生活科町探検の犠牲者

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2003年6月7日の朝日新聞朝刊の記事に驚く。
 心配していた事が現実になったのだ。東京都の公立小学校の2年生が授業中に軽トラックにはねられ死亡した。生活科、町探検で6人のグループで地域探検をしていた最中の事だ。教師の引率はなく、保護者の一人が付き添っていたとの事。保護者に何の責任が問えるだろうか。

 教師が引率していても事故に遭う可能性はある。でも子どもだけのグループ学習で校外を探検させる事に何の必然性があるのだろうか。交通事故、誘拐それらの危険を承知の上でやる必然性がこの生活科の町探検にあるのだろうか。

 生活科はゆとり学習の延長線上に出てきた教科だ。総合も同じである。言ってみれば、あってもいいゆとりなのだ。それなのにどうしてこういう危険を冒してまで実践するのだろうか。それは生活科の実践モデルがあるからだ。だから全国的に似た実践が展開されているのである。

 自分は職員会議で何度かこの実践に反対の意見表明をしてきた。教員が引率しない形の授業実践では、交通事故や誘拐からどうやって子どもを守るのか、万が一の時の責任はだれが取るのかと問いただしたのである。それに対しての答は、保険に入っているとか、子どもは地域で生活しているのだ、特別の事ではないというおよそ納得のできないものだった。でもその回答者が校長や指導主事という事で現場の教師は従わざるを得ない雰囲気がある。少なくとも平教員の自分の意見とどっちを取るかと言われれば、答は決まっているだろう。だが、納得できない自分はそのような実践を拒否してきた。自分が町探検をする時はいつも自分の引率の下で行い、こどもだけのグループ行動は企画しなかった。放課後の宿題として子供たちだけで町探検させる事も認めなかった。

 現場の教師が現場の判断で実践モデルを拒否する勇気を持てば、このような犠牲者は出なかったはずだ。亡くなられた子どもの親御さんが可哀想でならない。学校とは最も安全な場所であるはずだ。そう思って学校に預けているのに、子どもはわけのわからない町探検という学習で、教師の引率も無く子どもだけで町に出て、車にひかれ死んだのだ。納得できるはずがないだろう。
 責任はこのような実践モデルを全国展開させた文部省と、教育委員会、そしてそれに安易に乗っかっていた現場教員にもあると言わざるを得ない。全国の現場教員から石が飛んでこようと、村八分に会おうともそう言わざるを得ないのだ。 

 関西で精神に障害があるらしい男性が刃物を持って小学校に乱入して、多くの子どもが刺し殺された。あの事件以来、学校は煩わしい程門を閉め、部外者の訪問に名札を着用させるなど神経をとがらせている。なのに、子供たちだけで校外学習に出させるという神経が理解できない。門を閉めろというのも文部省の通達だし、生活科で外に出せというのも文部省の指導だからだろう。でも現場の教員が現場の判断でおかしいと思う事はおかしいと言い、拒否すればいいのだ。その勇気を持つべきだ。