総合科批判
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・総合科の内容が各学校や教師の自由裁量に任されてよいとすると、国民に必要な資質を養うという公教育の目的から言っておかしいと思う。どこの地域に住もうと公平平等に教育が施されるというのが公教育の姿なのだからその内容が全く自由であるということは、税金を投じてまでやる必要があるのかという疑問が出る。
 
・文部省の指導要領に法的規制があるのかどうかという問題は別にしても、全国どこに住もうと平等な教育が保証されるという前提からすればなんらかの共同の指針があるのは当然の事である。そうであるからこそ、税金を払う国民の同意が得られるのである。そのことによって学校で行われる教育内容の概要を国民は知る事ができるのであり、それに対し意見を持つ事もできるのである。
 
・公教育の目的と義務は国民に必要な資質を養うということである。小学校においてはそれの意味するところは、読み書き計算の基礎的知識を身につける事と学校という共同生活の中で集団性を養う事である。後は体育的文化的教養の基礎を養うことであろう。だとすると評価の義務づけのない総合科というのは義務教育で必要な活動なのだろうか。あってもいいゆとりぐらいの意味づけしかないと自分は思うのである。だから総合科の導入によって学校が変わるとかいうキャッチフレーズに自分は同意できない。
 
・この間学校現場で盛んに言われる支援とは何か。指導案でなく、活動案とは何か。
 
 教師は免許を得て教壇に立てる職業である。教えることの専門職である。音楽であれ、体育であれ、算数であれ、教える資格を持っていると国家に保証されている存在なのである。それは10年なり20年なり経験を積む事によりさらに実際的な力量を積む性格の問題である。そのことに対する社会的な認識なり敬意というものが、今日本では失われつつあると思う。指導という言葉の放棄と支援という言葉の氾濫に、自分はそれを感じるのである。地域の人の活用、父母の協力、それらを決して否定するものではないが、本来学校の教育は教師がやるものだという自信を教師から失う契機になっているのではないか。管理職の民間からの登用という問題も、現場教師の経験の軽視ではないかと思うのである。
 
 教師が教材を作り、わからない専門的なことは研修を積み自分なりに消化して授業に当たるのが我々の仕事だったのでないかと思うのである。
 
 それが教師は学習の場を設定し、あるいは学習の環境を整備するのが仕事であり、実際に教えるのはその道の専門職の人をお呼びして教えていただくという裏方に徹するのが支援なのだろうか。こどもが学習課題を見つけだし、その学習を進める事ができるよう支援するのが教師の仕事なのだろうか。
 
 なぜ、教師が教えてはいけないのか。なぜ、教師が語ってはいけないのか。子どもに夢を理想を、希望を語るのが教師ではいけないのか。その言葉から誠実さを学ぶ授業のあり方は画一的、教師主導型の過去のものなのだろうか。
 
 総合科の導入によって学校が変わるというのは、実は現場の教師の教える自治権の無視、否定を意味する事ではないかと思うのである。その後に何が来るか。それは大いなる混乱と学力低下、学校崩壊だと自分は思う。
 
追伸 
 自分は担任の自由最良に任される時間は欲しいと思う。しかしそれは現行の教育制度の下でできない事ではない。平和でも福祉でも情報でも現行の教科の枠の中で実践できない課題ではない。現実に自分は20年間平和教育を実践してきた。地域や行政が教師の教える自治権に対し相応の敬意を払ってくれれば教師は自信を持って実践できると思う。
 
 また教師に自己の良心に対する誠実さがあれば、外圧に屈する事なくできる事だと思う。
 
 それが指導要領に寸分違わず行うことを管理的に強要し、点検していき教師の自治を認めないなら、自分のような教師はいずれ処分の対象となり追放される事となるだろう。
 
追伸2 
 総合科の導入によっていわゆる先進校の実践のモデルとしてもてはやされているのが、グループによる学区探検である。教師の引率もなく子どもたちだけで公園やお店を探検する活動である。自分がおかしいと思うのはなぜ教師が付き添わない活動を認めるのかという事である。子どもたちだけで活動している際に交通事故や誘拐などの事故、犯罪にまきこまれたらだれが子どもを守るのか。今まで子どもたちが校外学習に出る際には複数の教師の引率を指導していた管理職までが、保険がかかっているから大丈夫だと認め始めている。金で済む問題なのか。保護者を付き添わせる形にしている実践もあるが、上記のような事故、犯罪に巻き込まれたとき引率した保護者に責任が問えるのか。自分にはなはだ無責任な授業形態だと思えるのでる。