幸せの青い鳥
しっ、と囁く声と共に、伸ばされたエースの掌に口を塞がれる。
抗議しようにも声は出ない。いきなり何事かとエースを睨み上げれば、その視線はアリスの方を向いてはいなかった。一体、何があったのだろうかと、その視線の先を追えば……。
(ペーター……)
今ふたりがいる吹き抜けの、斜め上にあたる廊下をペーターが歩いている。こちらには気付いていないようだ――少なくとも今は、まだ。
「気付かれると厄介だよね。通り過ぎるまで動かないで、大人しくしていよう」
ペーターには聞こえないよう、軽く屈んで口元を寄せながらエースは小声で囁く。
その配慮は嬉しい、嬉しいのだが。
(み、耳がっ……)
息が吹きかかるほどの至近距離。耳をくすぐるように触れていく温かいものに、アリスは眉を寄せてこらえる。こういう感触は、どうにも苦手だ。それを知ったのは最近――平たく言えば、エースとたびたび、こういう状況に陥るようになってから、である。
顔を合わせるたびに纏わりついてくるペーターを撃退しようと、見せつける為に始めた『恋人ごっこ』。それが功を奏したのか、確かにペーターは今までのように、アリスを見つけるなり飛びついて来たりするような事は無くなった、けど。
――本当に?
アリスの心の内を探るように、見透かすように見つめてくるペーターの目は、今までよりもずっと厄介な気がしてならない。嘘を許さないと射抜いてくる視線を、跳ね除けられるほどアリスは強くなかった。逆に、それに負けそうになってしまう程だ。
怖い、と微かにでも思ってしまう自分が情けない。
エースが一緒にいる時は、助け舟を出すように前に出てペーターを遮ってくれる。
その背中が有難いと思うと同時に、そこに隠れてしまう自分が、情けなくって仕方が無い。
「……アリス?」
「な、なんでもないわ……っ」
アリスの様子に気付いたのか、首を傾げたエースに、アリスは俯きながら首を振る。
エースはなおもアリスに身を寄せたままだ。近い近い、とは思うが騒ぎ立てるわけにもいかない。それはもう、色々な意味で。
いざという時には、自分の体でアリスの姿を隠してしまおうという意図でもあるのか、エースはすっかり吹き抜けに――正確には、ペーターに背を向けてしまっている。向き合った状態で、吐息が掛かるほどの距離まで近付いていれば、逃れるには俯くことくらいしか出来ない。変に動いてペーターに見つかれば、また厄介なことになると、分かるからこそ他にどうしようもない、と、思うのだが……。
たかがペーターが通り過ぎるまでのことなのに。時間が、なんて長く感じるのだろう。
「……怖い? 大丈夫だよ。俺が守ってあげるから、さ」
アリスの様子をそう受け取ったのか、エースは安心させようと囁きかけてくれる。またしても、耳元に。だから――困る。体が、どうしても強張ってしまう。
エースに、そんな意図なんてきっと無い。妙に意識してしまっているのは、きっと自分だけ。それでも……ぼんやりと脳裏をよぎる過去の出来事と相成って、どうしても。
嫌だ嫌だ嫌だ。
唱えても意識が飛んで、何も気にならなくなってくれるわけではないというのに。
「たとえペーターさんが何をしようとしても、ペーターさんの思い通りにはさせない。これでも結構ちゃんとした騎士なんだからさ、俺」
そんなアリスの様子を、不安や恐怖のあらわれだと判断したのか、エースは更にアリスへ囁きを重ねる。
大きなお世話だ。
止めてほしい。
でも、好意を無碍に出来るほど、アリスは恩知らずでも無神経でも無いつもりだ。結果、強張った体も、俯いた視線も、元には戻せない。
城内を歩いていたペーターは、吹き抜けに差し掛かった時、階下にアリスがいる事に気付いた。
遠い遠い床との間には何フロアもある。普段そこに注目することもなければ、わざわざ視線をやることも無い。けれど、一瞬目の端をよぎった姿を見逃すペーターではなかった。そこにアリスがいたことも――傍らにエースがいる事も。ペーターは、すぐに気付く。
まだ、こちらに気付いていないアリスと、ペーターを見上げて薄く笑うエースの姿に目を留める。
あの男はアリスの隙に付け入って、じわじわと絡め取るようにして獲物を嬲ろうとしている。
それが、ありありと分かるからこそ腹立たしい。
気付いた時には、もうエースはするりとアリスの元に入り込んでいた。アリスに責任は無い。彼女はとても弱くて脆いものなのだ。それを知っていたのに、自分の目が行き届かなかった。あんなものが、アリスを歯牙にかけようと近付くのを阻止できなかった。だからこそ――自分自身が何よりも許せない。
じわじわと、じわじわと。おぞましい毒に侵されていくアリスは、それに気付くことなく弄ばれている。そう、アリスはエースを拒んではいないのだ。少しずつ注がれるものの恐ろしさに全く気付かず、ただ体と心を蝕むものの熱さに翻弄されるだけ。
その熱の感触を、翻弄されることを、嫌がっていないアリスから奪うのが本当に正しいことなのか。
ペーターにはわからない。
ろくでもない男だと分かっていたとしても。彼と共にいれば、きっとアリスがただ幸せなだけの時を過ごせる訳ではないと、そう予感していたとしても。
緩やかに緩やかに、奸計に嵌まるアリスは縛られていく。
エースを通じて、この世界に。
それが彼女に苦いものを与えたとしても、彼女がここに縛られていてくれるのなら――。
嬉しいと、感じてしまう自分の身勝手さ。その悦びと疾(やま)しさが、どうしたらいいのかペーターに決断を見失わせるのだ。
そう、彼女だって、じわじわとエースに堕ちていくことに愉悦を感じ始めている。拒んでいないそれを取り上げて、この世界からすらもアリスを失ってしまうのだとしたら……?
耐えられない。
そんな事には、決して自分は耐えきれないだろう。胸が張り裂けて死にそうだという感情を、文字通りに味わうことになるのだろう。他でも無い、何よりも大切なアリスによって。
あるいは本当に死んでしまうかもしれない。彼女を失うような事があれば、その喪失感はもう、何を以ってしても決して埋められない。それはペーターにとって、もはや予感ですらなく、確信だ。
それならば。
それならば。
それならば――と。
深い溜息をついてペーターは歩く。たとえ隣にいるのが自分ではなかったとしても、彼女が感じる喜びが自分によるものではなかったとしても……それでも、と。
アリスを抱え込んでこちらを見上げながら笑む、エースに目を背けてペーターは歩く。
彼女が知ったら、どう思うだろうか。
自分はこんなにも狡賢くて歪んでいて、おぞましい。
きっと、ますます嫌われてしまうことだろうと、自嘲する。
「……まだかしら」
「まだだね」
壁になってくれているエースの胸元で俯くアリスからは、ペーターの様子はよく見えないけれど、チラリと上へ目をやったエースには分かったはずだ。そのエースが二つ返事で即答したのだから、まだ迂闊に動くわけにはいかない。
とはいえ、それにしたって遅すぎやしないだろうか。確かにこの城は広く、吹き抜け部分だって長いけれど、ただ通り過ぎるだけでこんなに長い時間が掛かるとは思えない。
(早く通り過ぎてくれないと困るっていうのに、何をモタモタしているのかしら……)
胸に広がるもやっとしたものの原因は、けれどペーターだけではないということに、アリスはまだ気付かない。
「………………」
小さく溜息をついて、また再び黙り込むアリス。
彼女がそうして俯く様を、エースは静かに眺めていた。
微かに眉を寄せて、頬を赤く染めつつ悩ましげに内に何かを溜め込んで、瞳を曖昧に揺らしている。
それを眺めているだけで、自然と口元が笑んでいく。
――ああ、なんて可哀想なアリス。本当の意味で、誰が救いの手を差し伸べてくれる相手なのかに気付かず、こうして嘘に囚われているだなんて。
ペーターがもう、とっくに彼女が恐れるような存在ではなくなっている事を、知らずにただただ騙されている。
すべては、こんな俺に気に入られてしまったせい。
ああ、なんて可哀想なんだろう。
しみじみと思いながら、エースはそっと彼女を見えない敵から守るように触れる。抱きしめたりはしない。まだ、それには早すぎるから。慈しむように、ほんの少し両腕を回すだけ。
ああ――哀れで、哀れで、哀れで、とても愛おしい籠の鳥。
君を逃がしはしない。
その歪んだ感情は、表には一切出る事が無い。ただ、どこまでも爽やかな笑みを浮かべてエースはアリスを見下ろし続けた。その欲が満たされて、彼女を束の間だけ手放してもいいと、そう思えるようになるまで、あともう少し。
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2011/08/21 「恋人ごっこ」を書いていたら、途中で書きたいシーンが思い浮かんだので続きを書き始めた……のですが、出来上がったら結局そのシーンは入っておらず、当初の予定とはちょっと違うものが出来上がったという一品。でも気に入っています。