学校で学ぶ事

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 今盛んに教師に求められているものは、子供への共感的理解だ。そして子供を平等な存在として尊重する事だ。これが学校教育の方向を誤らせていると思うのだ。
 これらの方向が導くものは、子供の幼児性の増長と自己中心性の拡大だ。
なぜかと言うと、子供の気持ちをわかって欲しい、わかってやるという大人側の働きかけばかり重視して、教育の責任を大人の働きかけそのものに帰因していると、こどもの育ちがないのだ。
 「ぼくの先生はぼくの気持ちをわかってくれない!」
 「今度の担任は、娘の気持ちをわかってくれない!」
という不平、不満ばかり増長させる。
また、子供を大人と平等な存在として扱う教育理念は、子供を主人公、一人前の存在、話し合う存在として規定し、お願いと納得の関係に教育の場を変質させてしまう。小学1年生を大人と同様にさん付けで呼び、
「並んでください」
「話を聞いてください」
「静かにしてください」
とお願いし、理解と承諾を求める事がいかに馬鹿げた事か、想像してもらいたい。

 大体、他人に自分の気持ちをわかって欲しいと思う方がまちがっている。
他人が自分の気持ちをわかってくれないと憤る方がおかしいのだ。
そんなことを子供に期待させる教育など、子供に何の生きる力も育てないどころか、子供の幼児性を増長し、集団生活の中で社会性が育つ芽を摘んでいる。
 利己主義、傲慢の固まりで、自己本位の要求が通らないと泣きわめき、なぐる、けるの暴力に訴えてくる大きな赤ん坊を育てているようなものなのだ。
そんな存在にお願いし、理解を求める教育など、たんなるおとぎ話だ。

 正しい教育とは、子供に集団生活の中で社会性を育てる事だ。
他人とは自分をわかってくれない存在だという事を認識させる事なのだ。その上で、じゃ自分が他人にわかってもらえるためにはどうしたらいいか、その術を会得させる事が教育ではないか。それが教師の務めではないか。
 あいさつをするとは、多様な力関係のある社会の中で、自分を守る術なのだ。だから、目上の人へのあいさつ、友達へのあいさつの違いがあるのだ。そこの所を教えてあげなくてはだめなのだ。それを校門の所で大の大人が
「おはようございます」
と笑顔をふりまいて、子供が
「オッス」
と言ったり、無視したりしているのを咎めない事がおかしいのだ。
 敬語を使う、悪いことをしたら謝る、すべて社会生活の中で、自分を守る術なのだ。
それらを教えないで、大きな赤ん坊のままで社会に放り出しているのが今の学校教育だ。
学校の中だけの民主主義、平等理念のおとぎ話である。子どもたちは、そんなくだらない、まちがった机上の教育理念の犠牲者である。

 自分の名前を呼ばれたら、大きな声で、できれば笑顔で返事をする。これは自分を守る術であるし、他人に良い印象を与える事なのだ。自分の意見を求められたら、見当違いの意見であっても一生懸命考え、意見を述べる。これが自分を守る事になるのだ。意見を求められているのに、黙っているのは、自分は馬鹿ですと他人に証明している事なのだ。
 相手の心を読み、いかに自分をかわいがってもらうか、そのために気を遣うとはどういう事なのか、それを教えてあげるのが、大人の務めではないか。
子供を大人扱いして、
「なになにさん、お願いします」
なんて言っている教育は、子供を生まれた時からの聖者として見るまちがった教育理念である。
子供とは、未完成の状態なのだ。言葉だけで育てる事などできない。抱いたり、なでたり、たたいたりして育てる存在なのだ。
 親ではない学校の教師が、そのような行為はすべきではないが、時にはそのような行為も必要だと言うことだ。