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研修生としての一年を振り返って

○○市立○○小学校 ○○○○

高校での実習の経験しかない私にとって、小学校でのこの一年足らずの生活は慣れない事の連続だったように思われます。午前中は3年生の理科と特別指導学級の算数を教え、午後は○○大学での講義を受けるというのが私の毎日の生活でした。大学での講義は、これは自分の勉強ですから真面目にやればそれですんだのですが、とまどったのは教科指導の事でした。小学生に対する指導の方法をまだ何も教わっていないのに、授業を始めなければならなかったのは不安でしたが、それでも3年生の理科の方は、子どものすなおさに助けられ、指導書に頼りながら、何とか順調に進むようになりましたが、何とも困ってしまったのは特別指導学級での指導でした。

 机にじっと座っていられない子、言葉のわからない子、やたらとつねったりたたいたりする子など、1年生から6年生まで質的にも量的にも障害の異なる子を、一つの教室の中で一人の教師が教える事の困難さは、体験した事のない人にはとうていわからない事でしょう。私の中、高の教員免許などここでは何の役にも立たないのです。何の知識も持たず、私は裸であの子らに接せざるを得ませんでした。子どもも大変だったろうと思います。私の勤務校には2学級の特別指導学級があり、中度から重度の知的障害が6名、脳性まひが1名、自閉的傾向の情緒障害児が3名の計10名の児童がいるのですが、今年になってそれまでの担任の2名の先生が普通学級に移られ、新しい担任の先生に代わられたばかりでしたから、情緒障害のK君は随分荒れていました。私は幾冊かの本を追われるように読み始め、夜遅くまで担任のアパートで教育方法について話し合いました。とにかく、ラポートがつくまで体罰はできるだけさけようというのが私の信念でしたから、何とかその子が私に甘えるようになった1学期の末ごろまで、私の首筋から両腕にかけて、黒いあざが消える事はありませんでした。

 重度の障害のI君は体の弱い子で時々激しい下痢を起こしました。排泄の自立はまだ不完全です。I君は叱られる事はわかりますから、必死でがんばってトイレでしようと努力するのですが、たいてい失敗してしまいます。私はI君の汚物にまみれた下半身をふいてやりながら、教育とは何か、教師とは何なにかを深く自問せざるを得ませんでした。

 ばか、汚い、特学、いろんな差別のことばが学校の中でさえ聞かれる事がありました。いつしか私は、大学時代、憲法や人権や教育など高邁な議論にふけっていた自分を恥ずかしく思うようになりました。私があの頃口にした人権ということばの中に、あの子らの人権が含まれていただろうか、世の中にあのような障害児がいることをどれだけ認識した上で、自分は人権ということばを語っていただろうか。自分が情熱を燃やした教育論議の中に、どれだけあの子らの教育の重さがあっただろうか。私は、自分の過去のことばの軽さや思想の脆弱さをあの10人の子らに、それぞれの訴え方で教えられた気がしました。それは、古代アテネの民主政治が平民の奴隷への差別という事を無視していた脆弱な民主主義であったように、今日の教育論も障害児の完全な差別からの解放とその人権への正当な尊敬の念が確立されない事には、真に人間的なものではないのと同じだという事です。

 私はこの1年を振り返って、まず何よりも強く思う事は、自分が今、教師としての第一歩を確かに歩み始めたという事です。自分を鍛えたのは、何よりもあの子らだという事を、感謝を持って今、宣言する事ができるのです。