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一読総合法のすすめ 

2009929日 文責 ○○

教師になって一番奇異に感じた事は三読法である。通読した後、精読、味読と同じ物語を三回も読む学習法である。つまらない。

読書の楽しみは物語の展開ごとに涙したり、憤ったり、不安に駆られたり、つまり読者の心の葛藤がドラマの展開とないまぜになって高まって来るところにある。特に文学の場合は、映画やテレビなどの映像が一方的に流されるのと違って読者は物語の途中で自由に立ち止まって空想できる所に最大の利点がある。

 ところが通読という作業はこれら文学本来の楽しみを一気に壊してしまう。映画で言えば、ダイジェスト版を流して結末まで客に教えてしまってから、本編の映画を見に来なさいと言っているようなものなのである。こんな映画の予告編を流す馬鹿な業者はいないでしょう。

 学校の国語の授業とは、本嫌いをわざわざ作っているようなものである。そんな時出会ったのが一読総合法の本だった。我が意を得たりと思ったね。書かれてある事はごく常識的な事だと思った。以下紹介します。

 まず題名読みをします。図書館や本屋で本を手に取る時、だれでも背表紙に書かれてある本の題名を見るよね。その時その物語の内容や登場人物をだれでも空想するものなのですよ。で、おもしろそうだなと思って手に取るわけです。それを授業の第一次として構成します。

 以前その物語を読んだことのある子は黙らせておきます。そういうルールをあらかじめ作っておくのです。で、読んだことの無い子に自由に登場人物や話のあらすじを予想させて発言させるわけです。これで大いに盛り上がるというわけではないですが、本来の読書の仕方というものを体験させる事に意義があります。

 次は書き込み作業です。行間に感想を書かせます。本に字を書くのに抵抗のある教師はノートに書かせたり、本をプリントアウトしてそれに書き込みをさせています。

 いきなりは書けないので、教師が見本に書き込んで見せます。感動したこと、不思議に思ったこと、これからどうなるのか予想を書くとか、いろんなパターンを見せます。

 一読しかしないのですから、教科書の場合、見開きで読みをストップさせないといけません。先を読んじゃいけないよというルールを作っておきます。そうしておいてその見開きの中で全員が書き込みすべき個所を指定する方法もあります。ぼくは大体そうしていますね。書き込みが終了したら、書き込んだ事を元に話し合いを組織します。子供なりの読みが出て、ぼくは楽しいなと思う事があります。50代後半のぼくと小学生が同じ読みをするわけがないですよね。もちろん教師の読みも紹介します。多様な読みが出て話し合う事が目的なのですから、子供の読みだけで授業が進むと、低次元の読解で終わる恐れがあります。大人の読みを聞いて、子供は感動する事もあるのです。教師はそれぐらいの読みを展開できなきゃだめです。

それで最後まで読み進んだら、終わりです。読書感想文なんて書かせません。あなたは本を読んだら毎回感想文を書いてますか。

読後感を書かせる実践もありますが、ぼくは毎回はしていません。音読練習はそのつどやってもいいし、全体の読みが終わってから取り立ててやってもいいです。

この実践を4年生では「一つの花」でぼくはやるつもりです。みなさんもやってみませんか。

公立小学校とはしょせん役人の世界だなあというのが長年教師をやって来た自分の感想です。お上が薦める授業法が日本全体を津々浦々まで支配してしまいます。教授の自治という思想自体が無いですね。自分の良心や教育実践にもとづいて主張してもお上のやり方と違うと干されたり、無視されてしまいます。一読総合法しかり、水道方式しかりですね。でも、純粋にいいものはいいし、王様は裸だと自分は叫び続けます。

 

王様と言うと「一つの花」は戦前の絶対的天皇制の説明を無視しては本来の読みにはならない気がします。今の北朝鮮のキムイルソン、違ったキムジョンチョン?なんか違うなあ、でもそんな名前の王様の絶対的支配ですね。その下で人民は逆らう事もできず、死地に向かう不合理さです。日の丸の旗を振られて、あなた行かないでとも言えず、万歳としか言えないのですから。その不合理さは戦前の日本の説明を抜きでは、子供でも大人でも理解できないでしょう。だから自分は平和教育の教材としても「一つの花」を扱っています。事前授業として広島、長崎の被爆写真を提示して、戦前の日本の説明をしています。

これも利用していただけるとうれしいですね。

 

運動会ありがとうございました。さぼっているように見えたでしょうが、ぼくも大体はがんばりました。信じてください。