恋人ごっこ
「アリスってさ、本当にペーターさんに愛されているよね」
「……嬉しくない」
あっけらかんと軽い口調で告げるエースに、アリスは大きな溜息をついた。
ここは、ハートの城の前庭。いつものように迫ってくる白ウサギ・ペーターを撒くため、この広大な庭の生垣を逃げていたアリスは、こうしてハートの城の騎士であるエースと出会ったのだった。
大の方向音痴であるエースのこと。きっと今も道に迷っている最中なのだろうが、それはさておき。
遠くから聞こえてくる「アリス! どこですかアリスーっ!」というペーターの声を聞きながら、アリスは生垣に隠れるようにして再び溜息をつく。
小柄というほど小柄なわけでもなく、女性として標準的な体格のアリスを隠すことすら出来るほど、この城の庭の生垣は立派な物である。常に綺麗に整えられ、女王の好む赤薔薇が美しく植えられているこの場所だが……今のアリスにそれを鑑賞して、楽しむような余裕は無い。
「ははは。ここまで熱烈に愛されるのって、普通は嬉しいものじゃないの?」
「好きじゃない相手に、一方的に熱烈に愛されまくっても全然嬉しくない」
なにせ相手はストーカー・誘拐・痴漢・不法侵入と、挙げればキリが無いくらいの罪状に満ち満ち溢れた変態男だ。その全ての被害を被ってきたアリスとしては、不快感こそ感じこそすれ、これっぽっちも嬉しくなど無い。
「……ペーターを呼んだりしないでよ」
「んー、しないよ。アリス、本当に嫌がってるみたいだし」
これでも騎士だから、女の子が嫌がるようなことはしないさ、とエースはいつものように笑う。
この爽やかな笑みこそ、アリスはどうも一筋縄ではいかないように感じているのだが……どうやら、今は本当にアリスに味方してくれるつもりらしい。とりあえずホッとして、エースの服を掴んで引き寄せながら、生垣の向こうの様子を伺う。
「なになに?」
「屈んで」
ペーターは庭をぐるぐると移動しながら、こちらへ近付いてきている。声のボリュームで分かる。
「あなたの高さじゃ頭が見えちゃうでしょ?」
エースを見つけたペーターが、更に寄ってきたら厄介だ。そう視線に篭めて見上げれば、ああ、なるほどねとエースは、引っ張られるままに屈んだ……のは一瞬だけ。
すぐにまた、姿勢を戻して直立する。
「ちょ、ちょっと」
「静かに」
慌てかけるアリスへ、しっと囁くようにして、それからエースは満面の笑みを浮かべると……。
「ペーターさん。アリスがどうかしたの?」
ぶんぶんと手を振りながら大声でペーターを呼んだ。
呼びやがった。
(こっ、この男は……!)
何を考えているのか。
服を掴んだまま睨み上げるが、ペーターの方を見ているエースは、それに気付いているのかいないのか、表情をぴくりとも動かすことがない。
結構強く掴んでいるつもりなのに、エースが全然動じないのは、アリスが所詮非力だからなのか、それともエースが日頃鍛えているせいなのか……。
むむむと眉を寄せたって、でも結局どうしようもなかった。
その間にペーターはチラリとエースを一瞥して、つまらなさそうに吐き出す。
「見て分かりませんか? アリスを探しているんです。ああ、アリスは本当にシャイなんですから……」
前半はエースに向けて冷ややかな口調で、後半はいつものアリス仕様の口調でデレデレと。
ああ一体どこへ隠れてしまったんでしょう、もちろんアリスが追いかけっこやかくれんぼをしたいというなら、いくらでも付き合いますけど……とぶつぶつ呟いている様を生垣の隙間から眺めて、アリスは、げんなりと額に手を当てる。
「ふーん。でも俺ずっとこの辺りを旅しているけど、アリスになんて会ってないなぁ。本当にこの辺にいるの? アリスの事だから、城の外にでも出かけたんじゃない?」
「また迷っていたんですか。よくもまあ、城の庭で旅が出来るくらい道に迷うことが出来ますね……」
呆れ口調のペーターだが、エースの話す内容には、多少思うところがあったらしい。
確かにアリスはペーターに追いかけられて、そのまま城の外へ逃げ出すことがままある。まがりなりにも宰相であるペーターは、都合上そうそう遠出できないこともあって、そういう場合には他所の領土まで逃げ出してしまうのはそれなりに、効果的なのだ。
もっとも、そんなの気にせず追いかけてくる事も多いのだけれど……。
「ああ、アリス。まさか帽子屋のところになんて行っていないでしょうね? もちろん遊園地だって時計塔だって快い場所ではありませんけど、帽子屋に比べればマシというものです」
アリス、一体どこへ行ってしまったんです……と焦がれるように再び駆け出したペーターの意識は、すっかり城の外へ向いたようだ。
もうエースになどこれっぽっちも見向きもせず、どこかへと向かうペーターに、エースはにこやかな笑顔のまま、ひらひらと手を振って見送る。
「……行っちゃったよ?」
「……恩に着るわ」
そういう狙いだったのか、とアリスは礼を言った。
握り締めていた服を、そっと離す。それでも、それ以上は「ありがとう」とも「ごめんなさい」とも素直には言えないのが、アリスのアリスたる所以である。
ともあれ、これでとりあえず当座の危険は過ぎ去ったようだ。ペーターが戻ってくれば――それが、今の時間帯なのか、いくつか時間帯が切り替わった後のことなのかは分からないけれど――また同じように厄介な状況に陥る可能性が高いとしても、だ。
ひとまずは訪れた平和に、ホッと胸を撫で下ろす。
「そんなに嫌いなんだ?」
「好きになる要因がこれっぽっちも無いわ。知ってるでしょう? 私がペーターに、一体どんな目に合わされたのか」
ここに滞在するようになってから日は浅いものの、エースと顔を突き合わせた回数は決して少なく無い。今までのやり取りの間で、大体のあらましはエースだって理解してくれているはずだ。
「まあ、ね。ペーターさんには悪いけど……これに関しては俺、アリスの方の味方かな」
彼が持つ騎士道精神のせいなのか、それとも自分が皆から好かれるという『余所者』であるせいなのか、エースは割合アリスに好意的だ。元々ペーターとは同僚ではあっても、決して個人的に親しい友人関係には無いようだから、エースがわざわざペーターの方の肩を持つような理由も無いのだろう。
それはアリスにとって、ちょっとだけ幸運でもある。
「けどさあ、ペーターさんってめげないよね。今更このくらいで諦めるとは、思えない。今は遠ざけるのに成功したけど、根本的には何一つとして解決していない以上、また同じような事になると思うよ? アリスには、ちょっと酷で可哀想な事を言うけど、さ」
「わかってる……」
頭が痛い問題だ。アリスは、深く深く溜息をつく。
もちろんエースを責める気にはならない。彼はあくまでも、非常に確率の高い予測を述べたに過ぎないのだから。それにアリス自身も、おそらくそうなるだろうと思っている。
だが、この厄介な状況を何とかする劇的な打開策を思いつけない以上、こうしてその都度その都度、対処療法に力を尽くすしかアリスに出来ることは無いのだ。今のところは。
「どうしたら諦めてくれるのかしらね、あの人……」
「そりゃあ、もう絶対に脈が無くて、アリスを落とすなんて無理だっていう事をペーターさんが納得したらじゃない?」
「あの誤解の強さと思い込みの激しさと、自分のいいように解釈しまくる超絶逞しい脳味噌を備えたペーターに、なにをどうやったら納得してもらえるのかしら……」
いい方法があったら教えて欲しいわ、と溜息をつくアリスに、エースはけろりと「あるよ」と言った。
あまりに……あんまりにもあっさりとしすぎていて「ああそう」と聞き流してしまったアリスだったが、たっぷり三秒沈黙して、改めてエースの方を見上げると「今、なんて言った?」と尋ね返す。
「あるよ、いい方法」
「なにそれ!? どういうこと!? 教えて!」
がばっと身を乗り出し、鷲掴みにしながらエースにせがむ。
うっかりすればそのまま、足をもつれさせたり倒れかねないくらいの勢いで飛び掛かるアリスだったが、そこはエースだ。アリスの猛烈な勢いにも決して動じることなく受け止めると、いつもの、あの、どこからどう見ても爽やかな笑みを浮かべる。
何故か、その表情に胡散臭いと一瞬、アリスが思ってしまった時。
「だからさ……絶対に手が届かないのだという事を、思い知らせてやればいい」
「なに、それ」
それはさっきも聞いたけど、その具体的な方法が思いつかないから、こうして困っているんじゃないの、とアリスが悩ましげな顔をすると、エースは表情を崩さずに続けた。
「たとえばアリスが死んでしまったら。ペーターさんとしては、もう、どうしようも無いだろう? 絶対にアリスは手に入らないってことだ」
でもアリスに死んでもらうわけにはいかないから、とけろりとした口調でエースは紡ぐ。
「当たり前よ」
あまりに軽すぎる口調に、思わず眉をしかめて額を押さえるアリス。
「となると次の方法は、やっぱりこれじゃない?」
だよねー、と頷き返したエースは、アリスに顔を寄せて呟いた。ひそひそと内緒話をするように。
でも……どこか、それ以上の感触を受けたのは、気のせいだろうか?
まるでなにか、もっと別の言葉を囁くかのように――。
「絶対に勝ち目のない恋人がいる……と、ペーターさんに思い知らせてやればいいんだよ。そうしたらさ、さすがのペーターさんも諦めるんじゃない?」
古典的な手ではあるけど、効果には結構、期待できるんじゃないかな?
え、と思わず見返したアリスに向けて、エースは爽やかな笑みを深めている。
「ねえ、アリス――手を貸して、あげようか?」
ペーターが城へ戻ってきたのは、次の時間帯のことだった。赤く染まった光が差し込む城の廊下で、アリスは向こうから歩いてきたペーターが、ぱっと顔を輝かせるのに気付いた。
「アリス! ああ、良かったです。戻っていたんですね」
会えた喜びと、それからアリスが他の領地で誰とも知らない相手と過ごしている訳ではないと知ったからこその安堵と。それらが混ざり合った表情を浮かべて、ペーターはアリスの元へ駆け寄ろうとしている。
「ペーターさん」
それを遮ったのは、言葉と共に突き出された剣先だった。
「……なんですか、エース君。私とアリスのひとときを邪魔しないでください」
にこやかな笑みを浮かべて、でも剣呑な光が淡く篭められたエースの目が、ペーターにじっと向けられている。
そうされてペーターが大人しくしているはずがない。エースの比では無いほどに剣呑な光をあらわにしながら、鎖で下げた懐中時計に触れ、掴み、一瞬にして銃へ変化されたそれを構える。
向けた先は勿論エース、その眉間をピタリと狙っている。
だが、そこまでされてもエースは動じることなく、人好きのしそうな爽やかな笑みを浮かべている。自分自身だって剣をペーターの喉元へピタリと当てているというのに、その表情は普段通りだ。
「その言葉、そっくりそのままお返しするよ。ペーターさんこそ野暮じゃない?」
「どういう意味です?」
それはアリスが今までに聞いたペーターの声の中で、一二をを争うほどに冷たく、冷ややかな声色だった。少し離れて立っているはずのアリスが、思わずぞくっと鳥肌を立てて、足元をよろめかせてしまうくらいに。
「分からないペーターさんじゃないだろう?」
答えるエースの表情と声色は、いつもと変わらないもののはずなのに、とても意味ありげなものに聞こえた。秘密めいていて、妄想を掻き立てるような何かが、それには含まれている。
もちろん、エースとアリスの間に、そんな事実は一切無い。これらは全てエースの提案で仕掛けた布石であり、ペーターを惑わせる為の罠だった。
ペーターさんがアリスの事を諦めてくれるように、恋人のフリをして、手伝ってあげるよ。
あの爽やかな笑みで、エースはそうアリスに囁いたのだ。
果たしてペーターは恋人ができたという理由だけで、アリスを諦めてくれるのだろうか。自分で言うのもなんだが、アリスは意味が分からないくらい熱烈に、ペーターから愛されてしまっている。
「うん。ただ恋人がいるだけじゃ、ペーターさんはめげないだろうね。だから言ったじゃないか。絶対に勝ち目が無いと、思い知らせてやれば……だって」
それも、ペーターがめげるまで。
「……先の長い戦いになりそうだわ、それ……」
「でもやってみる価値はあるんじゃない? アリスだってこれが四六時中ずっと続くんじゃ大変だろ?」
「それはそうなんだけど……」
今の所、色々な抵抗をしてみたが何一つ効果が無いまま今に至っているのは事実だ。それで上手くいってくれるなら、確かにアリスとしては有難い。
可能性がゼロではないなら、試してみる価値は、あるのではないだろうか。
そう考えて「お願いするわ」とダメ元で頷き返し、簡単な打ち合わせが済んだのは、ほんの少しだけ前のこと。いざという場面に備えて一緒に過ごしていた2人が、ペーターに遭遇するのは思いのほか早かった。
エースが「上手くやってみせるから、まあ任せてくれよ」と言ってくれたのは頼もしいが、果たしてどこまでペーターに通用するのか。そんな演技で怯んでくれるのだろうか……と思うと、憂鬱ではある。
実際、今だってこうして始まったのは武器を構えての睨み合い。引き下がるどころか、真っ向からの対立状態だ。互いにいつでも相手を傷付けられる体勢を取り、普段以上に緊迫した空気で武器を構え合っている。
「……異常な方向音痴に加えて、今度は妄想癖ですか? 救いようがありませんね」
「やだなぁペーターさん。事実だよ、事実」
妄想癖という意味ならばペーターの方がよっぽどなのだが、彼にその自覚は無いらしい。
はははっ、と笑いながらそれを受け流したエースは、視線でペーターを捉えたまま、どことなく少し優しげな声色でアリスに語りかける。
「アリス、今のうちにこっちへ来なよ。俺の後ろにいれば安全だよ。もう絶対に、ペーターさんには触らせないから、さ」
「う、うん」
アリスはエースの背後に隠れるようにして立つと、きゅっとエースの外套を掴む。怯えるようにして恋人に頼ろうとしている……ような感じって、こういう風にすればいいのかしら? と、アリスはエースの後ろからペーターの様子を伺う。
「アリス……」
そんなアリスの様子を、ペータはぽつりと小さく一言呟いた他は、あとはずっと無言で見つめている。
無表情なその姿は、何を考えているのか読み取りづらく、アリスは固唾を呑んでペーターの出方を待つしかない。
「……本当に? 本当なんですか?」
「しつこいなぁペーターさん」
「エース君は黙っていてください。僕はアリスに聞いているんです。……ねえ、アリス?」
いつものペーターとは少し違う雰囲気で、アリスを見つめながら投げかけられる問い。
エースがあしらおうとしても、その目はアリスだけを見ている。
アリスからの、直接の返答でなければ、ダメだ。
「ええ。本当よ。ついさっき……その」
力強く応えようとして、つい、口どもる。
なんと説明したらいいのか、悩ましさと入り混じるささやかな罪悪感。つい、最後の方は視線をそらして言葉を濁らせてしまったのだが、それが逆にペーターに対しては良かったようだ。そうですか、と、小さく溜息をついたペーターは銃を下ろし、元の懐中時計へ変化させる。
「ペーター?」
「……女王陛下に呼ばれていたのを思い出しました」
背を向けて、それだけ呟いてペーターは歩き出す。
その背中から感情は伺えず、その表情は当然ながら見ることが出来ない。
ペーターが見えなくなるまで、アリスはただ、そのまま立ち尽くしていた。ほのかな罪悪感が胸をちくちくと走るのは、たとえあんな奴が相手だろうと、嘘と偽りを口にして、騙してしまったせいだろうか?
完全にペーターが見えなくなってから、ぽつり、アリスはこぼす。
「納得……して、くれたのかしら……?」
「どうかな。まだ分からないね。どちらにせよバレたら元も子もない。もうしばらくは続けた方がいいと思うよ、恋人ごっこ」
「……そうね」
それでも今の様子なら、これまでのような熱烈さは薄れてくれるのではないか、とアリスは期待する……ほんの少し、寂しいような気がしたのは、きっと気のせい。
(そうよ。あんなの、迷惑なだけなんだから)
ペーターがいなくなって妙な緊張感が抜けたのか、アリスはホッと息をつく。
「ところで……なぁ、アリス」
「何?」
「俺は別にこのままでもいいんだけどさ。それ」
剣を鞘に戻したエースが指したのは、相変わらず掴みっぱなしになっているエースの外套。
そういえばそうだった。すっかり忘れてた。
慌てて、パッと両手を離す。
「はははっ、離しちゃうんだ。残念だな」
それは一体どういう意味なのか。相変わらず爽やかに、朗らかに笑いながらのエースが何を考えているのか、さっぱり読めない。
「じゃ、またね、アリス。ああでも、ペーターさんと何かあったら、すぐに俺を探すんだよ? また助けてあげるから、さ」
とはいえエースのことだ。一度別れたら、次はいつどこで再会できるのやら。探すにしたってきっと骨が折れるに違いない。それでも、その気遣いそのものは嬉しかった。
「ええ、ありがとう。じゃあ……また、ね。エース」
自分もそろそろ仕事の時間だ。行かなければ。アリスはエースと別れると、ぱたぱた廊下を駆けて仕事場へ向かう。エースは、その背中をじっと、見送った。
「……いいのかなぁ。俺みたいなのを、そんなに信用しちゃって、さ」
ねぇ、アリス?
俺はそんな君に付け込んで、連れ攫おうとしている悪い奴なのかもしれないよ?
エースはどこまでも爽やかな笑みを浮かべながら、相手には決して届かない囁きをこぼすと、アリスとは反対側へ歩き出した。
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2011/08/16 ハートの城に滞在していれば、きっとこういうシチュエーションがあったんじゃないかな、とぼんやり空想したもの。ハートの国のアリスの、序盤くらいがイメージです。アリスごと罠に嵌める気満々のエースと、それを知らず、じわじわ捕らえられかけているアリスのおはなし。