本日のおすすめ「BBB」

 ……BBBって何の略だろう。
 ふっと、足が止まったのは、通りすがりに見つけた小さな看板に興味を持ってしまったからだ。
 あまりに気分が憂鬱で、なんだか帰りたくないって、思っていたからかもしれない。
「ビター、ベリー、ボンボン?」
 そのまま下を見ていくと、詳しい解説が書いてあった。

 Bitterの「B」
 Berryの「B」
 それから、Bonbonの「B」

 それぞれの頭文字をとって「BBB」らしい。

 ストロベリーやブルーベリー、ラズベリー、クランベリーなどのベリー類に、ビターな味わいのガナッ
シュを混ぜ合わせて作り上げられた、一口サイズのショコラのセット、とそこには書いてある。
 つまりチョコレート。
 みるみる涼子の眉が寄った。一瞬忘れそうになっていた憂鬱な気持ちが、一気に今まで以上の量になって戻ってきた気がする。自分でも、顔が険しくなっているのが分かるけど、どうにもできない。
「――どうかなさいましたか? お客様」
 すっかり看板を睨みつける格好になっていた涼子は、かけられた声に思わずハッとした。
「……すみません。なんでもないんです」
 いつの間にいたんだろう。そこにはギャルソン服姿の若い男が立っている。格好からして、ここの店員に違いない。
 さぞ酷い顔をしていたことだろう。そんなに悪い目つきで看板を見つめる女がいたら、
(気になって、声くらいかけるか……)
 罪悪感、というと大げさかもしれないが、ちょっと気が引ける。
 人様の店の前で、一体何をやっているのやら……。
 はあ、と。
 ここまでも十分に積み重なっていた暗くて憂鬱な気持ちに、またひとつ。上積みされたせいなのか、思わず吐息がこぼれた。
「そうですか……。あの、もし興味があれば、見るだけでも寄って行かれませんか? このBBB、ケースに展示してありますので」
「え?」
 ところが店員は気さくに、そう涼子に笑いかけてくる。てっきり「店の前に変な客がいて迷惑だ」とでも思われているのだろうと思っていたのに。
(ああ、それとも店の入り口に陰鬱な様子でいられるよりは、そっちの方がマシだってことかな)
 ありそうかも。
 少し悲しい気持ちになったが、自業自得だ。
 チラリとボードに目をやって考える。チョコレートは嫌いじゃないし、むしろ好きだ。今は少し胸に痛いけれど……でも、このメニューは少し気になる。
 それに、何より。このまま家に帰りたくない気持ちはまだ、胸にくすぶっていて……。
「……じゃあ、見るだけ。いいですか?」
「もちろんです、お客様。どうぞお入りください」
 この重い足が少しでも軽くなってくれたらいいのに、と思いながら、涼子は洋館のような建物の、その
お店の中へ足を踏み入れた。

 趣のある、という表現がしっくりくるお店だった。
 いい意味で古さを感じる落ち着いた室内に、アンティークの家具達。床に敷かれた赤い絨毯がアクセントになっていて、その先に広がるカウンター席と窓辺のいくつかのテーブルが店のすべて。
 中には、客どころか他の店員すらいない。そこまで大きな店ではないし、ゆったりとした店構えのようだから、もしかしたら1人で切り盛りしているのかもしれない。
「こちらがBBBになります」
 カウンターに置かれた小さなショーケースには、クッションを敷いたバスケットが置かれていた。その中に並べられているのは、紛れもなくチョコレート。全部で6粒、形も様々。模様が丁寧に刻まれているものもあれば、シンプルに形がまとめられただけのものもある。
「ビターテイストのガナッシュに、それぞれ別々のベリーを混ぜ込んで、異なる味に仕上げています。
ガナッシュは、ご存知ですか?」
「ええと、聞いたことはあるような……」
 それがどういう意味を持つのかまでは、涼子には分からない。すると店員は軽く説明してくれた。
「チョコレートと生クリームを混ぜ合わせています。口当たりが良くて滑らかなんですよ。ただ、それだけだと崩れやすいので、板チョコレートのように硬い状態のチョコレートを使って、外側になる部分を作り、その中にガナッシュを詰め込んでいます。今回はベリーを混ぜるので、その味を引き立てるためにカカオの比率を高めてビターな味わいにしていますが、ベリーが混ざるのであまり苦味は感じないと思いますよ。
ちなみに、こういう中に何かを詰め込んだ一口チョコレートを、ボンボンと呼びます」
 だからビターベリーボンボン、BBBというわけだ。
「面白いネーミングですね。最初何かと思っちゃいました」
「だとしたら、作戦成功です」
 店員はくすりと笑う。興味を引くことがメニューをアピールする第一歩、ということなのだろう。
「チョコレートはそれぞれストロベリー、ブルーベリー、ラズベリー、クランベリー、ブラックベリー、
それからミックスベリーが混ぜ合わされ、6つの味が楽しめるようになっています。ミックスベリーには、この5つ以外のベリーも使っていますよ」
 同じベリーだから味だって似たようなものだろう、と思ってしまいがちだが、食べ比べてみればきっと
違いが実感できるのだろう。でなければ、ここまでベリー尽くしのメニューになんてしないはずだ。どれを食べても全部味が同じ、ではメニューのウリの意味が無い。
「これ、おいくらなんですか?」
「500円になります。お店でお召し上がりの場合は、珈琲か紅茶をサービスいたします」
 涼子は、一瞬、聞き間違えたのかと思って目を見張った。
 カフェやスイーツショップで扱うメニューにしては、破格の安さじゃないだろうか。ショコラティエの店で買えば、一粒100円200円は当たり前。ところがこの店のチョコレートは、6粒で500円。既に
一粒100円を切っているが、更にドリンクまで加えて、この値段だなんて。信じられない。
 ……こんなに空いてる店。それもこの安さ。
 大丈夫なんだろうか、とつい心配してしまう。それでも、
「あの、じゃあ、食べていってもいいですか?」
「もちろんですよ、ありがとうございます」
 500円なら期待はずれな味だったとしても、そこまで悔しく感じる値段ではないだろう。それなら、と涼子は注文してみることにした。……これこそが相手の、思う壺のような気がしなくもないけど。
「では、お席へどうぞ。珈琲と紅茶は、どちらにしましょう?」
「紅茶で。温かいものでお願いできますか?」
「はい。かしこまりました」
 青年はすぐにお湯を沸かし始めると、その間にポットとカップを並べる。
 ゆったりとした余裕のある仕草に見えるけれど、その手際はとてもいいことが分かる。茶葉をざっくりと、けれど正確に計ったあと、ポットにお湯を注ぎ、残りを使ってカップを暖めていく。
「このまま3分お待ちください」
 ポットはティーコージーが被せられ、涼子の目の前に置かれる。それを待つ間に、青年はショーケースの中のものとは別にバスケットを用意し、チョコレートを盛り付けた。
「BBBでございます。組み合わせているベリーの種類は、こちらから順にストロベリー、ラズベリー、
クランベリー、ブルーベリー、ブラックベリー、ミックスベリーです」
 バスケットを涼子の前に置いた青年は、右上から順に、どれが何のチョコレートなのかをガイドしてくれて――そこで、3分。
「最初の一杯をどうぞ」
 青年はカップに紅茶を注いでから涼子に出してくれた。

 どうぞごゆっくり、と言い残し、店員は引いていった。細々とした店内の雑務などをするようだが、もしかしたら気を遣ってくれたのかもしれない。じっとカウンターを挟んで見つめあったりするのは、その……妙に緊張するというか、なんというか。
(……チョコレートと合わせるのなら、砂糖は入れないでおこう)
 湯気の立つカップを持ち上げ、涼子はまず一口紅茶を飲むことにした。ふんわりと鼻をくすぐる香りは、どこか心地良い。
 飲みやすい温度で、癖が無く口当たりのいい紅茶だった。
 するすると飲めてしまいそうで、でもそうしてしまうとチョコレートの口休めにするものが、無くなってしまうかもしれないと手を止める。
(チョコレートは、確かこれがストロベリーで……)
 どれから手をつけようか、少し考える。
 涼子は美味しいもの、好きな食べ物なんかは最後まで取っておきたい方だが、どれがどんな味なのかは、さすがに食べるまで分からない。
 もし最初に選んだチョコレートが一番美味しくて、そのあと微妙な気持ちになってしまったら?
 なんて考えると、選ぶ指は鈍って、悩むばかり。
(ブラックベリーに、しようかな)
 ストロベリーとブルーベリーは味がイメージできて、クランベリーとラズベリーも、なんとなくわかる。一番よく分からないから、という理由で涼子はブラックベリーを選んだ。あまり好みの味じゃなかったとしても、1番最初ならあんまり悔しくないし。……実は超美味しかったらどうしよう、と思わないわけじゃないけど……。
(だとしたら、きっと他のものも美味しいんじゃないかな)
 そう期待して、涼子はチョコレートを口に入れた。
「んん……っ」
 カリッと歯を立てたのは表面だけ。すぐにゆるゆるっと柔らかく、溶けていくチョコレートの層に当たる。舌で少し転がせば、酸味を帯びたベリーの味が広がって……美味しい。
 ゆっくり味わおう、なんて考えは、すぐどこかへ消え去ってしまった。もぐもぐと噛んでいくうちにチョコレートは、あっという間に喉の奥に消えた。
「……おいし」
 滑らかなチョコレートは、本当に「とろける」という表現がぴったりだった。柔らかくて舌触りが気持ちいいチョコレートで、確かにベリーと混ざり合ったその味は、甘すぎず苦いと思うほどでもなくて。
(おいしいわ)
 美味しい美味しいチョコレート。すべて飲み込んで小さく息をついた、瞬間。
 涼子の視界が滲んだ。
「っ――」
 こらえようとする。でも失敗した。ぽろりと溢れてこぼれていく感触は、ついさっきも体験したものだ。

 チョコレートは、色々な味が絡み合って美味しさを生み出す物のはずなのに、今の涼子にとっては苦味ばかりがこみ上げてくる。涙なんて、いらないのに。欲しいだなんて思っていないのに苦しい涙は止まってくれない。
 チョコレートなんて、生まれて初めて作った。きっとそういうのがいいだろうと思ったから。でも、驚かせてやろうと思って、それを届けに訪れた彼の家にいたのは――。
「お客様」
 ハッと顔を上げた。
 カウンターの向こうには、いつの間に戻ってきたのか店員が立っていて。
「よろしければ紅茶のおかわりを、お注ぎしましょうか」
 先程と変わらない、にこやかな顔でそう告げるだけだった。
 あからさまではないが、それが慰めだということは、さすがに分かる。涼子は目元をぬぐうと「お願いします」と応じた。自分でも解るくらいに震えている声で。
「かしこまりました」
 ゆったりと注がれていく紅茶の湯気が、少しだけ涼子の心を落ち着ける。
 涙が出たのは涼子のせいであって、このチョコレートに罪があるわけじゃない。
 チョコレート自体は、とても美味しかった。ただ――今の涼子にはチョコレートが苦しい、だけで。
「どうぞ」
 カップを取り、一口紅茶を流し込めば、その温かさで更に何かが和らいだ。
 大分落ち着きを取り戻した涼子は、静かにたたずむ店員に声をかけた。
「……美味しいですね、このチョコレート」
「ありがとうございます。本職のショコラティエには敵わない腕前ですが、そう言っていただけますと」
 にこやかで、嬉しそうな笑顔が涼子へ返ってくる。
「そうなんですか? てっきり、チョコレートが得意なのかと」
 だって、涼子が作ったものとは大違い。形も綺麗で、味も繊細。それに比べたら、涼子なんて。
「僕は喫茶店の雇われマスターで、製菓が本職というわけではないので。もちろん作るのは好きですし、
出すからには相応の自信はありますけど、やはり専門家には敵いません」
 まあ、うちのオーナーみたいに料理を作ろうとして、料理が完成したためしの無いような人に比べれば、十分な腕前だとは思いますけど……と店員はくすくす笑う。
「あなたは料理が上手なのに、オーナーさんはダメなの?」
「からっきしです。でもいいんですよ、もっと大切なことができる方ですから。それに料理の腕だけで、
人の価値は決まらないでしょう?」
 人間を計る物差しは、そんなものじゃないはずだ。
 ……今の涼子には、ほんの少しだけ心を軽くしてくれる言葉だった。
 そう、どれだけ一生懸命でも、不恰好で味も物足りないチョコレートしか作れなかったとしても。
 こんな日に現実を思い知らされて、昨日までの幸せな時間を――恋人だと思っていた人を、失ったとしても。
 涼子という人間の価値は、これっぽっちだって変わらない。傷付いても決して、壊れはしないのだ、涼子自身が自分を壊してしまいたいと思わない限りは。
 ――大丈夫。
 彼さえ住んでいなければ、来ることなんて無い駅。ここに近付かなければ、もうきっと彼の顔を見ることなんてない。そうすればいつかきっと、傷だって癒えるはずなのだから。
「そうね。私、実は今度昇進することに決まったの。男どもを差し置いて同期で一番最初よ。仕事では結構な価値を認められているってことね。そのかわり、チョコレートを作る腕はオーナーさんと大差ないかもしれないけど」
「いいえ、うちのオーナーは料理を完成させるところにすら辿り着けませんから、チョコレートをきちんと完成できるお客様の方が明らかに上ですよ」
 くすくすと笑いが漏れる。でも、それを聞いて涼子は首を傾げた。自分はいつ、彼に手作りチョコレートのことを話しただろう?
 いろいろな意味で恥ずかしい有様だから、行きずりの喫茶店の店員相手とはいえ、ほいほいと口にしたりしないだろう。涼子は、そういった部分では殊更に口が重い方だ。
 不思議、だったけど……。
 涼子は深く気にしないことにした。そんな些細なことを気にしても、別に良いことがあるわけじゃないだろうし。割ともう、どうでもいいという気持ちになれていたのもあるのかもしれない。
 涼子の気持ちは、さっきまでに比べて、明らかに軽くなっていた。
「ありがとう。……紅茶って、多分あともう1杯くらいですよね。おかわりって、いくらになりますか?」
 次のチョコレートに手を伸ばそうとして、カップがまたしても空になってしまったことに気付いた涼子は、飲みすぎだと苦笑しながら店員に尋ねた。チョコレートの値段からして、あまり高くは無いはずだ。
それなら潔くおかわりしよう、と考えてのことだったのだが、
「ご用意しますよ。おかわり無料なんです、うち」
「気前がいいんですね」
 500円のセットについてくる紅茶が、カップ1杯ではなくポット1つだったことすら、お得感があったのに、更におかわり自由だなんて。
(ここのオーナーさんって、よっぽどの道楽者なのかしら)
 このお店単体で利益を上げるつもりは、あまり無いのかもしれない。なんにせよ、おかわりが無料というのは、涼子にとっては嬉しい話だ。
「じゃあ、お願いします」
 涼子はポットの紅茶が尽きると、そう店員に依頼し……2つめのポットが空になる頃にようやく、チョコレートを食べ終えて店を出た。

「ああ、さすがに結構変わったわね」
 今年の2月14日は思いきって、またあの駅に行ってみよう。
 そう思い立ったのは、今年のバレンタインデーが休日に重なっていたせいかもしれない。涼子が駅を出ると、おぼろげに記憶している光景と、かなり違った景色が広がっている。
 ビルがたくさん増えて、前からあったビルも見た目がすっかり様変わりしていた。大きな銀行の支店は、名前が変わったせいか、特徴的だった色合いがすっかり地味になったようだ。
「たしか……ええっと……?」
 方角は大まかにしか覚えていなかったが、覚えているだけで奇跡とも言える。少し試行錯誤して、
「そうそう。あの時もキツい坂道だなって、思ったのよ」
 涼子は、おそらくこの道だろうというものを見つけ出した。
 辺りは住宅街が広がり、坂をすっかり上りきってしまえば……。
「あら」
 そこに、うっすら見覚えのある洋館があった。――すっかり荒れ果てた廃屋として。
 門は固く閉ざされて、雑草が伸び放題。館の詳しい様子までは分からないが、少なくとも最近、人が立ち入ったような様子は無い。
 看板類も一切見当たらなかったが、
「そうよね、そうなっていても仕方ないわ」
 いかにも流行って無さそうだったもの、と涼子は微笑んだ。
 ガッカリしなかったと言えば嘘になるだろう。もしかしたらという期待がどこかにあったからこそ、涼子は今日ここに来たのだから。あの時の青年は、もういないかもしれないが、だとしても彼のような誰かが
出迎えてくれるかもしれないと――。
 結果はこうして、静まり返った廃屋がひとつ、あるだけでしかなかったけれど。
 それでも涼子は、今日ここへ来てよかったと思った。
 真実は時に厳しい。夢を夢のまま信じていた方が幸せなこともある。けど、涼子はそれでも、見てみたいと思っていたから。
 だからこそ前に進める力をくれることだって、あるのだと。そうささやかながらも教えてくれた、この店のことだったから。
 移転したのか、閉店したのか。それを追いかけて確かめることは難しいだろう。
「……あなた程じゃないかもしれないけど、チョコレート作りは結構上手になったのよ、店員さん」
 懐かしさに目を細め、苗字すら知らない思い出の彼に語りかけ、涼子はその場を後にした。



BBB






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「―――さようなら、涼子さん」と誰かが囁いたことを、彼女は知らない。



















































2013/02/14  チョコレートの話が書きたいなあ、と思って書き始めたものでした。
 タイトルはいつもとちょっと違って「謎」があるような感じにしてみたくて。「BBB」と閃いたのが先で、ブラックとか色々な単語を考えたのですが、最終的にこんなメニューになりました。