だから雨の日は
雨の日は嫌い。
じめじめして、水がはねて、足元を濡らすから。
地面に溜まった水が靴から染み込んで、私の体を水に浸していくから。
だから、嫌い。
今日もそう。夜半から降り続けている雨は地面をとめどなく流れて、右手に持った傘は、滝のように雨を地に垂らしていく。
歩くたび、靴の裏から水の感触が伝わって。
じめじめ、じめじめと。
ちょっとずつ伝わってくる雨の感触、その存在感が、嫌い。
だから雨の日は、いつものバス停で立ち止まって、いつものように遅れるバスを待つ時間が嫌なのだ。
動きを止めると、私の呼吸の他には、もう雨音しか聞こえない。
規則的に、でも乱れて。
いつまでも止む気配の無い雨は、延々と私の上に降り注いでいる。
「ん……」
風が吹けば、雨の不快感は余計に増す。
向きを変えて横から吹き付ける雨雫を防ぐ為に、傘の向きを微かに傾ける。でも、綺麗に全てを防ぐ事は出来なくて、すり抜けて肌に触れる水滴に顔をしかめた。
「……本当に、嫌な雨」
溜息を1つ。
風は強まるばかりで、雨は終わりの気配を、これっぽっちも見せてくれない。
僕は、雨の日が好きだ。
ざー……っといつまでも、延々と繰り返し響き続ける雨の音は、よく言えば規則的で悪く言えば単調で。でも、そこがなんだか、僕にとっては心地よく感じられるものだった。
雨が降る真夜中にテレビを止めて、電気を消して、布団に入って雨音を聞きながら眠りにつくのが好きだったし、雨音だけをBGMにドライブするのも好きだったし。雨音のリズムに合わせながら、外を歩く事も好きだった。
雨なんて嫌いっていうのが大抵の人の感想だろうし、突然の水害のニュースを見ると、僕だって雨が少し怖くなる。
でも恵みの雨って言葉があるように、度が過ぎない程度の雨ならば、それは人間にとって心地よい存在であれるのだと思う。
かつて、生まれてくる前の赤ん坊が胎内で過ごしていた時の感触を思い出すからなのかな?
でも、今僕が雨の日を好きな理由は、もうちょっと違うかもしれない。
何故なら、こうやって雨の日の朝は自転車じゃなくて歩いて通勤するから、バス停で彼女に出会えるからなんだ。
名前も知らない。年も知らない。
いや、年は同じくらいかな。僕の想像だけど、そう何歳も離れているようには見えない。髪は長くて、
眼鏡を掛けてる。いつも灰色の傘を差して、僕がバス停に行くと、その脇で1人ぽつんと立ってる。
きっと、約束の10分前に来てしまう人なんだと思う。だから時間ちょうどに合わせて来る僕よりも早くいて、だからいつも必ず遅れてくるバスをじっと待ち続けているんだと思う。
僕の足音が聞こえたのか、彼女の視線がチラっと僕の方を見た。でもすぐに視線は目の前に道路に戻っていく。多分、彼女も僕を、たまに見かける人だと認識してくれてはいるんだと思う。
僕は、彼女に恋をしていた。
物静かに立っている姿とか、時間通りに来ないバスに小さく溜息をつく所とか、席に着いて続きが待ちきれないといった様子で本を読み始める所とか、あと、たまに疲れているのか、うたたねしている所とか。
彼女のこと、何も知らない。
でも僕は確かに、彼女に恋をしていたのだ。
いつも、この時間にこのバス停を使うのは私だけ。
でも雨の日には、もう1人別の人が現れる。スーツ姿の男の人。多分、雨の日だけ車中に学生の姿を見かけるのと同じように、彼も雨の日だけバスを使って通勤するのだろう。
名前も何も知らないし、話したことも無い。
顔見知り、という言葉がピタリと当てはまる相手だった。
だから今日も足音がして、彼が私の斜め後ろで止まっても、驚いたりはしなかった。やっぱり今日もいたと、ただそう思うだけだった。
どちらかというと、私は雨を乗せて吹く風の方が気になっていて、雨を防ぐ為に頑張って、傘の位置を微調整していた。
「きゃっ」
その時、強い風が吹いた。
傘が宙に浮きそうになるのを、ぐっと力を込めた腕で引き寄せようとした瞬間、それとは違う感触がまた手元に走った。
風が傘をあおる。
途端に、雨粒が私の全身に降りかかる。
いまや私の傘は、骨が完全にひっくり返って、もう傘としての態を為していなかった。
「大丈夫ですか?」
その時、少し上ずった声と共に、すっと黒い傘が頭上に差し出された。
大丈夫なはずが無い。
と一瞬思ったが、善意にそんな乱暴な言葉を返すほど、私は恩知らずでは無かった。すみません、と彼の好意を受けるが、しかし、改めて何をどう見ても、1度引っくり返ってしまった傘はもう2度と元の形には戻りそうに無い。
はあ、と深く深く溜息をついた。
「酷いですね……あの、良ければ、このまま入っていてください。こんな雨ですから、傘無しでは大変ですから」
バスが来るまで、と、男性は勧めてくれる。でも2人が入るのに傘1つだけでは狭い。それでは彼も濡れてしまう。だから断ろうとする私だけれど、彼の方は彼の方で、それを心苦しそうな顔をする。
だって、彼女が雨に濡れる姿を見過ごすのは気が引けるから。
どうしても見過ごせなかった。だから咄嗟に思わず声をかけて、傘を彼女に差し出したのだ。
傘と反対側にある肩が雨に濡れるけど、構わない。
僕は、自分が濡れるのは一向に構わないけれど、彼女が濡れてしまうのは許せなかったのだ。
「ちょっと窮屈かもしれませんけど、バスもすぐ来るでしょうから。このままだと水浸しですよ」
雨の勢いは、あの瞬間からも更に強くなっていると思わせるかのようで、彼女も流石に、もう断ろうとはしなかった。僕達はすぐ側に立って1つの傘の下で、遅れているバスを待ち続ける。
大きくなる雨の音。
ざー……っと降りしきる雨は、ばたばたと傘の上で跳ねる。
その音も、今は心地よいのか耳障りなのか、僕には分からない。
だって、それはすぐ隣にいる彼女の、小さな溜息や呼吸の音すらかき消してしまうから。
――普段は、これを好ましいと、そう思っている僕だけど。
でも、今はほんの少しだけ、この雨音が鬱陶しい。
やがて雨が作るヴェールの向こうから、2つの光が近付いて来る。それは紛れもなく、僕ら2人が待っていたバス。
「あの、本当にありがとうございました。助かりました」
「いいえ、気にしないで下さい」
小さく頭を下げる彼女に僕は首を振る。迷惑だなんて、これっぽっちも思わない。
彼女とほんの少し近づけて、彼女の役に立つことが出来て、それだけで良かったと、僕は割と本気でそう思っていたから。
「……あ」
その時、彼女が僕を見ながら罰の悪そうな顔をした。そのまま鞄に手を差し込んで、取り出したのは1枚のハンカチ。
「私のせいですね、それ。もうあまり意味は無いかもしれませんけど、使ってください」
それが僕の濡れた肩を見ての事だったのだと、ようやく僕はそこで気付いた。
「いえいえ、大丈夫ですから」
「でも……」
「……じゃあ、お借りします」
上品な白のハンカチを受け取った時、バスが目の前で止まった。僕は傘を閉じて中に乗り込むと、そっとハンカチを濡れた肩に当てた。
バスの中は混み合っていて、見れば彼女は後部座席の脇に空いていたスペースに収まっていた。
僕もまた、すぐ近くの一角でつり革を掴む。
軽く会釈をして、それだけ。
それで終わりだった。
やっぱり名前を知ることも無ければ、それ以上の会話が交わされる事も無い。
それも、また普段と何も変わらない。
でも。
今、僕の手の中には彼女のハンカチがあるから。
さてこれを、いつ、どうやって彼女に返そうか?
そう考えていたら自然と、いつの間にかふっと顔に笑みが浮かぶ自分に気付く。
――これだから、やっぱり僕は雨の日を、嫌いにはなれないのだ。
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2011/09/13 HDDを整理していたら昔書いた作品が見つかったのですが、読み返してみたら、結構いい感じだった(と自画自賛したくなっちゃう出来だった)ので公開することにしました(笑)。
本当の執筆日は「2008/09/02」です。雨にまつわる、男の人と女の人のちょっとしたエピソードが書きたくて、書き始めた話だったと記憶しています。雨という、人によって好き嫌いの分かれる題材にしたのは、「わたしは嫌い」「ぼくは好き」という、ちょっとした対比が書きたかったからです。