『本日、庭園にて深夜特別営業しております』

 という文字が加奈の目に入ってきたのは、ふと香ってきた何かの匂いに首を傾げた直後だった。よくよく見れば暗い中、喫茶店の看板らしき物もあるのが解る。
(お店、なんだ)
 いつこの建物の前を通ってもひっそり静まり返っていたから、てっきり住む人のいない空き家なのだろうと思っていたら。実は店じまいの時間が早く、加奈が通る時間帯には人の気配が無くなってしまっているだけだったとは。
 しかし、珍しく夜遅くに営業しているといっても、背の低い看板がひとつ置いてあるだけで店の明かりはすっかり落とされてしまっている。ふわっと歩いていたら、店が営業中だなんて気付かずに通り過ぎてしまうだろう。
 転ばない程度に用意された足元の小さな明かりだけが、辛うじて店が営業中であることを示している。
 店の入口とは違う方向、おそらく庭園へ誘導するように伸びている灯りを、加奈は何となく追いかけた。

「いらっしゃいませ」
 と出迎えた男に、赤い布が掛かった背もたれの無い和風のベンチ、そこに置かれた皿を見て、加奈は今夜が何なのかを思い出した。
 十五夜、お月見の日だ。
「今夜は月が綺麗に見えるよう、照明を最小限に抑えております。どうぞ」
 促された席について見上げれば、確かに大きな月が木々に囲まれながら浮かんでいる。
 この木が辺りの家の明かりを遮ってしまうのか、あるいは、ここが坂の上にある店だからなのか、周囲から他の光は感じられず、くっきりと浮かぶ月が印象的に感じられる。
 差し出された冊子型のメニューによれば、今夜のメニューはお茶単品か、お茶にデザートが付くセットか、大きく分けて2択のようだ。どちらを頼んでも、皿に積んである月見団子は無料、サービスらしい。
「セットのデザートは何ですか?」
「蜂蜜とフルーツを使ったゼリーです。量はこのくらいで……フルーツは柿と梨を使用しております」
 加奈の疑問に頷き、店員はだいたいの大きさをジェスチャーする。大きすぎず少なすぎず、程良いサイズのように加奈は思った。
「では、デザートセットの方を」
「かしこまりました」
 一礼して店員が離れていくと、加奈は小さく息をつき、月を眺める。こんな風に何もせず、ただ空だけを眺めて過ごすだなんて、一体いつぶりの事だろう。
 久しぶりすぎて、こんな時の過ごし方なんて忘れてしまった。
 手持ち無沙汰な居心地の悪さにムズムズしたものを感じていると、思っていたよりも案外早く、盆を手にした店員が戻ってきてホッとする。
「お待たせいたしました」
 心を軽くして見つめる加奈の視線の先で、店員はそう言って盆を置いた。ウサギが描かれた湯のみと、
それからガラスの器がひとつ。湯のみは十五夜だからか、とクスッとする。
「デザートは先程も少しご説明しましたが、柿と梨を砕いて蜂蜜を加えながら作り上げた、寒天のゼリーとなっております。もしよろしければ、食べる前に月の光にかざして、お楽しみください」
「月?」
 はい、と頷く店員に促されるようにして器を取った加奈は、それを月と自分の間に掲げた。
 透明なガラス越しに月光で透かされ、浮かび上がったゼリーの姿に思わず「あ」と加奈は声をこぼす。
上から下へ徐々に少しずつ、月のような色が増していく……そんな黄色のグラデーションが器の中にあると気付いたからだ。
「十五夜のお供とさせていただくお菓子ですので、月の光が映えそうな物をご用意させていただきました。ゼリーの中に重ねた層は、蜂蜜の量を加減しながら作っております」
 加奈が何かを口にするより早く、絶妙なタイミングで店員が説明を重ねる。耳を傾けながら、加奈はただ黙って静かに、ゼリーをかざして眺め続けた。
「上部の透明な新月から下に広がる満月の層。底に敷き詰められたフルーツは、月で跳ねるというウサギ達のいる月の地表に思いを馳せつつ、お召し上がりくださいませ」
 ここでもまたウサギかと、加奈は思わず笑ってしまう。
 男の店員さんなのに、随分と可愛らしい発想をする人だ。
 それにしても面白いゼリーだ。ただ盆の上に置いたままで食べるだけでは気付けない、月にかざしたからこそわかるゼリーの姿。こうした遊び心を、風流と呼んだりするのだろうか?
 なんとなく惜しい気がして、しばらく月にかざしてゼリーを鑑賞していたけれど、少し腕がだるくなってきて加奈はようやく、それを下ろした。添えられた食器はスプーンというより匙、和風のもので、ゼリーだけが月を映して楽しむためにガラスの器が使われているけれど、あとはすべて和で統一されているのだと、ようやく気付いた。
 面白い工夫と、綺麗なゼリー。お月見なんて、今までしたこと無かったけれど、こういうものなら楽しいな、と加奈の口元には自然と笑みが浮かんだ。

 夕食がまだの加奈にはゼリーひとつでは満腹とはいかなくて。ひとつ、ふたつと指先を伸ばした月見団子がいい具合に胃袋へと消えていく。ふわふわとした食感の団子は、これがまた無料とは驚いてしまうほど、とてもおいしい。
 お茶を飲み干してから時間を確認し、思いのほか長居をしてしまったことに気付く。流石にそろそろ帰らなければ明日に響いてしまうだろう、と、名残惜しくも立ち上がった。
「いかがでしたか?」
「すごく、ゆっくりと、いい時間が過ごせました」
 と答えてから、普通は味などの感動を言うべき所だと気付き、改めて何か口にしようとする加奈だったが、店員が「それは良うございました」とニコニコ笑っているので、言うタイミングを見失ってしまった。
 ……何とも変わった店だ。
 ありがとうございました、と見送られて店を出て、少し歩いてから、そういえば普段は何時まで営業しているのかとか、こうした深夜の営業は他にも時々しているのかとか、もっと聞いておけばよかったと加奈は思わず足を止めた。
「……まあ、次は昼に来てみれば、いいか」
 店を振り返って見たけれど、わざわざ引き返すほどのものでもない。休みの日にでもまた来てみれば良いだけのことだ。そう加奈は再び帰路を急いだ。



月でウサギが跳ねる夜





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21/05/28 以前Twitterで公開したSSの再録です。
 実際には2018年の9月24日に公開したものでした。
 お月見の時期だったので、お月見の話が書きたくなって仕上げた作品です。