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管理教育と民主、自由教育について

                                                  1997年8月15日に記述したものです。

 中3男子が神戸で小4,小3の女子2名を死傷させ、小6の知恵遅れの男子の首をはねて自分の中学の正門にさらした事件が今年起きた。

 マスコミや教育評論家、文部省まで様々な意見が紛糾している。自分もここで考えをまとめておきたい。

 まず、世論の一般的な主張についてまとめておくと、マスコミに登場する教育評論家の意見は総じて、管理主義教育がいけないという事だ。学校が規則や受験競争、内申書などで子どもを縛り付け、その自由や個性を圧殺している所に、子どものストレスの原因があるという分析だ。従って、悪の主体は現在の学校教育の在り方にあるという学校批判論だ。社会や家庭、地域の責任については、テレビゲームの暴力性や、習い事、塾、子どもの遊びの不足について申し訳程度に言及している。加害児童の親の責任について正面から論じている意見はない。新潮社が写真を公表した事を少年保護の観点から、強く批判し、むしろ加害児童は悪しき学校教育の犠牲者として、だれもがなりうるという共感、同情論が中心をなしている。加害児童の責任を問う論調もなく、むしろ刑罰で裁くのは悪であり、少年の更生を願う、保護という論点が強い。

 つまり、加害児童の責任も問わず、親権者の責任も問わず、責任を問うているのは、学歴中心の社会であり、管理主義教育の学校というわけだ。この論の解決策は、子どもを管理する事はやめろ、もっと子どもの要求や意見に大人は耳を傾け、対等平等な立場でカウンセリングしろ、話し合えという事である。

 文部省はどうか。「心の教育」を強調し、各校にカウンセラーの派遣を増加するという動きを見せている。上の理論に押されているようである。

 他の世論はどうか。少年法の改正を主張するものや、親の責任を問うもの、加害児童の特殊性に帰因し、一般化して論じるべきではないというものもあった。

 自分はどうか。自分の意見を述べる前に、子どもを管理するという事に対する誤解や偏見が、世間にも自分にもあったと思う。

 自分も若い頃、民主教育の担い手という思い上がりから、管理主義教育と民主、自由教育とを対立して考えている所があった。つまり、子どもとは管理してはいけないものだ、自由にのびのびと、その要求を出させ、大人はそれを受容すべきだという思い込みである。

 だから、あらかじめ規則やルールを決めておくのではなく、子どもを自由に活動させて、トラブルが起きた時点で子どもどおし、教師も対等に話し合ってそのつど解決していくのが民主的教育だと信じていたのである。教師が権威を持って児童の前にたつのは悪で、子どもと対等、平等につき合うのが民主教育だと信じていたのである。話し合えば分かり合えるという信念である。そういう信念でやってみた時もあった。
○○小で持った高学年の時がそうだった。そして挫折した。実践上行き詰まった。

子どもがわがままになるのである。クラスが弱肉強食の世界になった。教師である自分もそのわがままの攻撃の対象となった。なぜなら、対等、平等の立場だからちっとも恐くないのである。話し合いの世界だから、言語の支配する世界だから、つごうが悪くなれば嘘をつき、屁理屈をごねるのである。教師が正論で立ち向かうと、証拠をつかまれないよう口裏を合わせ、影でいじめや悪さをするのである。自分の指導性が無くなった。いや、自分から指導者としての立場を捨てたのだから、当然の帰結だったのである。

 それが管理を否定した自分の民主、自由教育の実践結果だったのだ。自分は徐々に反省した。少しずつ、民主、自由教育を自分の中で批判し、実践を変えていった。そして今、はっきりと教育の姿勢が見えてきた。その事をまず、述べておきたい。

1 教育に権威は必要である。教師は指導者として児童の前に立たなくては、教育は成り立たない。

2 子どもを管理するのは当然の事である。管理=悪という理念は単なる民主教育=自由という観念論、お題目にすぎない。そんな観念は百害有って一理なし。自分は捨てた。

3 教育とは知識を授けるだけでなく、児童に社会性や人間としての常識、民族としての文化をしつける事でもある。しつける事は話し合う事ではない。大人として、大人社会の常識、文化を子どもに押しつける事である。

では、具体的にはどう実践すればいいのか。

 教師は前記3点を実践する教師を演じる事である。生身の自分として児童の前に立つのではなく、教師という職を演じるのである。

 実践例として、

 クラスの児童の9割は日本の文化としての箸を正しく持てない。これはなぜか。家庭の、親のしつけができていないからである。あいさつができない、敬語が使えない、当たり前である。しつけられていないのだから。これは学校教育の帰結ではないのである。暴力的な言語を使い、すぐかっとなる子どもたちは、しつけられてない結果なのである。親権者の責任なのだ。子供を産んだ以上、しつけるという責任が親にはあるのである。
大人としての社会的責任なのだ。日本の社会は、親にその当然の責任を問わない。だから無責任な社会になっている。

 子どもに責任がないのなら、親に責任があるのである。親の責任、学校の責任、地域社会の責任、そして本人自身の責任それらをちゃんとけじめをつけて取らせる事、それは責任のなすり合いではない。当然の事である。それでこそ責任ある社会になるのだ。今のようになんでかでも公教育、教師の責任に帰していれば、子も楽だし、親も楽だが何の解決にもならないのである。

 では、教師として自分のできることは何か。それは学校という集団生活の中で社会性や社会的常識を身につけるようしつける事である。自分は授業では、まず教師の話をしっかり聞くこと、友達の話をしっかり聞くことを要求している。聞くことが集団学習では第一である。次に思いつきや無責任な自由発言は禁止し、許可された発言の場でしっかり自分の意見を表明できるようしつけている。体育や学活で集団遊びを組織し、楽しみながら社会性(自分を表現する、自分をがまんする)を身につけさせている。こういう実践を連日積み重ねていると、

1 子どもは教師の話を黙って聞くようになる。

2 公的な場面では、敬語を使いていねいな言葉使いをするようになる。

3 集団遊びの中で、生き生きとした楽しい表情を見せるようになる。

4 クラスの雰囲気が落ち着いた柔らかい安心したものになってくる。

 こうなると、教師自身が教室で生活しやすくなってくるし、子どももまたすなおな純朴さを見せてくるようになるのである。以前の民主的、自由教育の実践結果とは正反対のものが出てくるのである。

 さて、いよいよ今回の事件についての私の意見だ。

1 加害児童に自分の犯した罪をしっかり償わせる事。

  更正、保護という観点だけでは責任を取らせる事にはならないと思う。可能な限りの責任を取らせるべきだ。

2 親権者の責任を問う。

  児童の顔写真やインタビューがいけないのなら、親がその代わりの責任を取るべきである。民事上、刑事上の責任を問われるべきである。

3 学校、社会は被害者の人権侵犯を繰り返さぬよう、その事に全力を注ぐべきである。

  そのためには加害児童を停学するとかの具体的処分の権限を学校や教師に与えるべきだ。被害児童、加害児童の実態を最もつかんでいるのは現場の教師であり、学校なのだからそういう具体的処分の権限を付与しないことには加害児童の責任、親権者の責任、反省を促すことにならない。また、学校は社会の中で最も安全な所でなければならないのだから、それを保証するためにもぜひ必要な措置である。体罰は禁止され、具体的な懲戒権もない今の学校、教師の現状では、学校は弱肉強食のジャングルにならざるを得ない。攻撃され、その人権が侵害されているのは弱い児童だけではない。教師の人権も侵害され、退職に追い込まれている実態があるのである。

 暴力的な言動、行為は禁止されなければならない。その具体的な権限、懲戒権を学校、教師に与えるべきである。そうであって初めて、学校、教師の権威は保たれるし、児童、親権者の信頼も得られるのである。