橋のない川

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 神奈川県のA市の文化会館で「橋のない川」の上映会がある。入場料は900円。夜という事もあり、一人車を走らせ参加する。
 28か29年前に一度見た。あれは有楽町の映画館だっただろうか。「橋のない川」一部、二部の上映だった。当時自分は法政大学の貧乏学生だった。映画館に行くと、これは差別映画だという事で、当時法政大学を牛耳っていた中核派が、5,60人映画館を取り囲んだり、鉄パイプを持ってロビーに座り込んでいた。
 部落差別を糾弾する映画そのものが差別映画として糾弾されているという、今思うと何ともわかりにくい状況がそこにあったのである。
 恐怖感を抱えながらも、ここで帰るのは理不尽な事に屈する事になる。勇気をふるって入場した記憶がある。大体、差別かどうかは見た者が判断すればいい事であって、見る事を許さず、差別映画だと強制する事自体がファッショである。
 他人に判断する自由を許さず、価値観を押しつけるのは独裁主義者のやる事だ。それは天皇制を国民に強要した価値観と同じではないか。

 映画には何よりも生身の人間が描かれていた。生活の臭いがした。その中で部落差別、人間差別の不当さ、悲しさ、理不尽さが見事に描かれていた。
 感動した。そしてどうしてこの映画を見る事を許さないのかと怒りも感じた。

 後ほど知ることになったのだが、監督の今井正さんが共産党系?だという事で部落解放同盟から差別映画と糾弾されたようだ。でも映画の冒頭に出るのは部落解放同盟推薦の文字だし、その後文部省特選だの神奈川県特選だのの文字が並ぶのだ。明らかに当初は部落解放同盟も推薦したのだ。その後政治的な対立等があって、差別映画にされてしまったのだろう。

 同和対策法が時限立法で無くなったからだろうか。今夜は差別映画だと叫ぶ者も、ビラも無かった。平和な上映会だった

 本当にこれが差別映画だと思うのなら、糾弾を続けるべきである。
10年立とうが20年立とうが30年立とうが、そうするべきではないか。何より作者である「住井すゑ」そのものを糾弾すべきではないか。
 住井すゑは天皇制を最も糾弾していた文学者だった。天皇制に反対する者は人間差別に勇気をふるって反対する者ではないか。その者をどうして差別者と糾弾できるだろうか。

 28,9年前の怒りが沸々とよみがえった夜だった。