教師から自信を奪う物

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2003.9.22の朝日新聞一面に、生徒指導に自信を持っている教師は6%にすぎないという記事が載っていた。英国では、47%、中国では73%だ。この数字の語っているものは何だろう。
 記事には「保護者や地域の目が厳しく自信を失う」と書いてあった。
 自分はこれに加え、文部省、教育委員会、管理職などが教員の権威を認めない事だと思う。
20年、30年経験を積んでもその意見を文部省は聞かない。現場の経験もない官僚が勝手に理念先行、机上の空論の指導要領改訂を押しつけてくる。ゆとり教育がその最たるものだ。あんなもの、現場の教員が要求したものではない。画一教育、知育偏重と現場を批判してゆとりを導入してきたが、1979年に教員になった自分に知育偏重と見えた学校は無い。あれは官僚の作文、幻想だ。
 連合運動会、連合音楽会、連合水泳大会、春の運動会、秋の運動会と行事、行事に追いまくられ、知育に偏重する暇は無かったのだよ。その行事がようやく精選されたと思ったら、今度はゆとり教育の導入だ。「わたしの猫ちゃん地図」とか「ぼくのロボット」などこんなもの夏休みの自由課題でいいではないかと思う物が、堂々と授業時間に登場してきたのだ。従順な教員はこの取り組みに従って来た。その結果、学力低下だ、何やっているんだと叩かれる。
 生活指導をちゃんとやろうとすると、こどもが逆らう。言葉で通用しない子供を力で押さえると体罰教師だ、子供の個性をつぶすと叩かれる。
 結局自分を守ろうとすると、周囲をうかがい無難な線を選ぶしかないではないか。

 自分のように首覚悟で教員をやっている者は、迷いはないが、そうでない教員が不安なまま教室で過ごしているのは当然だと思う。自信を持っているのは、自分のような馬鹿信念の持ち主か、本当に馬鹿で何が不安かわからない教員なのだろう。

 今日は運動会でやる「七月エイサー」のはちまきの巻き方を指導した。普段スキンシップはしないようにしている自分だが、これはスキンシップをしないわけにはいかない。ぼくの教室の子はすなおでかわいらしい。普段自分が子供と友達づきあいをしないで、権威ある教師としてつき合っている結果が、子供たちのすなおさ、かわいらしさを引き出していると思う。
 ぼくは保護者に体罰教師と抗議されようが、管理職に指導されようが、自分の信念を曲げる事はしない。ぼくの教室が崩壊しないのは、この自分の信念によるものだ。それが通用しなくなったら、明日でも潔くぼくはこの仕事をやめるよ。