2003年の抱負

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 いよいよ50代に入る。定年まで後10年だ。どんなにがんばっても10年しか残されていないのだ。まあ10年勤められるかどうかわからないし、やめるかも、やめさせられるかもしれない。未来の事はわからない。自分にどうこうできる事でもないしね。
 でも最後の直線コースに入ったみたいだし、なんか気楽だね。

 学校ではパソコンの保守係をやらされている。委員会や業者との窓口だね。一応情報教育推進の立場に立っているわけだ。でも学校でパソコンにかかわって10年以上になると思うが、授業に必要なものだとは思えない。あってもいいゆとりみたいなものだと自分は理解している。あそこで何か教科的な目的が達成されるとは思えないのだ。むしろあそこのソフトに習熟する事に授業時間を割く事に無駄な物を感じる。今は情報収集というとすぐにネット検索になってしまうのだが、小学生が情報を収集する手段としてネットを選ぶのは一体どういう力を育てる事をねらっているのだろうか。人が集めた情報をのぞき見するより、自分の足で歩き、自分の言葉で聞く事の方が大切な能力を育てると思うのだ。
 こう言うと情報教育反対論者だね。まあそうなるでしょう。教員の事務機としてのパソコンの活用には賛成である。でも教育機としてのパソコンには反対だ。いらないし、かえって教育を阻害する原因になると思うのだ。教科書、教師、図書室の本、直接的な体験それに授業時間を割くべきだ。パソコンに授業時間を割いている教師は教師としての本来の仕事を理解していないと自分は思う。

 学校現場では時の政策の影響でいろいろな実践が強要されている。自分が教員になった79年の頃に比べ、国家の強制が強くなってきた。対抗勢力だった日教組は骨抜きの御用組合になってしまった。
 日の丸、君が代に反論するどころか、問題意識を持っている教員すらまわりにはいなくなってしまった。平和教育や自主的な教育課程を作ろうという意欲もない。時の方針に従順に従い、いやむしろ積極的にそれに乗っかっていく事が先進的な取り組みだと自負している同僚に囲まれている。

 先日も学校評価会議で子どもをさんづけで呼ぼうという提案があった。理由は子どもも大人も人間として対等な立場だから共にさんづけで呼び合おうというわけだ。この運動は20年前からあるので唐突な感じはしなかったが納得できないものがあるので、自分は一人反対意見を述べた。基本的人権として子どもも大人も同等の権利を持つというのは、今の日本国憲法の下で自明の理だ。その事と子どもと大人とが対等だという論理は違う。選挙権、労働、納税の義務を持つ大人と、保護される立場にある子どもとが対等な立場にあるわけがないじゃないか。小学一年生に田中さん、鈴木さん、佐藤さんと呼んで大人扱いをする事にどういう教育的価値があるのだ。そんな社会的常識と違う事を学校生活の中だけ展開しておいて、本人が社会に出た時先輩、後輩、上司、部下という社会的立場に遭遇した時の困惑を考えないのだろうか。結局困惑し、苦労するのは、そういう理念にふりまわされる子供たちではないか。
 国語教育の目的は、敬語表現を持つ日本語を教える事にある。さんづけするより、むしろ女の子も含めて君づけで呼ぶ事の方が国語教育の徹底という点では、理が通っている。ただ長年の慣習で男女の区別をつけるため女の子はさんづけで呼んでいるわけだ。男の子は君づけで良い。現行のままの方が教育の理念として筋が通っていると主張したわけだ。自分としては実に筋の通った意見だと思うのだが、賛同意見はなかった。もっとも反論も出なかったが。出れば論破するつもりでいたのだが、学校の会議とはこういう雰囲気なのだ。正義が何かと論じ合う場ではない。多数派が何か、権力を持っている意見がどれかをうかがい合う場なのだ。自分は多数派ではないという事は馬鹿な自分にも察しはついたよ。

 自分のような自己の良心と信念を頑なに守ろうという教師は、孤立せざるを得ない状況だ。まあ自分の良心や信念がどれほどのものか、またそれに見合う実践ができているのかは自信の無い所だ。
 でもテレビに写っていた前天皇を見て、今80を過ぎている父が
「こいつのためにたくさんの兵隊が死んだんだ。」
と憤っていた横顔は忘れられない。沖縄の本土復帰、ベトナム戦争それらを真摯に捉えて考えてきた自分の半生を抜きにして新しい学力観など捉えられるわけがないじゃないか。

 具体的な方針
 読書、音読、計算ゲームなど基礎学力をつける事に全力を注ぐ。
 あいさつ、返事、敬語表現、掃除など社会性を育てるしつけ教育に全力を注ぐ。
 音楽、鬼ごっこ、地域探検など体験的ゆとり学習に取り組む。
 平和教育、国民としての基本的資質を養う上で必要な政治、人権的教育に取り組む。
などなどだ。この20年間同じように取り組んできた。
 教科書を使わない教師、暴力教師、偏向教師などと批判されてもきた。確かに口で言って聞かない子はひっぱたいた事もあったし、これからもあると思う。それが暴力教師ならそうだと受け止めるよ。それで首になるなら仕方ないという覚悟はある。教科書を使わない、偏向だという批判は教育という営みに対する誤解に過ぎないと思っている。目の前の子どもの実態から出発すれば、教科書や年間計画にこだわる実践の方が教師として偏向していると自分には見える。
ともあれ、後10年だ。必要なことなら、ベテランと言えども、自分のこれまでの方針を変える勇気を持たないわけではない。だが、単なる保身主義、出世主義から時流におもねる気はない。今までの実践を振り返って恥じる所はない。基本的には正しい実践を積み重ねて来たと思う。むしろこれまでの自分の実践、信念を曲げるぐらいならこの職を辞すべきだと考えている。
 職を辞してどうやって食っていくのかという問題はあるが、教師という職はそれぐらい尊いものだとぼくは思うよ。食っていく方策はまた別に考えればいい。食うために信念を曲げて働くには、この仕事は厳しすぎるよ。へたするとノイローゼになりかねない。自己の人間性と密接に結びついているのだ。多くの教員がノイローゼになっているのは、その辺の矛盾を抱え込んだからじゃないかなあ。
 やっぱ、信念を曲げるくらいならやめた方がいいよ。そうするよ、ぼくは。