その日、アリスはひとりで帽子屋屋敷の廊下を歩いていた。この折り畳んだタオルの山を片付けてしまえば、このシフトの間にやる予定だった仕事はおしまい。ブラッドからは、あとは好きにしていいと言われている。
(好きにしてもいい、と言われても……ねえ……)
だが、そこは根が真面目に真面目を重ねたようなアリスだ。まだ勤務時間の途中なのに……という後ろめたさは拭えない。まして、他のみんなはしっかり働いているのだから尚更だ。
「まあ、とりあえずやっちゃおうか……」
どうするかは、仕事を完全に終わらせてしまって、それから改めて考えればいい。アリスはそれぞれのタオルを決められている場所へ綺麗に、きっちりと片付けていく。いつも通り、手馴れた仕草で。
そう、アリスがこの帽子屋屋敷で働くようになって、随分と経つ。だからもうすっかり、アリス自身もメイドとしての日々に慣れてしまった。
けれど――それでもまだ、慣れないものが、ある。
「……静か、ね」
しんと静まり返った帽子屋屋敷に、響くのはアリスの声だけ。いつもだったら屋敷を行き来する大勢の同僚達の姿も、駆け寄ってくる門番達の足音も、それを見て騒々しく叫びながら放たれるエリオットの銃声も嗜める屋敷の主の声も――。
なにもかも。
今は聞こえない。それもそのはず、今この帽子屋屋敷に残っているのはアリスだけだからだ。
「いつもの小競り合いだってブラッドは言ってたけど……」
帽子屋屋敷の生業はマフィア。他の領主と領土を賭けての争いに加えて、大小さまざまなマフィア組織との抗争は、いってしまえば『日常』だ。
当たり前のように銃弾が飛び交う世界ではあるものの……それでも、アリスはまだそれに慣れたとは言えないし、いつか慣れることができるような気もしない。
「……どうかしらね」
少しだけ怖いと、アリスは思った。
あまりに静かすぎる屋敷が怖くて、小さく声に出して囁いてしまうのは、ここまで屋敷がもぬけのからになるほど、大人数で抗争に出かけていく所は見た事が無かったからだし、それが単にたまたまだからなのか、それともブラッドがアリスに嘘をついたからなのか分からないからだし、どちらにせよ彼らだって不死身ではないのだから――何が、あるか、分からないと、そう不安に思ってしまうからなのだろう。
(それとも、いつか)
この世界にもっと慣れて、染まって……こんな抗争なんとも思わなくなってしまうのだろうか。
――こわい。
上手く言い表せない恐れを振り払うように首を振って。アリスは、あてもなく歩き出した。目的なんてない、あるはずもない。しなくちゃいけない仕事は終わって、今のアリスには何も無い。
適当な仕事を時間潰しにすることくらいはできるだろう。でも、なんだか、そんな気分にもなれなくて。
気付いたら、アリスは庭に出ていた。誰も知らない小道を辿り、行き着いた先は秘密の薔薇園。帽子屋屋敷の皆にだって、その存在が知られていないこの場所を、ひょんなことからアリスは知り、出入りする事を許されている。この屋敷の主と、それから――。
「……ビバルディ」
その後姿に、アリスは思わず声をこぼした。いつものように赤い、赤い、真っ赤な薔薇みたいなドレスに身を包んだ、ハートの城の残酷で無慈悲な女王様。
彼女こそ、この場所を知るもうひとり――ブラッドの、おねえさん。
「なんじゃ、アリス! そんな顔をして……ああ、泣くでないよ」
泣く?
その言葉に慌ててアリスは頬に、目元に指先をやる。けれど、そこに濡れた感触はなかった。
「な、泣いてなんて、いな……」
「涙は流れておらずとも、心が泣いている」
乾いた頬を押さえたままのアリスに、ビバルディは真剣な眼差しで赤い爪先を伸ばす。鋭く、長くとがった爪は、けれど決してアリスの頬をかすめて傷つけることはなく。そっと、優しく、ビバルディの掌がアリスの頬に触れた。
「酷い顔をしているよ。何があった? わらわに言ってご覧?」
さあ、と誘うようにアリスを呼ぶ瞳は、あの『ハートの城の女王様』と同じ人とは思えないほどに優しい。
アリスには到底、今の気持ちを上手く紡げているとは思えなかった。ぐちゃぐちゃして、分かりにくくて、ロクな声には、マトモな内容にはなっていないだろう。けれどビバルディはアリスの髪を撫でながら、ただそっと静かに聞いてくれた。
「まったく……。こんなに可愛いアリスをひとり屋敷に残して不安にさせ、悲嘆に暮れさせておきながら、それに気付きもせず抗争に明け暮れておるなど……我が弟ながら、ほんに情けない」
ああ嘆かわしい、とビバルディは実に大げさに溜息をつく。
「ち、違うわ。単に私が不安がりすぎているだけで……」
「庇わずともよい、アリス。そのような男は単に『甲斐性が無い』というのだよ。――おまえを、ただ悪戯に不安にさせるようなブラッドが悪い」
いいや、と首を振ったビバルディは、少しだけ人の悪そうな顔をして笑う。だからアリス、お前が気に病む必要は無いよ、と呼びかける彼女が、アリスのことを元気付けようとしてくれているのは明白だ。
「で、でも……」
それでもすぐに、アリスの顔は明るくならない。ぬぐいきれないままの不安に加えて、不在のブラッド達が悪い……かのような扱いをしてしまっている、させてしまっている、この状況への申し訳なさが重なって、アリスの顔は晴れないまま。
「やれやれ、しょうのない子だこと。ちょっとお待ち」
笑みをたたえたままのビバルディは少し苦笑すると、立ち上がって少し先の茂みに近付いた。丹精込めて育てられた薔薇が咲く、この薔薇園の茂みとなれば――もちろん、そこにあるのは大輪の赤い薔薇。
「ふむ、これが良かろう――」
「!?」
ついと指を伸ばし、その中のひとつにれたビバルディは、どこから取り出したのか剪定用の鋏を持ち――何の躊躇も無くそれを、じょきん、と。
「さ、おまえにあげる。だからそんな顔をするのはおやめ」
絶妙な角度で切ったばかりの薔薇を差し出し、極上の笑みを浮かべるビバルディ。しかしアリスの方は気が気じゃなかった。
「いやいやいや! だってそれ、ブラッドが大事に育ててたやつじゃない! そんなの――」
「ほほほほ、何を言う。あれが薔薇を育てておる理由は、おまえだって知っているだろう?」
貰うわけにはいかないわ、と言いかけたアリスの声を、ころころと笑ってビバルディは遮る。
この薔薇園は、ブラッドが自らの手を尽くして丹念に整えている場所だ。それは、ここがビバルディの訪れる場所でもあるからだということを、アリスは知っている。
(え、っと……自分のために用意された薔薇園だから、摘んでも大丈夫ってこと? いやいやいや……)
しかしあのブラッドでも、ビバルディには敵わない。そんな場面は何度も見てきた。領土争いの最中ならば、ブラッドも決して引き下がることなどしないだろう。しかし、この薔薇園にいる時は、その時だけは。
『やれやれ。本当に仕方がないな、姉貴は』
そう小さく息をついて、でもぜんぜん困っているようには見えない顔をして、ブラッドが引き下がる所をアリスは確かに、何度も見てきた。
(……いや。でもやっぱり、無断で大事な薔薇を摘んじゃうってのは……どうなの?)
ここで生きているままの薔薇が咲く様子を見ることこそが、こだわりなのではないだろうか。
見たい薔薇があるのなら、何度でもここへ足を運べばいい――花瓶に生けて、そうして殺した薔薇を部屋に閉じ込めるよりも、その不便さを敢えて呑んで咲き誇る花を楽しもうとするのが、ブラッドという男ではないだろうか。
「? なんじゃ、どうした? この薔薇は気に召さなかったか? だったら他の品種を見繕――」
「いや、そうじゃなくて。その、持ち主に無断で摘むのは……一応、私の雇用主なわけだし……」
首を傾げ、また別の薔薇を摘み始めようとするビバルディに思いきって言ってみると、「なんじゃ、そんなことか」とビバルディは軽い口調で、まるで大したことなんて無いように言う。
(あ、あら。別に大丈夫だったのかしら……?)
ビバルディの反応に、そう思うアリスだった――が。
「ならこうすればよい。ここから、ここまで。この範囲をアリス、おまえにあげる」
「え」
その答えは、アリスの予想範囲外だった。
だってビバルディは、まるで範囲を切り取るように――領土の境界線を区切るかのように示しながら、アリスに向かってそう言ったのだから。
「摘むのが気になるのであれば、摘まずに贈れば良いのだろう? だから庭ごとお前にあげる。そうだな、この範囲であれば、ざっと200……いや、300本くらいの薔薇になるか」
「……抱えきれないわね、それ。きっと。花束だったとしたら。
100本の薔薇の花でも持ちきれないほどの量になるのが薔薇の花。それが、300本もあるとなったら、さすがにどう頑張っても抱えきれない。
「ふむ。なら尚更ちょうど良いだろう? このままの方が都合が良いな」
「や、そもそも、そういう問題じゃ……」
だが、このまま薔薇の花を摘んで回ったりするよりは、遥かによっぽどいいはずだ。
(それにまあ、それなら……特に実態は変わらないというか……)
摘むのとは違って、薔薇は今までと同じように、ここにある。いつも通りに、普段と同じに。それは今までと、何も変わらないままだ。
それならビバルディのちょっとした言葉遊びのようなものだと、ブラッドも笑って、遊び半分に聞き流してくれるかもしれない。
「どうじゃ? 300だなんて数の薔薇、ブラッドからも貰ったことは無いだろう? ――さ、だからアリス、笑っておくれ。おまえの顔が沈んだままだと、わらわまで気が滅入ってしまいそうだ」
「……それは大変」
薔薇の数が問題なわけじゃない。ただ、ビバルディにそこまでしてもらっておきながら、それでもこれ以上、暗い顔なんてしていられるはずがない。
(いつもの調子を、早く取り戻さなくちゃ)
そう自分に言い聞かせてアリスは笑う。ぎこちない笑い方だったかもしれないけど。
「ありがとう、ビバルディ。……ね、ところで、他にはどの花がオススメなのかしら?」
「ふふふ、おまえらしくなってきたではないか。そうだな、だったら折角じゃ、あやつのロマンチストぶりを紹介してやろうか」
「え、なにそれ」
おいで、と手招くように呼ぶビバルディの声に、アリスは迷わず付いていく。
――ここまでしてもらったら、もう。
いつの間にか、不安はすっかり溶けて消え……アリスの胸にあった寂しさも、どこかへ消えてしまっていた。
(そうか。私……)
寂しかったんだわ、と、アリスはようやく気付く。でも、それはもう終わりだ。
アリスにはこうして一緒にいてくれる、家族のような、友達のような――それでいて、どの言葉でも表現しきれない――かけがえのない、大切な人が傍にいるのだから。
むせ返るほどたくさんの、しあわせな薔薇の香りに包まれて――そのまま、ふたりだけの時間は、この薔薇園へ近付く足音が聞こえてくるまで続く。
300本の薔薇の花
戻る
2013/10/27
「COMIC CITY SPARK8」内プチオンリー「Petit Rose Carnival4」に……行けないから! 仕事だから!(涙)という悔しさをぶつけつつ、「エアロゼプチスタンプラリー」用に書いた作品です。
10月27日というのは、ちょうど1年が始まってから300日目になるのだそうです。
そんな日に、さまざまな理由で「おるすばん」になってしまう、たくさんのアリスさんたちの「おるすばん」が少しでも楽しいものになれば……と書き始めたのが「300本の薔薇の花」でした。
元が乙女ゲームなのに、ヒロインと女性キャラの話ってどうなの?と思わなくもないです。でも、書いた本人的には楽しかったです。満足です。