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三木秀夫法律事務所
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ニュース六法目次
射水市民病院で終末期医療委員会設置(2006年04月04日)尊厳死と安楽死
○富山県射水市の射水市民病院の外科部長らが末期患者7人から人工呼吸器を外し死亡させたとされる問題で、同病院は4日、終末期医療委員会を設置することを決めた。
個々の患者の終末期の治療方針を判断するほか、延命治療中止の手続きなど終末期医療の指針を策定するかどうかを検討する。同病院では終末期医療に関する院内基準はなく、各医師が判断していた。昨年10月中旬に外科部長が末期患者から人工呼吸器を外そうとしたことが明らかになったため、常設機関として倫理委員会を設置した。その下部組織として終末期医療委員会を置く。患者の人工呼吸器の着脱なども判断する見通し。メンバーは医師、看護師ら14人。同病院に勤務する職員で構成する。
(asahi com 06.04.04)

○富山県射水(いみず)市の同市民病院(麻野井英次院長)で、外科医師(50)が入院患者7人の人工呼吸器を取り外し、全員が死亡していたことが25日わかった。医師による安楽死の疑いがあるとして同病院が県警に通報。県警は、殺人の疑いもあるとみて、外科医師らから人工呼吸器を取り外した経緯などを詳しく聞いている。病院側によると、亡くなった7人はいずれも高齢で、終末期医療を受けていた。人工呼吸器の取り外しについては、「病院としては家族の同意を得ていると認識している」としている。一方、射水市の分家静男市長は同日午前、会見したが「詳しい状況はわからない」と繰り返した。
 
同市によると、この外科医師は95年4月から同病院に勤務。昨年10月、受け持っていた70歳代後半の男性患者について、人工呼吸器を外したいと院長に申し出たが拒否されたという。このため、同病院が内部調査を始め、それ以前の外科医師による人工呼吸器取り外しと、患者7人の死亡を確認。昨年10月、県警に通報した。外科医師は、自宅待機を命じられた。同病院は病床数200の総合病院で、医師は25人おり、うち4人が外科医師。
(2006年3月25日 読売新聞)

○男性外科医(50)による患者7人に対する「安楽死疑惑」が浮上した射水市民病院(富山県射水市)の麻野井英次院長が25日午後会見し、外科医は人工呼吸器を外したことについて「患者本人の直接の同意はないが家族の同意があった。患者のためにやった。尊厳死だ」と説明していることを明らかにした。この外科医は同病院の外科部長で、人工呼吸器を取り外す際の判断を単独で行った。7人は富山県在住の50―90代で、男性4人、女性が3人。いずれも末期状態で、うち5人はがん患者だった。2000年から昨年までの間に死亡した。
 (2006.03.25 NIIKEINET)

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○2006年3月25日に報道された富山県射水市の同市民病院での「安楽死」「尊厳死」事件は、詳しい状況は未だに分からないが、医師が過去に7人もの患者の人工呼吸器を取り外し、患者はいずれも死亡していたというものである。

治癒が不能な病気に冒され、治療を継続しても死を迎えつつある患者でありながら、そうした患者についても、高度医療が進んだ現代においては、生命維持装置などで延命を図ることが可能である。その場合において、患者は治る見込みのないまま、時には苦痛に苦しみながら命を長らえるという事態が出現するようになった。こうした事態の出現は、医療のあり方について再考をもたらし、病気への対応については患者自身が決定するという自己決定権の思想が高まり、生命の質を問う考えが出、治癒の見込みのない患者に対する末期医療のあり方、特に安楽死や尊厳死についてのあり方が問題とされるようになった。

○安楽死とは、末期がんなどで回復見込みがなく死が避けられない状態にある末期患者が、なおも激しい苦痛に苦しむとき、その苦痛を除去・緩和するため死期に影響するような措置をし、またはその苦痛から免れさせるため積極的に死を迎えさせる措置を施すことをいう。

○安楽死には、以下のような分類がされている。
(1) 間接的安楽死
死苦緩和のための麻酔薬などの使用が結果的に死期の短縮を伴う場合で、一般的な治療の一環とされて、適法と解されている。(治療型安楽死とも呼ばれる)
(2) 消極的安楽死
苦しみを与えるような延命措置を取らない場合をいう。
(3) 積極的安楽死
苦しみから解放するため薬物を注射するなどの作為により直接的な生命の短縮によって死亡させる場合をいう。 

○射水市民病院で判明した「事件」の報道では、この事件を、薬剤投与などによる「積極的安楽死」ではなく延命治療を中止する「消極的安楽死」に当たるという前提で論評されているのが見られた。正確には、消極的安楽死とは、本来は、最初から人工呼吸器を取り付けない場合などをさす。既に呼吸の停止した患者に一旦人工呼吸器を取り付けながら、その後に自発呼吸がないのに関わらずこれを取り外すのは「積極的安楽死」となり、殺人罪に問われる可能性がある。一見は同じような行為ではあるが、延命をどこまで行うかは、病院・医師側と患者側で事前によく検討して合意を形成しておく必要性が高い。

○過去にも、医師による安楽死事件が過去にいくつかあるが、殺人罪として有罪となった事例もある。医療の現場では、意味のない延命治療を続けることは人間としての尊厳を壊すものであり、一定の範囲で許容すべきという意見もあり、その線引きが議論をされている。安楽死が許される要件について、平成7年(1995年)の「東海大病院事件判決」(平成7年3月28日横浜地方裁判所判決)が一つの法的メルクマールとされている。しかし、この要件自体も、正当かどうか議論が分かれている。安楽死、尊厳死の概念について法制化がされておらず、ガイドラインが存在しないため、現場での混乱は多い。高度医療の進んだ現代社会では、速やかな社会的合意形成が必要であると思うが、意見が錯綜しており、議論が集約される見通しは立っていない。

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○尊厳死とは
「尊厳死」とは、人間が人間としての尊厳を保って死に臨むことをいう。「消極的安楽死」のうち、特に末期患者の延命装置を外して、自然のまま死なせる行為が典型的な例である。苦痛でさいなまれている状態から開放されて死を迎えることも含まれる。 

本来、人間は尊厳を保ったまま死にゆくことができるはずであるにも関わらず、高度医療のもとでは延命技術が大きく進歩したため、ただ「生かされている」だけの状態となることが多くなった。 こうした状態を望まない立場から、「尊厳死」の考え方が広まってきた。尊厳死を希望する者のために、事前に延命行為の是非に関して宣言するリビング・ウィル(Living Will)が有効な手段となっている。

「東海大病院事件判決」では、この尊厳死についても争点として取り上げ、それが許される要件を示している。

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○安楽死・尊厳死が違法でないための条件を示した司法判断としての平成7年(1995年)の「東海大病院事件判決」(平成7年3月28日横浜地方裁判所判決)について

これは、同病院の医師が、末期がんの患者に塩化カリウム等を注射して死亡させたもので、いわゆる「積極的安楽死」の事件であった。ただ、その塩化カリウム等の注射の前には、点滴及びフォーリーカテーテルの取り外し、さらにはエアウェイの除去といった治療行為の中止を行っている。裁判では、その一連の行為を詳細に分析した。

○その事案は、東海大学付属病院に勤務する医師(被告人)が、平成3年4月13日に、神奈川県伊勢原市所在の東海大学医学部付属病院で、多発性骨髄腫で入院していた男性患者(当時58歳)に対し、その患者がすでに末期状態にあり死が迫っていたものの、苦しそうな呼吸をしている様子を見た長男から、その苦しそうな状態から解放してやるためにすぐに息を引き取らせるようにしてほしいと強く要請されて、まずは点滴及びフォーリーカテーテルの取り外しを行い、さらにその後にはエアウェイの除去一過性心停止等の副作用のある不整脈治療剤である塩酸ベラパミル製剤(商品名「ワソラン注射液)の通常の二倍の使用量に当たる二アンプル四ミリリットルを患者の左腕に静脈注射をし、患者の脈拍等に変化もみられなかったことから、続いて、心臓伝導障害の副作用があり、希釈しないで使用すれば心停止を引き起こす作用のある塩化カリウム製剤(商品名「KCL」注射液)の一アンプル二〇ミリリットルを、希釈することなく患者の左腕に静脈注射をし、途中患者の心電図モニターに異常を発見した看護士が、心電図モニ夕ーを病室に運んで来て、「心室細動が出ています。」と声を掛けたが、そのまま注射を続けて打ち終え、まもなく心電図モニターで心停止するのを確認し、心音や脈拍、瞳孔等を調べて、長男に「ご臨終です。」と告げ、よって、同日午後八時四六分ころ、右病室において、患者を急性高カリウム血症に基づく心停止により死亡、というものである。(判決文から)

○この事件において、医師は、この最後の直接死を惹起した、心停止の作用のあるワソラン注射液塩化カリウムを注射した行為について殺人罪で起訴された。

裁判所は、判決において、
@末期患者に対する「治療行為の中止」(尊厳死)の許容要件
A安楽死の一般的許容要件
を示した上で、

まず@の点に関して、最後のワソラン注射液及び塩化カリウムを注射に至るまでの過程において、被告人医師が行った治療行為の中止行為が、医療上の行為として法的許容要件を満たすものではなかったとした。

そそて、Aの本件起訴の対象となっているワソラン注射液及び塩化カリウムを注射して患者を死に致した行為については、積極的安楽死として許容されるための重要な要件である肉体的苦痛及び患者の意思表示が欠けているので、それ自体積極的安楽死として許容されるものではなく、違法性があるとした。

その上で、末期状態にあった本件患者に対して被告人によってとられた一連の行為を含めて全体的に評価しても、本件起訴の対象となっているワソラン及びKCLを注射して患者を死に致した行為は、可罰的違法性ないし実質的違法性あるいは有責性が欠けるということはない、と判断した上で、被告人医師を懲役二年に処したが、殺人罪においては異例ながら、2年間の執行猶予とした。

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@(末期患者に対する治療行為の中止の一般的許容要件)について
「東海大病院事件判決」は、被告人医師が、患者からの点滴及びフォーリーカテーテルの取り外し、さらにはエアウェイの除去をして治療を中止した点について、治癒不可能な病気におかされた患者が回復の見込みがなく、治療を続けても迫っている死を避けられないとき、なお延命のための治療を続けなければならないのか、あるいは意味のない延命治療を中止することが許されるか、というのが治療行為の中止の問題であり、無駄な延命治療を打ち切って自然な死を迎えることを望むいわゆる尊厳死の問題ととらえ、こうした治療行為の中止は、意味のない治療を打ち切って人間としての尊厳性を保って自然な死を迎えたいという、患者の自己決定を尊重すべきであるとの患者の自己決定権の理論と、そうした意味のない治療行為までを行うことはもはや義務ではないとの医師の治療義務の限界を根拠に、一定の要件の下に許容されるとした。

その要件とは、次の3点が示された。
(1)死が不可避な末期状態
患者が治癒不可能な病気に冒され、回復の見込みがなく死が避けられない末期状態にあること
(2)患者の意思表示(家族による推定)
治療行為の中止を求める患者の意思表示が存在し、それは治療行為の中止を行う時点で存在すること(家族の意思表示から患者の意思を推定することが許される)
(3)自然の死を迎えさせる目的に沿って中止を決めること
どのような措置を何時どの時点で中止するかは、死期の切迫の程度、当該措置の中止による死期への影響の程度等を考慮して、医学的にもはや無意味であるとの適正さを判断し、自然の死を迎えさせるという目的に沿って決定されるべきこと

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A安楽死の一般的許容要件
「東海大病院事件判決」は、医師による合法的な積極的安楽死について、患者の自己決定権と医師の治療義務の限界を根拠に、次の4要件の下に許容されるとした。当該事件では、苦痛や意思の明示がなかったことから、違法性を問われない安楽死には該当せず有罪と判断した。

(1)患者が耐えがたい肉体的苦痛に苦しんでいること
(2)患者は死が避けられず、その末期が迫っていること
(3)患者の肉体的苦痛を除去・緩和するために方法を尽くし他に代替手段がないこと
(4)生命の短縮を承諾する患者の明示の意思表示があること

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○今回の射水市民病院の安楽死疑惑事件では、外科医が人工呼吸器を外したことについて「患者本人の直接の同意はないが家族の同意があった。患者のためにやった。尊厳死だ」と説明していることが報道されている。

これは、「東海大病院事件判決」で示された、末期患者に対する治療行為の中止の一般的許容要件に該当するのかどうか、つまり、(1)死が不可避な末期状態であったか、(2)患者の意思表示(家族による推定)があったかどうか、(3)自然の死を迎えさせる目的に沿って中止を決めたかどうか、が問われることとなろう。ただし、この外科医は同病院の外科部長ではあったが、人工呼吸器を取り外す際の判断を単独で行っていたようでもあり、その判断過程に疑問がないではない。上記の3要件の判断は極めて難しい点をはらんでいることから、判断の客観性を担保するためには、病院内に終末期医療委員会などのようなところで最終判断が下されるようなシステムが必要であったといえるであろう。

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○殺人被告事件(いわゆる「東海大病院事件判決」)
平成7年3月28日横浜地方裁判所判決(平成4年(わ)第1172号)
判例タイムズ877号148頁

主 文
被告人を懲役二年に処する。
この裁判確定の日から二年間右刑の執行を猶予する。
訴訟費用は被告人の負担とする。
 
理 由
(事実の経過)〈省略〉
(罪となる事実)
被告人は、平成三年四月一三日午後八時三五分ころ、神奈川県伊勢原市下糟屋一四三番地所在の東海大学医学部付属病院の本館六階6B病棟一四号室に赴いて、多発性骨髄腫で入院していたB(当時五八歳)に対し、患者がすでに末期状態にあり死が迫っていたものの、苦しそうな呼吸をしている様子を見た長男から、その苦しそうな状態から解放してやるためにすぐに息を引き取らせるようにしてほしいと強く要請されて、患者に息を引き取らせることを決意し、殺意をもって、徐脈、一過性心停止等の副作用のある不整脈治療剤である塩酸ベラパミル製剤(商品名「ワソラン注射液)の通常の二倍の使用量に当たる二アンプル四ミリリットルを患者の左腕に静脈注射をし、患者の脈拍等に変化もみられなかったことから、続いて、心臓伝導障害の副作用があり、希釈しないで使用すれば心停止を引き起こす作用のある塩化カリウム製剤(商品名「KCL」注射液)の一アンプル二〇ミリリットルを、希釈することなく患者の左腕に静脈注射をし、途中患者の心電図モニターに異常を発見したK看護士が、心電図モニ夕ーを病室に運んで来て、「心室細動が出ています。」と声を掛けたが、そのまま注射を続けて打ち終え、まもなく心電図モニターで心停止するのを確認し、心音や脈拍、瞳孔等を調べて、長男に「ご臨終です。」と告げ、よって、同日午後八時四六分ころ、右病室において、患者を急性高カリウム血症に基づく心停止により死亡させた。
(証拠)〈省略〉
(適用法令)罰条 刑法一九九条(有期懲役刑選択)酌量減軽 刑法六六条、七一条、六八条三号刑の執行猶予 刑法二五条一項訴訟費用の負担 刑事訴訟法一八一条一項本文

(裁判所の判断)
第一 はじめに
医学の進歩は、様々な病気を克服してきており、また将来とも克服してゆくといえる。しかしなお、現代医学の知識と技術をもってしても、治癒不可能な病気が存在することも事実である。そうした病気に冒された患者が、治療を継続しても間近に死を迎えざるを得なくなりながら、一方では医学の進歩は、そうした患者についても生命を維持し延命を図ることを可能とし、患者は治る見込みのないまま、時には苦痛に苦しみながら命を長らえるという事態が出現した。こうした事態の出現は、医療のあり方について再考をもたらし、病気への対応については患者自身が決定するという自己決定権の思想が高まり、生命の質を問う考えが出、治癒の見込みのない患者に対する末期医療のあり方が問題とされるようになった。そして、延命医療が進歩・普及するとともに、かえっていわゆる尊厳死あるいは自然死の思想が広がり、その延命医療の限度が問題とされ、さらにいわゆる安楽死についても、現代医療の現実の中で新たな思潮が生まれつつあるように思えるのである。

ところで、本件を現象面から見てみると、患者は現代医療では治癒不可能ながんの一種である多発生骨髄腫に冒され、予後数日という末期状態に至り、家族からの要請があって治療行為の中止が行われ、続いて苦痛緩和の措置がとられ、さらに苦痛から免れさせるため生命短縮の措置がとられているのであるが、治療中止から生命短縮の措置がとられるまでの過程が短時間のうちに進んだことや、問題とされた苦痛の内容などの点はともかく、本件のような措置をとることの選択を迫られる場面は、医療の現場において医療従事者が、不治の病に冒された死期が迫った末期患者を前に、少なからず対面することがあり得ると思われるのである。そこで本件が、末期医療の法的な限界、すなわち末期医療において医療従事者として許される行為の法的限界を考えさせる事案であり、本件で医師である被告人が患者に対して行った個々の行為を検証し、その法的許容性を検討することは、意義あることと考えられる。
 
のみならず本件において、医師である被告人が患者に対して行った個々の行為について、その法的許容性を検討することは、必要性があるといえる。というのは、一つには、本件で起訴の対象となっているのは、医師が末期患者を積極的に死に致した行為であるが、そうした医師の行為が、苦痛から解放するためのいわゆる積極的安楽死として許容されることがあるとしたら、後述するように、末期患者に対して苦痛を除去・緩和するため容認される医療上の他の手段が尽くされ、他に代替手段がなくなった場合にはじめて、許容されると考えられるので、被告人によって右の致死行為に及ぶ以前に患者に対して行われた行為が、どの程度容認されるものか検討する必要があるからである。

さらに弁護人は、本件起訴の対象となっているワソラン及びKCLを注射して患者を死に致した行為は、週末医療の中での末期患者への対応の一つとして行われ、患者の意思を汲んだ家族の要請を受けて、基本的には延命治療を打ち切って安らかで自然の死を迎えさせてやることを目的とした、一連の行為の最後の行為として行われ、しかも現代では安楽死の対象には精神的苦痛を含める解釈もあり得るから、本件起訴の対象となっている行為の違法性ないし有責性の有無は、週末医療の実情に沿い、右の起訴行為のみならず全体的状況を踏まえて実質的な検討をし、その上で実質的違法性ないし可罰的違法性あるいは有責性があるかという観点から決せられるべきである、と主張する。

そこで、そうした実質的違法性ないし可罰的違法性の有無あるいは有責性の有無を判断するには、被告人が本件患者と対面する中で、最終的に行った起訴の対象となっている行為のみならず、それに至るまでに行った行為についてもその適法性を点検し、全体として検討することが必要であると考えられるからである。

したがって以下、本件で被告人によって行われた治療行為の中止、及び外形的にはいわゆる安楽死に当たるとみられる行為について、それぞれその適法性を検討することとするが、まず、治療行為の中止及びいわゆる安楽死が許容されるための一般的要件をそれぞれ考察する。

第二 治療行為の中止の要件について
本件では、被告人によって治療行為の中止として、患者からの点滴及びフォーリーカテーテルの取り外し、さらにはエアウェイの除去がなされているが、こうした治療行為の中止が適法なものであったか否かを検討するため、一般論として末期患者に対する治療行為の注視の許容性について考えると、治癒不可能な病気におかされた患者が回復の見込みがなく、治療を続けても迫っている死を避けられないとき、なお延命のための治療を続けなければならないのか、あるいは意味のない延命治療を中止することが許されるか、というのが治療行為の中止の問題であり、無駄な延命治療を打ち切って自然な死を迎えることを望むいわゆる尊厳死の問題でもある。

こうした治療行為の中止は、意味のない治療を打ち切って人間としての尊厳性を保って自然な死を迎えたいという、患者の自己決定を尊重すべきであるとの患者の自己決定権の理論と、そうした意味のない治療行為までを行うことはもはや義務ではないとの医師の治療義務の限界を根拠に、一定の要件の下に許容されると考えられるのである。

そこで、治療行為の中止が許容されるための要件を考えてみる。

一 患者が治癒不可能な病気に冒され、回復の見込みがなく死が避けられない末期状態にあることが、まず必要である。
現在の医学の知識と技術をもってしても治癒不可能な病気に患者が罹り、回復の見込みがなく死を避けられない状態に至ってはじめて、治療行為の中止ということが許されると考えられる。それは、治療の中止が患者の自己決定権に由来するとはいえ、その権利は、死そのものを選ぶ権利、死ぬ権利を認めたものではなく、死の迎え方ないし死に至る過程についての選択権を認めたにすぎないと考えられ、また、治癒不可能な病気とはいえ治療義務の限界を安易に容認することはできず、早すぎる治療の中止を認めることは、生命軽視の一般的風潮をもたらす危険があるので、生命を救助することが不可能で死を避けられず、単に延命を図るだけの措置しかでしない状態になったときはじめて、そうした延命のための措置が、中止することが許されるか否かの検討の対象となると考えるべきであるからである。
こうした死の回避不可能の状態に至ったか否かは、医学的にも判断に困難を伴うと考えられるので、複数の医師による反覆した診断によるのが望ましいということがいえる。また、この死の回避不可能な状態というのも、中止の対象となる行為との関係である程度相対的にとらえられるのであって、当該対象となる行為の死期への影響の程度によって、中止が認められる状態は相対的に決してよく、もし死に対する影響の少ない行為ならば、その中止はより早い段階で認められ、死に結びつくような行為ならば、まさに死が迫った段階に至ってはじめて中止が許されるといえよう。

二 治療行為の中止を求める患者の意思表示が存在し、それは治療行為の中止を行う時点で存在することが必要である。
治療行為の中止が、死が避けられない状態での末期医療の内容・限界について、患者の自己決定を尊重するということに由来することからして、治療行為の中止のためには、それを求める患者の意思表示が存在することが必要であり、しかも、中止を決定し実施する段階でその存在が認められることが必要である。そのためには、中止が具体的に検討される時点で、患者自身の明確な意思表示が存在することがもっとも望ましいことはいうまでもない。そして、そうした意思表示は、患者自身が自己の病状や治療内容、招来の予想される事態等について、十分な情報を得て正確に認識し、真摯な持続的な考慮に基づいて行われることが必要といえるのであり、そのためには、病名告知やいわゆるインフォームド・コンセントの重要性が指摘される。
治療行為の中止を求める患者の意思表示は、右のように、十分な情報と正確な認識に基づいた明確なものとして、治療行為の中止が検討される段階で存在することか望ましく、医師側においてもそのような意思表示を求めて努力がなされるであろうが、しかし現実の医療の現場においては、死が避けられない末期患者にあっては意識さえも明瞭でなく、あるいは意識があったとしても、治療行為の中止の是非について意思表示を行うようなことは少なく、そのため、治療行為の中止が検討される段階で、中止について患者の明確な意思表示が存在しないことがはるかに多く、一方では、家族から治療の中止を求められたり、家族に意向を確認したりすることも少なくないと考えられるのである。こうした現実を踏まえ、今日国民の多くが意味のない治療行為の中止を容認していることや、将来国民の間にいわゆるリビング・ウイルによる意思表示が普及してゆくことを予想し、その有効性を確保することも必要であることなどを考慮すると、中止を検討する段階で患者の明確な意思表示が存在しないときには、患者の推定的意思によることを是認してよいと考えるのである。そこで、この患者の推定的意思の認定についてさらに検討してみる。
まず、患者自身の事前の意思表示がある場合には、それが治療行為の中止が検討される段階での患者の推定的意思を認定するのに有力な証拠となる。事前の文書による意思表示(リビング・ウイル等)あるいは口頭による意思表示は、患者の推定的意思を認定する有力な証拠となる。こうした事前の意思表示も、中止が検討される段階で改めて本人によって再表明されれば、それはその段階での意思表示となることはいうまでもないか、一方、中止についての意思表示は、自己の病状、治療内容、予後等についての十分な情報と正確な認識に基づいてなされる必要があるので、事前の意思表示が、中止が検討されている時点と余りにかけ離れた時点でなされたものであるとか、あるいはその内容が漠然としたものに過ぎないときには、後述する事前の意思表示がない場合と同様、家族の意思表示により補って患者の推定的意思の認定を行う必要があろう。
次に、患者の事前の意思表示が何ら存在しない場合の対応である。この点、弁護人は、安楽死に関連してではあるが、患者の意思を体していると認められる家族の意思でもって足りる旨主張する。そこでこの場合、家族の意思表示から患者の意思を推定することが許されるか、言い換えれば、患者の意思を推定させるに足りる家族の意思表示によることが許されるかが問題となる。先の患者の推定的意思によることを是認した際に指摘した医療の現場での現実や、今日国民の大多数の人が延命医療の中止を容認する意見を有していながら、具体的には事前といえども患者の実際の意思表示がある場合が圧倒的に少ないという現実間のギャップがあること、並びに、具体的に当該措置を中止すべきか否かについては、医師による医学的観点からの適正さの判断がなされ、家族の意思表示があったからといって全ての措置が中止されるわけではないこと、さらに、患者の過去の日常生活上の断片的あるいはエピソード的言動から患者の推定的意思を探ろうとするよりも、むしろ家族の意思表示による方が、はるかに治療行為の中止を検討する段階での患者の意思を推定できるのではないかと思われることなどを考慮すると、家族の意思表示から患者の意思を推定することが許されると考える。
こうした家族の意思表示から患者の意思を推定するには、家族の意思表示がそうした推定をさせるに足りるだけのものでなければならないが、そのためには、意思表示をする家族が、患者の性格、価値観、人生観等について十分に知り、その意思を適確に推定しうる立場にあることが必要であり、さらに患者自身か意思表示をする場合と同様、患者の病状、治療内容、予後等について、十分な情報と正確な認識を持っていることが必要である。そして、患者の立場に立った上での真撃な考慮に基づいた意思表示でなければならない。また、家族の意思表示を判断する医師側においても、患者及び家族との接触や意思疎通に努めることによって、患者自身の病気や治療方針に関する考えや態度、及び患者と家族の関係の程度や密接さなどについて必要な情報を収集し、患者及び家族をよく認識し理解する適確な立場にあることが必要である。このように、家族及び医師側の双方とも適確な立場にあり、かつ双方とも必要な情報を得て十分な理解をして、意思表示をしあるいは判断するときはじめて、家族の意思表示から患者の意思を推定することが許されるのである。この患者の意思の推定においては、疑わしきは生命の維持を利益にとの考えを優先させ、意思の推定に慎重さを欠くことがあってはならないといえる。
なお、右のように、医師側においても認定を行うのに適確な立場にあり、必要な情報を得ておくことが必要とされるのであるが、患者及び家族に関する情報の収集と蓄積、並びに認定を適確に行うためにも、複数の医師及び看護婦等によるチーム医療が大きな役割を果たすといえよう。

三 治療行為の中止の対象となる措置は、薬物投与、化学療法、人工透析、人工呼吸器、輸血、栄養・水分補給など、疾病を治療するための治療措置及び対症療法である治療措置、さらには生命維持のための治療措置など、すベてが対象となってよいと考えられる。しかし、どのような措置を何時どの時点で中止するかは、死期の切迫の程度、当該措置の中止による死期への影響の程度等を考慮して、医学的にもはや無意味であるとの適正さを判断し、自然の死を迎えさせるという目的に沿って決定されるべきである。

第三 安楽死の要件について
末期医療においては患者の苦痛の除去・緩和ということが大きな問題となり、前言のような治療行為の中止がなされつつも、あるいはそれがなされても患者に苦痛があるとき、その苦痛の除去・緩和のための措置が最も求められるところであるが、時としてそうした措置が患者の死に影響を及ぼすことがあり、あるいは苦痛から逃れるため死に致すことを望まれることがあるかもしれない。そこで、いわゆる安楽死の問題が生じるのであり、本件でも被告人は、治療行為を中止した後、家族からの「苦しそうなので、何とかして欲しい。」「早く楽にさせて欲しい。」との言葉を入れて、まずホリゾン及びセレネースを注射して、家族のいう苦痛の除去・緩和の措置を施し、さらにワソラン及びKCLを注射して、同じく家族のいう苦痛から逃れさせる措置として患者を死に致したのであって、外形的には安楽死に当たるとも見えるので、安楽死が許容されるための一般的要件について考察してみる。

回復の見込みがなく死が避けられない状態にある末期患者が、なおも激しい苦痛に苦しむとき、その苦痛を除去・緩和するため死期に影響するような措置をし、さらにはその苦痛から免れさせるため積極的に死を迎えさせる措置を施すことが許されるかということであるが、これは、古くからいわゆる安楽死の問題として議論されてきたところである。しかし、現代医療をめぐる諸問題の中で、生命の質を問い、あるいは自然死、人間らしい尊厳ある死を求める意見か出され、生命及び死に対する国民一般の認識も変化しつつあり、安楽死に関しても新思潮が生まれるようにもうかかわれるのであって、こうした生命及び死に対する国民の認識の変化あるいは招来の状況を見通しつつ、確立された不変なものとして安楽死の一般的許容要件を示すことは、困難なところといわねばならない。そこでここでは、今日の段階において安楽死が許容されるための要件を考察することとする。

一 まず、患者に耐えがたい激しい肉体的苦痛が存在することが必要である。
患者を耐え難い苦痛から解放しあるいはその苦痛を除去・緩和するという目的のためにこそ、死を迎えさせあるいは死に影響する手段をとるという、安楽死における目的と手段の関係からして、解放のあるいは除去・緩和の対象として、患者に耐えがたい苦痛か存在しなければならない。そして、この苦痛の存在ということは、現に存在するか、または生じることが確実に予想される場合も含まれると解される。
この苦痛について弁護人は、安楽死によって免れることの許される対象としては、肉体的苦痛のみならず精神的苦痛をも考慮すべきであると主張する。なるほど、末期患者には症状としての肉体的苦痛以外に、不安、恐怖、絶望感等による精神的苦痛が存在し、この二つの苦痛は互いに関連し影響し合うということがいわれ、精神的苦痛が末期患者にとって大きな負担となり、それが高まって死を願望することもあり得ることは否定できないが、安楽死の対象となるのは、現段階においてはやはり症状として現れている肉的苦痛に限られると解すべきであろう。苦痛については客観的な判定、評価は難しいといわれるが、精神的苦痛はなお一層、その有無、程度の評価が一方的な主観的訴えに頼らざるを得ず、客観的な症状として現れる肉体的苦痛に比して、生命の短縮の可否を考える前提とするのは、自殺の容認へとつながり、生命の軽視の危険な坂道へと発展しかねないので、現段階では安楽死の対象からは除かれるべきである
と解される。もちろん精神的苦痛は、前記の治療行為の中止に関連しては、患者がそれを望む動機として大きな比重を占めるであろうし、それを理由に治療行為の中止を拒む根拠にはならない。

二 次に、患者について死が避けられず、かつ死期が迫っていることが必要である。
苦痛を除去・緩和するための措置であるが、それが死に影響しあるいは死そのものをもたらすものであるため、苦痛の除去・緩和の利益と生命短縮の不利益との均衡からして、死が避けられず死期が切迫している状況ではじめて、苦痛を除去・緩和するため死をもたらす措置の許容性が問題となり得るといえるのである。
ただ、この死期の切迫性の程度については、後述する安楽死の方法との関係である程度相対的なものといえよう。すなわち、直ちに死を迎えさせる積極的安楽死については、死期の切迫性は高度のものが要求されるが、間接的安楽死については、それよりも低いものでも足りるということがいえよう。

三 さらに、患者の意思表示が必要である。
末期状態にある患者が耐えがたい苦痛にさいなまれるとき、その苦痛に耐えながら生命の存続を望むか、生命の短縮があっても苦痛からの解放を望むか、その選択を患者自身に委ねるべきであるという患者の自己決定権の理論が、安楽死を許容する一つの根拠であるから、安楽死のためには患者の意思表示が必要である。こうした安楽死のための患者の意思表示は、明示のものでなければならないか、あるいは患者の推定的意思によるのでもよいかは、安楽死の方法との関連で後に再度検討する。

四 そこで安楽死の方法としては、どのような方法が許されるかである。
従来安楽死の方法といわれているものとしては、苦しむのを長引かせないため、延命治療を中止して死期を早める不作為的型の消極的安楽死といわれるもの、苦痛を除去・緩和するための措置を取るが、それが同時に死を早める可能性がある治療型の間接的安楽死といわれるもの、苦痛から免れさせるため意図的積極的に死を招く措置をとる積極的安楽死といわれるものがある。このうち消極的安楽死といわれる方法は、前記治療行為の中止の範疇に入る行為で、動機、目的が肉体的苦痛から逃れることにある場合であると解されるので、治療行為の中止としてその許容性を考えれば足りる。
間接的安楽死といわれる方法は、死期の迫った患者がなお激しい肉体的苦痛に苦しむとき、その苦痛の除去・緩和を目的とした行為を、副次的効果として生命を短縮する可能性があるにもかかわらず行うという場合であるが、こうした行為は、主目的が苦痛の除去・緩和にある医学的適正性をもった治療行為の範囲内の行為とみなし得ることと、たとえ生命の短縮の危険があったとしても苦痛の除去を選択するという患者の自己決定権を根拠に、許容されるものと考えられる。
間接的安楽死の場合、前記要件としての患者の意思表示は、明示のものはもとより、この間接的安楽死が客観的に医学的適正性をもった治療行為の範囲内の行為として行われると考えられることから、治療行為の中止のところで述べた患者の推定的意思(家族の意思表示から推定される意思も含む。)でも足りると解される。
積極的安楽死といわれる方法は、苦痛から解放してやるためとはいえ、直接生命を絶つことを目的とするので、その許容性についてはなお慎重に検討を加える。末期医療の実際において医師が苦痛か死かの積極的安楽死の選択を迫られるような場面に直面することがあるとしても、そうした場面は唐突に訪れるということはまずなく、末期患者に対してはその苦痛の除去・緩和のために種々な医療手段を講じ、時には間接的安楽死に当たる行為さえ試みるなど手段を尽くすであろうし、そうした様々な手段を尽くしながらなお耐えがたい苦痛を除くことができずに、最終的な方法として積極的安楽死の選択を迫られることになるものと考えられる。ところで、積極的安楽死が許容されるための要件を示したと解される名古屋高裁昭和三七年一二月二二日判決・高刑集一五巻九号六七四頁は、その要件の一つとして原則として医師の手によることを要求している。そこで、その趣旨を敷衍して、右のような末期医療の実際に合わせて考えると、一つには、前記の肉体的苦痛の存在や死期の切迫性の認定が医師により確実に行われなければならないということであり、さらにより重要なことは、積極的安楽死が行われるには、医師により苦痛の除去・緩和のため容認される医療上の他の手段が尽くされ、他に代替手段がない事態に至っていることが必要であるということである。そうすると、右の名古屋高裁判決の原則として医師の手によるとの要件は、苦痛の除去・緩和のため他に医療上の代替手段がないときという要件に変えられるべきであり、医師による末期患者に対する積極的安楽死が許容されるのは、苦痛の除去・緩和のため他の医療上の代替手段がないときであるといえる。そして、それは、苦痛から免れるため他に代替手段がなく生命を犠牲にすることの選択も許されてよいという緊急避難の法理と、その選択を患者の自己決定に委ねるという自己決定権の理論を根拠に、認められるものといえる。
この積極的安楽死が許されるための患者の自己決定権の行使としての意思表示は、生命の短縮に直結する選択であるだけに、それを行う時点での明示の意思表示が要求され、間接的安楽死の場合と異なり、前記の推定的意思では足りないというべきである。
なお、右の名古屋高裁判決は、医師の手によることを原則としつつ、もっぱら病者の死苦の緩和の目的でなされること、その方法が倫理的にも妥当なものとして認容しうるものであることを、それぞれ要件として挙げているが、末期医療において医師により積極的安楽死が行われる限りでは、もっぱら苦痛除去の目的で、外形的にも治療行為の形態で行われ、方法も、例えばより苦痛の少ないといった、目的に相応しい方法が選択されるのが当然であろうから、特に右の二つを要件として要求する必要はないと解される。

したがって、本件で起訴の対象となっているような医師による末期患者に対する致死行為が、積極的安楽死として許容されるための要件をまとめてみると、(1)患者が耐えがたい肉体的苦痛に苦しんでいること、(2)患者は死が避けられず、その末期が迫っていること、(3)患者の肉体的苦痛を除去・緩和するために方法を尽くし他に代替手段がないこと、(4)生命の短縮を承諾する患者の明示の意思表示があること、ということになる。

第四 被告人の具体的行為の評価
治療行為の中止及び安楽死の一般的許容要件については、以上述べたとおりであるが、被告人が行った具体的行為について、それらの要件に照らしてどう評価されるべきか検討し、さらに、本件起訴の対象となっている被告人の行為の実質的違法性ないし可罰的違法性あるいは有責性について検討する。

一 点滴、フォーリーカテーテルの取り外し、及びエアウェイの除去について
被告人は、本件患者に対して全面的な治療行為の中止を決定し、その具体的な行為として点滴、フォーリーカテーテルを取り外し、さらにエアウェイを除去している(この三つの行為をまとめて、「点滴等の取り外し」という。)のであるが、こうした点滴等の取り外しが、前述した治療行為の中止の要件を満たすものであったかを検討してみる。
本件患者は、治癒不可能な疾病である多発性骨髄症に罹り、点滴等の取り外しが行われた平成三年四月一三日の当時においては、被告人のみならず同じ主治医であるE医師によってあと一日ないし二日の命であると診断されており、またその日より若干前の日には、M教授及びN助教授によってあと数日の命と診断されており、さらに事後ではあるが、鑑定人Oの鑑定結果によっても、一三日時点で余命はあと一日ないし二日であり、積極的な対症療法を行ったとしても四日ないし五日であったと判断されており、本件患者は死期が迫り、回復不可能な状態にあったと認定してよく、そうすると、患者の客観的な状態としては、治療行為の中止が検討対象となりうる段階にあったといえる。

治療行為の中止に関する患者の意思表示については、本件患者は正確な病名を知らされておらず、病状の進行や予後等について十分な説明を受けておらず、その正確な認識もなかったのであり、点滴等の取り外しが問題となった時点においてはもちろんその事前においても、自己が末期状態になったときの治療行為をいかにするかについて、明確な意思表示をしていなかったものである。
そこで、家族の意思表示、すなわち患者の病状が一段と悪化した四月八日以降治療の中止を要望し申し入れた家族の意思表示をもって、患者の意思を推定してよいかである。本件家族は、長年患者と一緒に生活を共にしてきている妻であり長男であって、患者の性格、価値観、人生観等を十分知り、患者の意思を推定できる立場にあったことは是認でき、また事実の経過で示したとおり、四日前の四月九日から家族は治療行為の中止を望んでそれを口に出し、その後も治療の中止を申し入れ、点滴等の取り外しが行われた当日も二人で治療の中止を強く要望し迫っているのであって、一応、患者の意思を推定できる立場にある家族が、患者の意思を推定できるような意思表示をしているようにも認められるのである。しかしながら、その家族の意思表示の内容をなお吟味してみると、家族自身が患者の病状、特に治療行為の中止の大きな動機となる苦痛の性質・内容について、十分正確に認識していたか疑わしく、最終的に治療の中止を強く要望した四月一三日当時の患者の状態は、すでに意識も疼痛反応もなく、点滴、フォーリーカテーテルについて痛みや苦しみを感じる状態にはなかったにもかかわらず、その状態について、家族は十分な情報を持たず正確に認識していなかったのであり、家族自身が患者の状態について正確な認識をして意思表示をしたものではなかったのである。そうすると、この家族の意思表示をもって患者の意思を推定するに足りるものとはいえない。
一方、そうした家族の意思表示を判断する被告人側についてみると、前記事実の経過にみられるように、被告人が担当医となって患者や家族と接触するようになったのは、二週間足らず前からに過ぎず、しかもその後も、患者の治療に当たり家族と話し合った時間は、点滴等の取り外しを決めた当日を含めても、わずかの限られた時間であって、患者及び家族の両者について意思疎通等によって十分把握し理解していたか疑問であり、結局被告人は、家族の意思表示が患者の意思を推定させるに足りるものであるかどうか判断し得るだけの立場にはいまだなかったと認められる。
したがって、家族の意思表示自体からも、それを判断する被告人の立場からいっても、いまだ患者の推定的意思を認定することはできなかったといえる。
以上のとおりで、治療行為の中止についての患者の明示の意思表示はもちろん、その推定的意思も認定できないのであるから、点滴等の取り外しが、治療行為の中止の対象として適正であったかどうかを検討するまでもなく、それら点滴等の取り外しは、法的許容要件を満たしていなかったと評価できる。

二 ホリゾン及びセレネースの注射について
ホリゾン及びセレネースの注射は、死期を早める可能性があるが、いびきあるいはその原因である深い呼吸を除去・緩和するためなされたものであり、外見的には一種の間接的安楽死のようにうかがえるのである。しかし、その除去・緩和の対象となったのは、いびきあるいはその原因である深い呼吸というのであって、客観的に除去・緩和の対象となるような肉体的苦痛といえるものではなく、また、右の注射は長男の依頼を受けてなされているのであるが、治療行為の中止からさらに進んで、間接的安楽死に当たるような行為をするには、あらためて患者の意思(それは推定的意思でも足りるが)の認定をする必要があるところ、長男の依頼自体が患者の状態について正確な認識を持ったうえなされたものではなく、被告人も前記のとおり、家族の意思表示を判断し得る立場にいまだいなかったのであるから、治療行為の中止の場合と同様、長男の依頼から患者の推定的意思を認定することはできなかったといえる。
したがって、ホリゾン及びセレネースを注射した行為は、いずれにしても間接的安楽死行為に当たるような行為ではなかったと評価できる。

三 ワソラン及びKCLの注射について
ワソラン及びKCLの注射については、その除去・緩和の対象となったいびきあるいはその原因である荒い呼吸は、到底耐えがたい肉体的苦痛とはいえないのみならず、そうしたものの除去・緩和を頼まれ、それを受けて右注射を行った時点では、そもそも患者は意識を失い疼痛反応もなく何ら肉体的苦痛を覚える状態にはなかったのであるから、安楽死の前提となる除去・緩和されるべき肉体的苦痛は存在しなかったのである。したがってまた、肉体的苦痛を除去するため、医療上の他の手段が尽くされたとか、他に代替手段がなく死に致すしか方法がなかったともいえないのである。さらに、積極的安楽死を行うのに必要な患者本人の意志表示が欠けていたことも明白である。
したがって、ワソラン及びKCLを注射して患者を死に致した行為は、いずれにしても積極的安楽死としての許容要件を満たすものではなかったといえる。

四 まとめ
本件起訴の対象となっているワソラン及びKCLを注射して患者を死に致した行為については、積極的安楽死として許容されるための重要な要件である肉体的苦痛及び患者の意思表示が欠けているので、それ自体積極的安楽死として許容されるものではなく、違法性が肯定でき、また、それに至るまでの過程において被告人が行った治療行為の中止やホリゾン及びセレネースの注射の行為が、医療上の行為として法的許容要件を満たすものではなかったので、末期状態にあった本件患者に対して被告人によってとられた一連の行為を含めて全体的に評価しても、本件起訴の対象となっているワソラン及びKCLを注射して患者を死に致した行為は、その違法性が少ないとか、末期患者に対する措置として実質的に違法性がないとかいえず、有責性か微弱ともいえず、可罰的違法性ないし実質的違法性あるいは有責性が欠けるということはない。

第五 公訴棄却の主張について
弁護人は、被告人が公訴事実の行為に及んだのは、患者の長男の強い要請に基づくもので、それは教唆に当たるにもかかわらず、検察官は、教唆者である長男は起訴せず、被告人のみを起訴したのであるが、そうした起訴は公正さを欠き違法というべきであるから、本件起訴については刑事訴訟法三三八条四号により公訴棄却を求める旨主張する。
なるほど、被告人の本件起訴の対象となっている行為が、長男の苦しそうな患者を早く死に致してほしいとの強い要請に基づいて行われたものであることは認められる。しかし、たとえそれが教唆に当たるとしても、患者の家族である長男と医師である被告人との地位・立場の違い、教唆者と実行行為者との責任の相違などを考慮すれば、検察官が被告人のみを起訴したことをもって、公正さを欠き違法であるとは到底いえない。したがって、弁護人の右主張は理由がない。

(量刑の理由)
今日週末医療のあり方をめぐってさまざまな議論がなされ、それを取り巻く状況も変化しつつある。そうした中で、本件は、スタッフと設備を整えた水準の高い大規模病院において、不治の病気に冒された末期患者の治療に当たっていた医師が、家族に懇願され要請されて、死期の迫った患者を人為的に息を引き取らせ死に致した事件であり、末期医療の現場において医師によって末期患者に対して行われた事件として、注目を引いた事件であった。しかし、審理の結果は、先に示したとおりであり、被告人が薬剤を注射して患者に人為的に息を引き採らせた行為は、安楽死と評価できるものではなく、医師の行為として許容される範囲をはみ出したものであった。
したがって、被告人の行為は余命わずかとはいえ患者の生命を違法に絶ったものであり、基本的には生命の保護の法益を侵したものとして、刑事責任を負わなければならないのである。ただ、その責任非難の程度を判断するについては、被告人の行為が、末期医療に従事する者のその現場における行為として行われているので、そうした末期医療の中での行為という観点からの検討をも加えることが必要と考えられるのである。
そこで、被告人の行為を末期医療における行為という観点から評価するとき、そうした誤った行為が行われたことによる影響として、末期医療に対する不信、不安を招きかねないということが考慮される。
すなわち、医療に対する信頼の基盤の一つが、生命の維持・保護が保障され優先されるということにあり、それは人の生命や死との関わりの多い末期医療においても変わらないはずであるが、もし誤った生命の短縮が行われるということになれば、末期医療に対する信頼は損なわれることになる。また、末期医療を見る一般国民に、末期医療においては消えゆく命の軽視が行われはしないかとの不安を与えかねないおそれがある。例えば意識を失いわずかな命しか残されていない患者について、その命を軽くみるような心の緩みが末期医療の現実の中で生まれはしないか、という不安をもたらしかねないのである。さらに、末期医療における患者の意思の尊重がどの程度行われるかという不安感を、同じく一般国民に与えかねないおそれがある。なるほど、本判決も、治療行為の中止等については家族の意思表示による患者の意思の推定を認めるのであるが、そのためには十分な条件を満たしていることが必要であり、もしその認定が慎重さを欠きあいまい不十分なままなされるのならば、患者の意思はないがしろにされ、家族の都合で患者の生命は左右されるとの批判がなされることになろう。このように、被告人の行為のごとく末期患者に対する誤った処置は、末期医療に対して不信と不安を招きかねないと評価されてもやむをえないといえるのである。

他方、末期医療の現場において被告人が誤った行為に出たことについては、その末期医療の現実の状況に関して酌量すべき事情が存在する。
まず、末期医療についての体制の不備、さらに末期医療におけるチーム医療の機能の不十分さが認められることである。被告人が勤務していた病院は、今日の国内において高い水準の治療体制を整えた病院であったのであるが、こと末期医療のための体制作りないし環境整備という点では欠けるものがあり、末期患者やその家族に対するいわゆるケアのための体制は十分整えられていなかったことは否定できない。それに加えて、本件当時スタツフの異動等により治療体制であるチーム医療に間隙が生じて十分機能せず、一人の担当医に重荷が負わされるような事情が存したことも認められるのである。このように治療中心の医療体制や環境の中にあって、一方では複数の重症の患者の治療に当たりつつ、他方では末期患者やその家族に対応していかなければならないということは、一人の医師にとって大きな負担であり、末期患者やその家族と意思疎通を図り相互理解と信頼関係を築くことはなかなか困難なことといえよう。こうして、本件は、治療を中心とした医療体制の中の狭間ともいえる末期医療の現場において起きた事件といえるのであり、その点で被告人のために酌むべき事情があるといえる。

また、被告人が本件行為に出るについては、家族の懇願と強い要請があったのであり、それが、被告人が本件行為に及んだ大きな要因であり動機であった。末期医療の実際の場においては、患者の家族の意向が大きな影響を持ち、医師の医療活動を左右することがあり、家族の意思が、医師の行為に適法性を与えることもあるのである。このように家族の意思が、医療特に末期医療の現場において大きな影響をもつ現実を考慮すると、それが医師の行為に適法性を付与するまでに至らない場合であっても、医師の行為の動機等として、情状として考慮されてよいといえる。

次に、被告人が本件行為に及ぶについては、末期医療の現場におかれた者として戸惑いと苦悩があったことが挙げられる。近年末期患者やその家族に対するいわゆるケアのための末期医療の重要性がいわれている。しかし、末期医療そのものが形成期にあり、その方法もいまだ確立したものとして普及しておらず、一方では末期患者に対する医師の使命の再検討や無駄な延命治療の中止あるいは患者の自己決定権などがいわれ、末期患者やその家族に対してどう対処するか医療現場において戸惑いと苦悩が存在することは事実である。本件でも被告人は、末期医療殊に末期患者や家族へのケアについての十分な知識と経験があったわけではなく、治療行為の中止や早く息を引き取らせてくれとの要求に初めて出会って戸惑い、その心情を酌み取ろうとして迷い苦悩は深まり、家族の要請を拒みきれない心境になって本件行為に及んだのであり、そこには、末期患者や家族へのケアについて知識と経験が乏しく、末期医療について確信が持てないまま戸惑いかつ苦悩する医師の姿があるのである。このような末期医療の現場における一般的情況が存在することは、被告人が本件行為に及ぶに至った一因として情状として考慮すべきであろう。

右のように、末期医療の中における行為という観点から被告人の行為を見た場合、非難すべき面及び斟酌すべき面の各事情がそれぞれ挙げられる。そしてそれ以外に、被告人が本件を原因に大学を懲戒解雇となり、以後自らも医師として活動することを慎んで本件について熟思し、一方で相当期間被告人としての立場に置かれたのであり、相当な社会的制裁を受けているといえること、患者の家族においても被告人に対して何ら悪感情を抱くことなく、刑事処分も望まない意思を有していることなど、被告人のために酌むべき事情が存在する。

以上の諸事情及びその他の情状を考慮して、量刑した次第である。

(求刑 懲役三年)
(裁判長裁判官松浦 繁 裁判官廣瀬健二 裁判官田尻克已)
                                            弁護士 三木秀夫

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