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三木秀夫法律事務所
このページは最近話題になったニュースを題材にして、そこに関係する各種法令もしくは
判例などを解説したものです。事実関係は,報道された範囲を前提にしており、関係者の
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【お知らせ】
2009年12月から、このページは休止とさせていただきました。
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ご関心のある方は、そちらをご覧ください。

ニュース六法目次
痴漢冤罪・相次ぐ無罪判決(2006年03月10日)迷惑防止条例・強制わいせ
○40代男性会社員に無罪判決・東京地裁支部
電車内で痴漢行為をしたとして都迷惑防止条例違反の罪に問われた東京都内の40代の男性会社員に対し、東京地裁八王子支部(長谷川憲一裁判官)は10日、「犯行自体が極めて疑わしい」として無罪(求刑・罰金20万円)を言い渡した。電車内の痴漢行為を巡っては、東京高裁も今月8日に強制わいせつ罪に問われた別の男性会社員に逆転無罪を言い渡している。

弁護団によると、男性は05年4月8日夜、JR中央線の下り特快電車の新宿‐中野駅間で30代の女性会社員の尻を触ったとして、三鷹駅でこの女性に捕まり三鷹署員に引き渡された。男性は容疑を否認したが、仕事や新婚の妻への配慮から早めの釈放を受けようと自白。八王子簡裁で罰金20万円の略式命令を受けた。男性は罰金の支払いに出向いたが、無実を信じた職場の上司が支払窓口前で「一生後悔するぞ」と説得。男性は「本当はやっていない」と思い直し、異議を申し立てた。

判決は「逮捕、拘置手続きを通じてかなり相当性に問題がある」と指摘し、自白についても「突然(犯行を)思い出したのは極めて不自然」と信用性を否定。さらに女性が犯行を目撃せず男性の手もつかんでいないため「位置関係から背後にいた男性を特定したにすぎない」と判断した。東京地検八王子支部は「遺憾で、判決内容には大いに不服だ。上級庁と協議のうえ対応を決めたい」とコメントしている。(毎日新聞2006年3月10日)

○「電車内で痴漢」逆転無罪、捜査の問題指摘 東京高裁
西武新宿線の電車内で痴漢行為をしたとして強制わいせつ罪に問われ、1審・東京地裁で有罪判決を受けた会社員男性(43)(休職中)の控訴審判決が8日、東京高裁であった。原田国男裁判長は「第三者の犯行の可能性を捨てきれない」と述べ、1審の懲役1年6月、執行猶予3年の判決を破棄し、無罪を言い渡した。

男性は2003年10月、通勤途中の電車内で、女子高生(当時16歳)の下着の中に、右後方から手を入れたとして起訴された。男性は「被害者の真後ろにいた別の男が犯人」と主張したが、1審判決は、「被告の供述は信用できない」と退けた。これに対し、2審は「警察官が被告の弁解を強引に封じたため、被害者は被告を犯人だと確信してしまった」と、捜査の問題を指摘した。(2006年3月8日 読売新聞)

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○電車内での痴漢は頻発している。大阪でも、朝のラッシュ時に多発しているということであり、女性にとってはまさに迷惑極まりない敵であろう。最近は女性専用車両の導入や、警察と鉄道会社との積極連携などの対策も多くなってきたようであるが、発生がなくなる気配はない。誠に困ったものである。

こういった痴漢で逮捕された男性の弁護がときどきある。その多くは、配偶者や家族、勤務先などからの依頼での出動である。一般的に痴漢は女性全体の敵ではあるが、家族の立場からすればまさに晴天の霹靂で、何が起こったのか分からないまま、狼狽を隠せずに依頼に来る。これもある意味で周囲に対する迷惑でもあろう。

○ところが、もし、逮捕が誤認であった場合はどうであろうか。いつもの通勤途中のある日、普通のサラリーマンが、突然に電車の中で痴漢にされてしまい、逮捕され、起訴されるケースがある。被害女性にしてみれば、加害男性が誰なのかがはっきりと分からないまま、近くにいる男性で怪しいと思った者を痴漢犯として指し示すこととなる。これが違っていても、周囲の人間や駅員、警察は、その証言を信用してしまう。これは無論「冤罪」であり、本来はあってはならないことである。ところが、実際にこの疑いがかけられてしまうと、大変な事態に発展していく。逮捕された者には家族があり勤務先がある。しかし、一度逮捕されてしまえば、家庭崩壊、失職などの事態が急展開で始まるのである。そして、逮捕後、警察では、たとえ間違っていたとしても女性からの供述は概ね鵜呑みにされる。否認を続ければ「お前決まっている」「早く白状しろ」と言われ続け、拘留は長引き、場合によっては最長の21日間の拘留があり、最後には起訴されてしまうこともある。「認めれば釈放する」と言って自白を迫る「人質司法」が横行し、長引く拘留は家庭崩壊・失職などの不安におののく容疑者は、早く出たい一心で罪を認めてしまう人も少なくない。その後の公判では無罪を主張しても、これを勝ち取るのは事実上かなり困難な実態がある。裁判官によっては、「無罪を争うこと」は「全く反省していない」ことに直結して厳罰に処する場合もある。

このような状態では、女性が周囲にいた男性を指して「痴漢だ」と叫びさえすれば、その男性は痴漢犯人とされ刑事罰を受けかねない。誤判を生み出さないために築き上げられ事実認定原則が、こと痴漢事件の場合は無視されている感がある。このままでは、通勤電車において、男性は両手を上に挙げ、それを周囲に見えるよういし続けないといけない。

○看過し得ない冤罪が起こり得る一方で、痴漢事件は客観的な証拠が残りにくい上に、被害女性が被害を訴えるのには大きな勇気もいる中、冤罪事件を責めるあまり本当の痴漢犯検挙を控えるようになれば、痴漢事件に苦しむ女性をより苦しめることにもなる。

この問題を解決す最もいいのは、犯行の客観的・物的証拠を確保することである。大阪府警科学捜査研究所では、痴漢の手から極小の繊維を採取し鑑定する手法を開発している。「微物鑑定」といい、採取した繊維に光をあて、ごくわずかな色の差も分析して、被害者の着けていた下着などの繊維との同一性を判別するということである。これが一致すれば、痴漢の物的証拠となり、そうでなければ物的証拠がないこととなり、自白偏重捜査から脱却ができる。

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○痴漢はどういう罪に問われるのか
〜迷惑防止条例違反と強制わいせつ罪
通常は、都道府県の「迷惑防止条例」で検挙される。正確な名称は都道府県によって異なり、東京都や大阪府では「公衆に著しく迷惑をかける暴力的不良行為等の防止に関する条例」という。そして、内容も条例によって若干異なる。東京都の場合は「公共の場所又は公共の乗物において、人を著しくしゅう恥させ」た場合としてやや抽象的なのに対して、大阪府の場合は「人を著しくしゅう恥させ、又は人に不安を覚えさせるような方法で、公共の場所又は公共の乗物において、衣服等の上から、又は直接人の身体に触れること」と、極めて明確な構成要件を定めている。罰則の多くは、6月以下の懲役又は50万円以下の罰金であるが、鳥取県のように5万円以下の罰金又は拘留若しくは科料と軽い県もある。また、常習犯の場合は罰則を重くしているのが多いが、北海道のように常習犯のみ罰則のあるところもある。また、多くの都道府県は被害者の性別に区別はないのに対して、鳥取県では被害主体を「婦女」と限定している(ちなみに加害者は男女を問わない)。

全国の迷惑防止条例を集めたサイトがある。
都道府県の迷惑防止条例


○強制わいせつ罪
13歳以上の男女に対し、暴行又は脅迫を用いて(相手の意思を抑圧して)わいせつな行為をした場合には、刑法の「強制わいせつ罪」が適用される場合がある。たとえば、満員電車の中などで、被害者(男女を問わない)が逃れることのできない状況であるのに乗じて、身体に力を加えてパンティなどの下着の中に手を入れるなどしてわいせつ行為に及んだ場合には、この刑法上の強制わいせつ罪に該当する。これを適用されると、6月以上10年以下の懲役と、かなり厳しくなる。(ちなみに被害者が13歳未満の場合は、暴行又は脅迫を用いなくともこの罪に問われる。)

○迷惑防止条例違反となるか、刑法上の強制わいせつ罪に問われるかのメルクマール
@相手の意思を抑圧して行為があり、かつA「わいせつ行為」をした場合が強制わいせつ罪であるが、Aについては一般的には「下着の中に手などを入れたかどうか」で判断が分かれることが多い。

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刑法
(強制わいせつ)
第176条 13歳以上の男女に対し、暴行又は脅迫を用いてわいせつな行為をした者は、6月以上10年以下の懲役に処する。13歳未満の男女に対し、わいせつな行為をした者も、同様とする。

【大阪府迷惑防止条例】
第6条(卑わいな行為の禁止)
何人も、次に掲げる行為をしてはならない。
1 人を著しくしゅう恥させ、又は人に不安を覚えさせるような方法で、公共の場所又は公共の乗物において、衣服等の上から、又は直接人の身体に触れること。
第11条
@ 次の各号の1に該当する者は、6月以下の懲役又は50万円以下の罰金に処する。
 1 第2条の規定に違反した者
 2 第6条の規定に違反した者
A 常習として前項の違反行為をした者は、1年以下の懲役又は100万円以下の罰金に処する。

【東京都迷惑防止条例】
第5条(粗暴行為(ぐれん隊行為等)の禁止)
@ 何人も、人に対し、公共の場所又は公共の乗物において、人を著しくしゅう恥させ、又は人に不安を覚えさせるような卑わいな言動をしてはならない。
第8条(罰則)
@ 次の各号の一に該当する者は、6月以下の懲役又は50万円以下の罰金に処する。
1 第2条の規定に違反した者
2 第5条第1項又は第2項の規定に違反した者
3 第5条の2第1項の規定に違反した者

【北海道迷惑防止条例】
(卑わいな行為の禁止)
第2条の2
何人も、公共の場所又は公共の乗物にいる者に対し、正当な理由がないのに、著しくしゅう恥させ、又は不安を覚えさせるような次に掲げる行為をしてはならない。
(1) 衣服等の上から、又は直接身体に触れること。
(以下略)
(罰則)
第10条
第2条第1項第2号又は第6条の規定のいずれかに違反した者は、6月以下の懲役又は50万円以下の罰金に処する。
2 常習として、第2条の2又は第6条の規定のいずれかに違反した者は、1年以下の懲役又は100万円以下の罰金に処する。

【京都府迷惑防止条例】
(卑わいな行為の禁止)
第3条
何人も、公共の場所又は公共の乗物において、他人を著しくしゅう恥させ、又は他人に不安若しくは嫌悪を覚えさせるような方法で、次に掲げる卑わいな行為をしてはならない。
(1) みだりに、他人の身体の一部に触ること(着衣の上から触ることを含む。)。
(以下略)
(罰則)
第8条
第3条の規定に違反した者は、6月以下の懲役又は50万円以下の罰金に処する。
2 常習として第3条の規定に違反した者は、1年以下の懲役又は100万円以下の罰金に処する。

【鳥取県迷惑防止条例】
(粗暴行為等の禁止)
第2条
何人も、道路、公園、広場、駅、空港、埠ふ頭、興行場、飲食店その他の公共の場所(以下「公共の場所」という。)又は汽車、電車、バス、船舶、航空機その他の公共の乗物(以下「公共の乗物」という。)において、次の各号に掲げる行為をしてはならない。
一 多数でうろつき、又はたむろして、通行人、入場者、乗客その他の公衆に対し、いいがかりをつけ、すごむ等不安を覚えさせるような言動をすること。
二 婦女に対し、婦女を著しくしゆう恥させ、又は婦女に不安を覚えさせるような卑わいな言動をすること。
(以下略)
(罰則)
第9条
第2条から前条までの規定のいずれかに違反した者は、5万円以下の罰金又は拘留若しくは科料に処する。
2 常習として前項の違反行為をした者は、6ヶ月以下の懲役又は20万円以下の罰金に処する。

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○強制わいせつ被告無罪事件について
(いわゆる西武新宿線痴漢事件)
被告人を犯人であるとする被害者の証言には疑問があるなどとし、有罪とした一審判決を破棄して、無罪が言い渡された事例である。判決言渡し直後は、マスコミがこの無罪判決をとりあげ、TVニュースや特集が数日間続いた、そういう意味で耳目を集めた事件である。

平成14年12月5日東京高等裁判所判決
(判例時報1813号157頁)

主 文
 原判決を破棄する。
 被告人は無罪。

理 由
第一 本件控訴の趣意等
本件控訴の趣意は、弁護人鳥海準らが連名で作成した控訴趣意書及び同補充書に、これに対する答弁は、検察官長井博美作成の答弁書に、それぞれ記載されているとおりであるから、これらを引用する。論旨は、要するに、原判決は、「被告人は、平成一二年一二月五日午前七時五七分ころから午前八時一〇分ころまでの間に、西武新宿線鷺ノ宮駅から高田馬場駅に至るまでの間を走行する電車内において、乗客のB子(当時一九歳)の右手首をつかみ、その右手を自己の勃起した陰茎に擦り付けるなどし、もって強いてわいせつな行為をした。」という強制わいせつの事実を認定して、被告人を有罪としたが、被告人は、そのような行為をしていないから、無罪であり、原判決には、判決に影響を及ぼすことの明らかな証拠裁判主義違反や自由心証主義違反等の法令違反、事実誤認の違法がある、というのである。そこで、所論にかんがみ記録を調査し、当審における事実取調べの結果も併せて検討すると、被告人を有罪と認めるには合理的な疑いがあり、原判決は事実を誤認したものとして破棄を免れない。その理由は、以下のとおりである。

第二 判断の前提となる証拠上明らかな事実関係
関係各証拠によれば、以下の事実関係は、格別反対証拠もなく、優に認められる。
一 被告人は、美術大学を卒業後、都内の大手電子機器メーカーに就職し、主としてデザインを担当して本件当日に至った。被告人は、平素、自宅から徒歩で最寄りの西武新宿線東村山駅に向かい、同駅から西武新宿駅行きの普通電車に乗り、小平駅で西武新宿駅行きの快速電車に乗り換え、高田馬場駅でJR山手線に乗り換えるという経路で通勤していた。本件当日の平成一二年一二月五日も、被告人は、同様の経路で通勤するため、午前七時一八分ころ自宅を出て、東村山駅を午前七時三一分発の西武新宿駅行き普通電車に乗り、小平駅で午前七時三九分発快速電車(列車番号三四一〇号。以下、「本件快速電車」という。)の前から五両目の車両に最後部のドアから乗車した。
二 他方、B子は、新宿区高田馬場に所在する専門学校に在籍し、東京都田無市にある同校の寮から通学していた。B子は、通学のため、田無駅から高田馬場駅間の西武新宿線を利用しており、平素は、田無駅午前七時三九分発の準急電車を利用するが、本件当日は、専門学校の同級生であるC子と一緒に同駅午前七時四六分発の本件快速電車の前から五両目に最後部のドアから乗車した。同車内は、通勤・通学の乗客で混み合っており、容易には身動きがとれない状態であった。B子は、乗り込む乗客に押されるかたちで、C子と離れてしまった。
三 本件快速電車は、田無駅を出発した後、午前七時五七分ころ、鷺ノ宮駅に停車し、午前八時一〇分ころ、定時(午前八時八分)よりやや遅れて高田馬場駅に到着した。
四 本件快速電車は、高田馬場駅に到着すると、進行方向右側ドアが開き、少ししてから左側ドアが開くが、被告人は、左側ドアから降車し、B子も、同じドアから降りた。
五 B子は、その直後、ブラットホーム上で被告人の着ているダウンジャケットを背後からつかみ、「警察へ行きましょう。」と言って、被告人を捕まえた。これに対して、被告人は、「おれが何したんだよ。」と怒鳴ったが、B子が、前方を歩いていたC子を呼んで、C子に被告人が痴漢であることを伝え、さらに、付近にいた駅員にも被告人が痴漢であることを申し出た。
六 被告人は、駅員に駅事務室に案内され、その後臨場した警察官は、午前八時一○分ころ、B子が被告人を強制わいせつの犯人として現行犯逮捕したとして被告人の身柄を受け取り、午前九時○分、警視庁戸塚警察署に引致した。
七 B子と被告人とは、本件当日同じ電車に乗り合わせていたというだけで、それまではまったく面識がない。
八 被告人は、身長約一七六センチメートルで、逮捕当時の服装は、上が黒の着丈が股下一〇センチメートルくらいにまで達するダウンジャケット、下が茶色コールテン地のズボン(前開き部分は、チャック式ではなく、四個のボタンで留める形式となっている。)であり、CDプレーヤーを入れた黒色のかばん(スリーウェイバッグ)を携行していた。他方、B子は、本件当日のブーツを履いた状態で、身長約一五三センチメートルであり、本件当時、厚手のウールコートを着用し、マフラーを首に巻き、手提げ袋を携行していた。また、B子の裸眼視力は○・二ないし○・三で、普段はコンタクトレンズを使用しているが、本件当時は、コンタクトレンズを装着していなかった。

第三 原判決の判断の骨子とB子、被告人の供述要旨
一 原判決の判断の骨子
原判決は、鷺ノ宮駅から高田馬場駅に至るまでの間を走行する本件快速電車内において、被告人から右手首をつかまれ、その勃起した陰茎に擦り付けるなどのわいせつな行為を受けた旨のB子の原審証言の信用性を肯定し、これに沿った事実が認定できるものとし、他方、被告人の、B子の近くに乗り合わせたことは認めながら、B子に対してそのような行為はしていない旨、犯行を否認する供述の信用性を否定して、被告人を有罪とした。そこでまず、両者の供述の大要を記すと、以下のとおりである。

二 B子の原審証言(以下、「B子証言」という。)
私は、平成一二年一二月五日、専門学校に通学するため、同じ寮にいるC子と一緒に、西武新宿線田無駅から午前七時四六分発の本件快速電車に乗った。この証人尋問には、コート、マフラー、ブーツとも、当日と同じ服装で出廷している。その日は朝寝坊をしたので、いつもより一本遅い本件快速電車に乗ったが、学校には遅刻しないで着ける電車であった。その電車には、進行方向右側のドアから乗車したが、その際、人に押され、乗る前まで一緒だったC子と離れてしまい、私は、進行方向左側のドアに近いところまで流され、そのドアから人一人か二人分くらい離れたところに進行方向右側を向いて立った。
電車内は混んでおり、腕を動かしたり、少し立っている位置をずらしたりする程度はできるが、人の体一人分くらい移動することも簡単にはできず、かなり頑張らなければ移動できない状態であった。その電車が田無駅を出発してから間もなく、男の人の性器の部分が右腰の真横、腰骨の下の辺りに当たった(尋問中手で指示したところに基づき計測した結果は、床から八一センチメートル程度の高さであった。)。
その男は、私の右真横に私の方を向いて立っていて、黒のダウンジャケットを着ており、自分より頭一つ分くらい背が高く、髪の毛がちょっと天然パーマっぽい感じであった。また、黒のバッグを右脇に抱えており、そのバッグのポケットのようなところからウォークマンのリモコン部分が見えていた。年齢は二〇歳代の終わりころに見えた。初めは、電車が混んでいて揺れもあるので、痴漢とは思わず、仕方がないと思ったが、男性の性器の部分が当たるのは嫌なので、立っていた位置をちょっとだけ左側にずらした。それでもまた押し付けてきたので、痴漢だなと思った。その際、その男の陰茎がだんだん硬くなったという感触があった。また、その男の顔をちらっとだけ見たが、何かちょっと恐ろしくなってきて、あまりじっくり見ることができなかった。だんだん冷静でいられなくなり、恐ろしいということばかりが順の中を回り、動けなくなった。やめてほしいと思ったが、声を出せなかった。そのような状況が電車が走行している間、鷺ノ宮駅まで続いた。鷺ノ宮までの途中に停車した上石神井駅でも、鷺ノ宮駅でも、進行方向右側のドアが開いたが、私の周りの人の動きはなく、「嫌だ。どうしよう。どうしよう。」ということばかり考えていて、車両を変えるとか、電車から降りるとかまったく頭に浮かばず、体が動かないという状態であった。電車が鷺ノ宮駅を発車してから一分くらい経つか経たないかくらいして、私の右手の小指の付け根の手の甲の方の辺りに、何か生暖かいぷよぷよしたものがちらっと触った。そのころ、その男が何かごそごそやっている気配があったので、その男が陰茎を出したんだなと思った。これまでに男性経験があったので、生暖かいというだけでなく、感触からも、手とかではなく、陰茎だと思った。そのとき、陰茎が立っているかどうかは、はっきり分からなかった。嫌だったので、反射的に右手を自分の前の方に持ってきた。すると、その男に右手首をつかまれ、右手をその男の陰茎のところに持っていかれ、陰茎を触らされた。その際、右手を引き戻そうとしたが、その男の力に勝てなかった。私は、右手をその男の陰茎の上に乗せられたので、陰茎を握らされるのではないかと思い、とっさに右手を握った。その男は、私の右手の親指の下のぷよぷよしている部分を勃起している陰茎の上に乗せ、私の右手を動かして陰茎に沿わせて擦り付けた。そのとき、その男がダウンジャケットをまくり上げている様子はなかったが、私の右手にダウンジャケットが当たるということもなかった。陰茎や犯人の手の動きが見えたわけではない。電車の中でそういうことをする人がいるとは思っていなかったので、変だと思って怖くなり、逆上されたりするのが怖くて何も言えず、顔を見ることもできなかった。恥ずかしいということもあり、複雑な思いがいっぱいあって、はっきりやめてくださいとは言えなかった。誰かに助けを求めようとしたが、前の人は私の方を見ておらず、私の方を見ているのが分かったのは、左側にいた人だけであったが、その人に目で訴えかけるようにしたものの、反応がなく、気付いたのかどうかよく分からなかった。また、コートの左ポケットに入れてあった携帯電話を取り出し、「痴漢されてる。」などとメールを打ってC子に送信しようとしたが、圏外で送信できなかった。その男は、高田馬場駅のホームが見える辺りで、私の右手を陰茎に擦るのを急にやめて、私の右腕を放した。それで、私は右腕を自分の体の前に持ってきた。その男の股間部分で何かごそごそしている感触があり、下の方でダウンジャケットのシャカシャカすれる音がしていたので、その男が出していた陰茎を中にしまっていると思った。鷺ノ宮駅で右横の方の人が乗り降りするような動きはなく、人が入れ替わったことはないし、電車が鷺ノ宮駅を発車してからも、その男のダウンジャケットが右肩部分に触れる感触があり、それが離れたという感触はなかった。黒いダウンジャケットを着た人は周りにいなかったので、私の右手を陰茎に触らせた男は、私の右腰に性器の部分を押し付けてきた男に間違いない。服は、腰に男性器を押し付けてきたときに見て、それで覚えていた。陰茎を触らされているときは、冷静になって考える余裕がなかったが、それが終わり右手を放されて安心してから、その男を捕まえようとか、警察に連れていきたいとか考えることができるようになった。しかし、その男を捕まえたとき、その男から殴られるのではないか、逆上されるのではないかと思って、体が動かず、どうしようか考えがまとまらなかった。
その男は、高田馬場駅で進行方向左側のドアから電車を降りて出ていこうとした。それで、私は、その男を捕まえなくてはと思い、慌ててその男の後を追って、同じドアから電車を降りた。電車から降りれば、C子がホームにいるので、心強いと思った。その男が電車から降りる前、まだ私の右横に立っているとき、その男をちらっと見た。その後、私は、降りたドアと反対方向を向いていたので、降りるのに戸惑い、一瞬その男から目を離したが、すぐにその男を目で追った。電車から出たところで、一メートルくらい先にいるその男を見つけたが、黒のダウンジャケットの男はほかにおらず、迷うようなことはなかった。その後、私は、五、六メートルくらい小走りで追いかけ、その男のダウンジャケットの左裾を後ろから右手でつかみ、「警察へ行きましょう。」と言った。その男は、勢いよく振り返って、すごく嫌そうな怒った感じの険しい顔で「おれが何したんだよ。」と怒鳴りつけてきた。周りを見ると、私よりちょっと前の方をC子が歩いていたので、C子に一緒にその男を捕まえてもらい、警察に付いてきてもらおうと思い、「C子」と呼んだ。C子が振り向いて、「痴漢」と聞いてきたので、うなずいた。それから、C子と一緒にその男を近くにいた駅員のところに連れて行った。そのとき捕まえた男が、斜め後ろに座っている被告人である。電車の中で被害に遭っているとき、ちらちら見た時の顔も覚えており、少し雰囲気が変わっているが、間違いはない。

三 被告人の供述要旨
事件当日、西武新宿線小平駅において、普通電車から本件快速電車に乗り換えた。最初はそれほど混んでいなかったが、駅で停車する毎に乗客が増え、混んできた。私は会社の命令で受けることになっていた試験に備えて英会話のCDを聞いていた。すると、田無駅でひどいアトピーの顔をした女性(B子)が押し出されるようなかたちで現れた。B子は、むすっとした感じで私の正面に立っていて、私にどけよというふうな顔で私の方を見てガンをつけてきたように見えた。私は、B子の顔の見た感じや、どけよという感じがしたのが嫌だったので、にらんだかもしれない。私は、そのまま向き合っているのが嫌だったので、かわそうと思ってB子と向き合わないように、右前の方に移動して進行方向を向くように立った。私が移動した後、B子は、私が立っていた位置に立っていたと思う。顔は見えなかったが、それらしい背格好の女性が田無駅から鷺ノ宮駅までの間、私の左前方でうつむいていた。B子と思われるその女性は、私の前の猫背の男の左肩の辺りに順をもたれかけていたのを覚えている。鷺ノ宮駅で、乗降に伴い、私の前にいた乗客が全体として進行方向に向かって左側に移動した。私は、右前に立っていた女性に押され、その女性の胸が右腕に当たるようになったので、それを避けるために体を時計回りに回転させた。その結果、B子は、私の視界から外れたが、左後方に位置することになったと思う。高田馬場駅では、猫背の男に続いて進行方向左側ドアから降り、山手線への乗り換え階段に向かった。階段の下辺りで着ていたダウンジャケットの後ろが何かに引っかかるような感触があり、振り向くと、田無駅で見た女性(B子)がダウンジャケットの裾を持っていた。B子は友達を呼んで、痴漢というような話をしていた。否定したが、駅員に突き出された。股間を押し付けたり、陰茎を触らせるなどはしていない。

第四 B子証言の信用性
上述のとおり、B子は、体験した痴漢被害の状況を克明に供述しているが、具体的被害の状況、その犯人の識別及び被告人との同一性について、その一部始終を直接視認したり、犯行最中にその手を取り押さえるなどして犯人を特定しているわけでなく、視認できた限りでの周囲の状況、自己と犯人と疑われる人物との位置関係、身体に接触した感触等から推測している部分も相当あることが認められる。

そこで、B子証言に基づいて被告人の有罪を認めるためには、具体的被害の状況、その犯人が被告人であると識別した状況等について、その観察・認識過程、記憶及び表現の正確性等、証言の信用性に関する事項はもとより、証人の信用性に関する事項についても慎重に検討し、証明力を評価する必要がある。

一 供述の全体について
まず、B子証言を全体として見てみると、その供述内容は、原判決が説示するとおり、具体的かつ詳細なものであり、体験に即さないのではないかと疑わせるような、空想的・作為的な色彩は見られない(この点、B子証言に係る犯行態様は、混雑する電車内で、犯人が自己の陰茎を露出して、見ず知らずの女性の手に一〇分間にわたり擦り付けるというものであるが、犯人が股間を押し付けるなどしてB子の反応をうかがった上で、本件犯行に及んだと解することができる上、婦女子の前で陰茎を露出する公然わいせつ等事犯が世上希ではないことなども考え合わせれば、特異な犯行ではあるが、荒唐無稽とはいえず、むしろ、創作で語ることができるものではないといってよい。)。そして、その証言は、主尋問・反対尋問を通じて一貫していて、前後で矛盾したり、動揺したり、あるいはあいまいになったりしておらず、問いに対して答えをはぐらかすようなところもなく、その供述態度は真摯性がうかがわれる。それだけでなく、供述経過を立証趣旨として採用されたB子の警察官調書(原審甲第一五号証・本件当目に録取)及び検察官調書(同第一六号証・平成一二年一二月一六日付け)等によれば、その供述内容は被害直後からほぼ一貫していることが認められる。本件被害の状況については、その前後の経過、周囲の状況、自己の行動や内心などと関連させながら供述がされているところ、その顛末はごく自然な流れになっている。また、B子は当時一九歳の専門学校生で、被告人とは、本件当日同じ電車に偶然乗り合わせただけであり、それまでにまったく面識がなく、B子が虚偽の供述をしてまで被告人を罪に陥れなければならないような動機は見当たらない。これらの点からすれば、B子は、自己が認識し、思ったところを有り体に供述しようとしていることが認められる。(なお、以上の点に関連し、原判決は、その説示中において、B子が、被告人を捕まえようとしてダウンジャケットをつかんだ際、被告人が「おれが何したんだよ。」と怒鳴りつけてきたと供述している点を捉えて、「この供述は、本件犯行を行った者の反応としては自然であるが、本件犯行を行っていない者の反応としては不自然である。このように、本件犯行の周辺的な事実についても、本件犯行との関係で自然な供述がなされているのである。」として、B子の供述内容が自然であることの例示として掲げている。しかし、このような事柄について証言中で言及されていることが、その証言が自然であると評価できる根拠になるとは思われない。B子は、被告人のダウンジャケットの裾をつかむに際し「警察に行きましょう。」と言っているのであるから、仮に警察に同道しなければならないようなことについて身に覚えのない者であれば、不意にそのような疑いをかけられて、その相手を怒鳴りつけることも、理にかなっているといえる。そうだとすると、原判決が、上記のとおり、被告人がB子に対して怒鳴りつけたことをもって、本件犯行を行った者の反応としては自然であるが、本件犯行を行っていない者の反応としては不自然であると説示しているのは、明らかに適切ではなく、是認することはできない。)

二 被害状況について
次に、被害状況に関する供述についてつぶさに検討することにする。
(1)被害状況についてのB子証言は、要するに、本件快速電車内で、田無駅を出発してから間もなく、男性器の部分を自分の右腰の腰骨の下の辺りに押し付けられるという痴漢被害に遭い、それは鷺ノ宮駅まで続いた(以下、「第一の被害」又は「第一の行為」という。)、そして、鷺ノ宮駅を発車してから、男に右手首をつかまれ、右手をその男の陰茎のところに持っていかれ、陰茎を触らされ、握った右手の親指の付け根の部分を勃起している陰茎の七に乗せて陰茎に擦り付けるなどされ、それが高田馬場駅近くまで続いた(以下、「本件被害」又は「本件犯行」という。)というものである。
(2)これについて、所論は、B子は、男の股間部が自分の腰に当たっているところや、犯人の陰茎、手の動きを見たわけではなく、触れた感触などからの推測に負う部分が多く、それ自体証明力に乏しいとした上、以下の(1)ないし(7)のとおり、多岐にわたる問題点を指摘して、B子証言の信用性を争っている。すなわち、
(1)B子は、厚手のウールのコート等を重ね着した状態で、かつ、混雑した電車の中で、意図的に男が股間部を押し付けてきたこと、さらに、それが硬くなってきたことなどを認識できたとするのは、不自然である。
(2)B子が本件痴漢に気付いた端緒である右手小指の付け根付近に生暖かいものが触れたという供述は、B子の右手はコートの袖の中に完全に隠れていたから、客観的事実に反する。
(3)右手小指の付け根付近に触れるものがあったとしても、それが陰茎であると分かるわけがなく、供述は不合理である。
(4)約一〇分間もの間、周囲の者に気付かれないまま、右手首をつかまれ、右手の親指の付け根の部分を勃起している陰茎の上に乗せて陰茎に擦り付けるという態様で犯行が継続されたというのも不自然である上、犯人はダウンジャケットを着ていたというのに、ダウンジャケットに触れたり、その音が聞こえたことは記憶にないというのも不自然である。
(5)B子が犯人から股間を右腰に押し付けられる行為を約一〇分間もされ、また、犯人から陰茎を触らされる行為を約一〇分間もされているのに、まったく退避行動をとっていないし、一緒に同じ電車に乗った友人のC子がそれほど遠くないところにいることを知っていながら、C子に助けを求める行動をとっていないこと、それにもかかわらず、高田馬場駅で被告人を捕捉する行動をとっていることは、不自然である。
(6)B子は、この被害の間に電車が上石神井駅に停車したと証言しているが、西武鉄道株式会社作成の回答書(原審弁第一七号証)などによれば、本件快速電車は、上石神井駅には停車しなかったと認められるから、B子証言はこの点において明らかに事実に反する。
(7)B子は、携帯電話からC子に助けを求める電子メールを送ろうとした旨証言しているが、裏付けを欠き、真実性を疑わせる。
所論は、上記のとおり主張して、被害状況についてのB子証言の信用性を争うものである。

(3)そこで検討するに、これらのうち、(1)、(5)、(6)の点についての所論の指摘に対し、原判決がB子証言の信用性を左右するものではないと判断している点は、相当なものとして是認できる。
すなわち、(1)の点については、B子は、男性の股間部が自分の腰に当たるのが、当初は混雑していたためだと思ったが、立っていた位置をずらしても、相変わらず押し付けてきたので、痴漢だと思った旨、また、何回も押し付けてきた旨、自然かつ合理的な説明をしているのであって、これが意図的に押し付けられた痴漢行為であると判断した点に、所論のいうような疑義は認められない。また、厚手の着衣越しであっても、単に接触するというのではなく、押し付けられてきたというのであるから、相手の部位が股間部であることや、硬いものが当たる程度の感触を感じ取ることは不可能ではないと思われるのであって、これが不自然であるという所論は当たらない。そして、B子は、上述のとおり、意図的に股間部を押し付けてくる痴漢であるという判断に立って、腰に当たっている部位が次第に硬くなったと感じたことを、その男の陰茎がだんだん硬くなったと表現したものと理解され、B子は、直接その部位を視認して観察したわけではないから、推測の域を出ないが、B子が現に覚知した感触からの推測として合理性があると考えられる。
(5)の点についても、B子は、犯人から性器の部分を押し付けられ、しかもそれが痴漢と分かり、恐ろしくなってきて、だんだん冷静でいられなくなり、動いたり、声を出したりできなかったなどと供述しているところ、自由に移動することのできない混雑した電車内でわいせつ行為の被害にあった若い女性が、このような心理状態になり、退避行動がとれなくなることは、珍しいことではないといえるから、何ら不自然でない。また、犯人から陰茎を触らされた際についても、それが特異な被害であるだけに、B子が証言するように、恐怖感や羞恥心などから、犯人にはっきりと不快の念ないしは拒絶の意思を告げられないとしても不自然とはいえないし、左隣の人に目で訴えかけたり、C子に
助けを求めるメールを送信しようとした(その真実性についての問題点については、後に触れる。)など、それなりに回避策を模索していたことも述べられているのであり、B子が混乱した精神状態に置かれていたことに照らせば、この点も不自然とはいえない。さらに、高田馬場駅で被告人を捕まえたことについても、犯行が終わったことにより冷静に考える余裕ができ、犯人を警察に突き出したいという気持ちと犯人を捕まえようとすれば危害が加えられるかもしれないとの恐怖心との葛藤があり、自由に動くことができる状況になったことや、ホームで友人のC子と合流できることなどから、恐怖心よりも犯人を警察に突き出したいとの気持ちが勝り、とっさにそのような行動をとった旨、説明しているのであって、その説明は合理的であり、納得のいくものである。
(6)の点についても、B子は、前記検察官調書(原審甲第一六号証)においては、この痴漢行為が田無駅の次の停車駅である鷺ノ宮駅まで続いていた旨、本件快速電車が上石神井駅に停まらなかったことを前提とする内容の供述をしている。そして、B子がいつも通学に利用しているという、本件快速電車よりも一本前の準急電車は、上石神井駅に停車すること(C子証言)なども考え併せると、単純な記憶の混乱と考えられるし、B子は、証人尋問において、上石神井駅に停まったとの供述をしているものの、周囲の人の動きなど、同駅で格別状況が変化したとは述べていないのであるから、本件に関する核心部分ないしそれに密接に関連する部分ともいえない。そうすると、この点は、B子証言の信用性を損なうことにならない。
(4)さらに、その余の所論の指摘も、以下のとおり、いずれも容れることはできない。
(中略)
(5)以上の検討結果を踏まえて考察すると、B子証言に沿う、あるいは、それに近いような被害の事実は存在したものと認められ、痴漢という被害の事実そのものが存在しなかったとは考えられない。

三 被告人の犯人性について
そこで、犯人が被告人であると、識別・特定している点について更に検討する。
(1)この点に関するB子証言を整理すると、以下のとおりである。
(ア)第一の被害の犯人は、本件快速電車内でB子の右真横にB子の方を向いて立っていた男であり、本件犯行の犯人もその男であって、高田馬場駅で捕まえた被告人にほかならない。
(イ)犯人の顔は、第一の被害を受けた際、ちらっと見たが、二〇歳代終りくらいで、眼鏡はかけていなかった。服装は、黒のダウンジャケットを着ており、身長約一五〇センチメートルのB子よりも頭一つくらい背が高く、髪の毛が天然パーマっぽい感じであり、黒のバッグを右脇に抱えており、そのバッグのポケットのようなところからウォークマンのリモコン部分が見えていた。
(ウ)本件被害を受けている最中は、犯人の顔を見ていないが、(イ)の男が引き続き本件犯行に及んだ犯人であるといえる根拠は、鷺ノ宮駅で右横の方の人が乗り降りするような動きはなく、人が入れ替わったことはないし、電車が鷺ノ宮駅を発車してからも、その男のダウンジャケットが右肩部分に触れる感触があり、それが離れたという感触はなかった。黒いダウンジャケットを着た人は周りにいなかった。
(エ)高田馬場駅で降車する際、その男の後を追って、同じドアから電車を降りてホームで捕まえたのが被告人である。一瞬目を離したことはあったが、見失っておらず、黒のダウンジャケットの男はほかにおらず、犯人と見誤ることはない。
(オ)証言時に見た被告人の顔は、(イ)の際に見た犯人の顔と同じである。

(2)原判決は、犯人性についてのB子証言の信用性を肯定したものであるが、これに対し、所論は、以下、(1)ないし(7)のとおり、多岐にわたり、疑義を呈して信用性を争っている。
(1)B子は、裸眼視力が○・二か○・三であったところ、本件当時、コンタクトレンズ等を装着しておらず、その視認能力に問題がある上、混乱した心理状態の下で、犯人と思われる人物を一瞥しただけであり、その観察の条件は劣悪である。
(2)被告人が勃起した陰茎をB子の右腰の下辺りに押し付けるということは、被告人とB子の身長差から、被告人が電車内での通常の立ち方で立った状態ではできない。
(3)B子の右手の小指の付け根付近に被告人の勃起した陰茎が当たるということも、被告人が電車内での通常の立ち方で立った状態では不可能である。
(4)被告人が当時着用していたズボンは、前開き部分がチャック式ではなく、ボタンで留めるタイヅのものであり、しかも、股下一〇センチメートルくらいに達するグウンジャケットを着て、その前のチャックを閉めていたのであるから、被告人が陰茎を露出して触らせるという犯行はおよそ不可能である。
(5)鷺ノ宮駅では、多数の乗降客により、電車内での立つ位置が変わっているはずであり、田無・鷺ノ宮間と変わらなかったというのは、事実に反する。
(6)B子は、「鷺ノ宮駅を発車してからも、犯人のダウンジャケットが右肩部分に触れる感触があり、それが離れたという感触はなかった」旨、犯人の身体が接触するほど近かったと供述するところ、他方では、陰茎を触らされた右手が、犯人のダウンジャケットにもズボンの前開きの部分にも触れていないと述べているのであって、不自然である。
(7)B子は、降車直前に再度犯人を一瞥したというが、その時点では、降車に備えた乗客の動きにより、立つ位置が変わったと考えられ、その段階で視認した犯人らしき者が、それまでB子の右横にいた者と同一かも定かでない。
(3)そこで検討すると、B子は、上述のとおり、第一の被害について、男の股間部が自己の右腰の腰骨の下辺りに当たっているのを直接視認しているわけではないが、電車内は、冬場の通勤・通学時間帯で、「腕を動かしたり、少し立っている位置をずらしたりする程度はできるが、人の体一人分くらい移動することも簡単にはできず、かなり頑張らなければ移動できない状態」と表現しているとおり、相当混んでおり、しかも、その痴漢行為の態様は、股間部をB子の腰部に押し付け、密着させるというものであったのであるから、位置関係に基づき、右真横で自分の方を向いて立っている男が犯人であると判断したことは、合理性を備え、首上目できるものである。そして、B子は、そのような意識で犯人と思料される男を一瞥し、黒のダウンジャケットを着ていること、自分より頭一つ分くらい背が高いこと、髪の毛がやや天然パーマっぼい感じであったこと、眼鏡はかけていないこと、黒のバッグを右脇に抱えていたこと、そのバッグのポケットのようなところからウォークマンのリモコン部分が見えていたことなどを観察したのであり、その観察自体には、格別疑義を入れるべき事情は見当たらない。
また、(5)の点は、鷺ノ宮駅において、乗降客によりB子及び犯人の立つ位置が影響を受けることは避けられないということを前提とするものであり、これを裏付ける証拠として、弁護人らが当審で提出した本件快速電車に相当する同時刻の車両の鷺ノ宮駅での乗降状況及びその再現実験を録画したビデオテープ(当審弁第四号証)等を援用している。しかしながら、痴漢の犯行は、往々にして、被害者の反応を見ながら、さしたる抵抗がないと見るや、行為をエスカンートさせていくことがよく見られることに照らせば、犯人は、その時点で、B子に対し、第一の痴漢行為に引き続き、本件犯行に及ぼうと企てていたと解することは、十分な合理性を備えているということができる。そうだとすれば、所論がいうように、鷺ノ宮駅でB子の周囲に立つ位置の移動を強いられるような乗り降りがあったと仮定しても、犯人がB子に対して相対的な位置関係を変えずに移動しようとすることは、十分考えられるところである。そうすると、この所論の指摘は、B子証言の信用性を左右するものとはならないというべきである。
さらに、(6)の点も、前記二(4)(イ)(ウ)に説示したとおり、B子証言によれば、犯人がB子の手を動かした範囲は、八センチメートル内外の範囲に限られるのであるから、仮に犯人のダウンジャケットにもズボンの前開きの部分にも触れていないとしても、この点が明らかに不自然であるとはいえない。
(4)しかしながら、B子は、犯人の顔については、「ちらっとだけ見た」、「(痴漢だとしたら、その犯人の顔をよく見てやろうとは思わなかったのかという趣旨の問いに対し)何かちょっと怖くなってきちゃって、余りじっくり見ることができなかった。」などと述べている上、当時はコンタクトレンズを装着しておらず、視力は○・二か○・三であったというのであるから、近距離からの観察であるため、戸論の1がいうほど劣悪な観察条件とはいえないにしても、良好な観察条件とはいえず、犯人の同一性の識別に直結する容貌についての観察は、心許なさを否定できない。
そして、その容貌等の特徴について供述するところも、髪の毛がやや天然パーマっぽい感じであったこと、眼鏡はかけていないこと、年齢は二〇歳代終わりに見えたことというにとどまるところ、逮捕当時の被告人の人相を明らかにする資料は、原審記録中に含まれていないから、その特徴がどの程度、妥当しているのか検証することができない。犯人の年齢が二〇歳代終わりに見えたという点も、被告人の当時の年齢が三七歳であったことを考えると、年齢判定の根拠が主観的なものであることなどを考慮しても、いささか違和感を覚えざるを得ない。また、B子自身、証人尋問の際、被告人を見て、「ちょっと雰囲気が変わっちゃっていますけれども、(犯人に)間違いないです。」と述べているが、どのような点で犯行当時と雰囲気が変わっているのか、その一方で同一性を断定できる根拠は何かについても、格別言及するところはない。
(5)また、黒のタウンジャケットを着ているという点は、冬場の通勤時間帯の電車内において、格別特徴的な服装ということはできない。黒のバッグを右脇に抱えていたこと、そのバッグのポケットのようなところからウォークマンのリモコン部分が見えていたことも、電車内でよく見かける光景であり、同様に特徴的な所持品、姿勢ということはできない。さらに、B子の身長が一五〇センチメートルくらいであることからすれば、自分より頭一つ分くらい背が高いということも、他の成人男性と識別するに足りる特徴といえるかも疑問が残る。ところが、B子は、高田馬場駅で降車し、犯人を追尾して捕捉する際に、その同一性が保たれている最大の根拠を、黒のダウンジャケットを着ているという着衣の特徴に求めている。B子は、周囲に黒のダウンジャケットの男はほかにいなかったから、見誤りはないと述べているが、B子の身長に照らすと、電車内では自己に接する位置に立つ乗客以外については、視認できなかったと考えることもでき、周囲に黒のダウンジャケットの男はほかにいなかったという供述に直ちに依拠することはできない。また、上述のとおり、黒のダウンジャケットが、格別特徴的な服装ということはできないから、所論の(7)が指摘する降車前後の乗客の動きがあることをも考慮すると、追跡の過程において、同様の着衣の人物と誤認した可能性は必ずしも否定できないことになる。しかも、B子は、降りたドアと反対方向を向いていたので、降りるのに戸惑い、一瞬犯人から目を離したというのであるから、誤認の可能性はより高いと考えられるのである。
なお、被告人は、原審公判において、田無駅から鷺ノ宮駅の間、自分の近く(左隣り)に立っていた男性が、二七歳から三〇歳くらいで、黒っぽいナイロンジャケットのようなものを着ていたと述べているところ、この点は、捜査段階の勾留理由開示公判における意見陳述書や弁護人作成の接見メモ(当審弁第七号証)にも現れているのであり、被告人が捜査の初期の段階から黒っぽいジャケットのようなものを着ていた男の存在を主張していたことも指摘しておきたい。
(6)さらに、所論の(2)ないし(4)が指摘する、被告人とB子の身長差、着衣の特徴から、被告人が第一の行為及び本件犯行の犯人ではあり得ないとする主張についても、無視し得ないものを含んでいる。
この点、原判決は、所論の(2)が指摘する点について、関係証拠により、被告人が靴を履いてますっすぐに立った状態での陰茎の付け根の高さは概ね八〇センチメートル弱であり、B子が、証人尋問において指示した、陰茎を押し付けられた 腰の腰骨の下辺りの高さが八一センチメートル程度であると認められるとした上で、被告人が足をB子の足に触れない程度に開いていたことや、陰茎を押し付けるという動作のため、多少ひざを緩めて腰を若干落とした状態であったこともうかがわれる内容になっており、また、右腰の腰骨の下辺りはウエストより膨らみがあるため、その辺りに陰茎を押し付けられた場合、その感 がウエストより腰骨の下辺りに感じやすいと考えられるなどとして、電車内での通常の立ち方で立った状態で被告人が勃起した陰茎をB子の右腰の腰骨の下辺りに押し付けることはできないとしても、被告人が電車内である程度足を開いて立って、多少ひざを緩めて腰を若干落とした状態で勃起した陰茎をB子の右腰に押し付けていたとすると、右腰の腰骨の下辺りに陰茎を押し付けられたと感じたとのB子の供述は、不自然、不合理ではない旨説示する。
また、所論の(3)の指摘については、B子が事件当日と同じブーツを履いて立って右手を自然に下ろしたときのB子の右手の小指の付け根の高さは約六五センチメートル(原審弁第四号証)であると認められるが、B子は、本件当日の電車内では、右手は下げていたが、若干前の方にあったとも供述しており、B子の右手の小指の付け根の高さが数センチメートル程度高くなった可能性があり、右手の小指の付け 付近に陰茎が触れたのは一瞬であって、そのとき、陰茎が勃起していたかどうか分からないこと、被告人がパンツなどの下着からある程度勃起した陰茎を引き出そうとして多少ひざを曲げたり、腰を引いたりし、その際の陰茎の動きの中でB子の右手の小指の付け根付近に一瞬陰茎が触れるということも十分考えられるなどとして、この点のB子の供述は、明らかに不自然、不合理とはいえない旨説示する。
さらに、所論の4の指摘についても、被告人が本件当時着用していたダウンジャケットは下からもファスナーが開けられること、被告人は本件当時右脇にバッグを抱えていたが、その状態でも右手を股間付近で使うことができ、ダウンジャケットのファスナーを下からある程度上けて前を開いたり、ズボンの前ボタンを外したり、パンツなどの下着から陰茎を引き出したりするのに両手が使える状態であったことが認められるとして、B子の供述は何ら不自然、不合理ではないと説示する。
しかし、原審弁第五号証のビデオテーの映像は、B子とほほ同じ背格好の女性を仮想被害者として、被告人がB子が供述する態様で痴漢行為を行った状況を再現し、録画したものであるところ、これによれは、被告人と仮想被害者の背丈の差は顕著であり、被告人の陰茎の位置と仮想被害者の腰の位置、下げた右手の小指の付け根の位置は、明らかに大きく異なつていることは否定できない。
もとより、原判決が説示するような方法で、被告人が第一の行為や本件犯行を行うことは可能であるとはいえるが、ビデオの映像を、前記二(4)(ウ)に説示した再現状況における解釈の介入、それゆえの誇張等を考慮して、相当に割り引いて考えたとしても、かなり不自然な姿勢を衆目にさらすことになるのは明らかであり、その場で第三者にも発覚する危険性が相当に高いことも否定できない。
そうすると、原判決の説示は、必ずしも合理的なものとはいえない。
また、被告人のズボンの形状(特に、被告人は、ズボンについて、ボタンで留めるという点に加え、ぴったりした履き心地のものであると述べているところ、これに反する証拠はない。)やダウンジャケットの丈が、本件のような態様の犯行を行うについて障害になることは明らかであるところ、この点を指摘する被告人の弁解にもかかわらず、捜査、公判を通じて、これが格別障害とならないことの立証は行われておらず、原判決が説示するような方法で、被告人が周囲に不自然と思われないように陰茎を露出させることが可能かは、疑問なしとしない。
そうすると、これらの諸点は、被告人と犯人との結び付きについて疑義を入れるべき事情ということができ、この点が、B子証言により、犯人と被告人との同一性を認定する上での障害にならないとする原判決の判断は、是認することができない。
(7)以上検肘したところによれは、犯人が被告人であるとするB子の証言については、その信用性にいくつかの無視できない疑問があり、これに依拠することはできないというべきである。

第五 被告人の供述の信用性
次に、B子証言と対立する被告人の供述の信用性について検討する。
一 前記第三の三に摘記した要旨に加え、被告人の供述には、次のような特記すべき点がある。すなわち、
(1)被告人は、本件当日である平成一二年一二月五日の警察官の取調べ(原審乙第三号証)及び同月八日の検察官の取調べ(同乙第四号証)において、田無駅から鷺ノ宮駅に至る間の被告人の前側や横にいた者八名のおおよその年齢や性別のほか、人によっては服装や表情についても供述し、その位置や向きについて、図面を作成し、これに基づいて説明している。
(2)同図面において、被告人は自己の姿勢について、右手でCDブレーヤーの入ったカバンを抱え、左手は、電車内の進行方向と垂直(枕木方向)のパイプに設けられた吊り革につかまっている様子を描き、左手で吊り革につかまっていた旨、図中に説明を加えている。
(3)その後、被告人は、捜査官から、本件快速電車には枕木方向のパイプに設置された吊り革がないと聞かされるや、「東村山駅で乗った普通電車のときと勘違いしていた。」旨供述し(平成一二年一二月一九日付け警察官調書・当審弁第一六号証)、平成一三年七月一九日の原審における第八回公判の被告人質問の際においても同様の供述をした。
(4)捜査関係事項照会回答書(原審甲第一二号証)によれば、被告人が東村山駅から小平駅まで乗車したという普通電車についても、枕木方向の吊り革が設置されていない旨回答されている。

二 原判決は、これらを前提に、以下、(1)ないし(5)の諸点を指摘して、被告人の供述には信用性がないと説示する。
(1)被告人は、その取調べの際に、本件快速電車に乗り合わせた八名もの乗客の年齢、性別、位置、向きなどの記憶を保持していたことになるが、通常、何ら記憶に残らないはずの通勤電車に乗り合わせた乗客のことについて詳細に記憶しているというのは不自然であり、これらの人物のそれらの事柄に特に興味を持つ何らかの事情があったのでなければ説明がつかない。この点、被告人が本件犯行を行う際に、気付かれたりしないかなどと周囲の乗客を警戒して見ていたとすると、被告人の供述するような記憶が残るものと考えられる。
(2)他方で、鷺ノ宮駅で乗降に伴い周囲の乗客の移動があり、右前に立っていた女性に押され、その女性の胸が右腕に当たるようになったので、それを避けるために正対するように立ったなどと述べるが、要するに、同駅から高田馬場駅までの間の乗客の様子については、それ以外の人の記憶はないなどと供述している。どうしてこのように記憶の程度に落差があるのか合理的な説明がなされておらず、不合理である。
(3)被告人は、公判で、本件快速電車内で立っていた位置について、B子証言と異なり、田無駅から鷺ノ宮駅までの間も、鷺ノ宮駅から高田馬場駅までの間も、進行方向右寄りであったことを示す図面を書いている。被告人は、本件当日は電車を左側ドアから降りたが、高田馬場駅で先に右側ドアが開き、少ししてから左側ドアが開き、普段は右側ドアから降りる旨供述している。これらのことからすると、被告人が進行方向右寄りに立っていたにも関わらず、左側ドアから降りたというのはあまりにも不自然、不合理であり、本件快速電車が高田馬場駅に着いたとき、被告人が立っていた位置は、進行方向中央より左寄りであったものと推認でき、被告人の上記公判供述は信用できない。
(4)捜査の初期の段階で本件快速電車内で枕木方向に設けられた吊り革につかまっていた旨説明していたことは、事実に反するものである。被告人は、電車内での痴漢行為を行ったものとして取調べを受け、被告人の手の位置や動きが問題になっていると認識していたことは明らかであるし、電車内で揺れに対してどのように対応していたかは比較的記憶に残りやすく、吊り革につかまっていなかったのに吊り革につかまっていたと記憶違いするということは考えられないから、被告人が敢えて虚偽の供述をした可能性が高い。
(5)被告人は、前記のとおり、公判では、「田無駅でアトピー症状の重い顔をしたB子が乗車してきて、私の正面に立ち、私にどけよというふうな顔で私の方を見た。私はすごく嫌だと思い、にらんだかもしれない。そのままB子と向き合っているのが嫌だったので、右前の方に身をかわした。」などと供述しているが、本件当日の警察官の取調べ(原審乙第三号証)においては、「B子がどこの駅から本件快速電車に乗ってきたか分からない。」などと供述しているのみで、B子が本件快速電車に乗ってきたときの状況については、供述調書に何ら記載がない。また、前記乙第四号証の検察官の取調べにおいては、「B子は、田無駅か花小金井駅で乗り込んできて、私の方に向かってまっすぐ入ってきた。私は、人が入り込んできたら窮屈になると思い、右側のドアを向いていた体勢から、進行方向を向くような姿勢になった。」などと供述しており、公判で捜査段階とは明らかに異なった供述をしている。
三 しかしながら、以下、述べるとおり、このような被告人の供述の信用性に関する原判決の説示は、関係証拠に照らし、必ずしも是認できるものではない。すなわちまず、(1)の点については、被告人は、美術大学を卒業したデザイナーであり、勤務先において消費者向け商品のデサインを担当していたという仕事柄、常日頃、周囲の人の服装や持ち物、装身具等に関心を持ち、それに適する商品デザインはどういうものかということを考えることから、自然に目が向き観察する旨述べている。そうであれは、通井電車内の周囲の人物という、何の変哲もない象であっても、そのような観点から観察し、通常人が記憶しないような特徴をも捉えて記憶し、また、その習得した技能に基づいて詳細に図面等に表現ができるとしても、格別不自然ということはできない。もっとも、検察官が指摘するとおり、被告人は、英語の試験に備えて英会話のCDを高田馬場駅に到着するまで終始聞いていて没頭していたというのであるから、そのような状況の中で、周囲の状況を観察し、克明に記憶したのがなぜかという問題は生じるところである。しかし、この点について、被告人は、捜査段階から一貫して、B子と思しき女性がその前の猫背の男性にもたれかかっていたこと、また、それをにやけた表情で見ていた男性が目に留まったことが印象的であった点を理由として挙げており、しかも、そのような観察に多くの時間を要するわけでもないと されるから、被告人の説明は、それなりに合理性があるといえる。
同様に、(2)の点についても、被告人は、鷺ノ宮で右前から押してきた女性の胸に腕が当たってしまうため、これと正対する姿勢となり、その顔を見ることになるので目を閉じた、だからそれ以上の周囲の様子は目に入らなかった旨、説明しており、その説明が不合理とはいい難い。
さらに、(3)の点については、本件快速電車の被告人が乗車した位置は、高田馬場駅において、左側のドア近くに山手線への乗り換え階段がある場所であり(原審甲第一七号証)、電車内における位置の如何に関わらず、左側のドアから降車する合理性が認められる(弁護人提出のビデオデープ(当審弁第五号証)における同位置の電車到着時の多数の乗客の動向も、それを裏付けているといえる。)。この点を考慮することなく、被告人の供述に係る行動を不自然と断ずることはできないのであり、原判決の推論は是認できない。
他方、(4)の被告人が吊り革につかまっていたと述べていた点については、原審段階の証拠による限りは、なるほど、記憶違いの余地の少ないと思われる 項について、事実に反する供述をしていたものとして、被告人が痴漢の嫌疑を免れようと虚偽の供述をしたのではないかと疑うべき有力な情と見ることもできる。原判決は、この点を重視して被告人の供述の信用性を否定したものと解される。
しかしながら、大山弁護人が平成一二年一二月七日に被告人と接見した際に事情を聴取しながら作成したメモ(当審弁第七号証)及び同弁護人の当審証言によれば、被告人は、枕木方向の吊り革が設けられた下辺りにいたということは述べているが、格別、同弁護人に対して、吊り革につかまっていたから、痴漢行為が不可能である旨の弁解は述べていなかったというのであり、被告人が意図的にこの点を強調していたとは し難い事情もうかがわれる。
また、当審で取り調べた証拠(被告人質問、証拠物として取り調べた弁第一一〇号証、二一号証)によれば、そもそも西武新宿線で運行されている電車には、同形式・同系統の車両であっても、枕木方向の吊り革の有無が一定ではないこと、それらの車両がどのように編成されて列車を 成し、かつ、運行されるかにより、同一時刻の同一運行番号の列車であっても、枕木方向の吊り革の有無は、車両ごとに異なり得ること、したがって、本件犯行が行われたとされる本件快速電車五両目に枕木方向の吊り革があったかなかったかは、その車両の固有番号を特定して照会するのでなければ、必ずしも明らかにならないことが認められる。
そうすると、捜査段階において、被告人が、本件快速電車に枕 方向の吊り革はない旨、捜査官から告げられ、それを前提として供述を改め、また、被告人が東村山駅から小平駅までの間乗車した普通電車についても、枕木方向の吊り革はない旨報告されている(原審甲第一二号証)が、それらの照会において、固有番号や、具体的に列車の何両目の車両であるのかを特定して回答を求めた形跡もうかがわれない。そうすると、本件当時、被告人が乗車していた本件快速電車五両目に枕木方向の吊り革があったかなかったかは、証拠上不明であるといわざるを得ないのであり、吊り革につかまっていた旨の被告人の供述が、事実に反すると断じることはできず、原判決の説示はその前提を欠いていることになる。
さらに、(5)の点も、被告人が田無駅で乗り込んできたB子を認識し、記憶した根拠として、捜査段階から、アトピー症状の重い顔をしたB子が乗車してきたことは、一貫して述べている。また、その女性がどけよというふうな顔で自分の方を見たので、不快に思った旨の公判段階の供述内容が、捜査段階の供述調書中に見られないことについても、被告人が、その女性がアトピー症状が重かったと説明していることについて、捜査官から、そのような女性にわいせつ為をするはずがないなど、悪意を持って述べているのではないかとの追及を受けていたとうかがわれること(当審弁第一七号証の検察官調書)、そのため、勾留理由開示公判における意見陳述書(当審弁第六号証)の中においても、敢えてその女性を認識した理由については省略していることなどに照らすと、そのような話を捜査官に対してできる雰囲気ではなかった旨の被告人の公判供述も、あながち排斥できるものではない。
四 以上のとおりであり、原判決が被告人の供述は不自然・不合理であると指摘する諸点は、いずれも合理的な説明が可能であり((1)(2)(5))、あるいは、原判決の評価の前提が誤っていたり、((3)、欠けている((4))というものであって、被告人の本件犯行を否認する供述に、明らかな不自然、不合理、ないし客観的事実との齟齬は認められない。
そうすると、被告人の供述に全体として信用性が低いとする原判決の判断は、到底是認し難い。

第六 結論
以上検討したところによれは、B子証言については、被害事実に関する部分は基本的にその信用性を肯定してよいと考えられるが、被告人を犯人であるとする部分についてはいくつかの重大な疑問があり、その信用性を肯定するには足りないというべきである。他方、被告人の本件犯行を否認する供述の信用性は、容易には否定できないというべきである。
そうすると、ほかに本件犯行を立証する決定的証拠が存しないのであるから、結局、本件は合理的疑いを容れない程度の立証がなく、犯罪の証明がないことに帰する。
以上のとおりであって、被告人を有罪とした原判決には、判決に影響を及ぼすことの明らかな事実の誤認があると認められるから、論旨は理由がある。
そこで、刑訴法三九七条一項、三八二条により原判決を破棄し、同法四〇〇条ただし書を適用して被告事件につき更に判決する。本件公訴事実については、上記のとおり、犯罪の証明がないことに帰するから、刑訴法三三六条後段により被告人に対し無罪の言渡しをすべきものである。
よって、主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官 仙波 厚 裁判官 高麗邦彦 前田 巌)
                                            弁護士 三木秀夫

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