おいしい「メープルみるくパンケーキ」あります。

 ――ここ、お店だったんだ。
 帰宅途中にふと目に入ったボードに目を留めて、祥子はしげしげとそう思った。
 駅から遠く離れた坂道の上、門の閉ざされた一軒の洋館。
 てっきり以前の持ち主が手放して、もう誰も住んでいないのだろうと思っていたのに、まさか人が暮らしているだなんて。それどころか、お店だったとは知らなかった。
 祥子は、この洋館の傍をよく通る方だと思う。
 駅から離れた坂道の上。周囲に店などは何も無く、車で通るには少々狭い道沿いで、どこかへの通り道にもなりづらいこの場所に建つ洋館の前を、好んで通るものはいないだろう。
 祥子の家はこの先にあるから、通勤などの行き来に通るのだが、それだっていつもの事じゃない。時間があれば坂道の傾斜がゆるい、もう一本向こうの道を使う。スーパーに寄って帰る時もやっぱり別のルートを使うから、多少坂道が辛くても、駅と家の最短距離を通りたいという時だけにしか使わない道だ。せいぜい、通っても週に1〜2回がいいところだろうか。
 祥子の家の辺りに住む人はおおむね、そのまま坂を下ったところにある駅を使うから人通りも少ない。
昼間に通っても物寂しさを感じるようなスポットで、絶対に無人の空き家なのだと思い込んでいたから、
明かりが灯りそんな宣伝文句が書かれたボードが表に出ている様子は、なんとも言えない衝撃を祥子に与えてくれた。頭をガツンと殴られたり、地元と他所の風習の違いに思いがけないカルチャーショックを受けた時のような感覚に似ている。
 ちなみに祥子が最寄の駅ではなく、わざわざこの坂を越えた先にある遠い駅を使っているのは、ひとえに、その方が職場までの交通費が安くなるからだ。
 祥子の給料は決して安くなく、最寄り駅までの定期券代と比較すると、結構な金額が浮いて祥子のお小遣いになってくれる。更に、祥子は次の駅まで歩く事にして、定期券代を1区間分節約する力の入れようだ。通勤に掛かる時間が増えるのは大きなマイナスだが、お財布事情に加えて結構な運動量になるので、健康と美容へのプラスを加味して相殺だと思っている。
 デスクワークばかりで、かつ美味しいものに弱い祥子としては、そんなに悪い事ばかりではない。
 ……そして今、今日も疲れてくたくたになりながらも、えっちらおっちらここまで歩いてきて、帰宅する途中の祥子の目の前に、驚きと共に魅力的なスポットが現れたというわけである。
 仕事でくたくたになって、嫌な出来事も無くはなかった週末、金曜の夜。文字を見つめていると、どこからかふんわりと、甘い匂いすら漂ってくるような気がする。
 ――メープルみるくパンケーキ、って何かしら?
 メープルはわかる。蜂蜜だ。パンケーキも分かる。上にメープルシロップを垂らすと、甘くて美味しいこともよく知っている。でも、そこにミルクが関わってくると、どうなるのかよく分からない。
 ミルク分を強めにして焼いたパンケーキなのだろうか? それとも上にミルクが載っている? でも、クリームを載せる事はあっても、ミルクを掛けるというのはあまり聞かないような気がする。
 などとつらつら考えてしまうと、俄然興味がわいてしまう。帰宅の直前で空腹のピークなのもきっと良くない。廃屋だと思っていた屋敷がお店だったというインパクトも祥子の心をくすぐっている。
 普段の祥子だったら、おそらく怪しいと疑って、さっさと通り過ぎてしまっていただろう。こんな立地の寂れた洋館で営むような店(しかも営業しているところを今まで一度も見た事が無い)がマトモな店であるはずがない。きっと味は外れでガッカリしてしまうのだろう。そんな風に落胆するのは嫌だ……といつもの自分だったら考えて、危険な冒険は犯さずに通過してしまうはず。
 でも、今の祥子は色々な要因が絡み合った結果、このパンケーキに興味を持ってしまった。

 こだわりの挽きたてコーヒーあります。
 お気軽にどうぞ。

 パンケーキのことだけでなく、そんな風にも書き記されている。
 インスタントのコーヒーは苦手だが、きちんと淹れられたコーヒーは好きだという祥子には、またそれが魅力的に感じられる。
 だが、店の事でわかるのはそれだけだ。メニューなどは出ておらず、値段帯も分からない。
 そもそも、屋敷に明かりが灯されて、あとはこのボードが一枚出ているだけで、店の看板すら見当たらないような有様だ。
 興味を持ったのは事実だが、えいやっと飛び込むには、少々……敷居が高いというかなんというか……
なかなかの冒険。チャレンジャーさを求める店である。
 どう、しよう。
 やっぱり帰ろうか、という気持ちが、じわっともたげてきたその時だった。
「お休みになって行きませんか?」
 気付けば屋敷の扉の前に、1人の男が立っていた。いつの間に出てきたんだろう。結構大きな扉なのに、開く音に全然気付かなかった。
 ギャルソン服姿の男は、祥子の方を見ながら微笑んでいる。
「よければ、どうぞ」
 と静かに一言付け加えた後は沈黙を保ち、扉の手入れを始めた男性は、どこかほんわかとした空気を纏っていて、なんとも好感を持ちやすいタイプだった。こういう人のいるお店なら落ち着きそうだ、と、なんとなく思ってしまうタイプの店員さん。不思議な話だが、祥子の経験上、こういう人のいるお店は波長が合う事が多い。
 ……すごく、不思議な話だけど。
 祥子が逡巡していても、男はそれ以上勧める言葉を重ねてくる事もない。ボードと、門扉の傍の男性と。見比べながら考え込む。
「……あの、料金って、どのくらいですか?」
 しばらくして、祥子はボードを指差しながら尋ねてみることにした。返答次第で決めよう。高ければ止める。そこそこの値段以下だったら、思いきって入ってみよう。そんなことを考えていた祥子に、男はにこやかに説明してくれた。
「パンケーキの単品が350円。珈琲もしくは紅茶とのセットで500円です」
 安っ!
 逆に何かあるのではと、思わず勘繰ってしまいたくなる位の安さだった。
 今日日カフェやコーヒーチェーン店でドリンクをオーダーすれば、それだけで易々とワンコインに達することもしばしばである。どういう仕組みなんだろうか。安物だから……?
 だが、セットで頼んで500円ならば、価格は非常にお手頃だ。冒険するハードルは決して高くは無い。実に飛び越えやすい高さといえる。ちょっとだけ、ゆっくりして帰るのも悪くないと、そう思わせてくれる位には。
「じゃあ、お願いします」
「ありがとうございます。それでは――Mrs.セレナーデへようこそ、いらっしゃいませ」
 改めて一礼すると「ご案内いたします」と男は扉を開けて祥子を促した。

 屋敷の床には赤い絨毯が敷かれていた。足を乗せるとふんわりと、心地よい感触と共に沈んでいく。
 ああ、いい絨毯なんだな、となんとなく直感で思うが、生憎とインテリアの知識の無い祥子には、それがどれほどの物なのかまでは分からない。
 入ってすぐ、右手の扉が開け放たれたままになっていた。そこに下がる『be open』の小さな板。どうやらここが店舗部分になっているらしい。おそらく他の部屋は住居部分、プライベート空間なのだろう。
 中にはカウンターと、椅子を備えた小さなテーブルがいくつか。カウンターそのものには席が用意されておらず、テーブルも1人客あるいは2人客を想定したもののようだ。10人も入ればいっぱいになって、
窮屈さを感じてしまうだろう。
 店内は空っぽ。客は祥子だけ。店員もこの男性しかいないようだ。
「どうぞ、こちらへ」
 男は窓際の席へ祥子を案内した。外はどうやら庭らしく、アンティーク風のランプで灯された暗い庭が
浮かび上がっている。昼間ならば美しい花も眺められるのかもしれないが、今はどこか、吸い込まれてしまいそうな錯覚を覚えてしまう、神秘的な感じがある。
 店内のインテリアの雰囲気も影響しているのだろう。華美ではないが落ち着いた配色と絶妙に配置された小物達。そう、この店内はとてもセンスがいいのだ。テーブルや椅子といった大きな家具から、カウンターにそっと添えられた小物まで、どれもが良い雰囲気で、なんだか――落ち着く。
 入ってみても不思議な店だ、と祥子は思う。
「メニュー、ご覧になりますか?」
「あ、はい。一応」
 もう心はパンケーキセット一択のつもりだったが、念の為に見ておきたいと男からメニューブックを受け取る。これもまた、手触りの良い素材が用いられた上質な本で、安っぽいビニールなどが掛けられておらず、印象がいい。
 レトロなフォントで記されたメニューは、淡々と品名と値段だけを記している。
 表にあった「メープルみるくパンケーキ」の他には、サンドイッチと日替わりケーキ、スコーンと、あとはクッキーを扱っているらしい。ドリンクの方はコーヒーと紅茶のみだが豆や茶葉のバリエーションに富んでいるようで、そういった銘柄に詳しくない祥子には、それが種類であることは理解できても、具体的にはどんなものなのかまではよく分からない。
 どれもパンケーキ同様、喫茶店の相場からすると手を出しやすいものばかり。つい、別のメニューもと
欲張りそうになるが、堪えて予定通りにパンケーキのセットにする。
「珈琲と紅茶はどちらにしましょう」
「コーヒーで。ええと、種類も選んだ方がいいです?」
「特にご希望がなければ、今日お勧めのものを淹れさせていただきますよ」
「じゃあ、おまかせします」
 内心ほっとしながら祥子は男を見上げる。選べと言われたら途方に暮れてしまうところだっただろう。
なにせこの店『ブレンド』なんて物はなく、ひたすらに豆の銘柄が並ぶばかりで、どれがどんな味でどのような違いがあるのやら、何もかもがさっぱりなのである。
 男はカウンターに入ると、慣れた手つきで器具を手に取り始めた。内側に棚が付いているらしく、かたり、ことりと心地よい音がする。ガチャガチャとした耳障りさではないのが、また好印象だった。
 BGMなどは一切流れていない店だが、こういった音色をBGM代わりに過ごすのも悪くないのかもしれない、と思う。
「待つ間、よければこちらをどうぞ」
 と運ばれてきた小皿には、小さなキャラメルがひとつ。色は白いからミルクキャラメルのようだ。
「いいんですか?」
「ええ。大したものではありませんが、サービスです」
 なら遠慮なく、と口に運べばふんわりと甘い香りと味が広がる。そういえばパンケーキにもミルクと書いてあったな、とふと思い出し、
「そういえば、みるくパンケーキって珍しいですね。メープルパンケーキは知ってますけど、メープルみるくパンケーキ、というのは初めて聞きました」
「ああ、そうかもしれませんね。僕も他所では見た事が無い気がします」
 手元を動かし続けながら、男は祥子の言葉に応じてくれる。このレシピは以前知人に教わったものなんですよ、と、少しだけ顔を上げ、祥子の方を見ながら微笑む。
 自分が無知なだけなのかと思ったが、どうやら、そういう訳でもなかったらしい。もちろん互いにたまたま、存在を他に知らないだけなのかもしれないけれど。
「ボードを見た時から気になってたんです。ミルクを混ぜて焼くパンケーキという意味なのか、それとも
メープルシロップのように上からミルクを掛けるという意味なのか」
「ああ、それならば後者です。掛けるんですよ。このパンケーキ用に用意したミルクがありまして……」
「へぇ……」
 なるほどそっちか、と祥子は思う。
 どんな風になるんだろう? イメージがいろいろと浮かぶ。実物が運ばれてくるのが、どんどん楽しみになってくる。
「あまり期待されてしまうと、それにお応えできる品を出せるかどうか……」
 不安になってしまいますね、という言葉と共に漏れるのは苦笑だ。でも仕方ない。多かれ少なかれ、何かを期待するからこそ、人間というのはわざわざこうして、外食をするものなのだから。
 まして熱した器具でパンケーキを焼く音、その香りが届いてくる真っ最中なのだ。期待せずに待てというのも酷じゃないかと、客の立場としては思う。
 小刻みに男の体と視線が動き、パンケーキが焼けていく。
 口の中で小さかったキャラメルが、更に小さくなっていくのを感じながら、祥子は頼んだメニューが用意されていくのを待った。

「お待たせいたしました」
 程なくして、口の中のキャラメルの最後の一片が消えてなくなるのと同時に、男が焼きあがったパンケーキを運んできた。なんというタイミングの良さだろう、とささやかな偶然に笑みが漏れる。
 ふんわりと焼かれたパンケーキからは湯気が立ち上り、いい香りが漂ってくる。ああ、今すぐにでも刺激された胃と腸が、くうと音を立ててしまいそう。
 とてもとても、美味しそうだった。
「こちらは、お好みで」
 添えられたのは、紅茶にミルクを付けて出すときのような小さなピッチャーが2つ。片方にはメープルシロップが、そしてもう片方には真っ白いミルクが注がれている。
 ああ、これが。思わず頬がにやけてしまう。果たして、どんな味なのだろう。
「セットのコーヒーです。おかわりもできますから、遠慮なくどうぞ」
 傍らに置かれたカップには、角砂糖が1つと半分。
 それを見て祥子は目を丸くした。確かに自分は、いつもコーヒーには角砂糖を1個と半分入れる。
 最近は大抵スティックタイプのシュガーだから、真ん中の部分をつまんで入れるだけ。量の加減が簡単だから、色々試すうちにこれがベストらしい、という事に気付いた。
 でも。その通りに砂糖が出てくるとは一体どういう事なのだろう。この人は、私の砂糖の好みなんて知らないはずなのに。しかも、量は角砂糖にしては半端な一個半。普通なら1個、あるいは2個で出てくるはずだ。そこでどうして1個半なのか。
 不思議だ。いや、色々不思議なところの多い店ではあるが、今までで一番、とびきり不思議な出来事だ。しかし男を見上げてみても、彼は何も意に介していない様子で静かに立っているだけ。
 なんで、ここでわざわざ1個半なのか。多分聞いたら答えてくれそうな気はする。
 でも……まあ、いいか。
 それよりも、とにかく。
 なんといってもパンケーキの方が気になって仕方ない。
 そのことに比べたら、添えられていた角砂糖が1個半だったという謎なんて、ほんの些細な物のような気がしてきてしまう。
 確かに、自分は細かいことを余り気にしないタイプではあるのだが……。
 ちょっと引っかかったが、まあそういうのは後でもいいだろう。とにかく、まずはパンケーキを食べようじゃないか。
 そう自分の中で結論付けてフォークとナイフを手に取る。
 すっとナイフを当てれば、見た目どおりのふわっとした柔らかさと、それでいてするりとナイフを通し、綺麗に切られていくパンケーキ。
 妙な弾力、抵抗感はなく、とてもとても切りやすい。
 ほのかに香る甘さと香ばしさ。おそらくバターが使われているのだろう、心地よい香りが漂ってくる。
 まずは、何も掛けずそのままプレーンで、と口に運べば、手ごたえ以上にもっともっと、優しくふんわりとした感触が広がった。
 思わず、溜息をつきたくなる。もちろんマイナスの意味じゃない。感嘆の息がこぼれるほどの美味しさだ。噛むたびに感じる優しい歯ごたえ、舌の上で転がすたびに実感できる滑らかさ。じわじわと広がる暖かい味わいがなんとも言えない。
「……美味しい」
 じっくり時間を掛けて堪能して飲み込んで、祥子は感想を零した。その声に、男が目を細めるのが分かる。まるで、目の前のこのパンケーキのようにふんわりと、彼は心地よさげに微笑んだ。
 祥子はミルクピッチャーを取った。二口目、どうするか一瞬悩んだものの、やはり気になっていたミルクの方をとすぐに決めて、真新しい切り口の傍にそっと、少しだけ、とピッチャーを傾けた。
 とろおり。
 ミルク、牛乳から想像される液体よりも、もっとずっと、とろみのある液体が零れ落ちる。
 このパンケーキ用に用意した、というのはこういう意味だろうかと、先程の会話を思い返した。確かに、ミルクそのままを出しているわけではない。
 感触だけならクリームに近い。が、口に入れれば印象は全然違った。ミルクだ、それも濃厚な。ミルクの味がぎゅっと凝縮されたような層に覆われたパンケーキは、一口目とは全く違う味。
 ミルクの美味しさが口いっぱいに広がった上で、ふんわりとしたパンケーキの触感を楽しむ。
 ああ、全然違う。全然違って、美味しい。
 素直に感動してしまうくらい見事な味だと祥子は思う。自分は決して食通という訳ではないが、これが
とびきり美味しいパンケーキだっていう事くらいは、わかる。判別できるし理解もできる。
 ならばとメープルシロップを垂らせば、これもまた当然のように美味しかった。琥珀色のシロップは甘すぎず、パンケーキにしみこんだシロップが噛むたび広がっていく様は実に、うっとりしてしまいそうなくらいに味わい深かった。
 一口、口の中をリセットさせようとコーヒーを飲めば、これがまた良かった。甘さとは異なる位置にいる香りが漂い、口の中にビターさが広がる。しかし決して苦味があるわけではなく、飲みやすい。
 そうして口をすっきりさせたところでミルクとメープルシロップを同時に垂らせば……ああ、口の中が、しあわせ。
「すごく美味しい……。こんなに美味しいお店が、すぐ近所にあるなんて、全然知らなかった……」
 今まですっごく損していたような気分だ。ほふ、と一息つきながら呟くと、男は少し申し訳なさそうな顔をした。
「この店、手の空いた時に、気まぐれでしか営業していないもので……」
「気まぐれ」
「はい。営業日不定、営業時間も不定で……定休日の方が多いくらいですし」
 気まぐれにしか営業しない店。そういう店がある、という話は見た事があったけど、都市伝説のようなものだと思っていた。少なくとも私には縁の無いような、何かこう、すっごい世界の人たちの話なのだと思っていた。
 こんな風に、すぐ近所にそういうお店があるとは。
「面白いお店ね」
「そう言って下さる方でよかったです」
 見方を変えれば、とびきりいい加減な店ともいえる。真面目な人にお叱りでも受けた事があるのだろうか。そう言って笑う様子に祥子も思わずつられて笑う。
「こんな夜中に営業しているのも気まぐれだから?」
「ええ。……種明かしをしますと、僕、ある人からこのお屋敷の管理を頼まれているんですよ。ときどき、風通しにきて、そのついでにちょっとだけ営業しているんです」
「ああ、昼間は他のお仕事があるのね」
 今日は金曜の夜。仕事を終えて立ち寄って、風を通すついでにちょっとだけ、趣味の腕を奮っているということだろうか。と、そこまで考えて、1つ、ふと浮かんだ考えを口にする。
「このお屋敷の持ち主って、あなたにパンケーキのレシピを教えてくれた人?」
「そうです」
 読みは的中したようで、祥子はにんまりと笑った。こういった優しい味のレシピを考えるような人ならば、きっと――素敵な老婦人なのだろう。
 今は何らかの事情でここには住んではいないが、きっと思い入れが深い場所で……。でも、老いた体では管理が難しいからと、この人に管理を頼んでいる……なんてところだったりするのかしら、と祥子は勝手にストーリーを想像してみる。
 本当かどうかなんてわからない、けど、そういうことだったら素敵だなという思いを込めて。勝手に。
 向こうにとってはいいものではないかもしれないが、口には出さないので、そのくらいの想像は許してほしいものだ。
「元は、その方がここで出していたメニューで……その頃が懐かしくなって、ときどき」
 過去を思い返しているのか、少し遠くを眺めるようにして男が呟く内容も、なんとなく、それに合致するような気がして。そんな素敵な場所に、たまたま運よく偶然迷い込めた幸運を、祥子は嬉しく思う。
「お客様は、お仕事帰りですか?」
「ええ。定時は5時のはずなのに、この時間になってようやく」
 会社を出たのは22時を過ぎてからだった。そろそろ、日付が今日かどうか怪しい頃合だろう。
 5時を過ぎてから今日中の仕事を命じられ、色々と理由をつけられて残業代なんてものは1円も支払われず、うんざりしながら仕事を終わらせたのがその時間だ。しかもその仕事の内容が、勤務時間中に手を抜いてサボっていた人間の尻拭いなのだからやってられない。
 こんなのは、しょっちゅうだ。いきなりドカドカ仕事が入ってきて定時に帰れなくなるようなことばかり。休みだって週休二日を謳っておきながら頻繁に変わるし、それも直前なってから、一方的に宣告される始末だ。平日の夜や休日に約束していた予定を、これまで一体何度キャンセルしてきたことか。それでいて、貰っている自分の給料の金額がいくらかといえば……溜息のひとつふたつみっつ、余裕でつきたくなってしまう。
 しかし、そういった嫌な感情を、今は吐き出したくなかった。
 せっかくの美味しいパンケーキとコーヒーが、きっと不味くなってしまう。
 経験から、祥子はそれを知っていた。溜息をつくと幸せが逃げるとはよく言ったものだが、悪態は確実に美味しいご飯やお菓子を不味くしてしまう。
 美味しいものを食べて束の間の幸せに浸りたいのであって、嫌な気分になりながら、もそもそと味が分からなくなってしまった料理を食べたいわけじゃない。だから祥子はそれを積極的に速やかに心と頭と記憶の片隅に追いやって、パンケーキの美味しさだけを楽しもう、と思う。
「……何もする事が無くなって仕事に困るよりはよっぽどいいけど、忙しすぎるのも、辛いものね」
「お疲れさまです」
 再びフォークに手を伸ばした祥子に、男は優しい声色でねぎらいの言葉をかけてくれる。お店の人だし、社交辞令も入っているだろう。事情を詳しく知らないのだから、客商売の一環として、ただ当たり障りのない言葉をかけてくれただけかもしれない。
 でも、それでも祥子は嬉しかった。
「……よろしければもう一杯、コーヒーはいかがでしょう」
「え? でもまだ、ありますよ?」
「お疲れのようですから、そのような時に向いたコーヒーをご用意しますよ。ああ、うちはおかわり自由ですからね」
 えっ、と祥子は心底驚いた声を出した。
 そういうサービスの店もあるにはあるが。味を変えても自由に飲み放題という喫茶店は、よっぽどではないのだろうか。
 いやそもそも、まったくもって不定営業の店だというのに、そんなにバリエーションが豊富だというのも、改めて思えば不思議な話だ。そもそも、それを言ってしまえば、まったくもって採算度外視な店っぽいから、単純に趣味の趣味の趣味ってことなんだろうか……。
「……豆を買うのが趣味なのはいいんですが。飲まないから溜まる一方で。飲んであげなければ、豆も可哀想だといいますのに……」
 頭でぐるぐる考え込んでいた祥子は、男がぶつぶつ零すのを聞いてはっと我に返った。
 それは、つまりその。道楽のコレクションか何かを店に出しているということなのだろうか……。
 老婦人さん(仮)はどうやら随分と好事家でもあるらしい。
「……なので、まあ、気にしないで飲んでいってください」
「はあ……」
 じゃあ、と思わず頷き返すと、男はにっこり笑ってカウンターへ戻っていった。
 新しい豆をひき、コーヒーを入れる間に小鍋で何か暖めていたかと思うと、カップではなくグラスを取り出してコーヒーを注いでいく。
 かと思えば、後ろの冷蔵庫から取り出した容器から何かを載せて……。
 ……一体、何を出す気なのだろうかと祥子は訝(いぶか)しむ。
 やがて男が運んできたのは、上にたっぷりと生クリームをホイップしたコーヒーだった。
「アイリッシュコーヒーといいます」
「アイリッシュ?」
「アイルランド風のコーヒー、とご説明する方が分かりやすいかもしれませんね。砂糖と、少量のアイルランドウィスキーをコーヒーに混ぜ、クリームを載せたものを、そう呼びます」
 さっき小鍋で温めていたのはウィスキーだったのか、とその説明で祥子は感心する。見た目はどこからどう見ても、甘そうなコーヒーだとしか思えない。
 幸いにもお酒は苦手じゃない。どちらかというと好きな方だ。カクテルくらいなら全然平気なクチだから、多少ウィスキーが混ざっていても1杯くらいなら、どうってことないだろう。
 それよりも、一体どんな味がするのか。そっちの好奇心の方が勝った。祥子は、じゃあ遠慮なく、とグラスを手にする。
 甘いクリームの香り。と同時に漂うウィスキーの香り。ミックスされた2つの香りを感じながらグラスを傾けると、流れ込んでくる熱いコーヒーと、ふんわりとしたクリームの感触。
 逆にウィスキーのくっきりとした味はあまりしなくて、お酒を飲んでいるというよりは、甘いコーヒーを普通に飲んでいるという感じだ。でも、普通のコーヒーとは全く違う感触で、祥子はこれを気に入った。
「疲れている夜には、これがお勧めなんです」
 寝る前のホットミルクではないが、なるほど、安らぎを与えてくれそうな味だ、と祥子も思う。
「素敵なものをありがとうございます」
「いえ」
 男は首を振ると、軽く一礼して「ごゆっくりどうぞ」とカウンターへ戻っていった。過剰な音を立てることなく、丁寧に優しくカウンターの器具を片付けていく。それはまるで、澄んだ鈴の音でも聞いているかのよう。
 不思議な不思議な心地よさだ。祥子はそれをBGMにして、のんびり店内や庭を見つめながら、パンケーキを食べ、コーヒーを飲んでいった。

 は……っと我に返ったとき、祥子の皿にはもう何も残っておらず、すっかりカップもグラスも空になっていた。
 いつの間にか、すっかりぼーっとしてしまっていたらしい。
 いつ食べ終わったのか、いつ飲み終わったのか。軽く記憶を辿ってみるが全く思い出せない有様で、一体どれだけリラックスしていたんだろうかと苦笑する。
 カウンターを見れば、すっかり後片付けは終わったらしく、ただ静かに男が佇んでいた。
「ごちそうさまでした」
「いかがでしたか?」
「美味しかったです、とても。それにゆっくりできました」
 結局、他に客は1人も来ないままで、店は祥子の貸しきり状態だった。それもあってか、とても落ち着いてリラックスした時間を過ごせた気がする。……なにせ、まさに、いつの間にかぼんやりとしてしまって、時間を忘れそうになっていたくらいなのだし。
「それは良かった。お気に召していただけて、何よりです」
 ほっとした様子で、嬉しそうに笑う男を見ていると、祥子もなんだか気持ちがいい。不思議な人だ、と、何度目になるかわからない感想を、祥子は今度は男に向けた。
 それにしても、店内に時計が無いからわからないが、どうやらすっかり長居してしまったようだ。そろそろ1時……いや、もしかしたらもっと遅い時間になっているかもしれない。
 気持ちはとても軽やかだったが、さすがにそろそろ帰らなければと、祥子は鞄に手をやった。
「お会計でよろしいですか?」
「はい」
「では、500円になります」
 ……最初に聞いていた額ではあるが、改めてそう告げられると本当にそんな金額でいいのだろうか、と、いささか申し訳なく思ってしまう金額だった。明らかにそれ以上のサービスを受けている。
「まあ、その……道楽、ですから」
 そんな祥子の様子に予測が付いたのだろう。男はくすくすと苦笑いを浮かべた。その言葉が全てを物語っている。男は、それ以上の金額を受け取るつもりは、本当にこれっぽっちも無いのだ。
「じゃあ、次に営業しているところを見かけたら、今度はもっといろいろ注文しますっ」
「ありがとうございます。また、ご縁がありましたら、ぜひ――ご来店をお待ちしております」
 祥子が渡した500円玉を受け取り、うやうやしく頭を下げると、男は今度は苦さのひとかけらも無い、軽やかな笑顔を浮かべた。屋敷の表まで出て見送ってくれる男に背を向けて、祥子は長い寄り道を終えると、いつもの帰り道の続きを歩く。
 ただいま、と告げても迎えてくれる人など誰もいない部屋。祥子は近所の迷惑にならないよう、静かに鍵をまわし、無言でドアを開けて自宅の中に入った。いつものように靴を脱ぎ、いつもの場所に鞄を置いて、いつのものようにテレビのリモコンを取る。
「――あれ」
 スイッチの付いたテレビが映し出したのは、祥子が毎晩見ている夜のニュース番組だった。
 確かに、いつもは帰ってきたら、この番組をやっている時間だ。でも……今日はこんなに寄り道をしてきたというのに?
(ナイターの延長……ああ、今夜の映画が長かったのかしらね?)
 それで番組が繰り下がったのだろうか、とぼんやり思いながら、祥子は視線を何気なく時計へ動かして……今度こそ目を丸くした。
「嘘!?」
 時計の針は23時5分。
 どこからどう見ても、普段通りの時刻。
 会社をあの時間に出たのなら、まっすぐ帰ってこなければ、絶対にこの時間にはならない。
 あの店に、あれほど長時間寄っていて、こんな時間に帰って、来れるはず、なかった。
 もしかして時計の電池が切れかけているのかと思って、携帯電話を確認しても、パソコンの電源をつけてみても、結果は同じだ。
 なにがなにやら分からずに、呆然してしまう。
 不思議なことの多い店だったけれど、まさか帰ってきた後まで……しかも、ここまで極めつけの不思議が待っているだなんて。

 それから何度も祥子は、あの坂を上って駅へ向かい、坂を下って家に帰ってきたが、あの屋敷の門はいつも固く閉ざされて、しんと静まり返っている。
 明かりが灯されているところも、メニューボードが出ているところも、遂に二度と見かけなかった。
 確かなのは、祥子の記憶に、あの一連の出来事が残っているということだけ。
 ……もしかして、夢か幻でも見ていたのだろうか?
 そう思ってしまうくらい、掴みどころのない出来事。
 ときどき、あの不思議な夜のことを祥子は思い出す。ギャルソン服の男の姿に、ほかほかと湯気を立てる美味しいパンケーキ、ホイップがたっぷり載ったアイリッシュコーヒー。疲れ果てて鬱屈していた自分が、嘘のようにほぐされていった、あのひととき。
 あのお店は、一体なんだったのだろう。
 こんな不思議な体験もあるものなのだなと祥子は思いながら、ときどき無性に願うのだ。
 ――また行きたいなぁ、あのお店。
 どれだけ真似しようとしてみても絶対に上手く作れない、あのメープルみるくパンケーキのことを思い
浮かべて、祥子は苦笑した。




メープルみるくパンケーキ





戻る
















































2011/08/27  甘いものが食べたいなぁ、と思った時に、ふと浮かんだ「メープルみるくパンケーキ」というフレーズから膨らませて書いた物語です。googleで検索してみたら、意外と引っかからなかったんですよね。メープルみるくパンケーキ。
 男視点での話とか、また別のお客さんでの話とか、書いてみたいなぁ……と思ってます。