表紙に戻ります
*cd−rを整理していたら、昔のHP試作品が出てきた。
自分がこのHPを立ち上げたい動機になった文章だと思う。
どうして埋もれたままになっていたのかは自分にもわからないのだが、
載せる事とした。従って、昔の文章ではあるが、最新作である。(2004年9月20日)

私の学級経営方針 2000.8.16  

小学生をどうとらえるかで 経営方針も決まってくる  

 思春期を迎える中学生にもなると子どもは、親でなく異性や友人、自分の将来に関心が移ってしまう。体力的にも親を上回り、子どもを生む能力も備わってきている。動物的に考えるともう親離れ子離れしないといけない時期だと思う。だから思春期を迎えた子どもに対し、いつまでもスキンシップ的な親子関係のつきあいは無理だし、子どもの自立を阻害するものとなる。親は小学生までに必要な社会性を身につけさせる責任があるし、思春期を迎えた子に対しては、その子の自立を支援するパトロン的対応をしていく必要があるであろう。教師にしてもその辺の違いを見据えた学級経営方針が必要である。  

小学生はまだ依存的であり、強い指導、規範を必要としている  

 社会性を身につけさせること、これが小学校の担任の大きな仕事だと思う。家庭の中の社会性は親が身につけさせるものだが、集団の中での社会性は家庭では身につける事が不可能である。40人という大きな同年齢集団の中での自我のぶつかり合いとその調整の体験が必要である。

 そして教師という社会的規範の体現者によって自分のわがままを調整したり、がまんしたりする体験が必要である。教師という存在が単なる児童の共感者だったり、集団の中での調整役だったりすると、子どもは自分が集団の中でのボスになろうとし、自分のわがままを意識したり、がまんしたりする事ができなくなってくる。しかし、どんなにボス的にふるまっても学校という枠組みは教師を中心になりたっているのであるから、不満は際限のない物になってくるのである。授業が主体であり、教える項目は文部省の指導要領によって決まっている。ボス的にふるまってもその基本の枠組みを壊す事は児童にはできないのである。せいぜいできる事は授業のボイコットであり、エスケープである。このようなことは子どもの欲求不満を増大させるだけで何の幸福感も満足感も与えない。不幸である。   

 教師は児童の共感者や集団の調整役にとどまらず、確固とした社会的規範の体現者として児童の前に立ちはだかるべきである。

児童の社会性を育てる具体的な取り組み  

 担任が指導者であるという社会的関係を理解し、意識させる取り組みが必要である。私はそのために毎朝の健康観察を利用している。名前を呼ばれたら、「はい」と返事をする。起立し席を入れる。
「○○先生おはようございます。元気です。」と教室中に届く声量で発言させるのである。その際、きちんとした挨拶を強要しているわけであるが、それは一つのスキンシップでもある。親子ではないので直接的なスキンシップはやらない方がいいと自分は思っているので、その代用的なものがいくつか必要である。

 そしてこの朝の挨拶の時、ふざけたり、担任の権威を無視したりする振る舞いを見せる子はみんなの前で妥協せずに叱り通す事である。この場面で負けると他の子も同調することになる。朝の大切な指導場面なのである。毎朝が極端に言えば戦場である。これがうまくいったら、次に自分の場合はギター伴奏で歌を歌う事にしている。指導関係がしっかりしていると子どももしっかり歌ってくれるのでこちらも幸せな気分に浸れる。  

 授業の中や給食当番、掃除指導など子どもに作業させたり、教え込んだりする場面が一日の生活の中で大半を占める。休み時間の時に良寛さんのように子どもと自由に遊べる時間もあるがそれは少ない。遊びの中ですなおな笑顔を見せる子が、指導の場面でわがままを押し通したり、さぼったり他の児童とけんかするなど教師を困らせる事が必ずある。その時に児童の共感者や集団の調整役にとどまるとクラスに荒れが見えてくるのである。この時が勝負と考えるべきだ。社会的規範の体現者として毅然と児童にあたるべきである。説得は効果がないし、生意気な言動をされるとこちらもカッとするが、体罰はしない事だ。  

体罰がいけない理由は、

たたいたり、けったりすると子どもは反発心と憎悪を持つ場合があるからだ。

力で押さえつけ、こちらの優位を示せばいいのだからたたいたり、けったりする必要はないのである。

 自分は説得が無視されたり、生意気な言動で反抗されると力を誇示し、力の優位関係をはっきりさせる事にしている。具体的に言うと、子どもを両手で挟みつけ、にらみつける。それでも反抗的な姿勢を見せる場合は持ち上げる事にしている。大体、これで小学生なら降参する。相手が中学生なら無意味な行為だし、こういう場面になること自体を避けるべきだろう。それは話がそれるのでここまでにするが、小学生にはこの方法で十分だということである。  

体罰がいけないもう一つの理由は、法律で禁止されているからである。

 体罰の理由がなんであれ、その事自体を問題にされると教師は児童と保護者に謝らざるを得ない。このことは最悪の結果になる。教師にとっても不幸だが、それで鬼の首を取った形になる児童とその保護者にとってもまちがった結果を増長させることになるのだから、不幸な事なのである。だから自分はたたいたり、けったりしないようにしている。体罰問題にされると、怒った事がすべて無になるどころかマイナスにもなるので絶対やらない事にしている。そのかわりに両手で挟みつけたり、持ち上げたりするのである。これなら児童にけがをさせることはないし、体罰問題にもならないからだ。  

 しかし困ったことには、ここまで力の優位関係をはっきりさせても自分のわがままに固執する子が最近出てきた事だ。もうどうにも指導ができない。はりたおすしかないと教師に思わせるというか追いつめると言うべきかそういう怪物が現れてきたのである。  

最後の手段、それは指導の放棄である。

 自分にはこういう超わがままな子は指導できないと宣言する事である。宣言であるから、それは当の児童に言うのはもちろん、クラスの子みんなにもこの子は先生は指導できませんと言う、校長や保護者にも言うのである。  

 具体的には、 「君はもう帰りなさい。理由は先生の言うことをまったく聞かないからです。お母さんにもそう言いなさい。先生からも電話してよく話しておきますから。それでいいですね。」 と宣言し、指導を拒否するのである。指導を貫徹しようと体罰をすれば首になるかもしれないが、指導に従わないから指導を拒否するのでは首にはならないだろう。問題を保護者や校長も巻き込んで大きくし、それでも解決しないならしかたないではないか。最悪指導力がないからと首になる結果になったとしても、体罰をしたから首になるよりずっと自分としては納得できる。幸い今のところ指導の拒否を宣言すると、児童の方で
「ごめんなさい。もうしません。」
と謝って来たので問題を大きくするはめにはいたっていない。 

 しかし、将来そこをも突き破る怪物が出てこないとも限らない。そうなったらなったで、体罰で首になるより自分は指導拒否で首になる道を選ぶ。その方が後腐れなくこの職業を後にする事ができるからだ。

指導を貫くには覚悟が必要である。

何を教えるか  

 教師の仕事の第一は基礎的知識をしっかり身につけさせる事である。これはたんに知識を教えるだけではない。身につけさせるためには、児童自らが繰り返し学習する姿勢を持つようにしむける事が肝要である。だから学習の仕方を教える事が勉強を教える事になるのだと思う。

 基礎的知識の中心は読む力である。そして書く能力である。また加減乗除の四則演算能力である。これら基礎的知識は大体1,2年生で決まる。低学年でしっかりやることは読むこと、書くこと、加減、九九の暗記である。これが一番大切だ。ここをすべての子にしっかり身につけさせる事が肝要である。教師の使命と言ってもいいと思う。すべての子にという所が公教育の肝要だろう。だからここを乗り越えた子は少々遊ばせて置いてもいいと自分は思っている。

 その分、乗り越えられない子の個別指導に全力を上げるべきだ。家庭的問題で学習に向き合えない子、能力的、性格的問題でどうしても乗り越えられない子も残念ながらいた。でも大体はこちらの熱意でほとんど全ての子が乗り越えられる。低学年の指導は誠に重要であると言わざるを得ない。それ以外の事はどうでもいいことだと自分は思っている。生活科は遊びである。図工や体育、音楽はお楽しみの教科でいい。校内研究の関係かなんかで基礎的知識を身につけさせる事に手を抜いたとしたら、それは公教育の教師としては背任行為だと断言する。  

 中学年、高学年でもこの基礎的知識がないと結局授業についていけないし、授業中阻害されたお客さんとして児童は一日の大半を過ごす事になってしまう。  自分は計算ゲームとして1,2年には加減の繰り返しを、中、高学年には「往復算」を徹底的にやらせている。

基礎的知識の上に載せる物  

 20年以上現場で働いていて感じる事を列記する。  
 今の小学校で欠けているのものは、集団遊びと平和教育だと思う。  まだ小学生である。6年生だろうと鬼遊びをやらせるべきだ。オリンピックのミニチュアみたいに器械体操や陸上や球技、水泳をやる必要なんかないと思う。

 6年生でも鬼遊びを毎日のようにやらせ、集団で遊ぶ楽しさや規律に従う必要性を体験させるべきだと思う。この点が指導要領に欠けていると思う。 自分は学年に応じた鬼遊びを積極的にやっている。中、高学年では「三色鬼」をやっている。    

 天皇制というタブーが日本の社会を覆っており、それが過去の戦争の総括を政治の問題として棚上げにし、教育の場で子どもに何も教えないという現実になっている。国際的には、あるいは対外的には政府も侵略戦争と認めているのに、過去の戦争の真実を公教育の場で教えようとしていない。うわべを遠慮しいしいなぞっているだけだ。指導要領では日の丸、君が代の忠誠を国民に強調しているために、現場の教師は真実を教えることに恐怖感を持っている。

 素直に考えれば天皇は王様(生まれによって地位が決まり、男子のみが相続できる。不労でありながら莫大な資産と収入を得てたくさんの僕を持っている)であり、民主主義と相反する事は自明の理である。 いわんや戦前の天皇制の下では、人格を持つのは唯一裕仁一人であり他は全て天皇の僕であるのが建前の世界だったのである。そういう歴史の真実を教える事ができない所に日本の教育の不幸があると思う。  

 自分は7月を平和教育月間と位置づけ、広島、長崎の被爆写真のパネルを教材に授業を構成しやっている。今年はビデオ「はだしのゲン」を視聴させ、感想を書かせた。国語や社会でも折に触れて歴史の真実を新聞の記事や資料を下に話すようにしている。大体の子が初めてのように聞くのは、教師が教えてない事、保護者が教えてない事、日本の歴史教育の欠落を証明している。  

 これからの日本の主権者として子どもたちは育っていかないといけないのだから、たくさんの情報の波の中から真実の情報をつかむ能力、その情報の批判的吸収と自己表現の能力を育てるべきだ。 批判力とは倫理観を下地にするものだ。倫理観の欠落した者は情報を批判的に吸収する事はできず、たくさんの情報の渦に流されてしまう。マスコミの世論形成は、無知で倫理観の欠落した市民の下で恐ろしい力を持つのである。  

倫理観とは何か  

 戦後民主主義の間違った点は、全共闘によく表れていると思う。過去の全否定、敗北主義、基礎的知識、倫理観の欠落、そして保守主義への合流である。ここでは全共闘論を述べる場ではないのでここまでにするが、他人に迷惑をかけなければ何をやろうと個人の自由だという考えが、間違った倫理観だと思う。

 他人に迷惑をかけなければ、薬をやろうと飲酒しようといいわけだ。売春だって個人の自由の問題になってしまう。親も子供にこう言われると反論できないのが悲しい。おまけに過去の権威はすべて打倒すべき対象になってしまったから、他人の説教は最も軽蔑されるものとなってしまった。その結果を列記したい。

 親と子は対等、平等の間柄だからということで躾ができてない。はしが持てない子がクラスの9割か8割はいる。おそらく未来の日本社会では正しいはしの持ち方は無形文化財になるだろう。  同様に大人や教師の権威を否定して入学してくる子がいる。大人と子どもの関係を持つのが大変である。超わがままの子が一割クラスにいると、始終けんかを繰り返し、互いに自己の正当性に固執するので調整ができない。場合によっては、保護者を巻き込んでのけんかになり収拾が全くつかなくなり、教師は無能呼ばわりされる結果になる。

 建設的な意見は「ダサイ」意見となり、他や全体をおもんばかる意見は「いい子ぶりっこ」となる。クラスの中で正義が通用しない。弱肉強食の無法地帯となる。  
 教師が「おはようございます」と挨拶しても「オッス」と返ってきたり、無視されたり果てには 「くそばばあ」呼ばわりだ。それでも登校できる日本の公立学校は狂っている。 現場の教師に懲戒権、具体的には出席停止の権限を与えるべきだ。その上で児童、保護者共々反省させる機会を与えるべきと思う。何をしようと登校できる現状では弱い子の人権は誰が守るのか。いや、教師の人権だって犯されているのが現実だ。人権どころかナイフでめった刺しされて命まで奪われた教師だっているのだ。  

 みんなのために、社会のために自分のわがままを抑え、協力できる事はしていこうというのが、社会を成り立たせる倫理観だと思う。それに反する個人主義、倫理観は社会を崩すものとして排斥して行く雰囲気を作っていかなくてはならないと思う。それをクラスの中で作っていく努力を自分はしている。それが未来に繋がる小さな自分の努力である。