというのか。日本人は横綱にしないなんて差別があるのかねえと皮肉も言いたくなる。毎日ヘーシンク対神永の試合を見せつけられているようで、これで国技?おかしいでしょう。今の大相撲に何も期待するものはないが、大鵬と比べるのはやめてくれ。大鵬を越えたなんておこがましい。100年早い。


2016年3月10日木曜日曇り

 中3の男子が自殺したとニュースで知る。ネットでいろいろ調べると担任の顔写真やら電話番号などがばら撒かれている。この教師が人殺しなのか。

 報道によると中1の時この子が万引きをしたと誤記載されたらしい。その誤った情報を元に高校の推薦状を出せないよと担任が受験指導したとの事。本人は否定しなかったので担任は万引きした過去があると思ったそうだ。なぜ本人が否定しなかったかは報道ではわからない。昨年の12月に自殺。保護者はまちがった受験指導の結果子どもが自殺に追いやられたと抗議。

 で、この担任が人殺しなのか。情報がまちがっていたのはこの担任のせいではない。万引きをした過去があるという確認を本人にしている。体罰をしたわけでも暴言を吐いたわけでもない。万引きの過去がある子は推薦しないというのは学校の方針で、担任の一存ではないはず。校長推薦とあるのだから組織のルールに従って受験指導しただけだと思える。

 非があるのは

万引きの情報がまちがっていた。

それからこれはぼくの考えだが、万引きは学校外の非行行為なのだからそれを根拠に校長推薦をしないというのはおかしい。学校生活の中で掃除をしないとか教師に暴力をふるったとか校内の非行行為を元に推薦しないというならわかる。学校の中の情報なのだから学校が最もそれを知っており、責任が持てる情報なのだから。それに比べ万引きというのは外部から学校に持ち込まれた情報であり、その真偽はわからない。店によって示談で済ます所もあるし、絶対に示談にせず警察や学校に通報する所もあるだろう。それはその店の方針なのだから学校にはあずかり知らぬ所だ。だから万引きをやっても学校に通報されない子もいるわけ。不公平な罰歴なのだよ。

担任にも責任があるというなら、そういう誤った組織の方針に従ったという事だろう。自己の良心にもとづいてそういう組織の方針に逆らえばよかった。まあその事で首になる事はないだろうが、勤務評定は最低、給料は減額されるだろうねえ。

ぼくならそういう組織の方針に従わなかったと思うが、村八分は覚悟しないといけないのだよ。普通の先生がそんな事をするとは思えないしねえ。この先生は普通の先生でしょう。でもまあ強いて言うなら子どもの表情というかそういう所に気づいてもらいたかったなあとは思う。今この先生はそれに苦しんでいるんじゃないのかなあ。組織のルールなんて蹴飛ばしておけば良かったと後悔しているかもしれない。まあわからんが。いずれにしろ悪いというなら組織のルール。そこを糾弾すべきだね。顔写真やら電話番号をばら撒くなんて人権侵害だよ。

2017122日日曜日晴れ

稀勢の里が優勝した。しかもさんざん煮え湯を飲まされてきた白鳳に千秋楽で勝った。こんな日が来るんだ。努力を続けて行けばいつかきっと報われる。そう共感し感動した人が日本全国津々浦々に誕生したことだろう。自分もその一人だ。本当におめでとう。

2017年2月4日
指導計画は学年団で統一されてないとおかしいというのが指導主事の指導だと言うのだ。でも指導法が違うと指導計画は違ってくる。三読法だと第一次は全文通読して初発の感想を持つか、学習課題の設定という風に決まっている。一読法だと全文通読を否定しているわけだから初発の感想を持つなんてないわけだ。指導計画は学年団で統一されてないとおかしいという見解は、指導法は同じでないとおかしいという理屈になる。だとすると、三読法で行くか、一読法で行くか、まず決めろという話になる。そんなの多数決で決めることかね。研究とは多様性を認めることから始まる。同一の指導法でやるなら何の検証をするんだ。馬鹿馬鹿しい。足並みをそろえることは閉塞感を生み、自由な実践を阻害する。
第一文部省は指導法は三読法に限るなんてお達しを出したことはない。そんなの出すわけないでしょう。
指導目標や評価目標を規定して、それに達する研究をしなさいということでしょう。
教科書会社の出している指導書が三読法で展開されていたり、講演会の講師が三読法の指導者だったりするので三読法が日本の教育界で多数派という事実はあるが、だからといってそれが正義というわけではない。
なんか宮仕えの職場だなあ。足並みをそろえるなんて嫌になる。
三読法の同僚からもクラスの実態から出発するのだから、指導計画がクラスで違ってくるのは自然ではないかという意見も出された。ちょっと救われた気がした。

2018年1月7日
白鳳について
 巡業中、酒の席で(本割で白鳳に勝った)貴の岩に説教。日馬富士が暴行。これリンチだね。
日馬富士は白鳳の手先だね。高校の相撲部の同窓会という事だったらしいが、そこにモンゴルの力士が集まり傷害事件となる。でもその事を巡業部長の貴の花にも言わず、相撲協会にも報告せず黙っていたんだね。貴の岩の親方でもある貴の花が警察に報告。結局傷害事件として日馬富士は罰金刑が確定。横綱を引退。白鳳は減給。でもこれは単なるけんかではなく、一方的な暴行。
もっと言えば八百長に乗っからない見せしめとも考えられる。モンゴル力士の中で馴れ合いというか八百長の根回しがあったと勘ぐられてもしょうがない。だとすると、白鳳の大記録というのもオリンピックの金メダルの剥奪同様再考察されてもいいのではないか。
 結局相撲協会の最も重い処分は貴の花親方の理事解任。理事長は自らの減給申請だし、日馬富士の親方は辞任だし、処分ではない。本来なら相撲協会の中で揉み消す事件を貴の花親方が警察沙汰にした事の報復と思える。
 これじゃますます大相撲を見る気がしなくなる。前科の付いた日馬富士の引退興行を文科省の補助金の付いた相撲協会がやるのかねえ。教育の名に値するのか。前科者の引退興行を文科省が認めるなんて前代未聞。