ミニコミ誌とは その3
ミニコミ誌とは、からはじまって、ミニコミの歴史をまとめたページの3ページ目です。
(21):タウン誌の隆盛
(2011年1月4日)
『技術と人間』1978年5月号掲載記事「ミニコミ時評・持続と解体」に、「今日、隆盛するタウン誌を容易にミニコミと呼び、伝えたいことを自ら表現しようとする、初発のモチーフをひきずるミニコミを軽視する論が横行している」と書かれていた。記事執筆者は断定して書いているが、それは一つの主張としてさておき、タウン誌の隆盛は興味深い。
70年安保、連合赤軍事件などを契機として、日本は、政治の時代から、経済の時代へ移行したという人もいる。大阪万博は、1970年に開催されている。山口百恵の「いい日旅立ち」は、1978年。
その経済の時代のなかで、タウン誌というものが隆盛したようだ。
「アンノン族」という言葉がある。1970年代から1980年代にかけて流行した。雑誌『an・an(アンアン)』や『non-no』(ノンノ)で紹介された「観光地」を、『an・an』や『non-no』を手にしながら巡る人たちというような意味がある。京都、金沢、飛騨高山、倉敷などは、すごかったそうだ。
五味さんが、ミニコミという視点から当時の様子を語ってくれたことがある。京都、金沢、飛騨高山、倉敷などに何々という書店・喫茶店・ミニコミなどができたと、次から次へと話してくれた。
「昭和の暮らしを追ってみる」(江戸東京博物館監修、板谷敏弘責任編集、2003年初版)という本がある。「地域の名所、再発見――東京のタウン誌」の個所で、タウン誌が創刊号の写真付きでいくつか紹介されている。写真には、1935年創刊「季刊日本橋」、1963年創刊「かんだ」などがある。
また、記事本文(田中実穂)には以下のようなことが書かれている。
「現在、東京で発行されているタウン誌は約百五十。昭和三十年(一九五五年)創刊の『銀座百点』など、浅草、上野、神田で発行が相次いだ。いずれの創刊号にも、高度成長による都心の急激な変化と画一化から、各地域の個性と生活の場を取り戻そうという切実な思いがあふれている」
「また一九七〇〜八〇年代には、新聞と同じ大きさのタウン誌が、板橋区高島平や江戸川区など、団地や高層住宅を多く抱える地域で発行された。新聞に折り込むことにより、多くの読者層への働きかけが可能になった」
(22):現在のタウン誌
(2011年1月4日)
タウン誌は、かつては隆盛だった。では現在はどうなのかというと、今も、盛んであると思う。
ある意味では、「東京ウォーカー」もタウン誌だろう。ご当地版の「横浜ウォーカー」などもある。
手もとに「ぶうめらん」という無料情報誌がある。隔月刊で、2010年12月号は、2万部。発行は「せき・まちづくりNPOぶうめらん」。
「ぶうめらん」に「ほんまちーず」というコーナーがある。読んでみると、本町を丁目ごとに紹介する記事だった。
「ぶうめらん」を見ていて、これはどこの都道府県の雑誌なのだろうと思った。広告を含めて住所表示はたくさん書かれているが、多くが「関市」という市町村名から始まっている。奥付としての書誌情報の住所も「関市」から。
めくりつづけて、ようやく、ある広告が「岐阜県関市」と都道府県から住所を記載していることを発見した。都道府県名、あるいは、ときに市町村名も記載しないのはタウン誌ならではのことか。
1965年創刊の「すぎなみのタウン誌・荻窪百点」2010年11月号には、「276」という番号がふられている。通巻で第276号ということだろうか。「読者から」というコーナーでは、地域の話題にふれている読者コメントもあり、「荻窪百点」を入手した場所も記載されている。発行は、株式会社明るい生活社。
1970年代、80年代と、現在では、社会のあり方や人々のライフスタイルが違っている。しかし、それでも、依然としてタウン誌には人を引きつけるエネルギーがあるように感じられる。
ただ、1970年代、80年代のタウン誌、もしくは、それ前後の時代のタウン誌は見たことがないので内容はわからないが、現在のタウン誌は、市井の人間が自らの視点を通して街を見て何かを発見しそれを情報として伝えるタウン誌とは違っているような気もする。自らの視点を通して街を見るということは、つまりは、自分自身とその生活を見つめるということだが、ある意味では、それは文学に通じる。
「東京ウォーカー」や「横浜ウォーカー」の広告料と購読料の割合がどのくらいなのかはわからない。
現在、書店や駅や大規模店舗などで目にする「タウン誌」は、多くが、記事広告も含めて、内容の半分、あるいは、ときにすべてが、広告であったりすることもあるように感じる。もちろん、法人のビジネス、あるいは、活動なので、よい悪いとか、どうあるべきかなどを話してもどうにもならない。

現在の「タウン誌」
(23):マクドナルドとカップヌードル
(2011年2月8日)
みじこん洞さんでイベント「第13回ミニコミ・みじんこ洞」が開催され、五味さんのトークライブがあった。今回のトークでは、時代の節目と社会の潮流についての話が興味深かった。まとめておきたい。
また、イベントは2月6日に行われたが、当日、5日に、長田洋子(ひろこ)さんが拘置所で死亡したというニュースが流れたこともあり、連合赤軍事件についても話してくれた。連合赤軍事件については、それが一つの節目であったという話はすでに書いたので、今回は、食文化という視点から。
1971年7月20日に、銀座三越店内に、マクドナルドの日本第1号店が開店した。当時の人々は、諸手を挙げて受け入れた。また、1971年9月18日に日清食品がカップヌードルを発売した。浅間山荘事件の時に、警察官or機動隊員がカップヌードルを食べている映像がテレビで流れた話は有名だと思う。
五味さんは、1971年から、日本の食文化が、家内制手工業から工業生産にシフトしたと言っていた。言われてみれば、うなずける。
ハンバーガーを例に取れば、現在、ご当地グルメとして「ヨコスカネイビーバーガー」や「佐世保バーガー」が話題になっている。どちらも注文を受けてから手作りされる創作料理。文化や潮流は数10年単位の大きなサイクルでうねりながら行ったり来たりを繰り返すのであれば、現代人は、マクドナルドに飽きたのかもしれない。
「ヨコスカネイビーバーガー」も、「佐世保バーガー」も、ご当地グルメ的側面、街おこし的側面が注目を集めている。横須賀市、佐世保市も話題性を付加する戦略で、ある意味では極端にデフォルメされた素材や調理方法を宣伝する。積極的に営業をしている。
しかし、独自の素材や手段を用いた創作料理という点では、かつては、どの食堂でも、そして、突きつめて考えれば多くの家庭で、日常的に作られていた。冷蔵庫が一般家庭に普及してからまだ日は浅い。工場生産物をほとんど利用しないで料理を作ることが当たり前だったのだろうし、それが当たり前なので、わざわざ、ご当地グルメだとか、何とかバーガーだとかいう「名付け」を必要としなかったのではないかと思う。
食堂にはその料理があり、家庭にはその家庭の料理があっった。そんな時代に、マクドナルドを、日本人は諸手をあげて受け入れた。そのことが何を意味するのかへ話を持って行ってしまうとらちが明かなくなる。一つだけ、イタリアの農村部では、マクドナルドが進出してきた時に、激烈な反対運動が発生したそうだ。それが、スローフード運動の原点となった。また、現在、イタリアのシェフたちが京都に修行にきて、味付けをするのではなくて素材の味を引き出すという技を学んでいるという。
小説作品を、紙に滲ませたインクの染みととらえるならば、いくらでも量産は可能。ハードとして考えれば、マクドナルドのハンバーガーと同じ。いっぽうで、手書きで原稿を書くべきと考えるなら、家内制手工業。複写技術がなかった明治のころは、書いた小説を同人仲間に見せるためには、原本を渡すか筆写するか。同時に複数の人間へ見せるには、それだけの部数を筆写するか文芸同人誌を作るしかなかった。それでも、当時の文芸同人誌は、メディアとして不特定多数の大衆を対象にしたものではないし、いくらでも工業的に量産が可能ではなかったので、家内制手工業的といえようか。

アクセス、西武百貨店で、タウン誌フェアと、ミニコミ・ティーチイン

共同便所

新宿プレイマップ

ミニコミ・トークイン

全国ミニコミ一覧表
(24):ミニコミと同人誌、コミックマーケットと文学フリマ
(2011年2月8日)
引き続き、「第13回ミニコミ・みじんこ洞」での五味正彦さんのトークライブのまとめ。
1970年のころ、「ミニコミ」といえば社会運動誌であり、「ミニコミ」という言葉にカウンターカルチャー誌が含まれるようになり、「同人誌」といえば「文芸同人誌」であり、「文芸同人誌」という言葉から、「まんが同人誌」という言葉が生まれた。
当時の新聞やイベントを見ても、「ミニコミ・同人誌図書館」「同人誌・ミニコミフェア」など、「ミニコミ」と「同人誌」という言葉が並列して使われている。
現在は、「文芸同人誌」は「文芸同人誌」と、頭に「文芸」をつけて呼ばれる。「同人誌」という言葉の定義が多様化し、「同人誌」と言われても、「何の同人誌?」と聞き返さなければわからないところまできている。相手からの返事も、「文学」「エンターテイメント」「詩」「ポエム」「まんが」「イラスト」「写真」「コラム」「批評」「シナリオ」「研究発表」「まとめ」「つぶやき」など、無限にあるようにすら思えてくる。あるいは、それらの中から複数のミックスも。興味が細分化し、活動が多様化しているので、「同人誌」という言葉ではもはやくくることができなくなっているのかもしれない。
また、上記と合わせて、「同人誌のイベント」も多様化、かつ、細分化している。「同人誌のイベント」へ行くと、社会運動系の人たちばかりが出店していたり、まんがで埋め尽くされていたり、雑貨が売っていたりなど。もちろん、何がよくてどうあるべきかという問題を突きつめても、あまりよいことはないと思う。
「文芸同人誌」をやっているのであれば、「文芸同人誌」をやっている人たちや「文芸同人誌」を求めている人たちが多く参加するイベントや機会を見つけそこへ特化していき、「社会批評」をやっているのであれば「社会批評」をやっている人たちやそれを求めている人たちが主体となる場所で活躍するのが、いろいろな意味で、幸せにつながる気がする。もちろん、「文芸活動」をやっていて「コミュニティー活動」にも興味がある人はいると思う。「文芸活動」が目的で参加してみたら思いがけず「コミュニティー活動」に出会うという幸運なミスマッチもあるかもしれない。しかし、どんなにエネルギーと資本を注いでも、カテゴリーの壁は厚い場合はある。興味や関心の対象が細分化していく潮流の中では、それぞれの組織が、正確な分析を実施して、明確なカテゴリー戦略を立てることが理想であるような気がする。
また、「ミニコミ」に関しても、社会運動、カウンターカルチャーからはじまって、サブカルチャー、詩的散文(市井の人間が生活者の視点から街や人を観察し発見を表現する、ようするに自分自身のあり方を振り返るということ)、音楽、映画、街の情報誌、自ら行っていたりプロデュースしている活動の宣伝を兼ねた冊子など、多種多様。もはや「ミニコミ」という言葉では単純にくくることができないところまで、多様化、細分化している。
ただ、そういった時代になっても、「同人誌」「ミニコミ」という言葉はあったほうがよいと思う。「名づけ」という現象はなかなか難しくて、「名づけられた言葉」が指示対象そのものであることはあり得ず、「言葉」を与えられた時点でその「言葉」が単独で主体を離れて一人歩きして、さらに「名づける」「言葉を発するという行為自体」が社会的に何らかの影響を生み出してしまう。昭和天皇は人間宣言をしたが、人間宣言をしたことによって昭和天皇という存在の中で何かが変わることはない。しかし、「人間が人間宣言をしたという現象そのもの」が人々の意識の中に何らかの影響を生み出した。また、「戦後」という言葉がある。「もはや戦後ではない」「高度成長」「所得倍増」「列島改造」などの言葉も生み出されていった。しかし、基地問題、北方領土、憲法、自衛隊らの問題一つをとっても、あの戦争はまだ終わっていない。
話が大きくなってしまったが、「コミック」を冠するコミックマーケットはまんがのためのイベントだと思うし、「文学」を冠する文学フリマは文学のためのイベントだと思うのだが、実態がどうかなどということを問題にするよりは、みんながそういった場所を利用して、社会が活性化していけばよいと思う。

「CITY・POINT」、日本ミニコミ・同人誌図書館の記事が載っています。

同人誌ミニコミフェアのチラシ

「会場が大田区であるせいか前々回とくらべてあまり成長しない結果となってしまいました」などと書かれています(^^ やはり、蒲田もある大田区は会場使用料が安いのでしょうか。
(25):ミッション
(2011年2月8日)
引き続き、「第13回ミニコミ・みじんこ洞」での五味正彦さんのトークライブのまとめ。
ベ平連が中心となり発行された『週刊アンポ』の話もしてくれた。『週刊アンポ』は、0号から15号まであり、13号・14号は折形式、15号はビラ形式だったらしい。
一番印象に残ったのは、当時、ルポ、主張、批評、表紙、イラスト、対談、小説、まんがなどを寄稿した人はすべてすべてボランティア(ノーギャラ)だったらしい。また、参加している人の名前を見ると第一線の人たちが多い。『週刊アンポ1号』の「週刊アンポへの手紙」覧には、梅本克己さん、久野収さん、野間宏さん、小松左京さん、筒井康隆さん、中野好夫さん、桑原武夫さんらの名前もある。
なぜこれほどまでに人とエネルギーが集まったのか。小田実さんの人格もあったのだろうが、やはり、アンポ問題を考える、あるいは、アンポをフンサイする、という使命感があったのだろう。
当時は、「安保」というミッションがあり、そのミッションのもとに、よい悪い、賛成反対は別にして、人とエネルギーが集まった。それはそれでおいておいて、現在もさまざまな問題がありもちろん安保もあるのだが、70年当時のような社会に共有されているミッションはないような気がする。
現代を生きる人間はどうすればよいのか。例えば、文芸同人誌であれば、どこにミッションがあるのか。また、はたしてそもそもに文芸活動・同人活動にミッションはあるのか、を考える必要があるということか。文芸同人誌も、即売会に参加することも、交流・交友を広げることも、あくまでも手段、目的ではない。
【その他】
最後に、今回のトークライブでなるほどと思ったことを箇条書きしておく。
・イトーヨーカ堂は、大手取次から人材を引き抜いて、セブンイレブンを作った。コンピューター管理がなかった時代、唯一、本の流通だけは全国を網羅可能な形で制度化されていた(それだけ優秀なインフラだった)。
・残る本屋は3種類だろう。(1)全部を揃える、無くても5分以内に返事ができる。*神保町のように一つの場所にその機能を持たせてその場所を構成する一部と成ることを含む。(2)徹底的に専門化する。(3)付加価値をつける。*ブックカフェにする、託児設備を整えるなど。
・1970年代に新宿の路上でミニコミ市を開催した。初回は通ったが、2回目は機動隊がきて除去された。
・出版(マスコミ)とミニコミは、ある意味では、光と影。片方が斜陽になればもう片方も必ず落ちる。確かに、言われてみれば、商業文芸がダメになれば同人文芸もダメになる部分はある気がする。

週刊アンポ

週刊アンポ1号

週刊アンポ5号



確かに、これだけのメンバーが集まったのはすごいと思う。
(26):『ほぼ日刊イトイ新聞の本』
(2011年2月10日)
前回、「週刊アンポ」の話で、ミッションということについて書いた。当時、人とエネルギーが集まった背景には、いい悪い、賛成反対、強硬慎重を含め、「アンポ」という大きな社会的事象・現象が共有されていた。ミニコミを作りたい、何かを表現したいという理由ではなく、「アンポ」に対して、人も、エネルギーも、そして、金も集まったのだと思う。ミニコミや表現はすべて手段、目的はただ一つ、「アンポ」であった。
ひるがえって、現代では、「アンポ」のような社会的ミッションとなり得る事象や現象はないような気がする。実際は、そう思っている、思わされているだけなのだろうがそれはさておき、同人誌やミニコミを作ることや、即売会に参加することや、同人誌やミニコミをきっかけとして交流したり社会参加したり知人・友人を作ったりすることは、それ自体は目的にはならない。表現をしたい、世界へ作品や情報を発表・発信したいという気持ちは、目的になるのかどうか、文芸同人誌を主催しているがまだよくわからない。
いずれにせよ、「アンポ」のような大きな事象や現象がない(とされている)現代、さらに、価値観が多様化し、興味が細分化している時代、同人誌やミニコミを、個人の活動としてではなく、組織の活動として維持・発展させるにはどうすればより円滑な運営ができるのだろうか。
参考になる一つの事例として、『ほぼ日刊イトイ新聞の本』(糸井重里)を読んだ。WEBコンテンツサイト「ほぼ日刊イトイ新聞」は、糸井重里さんが立ち上げて現在も運営されている。『ほぼ日刊イトイ新聞の本』には、「ほぼ日刊イトイ新聞」を作ったきっかけや、運営をしながら感じたことや、実際に何をどのようにしていったのかなどが書かれている。WEB上の場所とともに現実世界における場所にもこだわっていたこと、広告収入ではない別の収益モデルを模索していたこと、多くの参加者・寄稿者がノーギャラでやっていたことが興味深かった。
(27):1973年の「an・an」
(2011年2月17日)
古本屋を歩いていたら、「an・an」があった。表紙は、外国人モデルと思われる女性の写真。女性は、黒い帽子にクビまで隠れるセーター、それに、赤に黒い柄が入った豪華そうなコートを着ている。現代のファッション雑誌にもあるような表紙に思えたが、本自体が古そうだ。手に取ったら、1973年12月5日号。特集は「信濃の晩秋……旧中山道」。いわゆる「アンノン族」と関係があるのであろうか。印刷された定価は「220yen」。古本屋の値札は1000円。買ってみた。
表紙裏と1ページ目を使って見開きの全面広告。内容は化粧品だが、片側ページは、ピンクを基調にして曇りガラスに透けるような美しい女性の写真のみ。左上に、ほんの小さく化粧品会社のマークが印刷されているだけである。
次は目次かと思いページをめくっても、片側が同じ化粧品会社の広告。もう片方ページから、「セーター101点」という特集がいきなり始まった。101点のセーターを紹介しその101点を全部プレゼントするという企画。官製はがきで応募だが、規定には、「ただし”セーターについて”という、短い文章を必ずそえてください」とある。”セーターについて”の文章を審査して、優秀101編にセーターが送られるようだ。現在でも、広告主から商品を無償で提供してもらい、媒体がプレゼントやアンケートを利用して調査やコンテンツの収集を図ることは盛んだと思う。広告主、媒体、読者(消費者)の3者にそれぞれメリットがある。ただ、例えば、紹介されている「茶の帽子\1,800」「トックリセーター\3,300」「チェックのつりスカート\5,200」らが、当時の物価でどれほどのものになのかはわからない。
セーターの特集21ページ(オールカラー!)が終わり、洋酒の広告が1ページはいって、やっと、白黒ページで目次が現れた。目次とか、内容とか、文章とかではなくて、とにかく、冒頭からカラー写真を連発(しかもプレゼント)という戦略か。
その目次を眺めてみると、「旧中山道」よりも目についたのが、「恋人のいない男たち・どうしてでしょう聞いてみました」という見出し。気になる。ページをめくってみると、「ここに登場する男性、ステキだと思わない? みんな恋人がいないというのです。ほんとかな? どうしてなのかな?」という文言が目に入る。友だちに話し掛けるような文章も、印象に残った。
「恋人のいない男たち」としてさまざまな男たちが紹介されていた。(たぶん)実名、年齢、勤務先、連絡先、そして、月収という個人情報が、中には「秘密」や無記名もあるが、もれなく記載されている男性も多い。例えば、一部に●を入れてピックアップすると以下のとおり。
三●銀行/27歳/9万円
築地魚市場仲買い/24歳/15万円
警●庁/28歳/7万円
日商●井/23歳/5万円
ブティック・メーカー/25歳/10万円
アクセサリー・デザイナー/22歳/5万円
●凡出版/27歳/7.3万円
この物価水準で、「トックリセーター\3,300」は、高級品? かもしれないと驚きつつ、いよいよ目的の「旧中山道」の特集へ。
軽井沢と下諏訪の間にある、追分、塩名田、和田などが紹介されていた。ときに険しい峠を越える信州の美しい自然に包まれた場所のようだ。
「そして小諸・旅の終わりに、ふと立ち寄ったこの街にも、遠い旅人をあたたかくもてなしてくれる名所、お店、味覚のかずかずが……」の見出し。記事本文は、「小諸はちっぽけな町。人口もわずか4万人。10分も歩くとすぐに繁華街がとぎれちゃう。/でもそれだからいいのです。ニクニクしく大きな街、つまり都会にあきあきしてやって来た信州ですもの」と始まる。
「旧中山道」の特集は、雑誌全体の配置から見ると、細切れの写真をひとページに詰め込んでいたり、黒字の文字を中心に置いたりしているので、中休みというか、骨休みの読み物という印象を受けた。
「旧中山道」の特集のあとは、あるメーカーのセーターの特集(というか広告)が入り、「ガイド&ショッピング海外特集版・印度」が始まる。「印度」は、誌面構成が「旧中山道」と似ているが、イラストが多用され、見開きページがまるまるカラーイラストで枠取りされている。「旧中山道」よりは、ビジュアルに訴える意図があるように思えた。「協力=インド政府観光局・パンアメリカン航空」と記載されているが、1973年という背景を考えると、旧中山道を特集するのと、インドを特集するのとでは、何からなにまで違うのであろうと思った。
後半に入ると、白黒ページが多くなる。「アンアン・ミニコミ」というコーナーも。「ゆずる・ゆずって」「たずね人・たずね猫」「募集中」などがある。「お友だちが欲しい。私、18歳の学生なの」という友だち募集から、「●●●●さんものすごく会いたい。私、旧姓●●です」という深刻そうなものまで、さまざま。新聞やラジオの「たづね人」や「一行広告」や「人生相談」などはものすごく影響力があり、コミュニティーの作成や、コミュニケーションという点でも大きな役割をになっていたのだろうと思うが、雑誌が、新聞やラジオと同様のことを、ややコンセプトを変えてやっていたのかもしれない。
「an・an」には、特別付録「アンアン・ボンマルシェ」という、小さい判の新聞のような折り雑誌がついていた。フルカラー16ページだが、見開きの一番目立つページには「奥能登の夕日に……・コートとマント」という特集が。奥能登の写真が紹介され、「朝市」「仁江海岸の夕日」など写真の紹介文の横には「チェックジャケット7800円」「ループのショートコート4色あり各9800円」と商品の宣伝も。朝市はこのコートを着て周り、夕日を見るときはこのコートで、というのをすべて実践するわけではないだろうが、28歳の警●庁職員の月収が7万円の時代に、7800円のコートは、けっして安くはない買い物。
古本屋に入って、なんとなく目についた「an・an」であったが、なかなか、興味深かった。

「an・an」と「アンアン・ボンマルシェ」

それぞれの中身
(28):ミニコミ誌と同人誌の違いのまとめ その1
(2011年3月10日)
知人から「ミニコミ誌」と「同人誌」とはどう違うのか、という質問を受けた。このあたりで、一度、まとめておきたい。
ミニコミという言葉は60年ころに生まれ、70年代に浸透した。60年安保、ベトナム反戦運動、70年安保らが影響しているといわれるが、公害問題や、炭坑争議や、PTA活動の活発化など、社会全体の大きなうねりの中から生み出された言葉なのかもしれない。
同人とは、志を同じくする者、あるいは、志を同じくする者たちのグループを指す。「文芸同人誌」には一世紀以上の歴史があり、短歌や俳句を加えればもっとさかのぼる。
かつては、「ミニコミ誌」といえば「社会運動の雑誌」を、「同人誌」といえば「文芸同人誌」を指した。
1972年10月16日の読売新聞都民版に、新宿の歩行者天国で開始された「ミニコミ市」の記事が掲載されている。記事タイトルは「百家争鳴のミニコミ市・公害、反戦etc」。書き出しは「マスコミの向こうを張ったミニコミは、いまやちょっとしたブーム。十五日、歩行者天国の新宿大通りに百メートルにわたってミニコミ市が立ち並び、歩行者の足をとめた」となっている。
「ミニコミ誌」は、そもそもメディアなので、情報らを不特定多数に対して発することを前提としている。70年代以降、屋外から屋内へ場所を移し、発信されるようになる。ミニコミ誌を扱う店舗が全国に広がり、サブカルチャーとしてのタウン誌が隆盛する(タウン誌自体は古くからあった。『季刊日本橋』は1935年創刊)。
また、発信だけではなく、「ミニコミ誌」を管理・保管するための動きも出てくる。1976年に「日本ミニコミ・同人誌図書館」が作られ、78年に移転オープンしている。館長の方は、「苦悩舎」というミニコミ書店を経て、図書館を設立した。家庭用ヴィデオカメラの普及や、FM・インターネットなどのインフラの浸透をへて、現在では、「ミニコミ誌」という言葉が適用される範囲が多様化し、活用・運営方法も細分化している。
いっぽうで、「同人誌」も、細分化する「ミニコミ誌」と同様に、まんが同人誌の隆盛など多様化していく。1977年に「同人誌マーケット−−同人誌・ミニコミ即売会」が大田区産業会館(東京都)で開催されている。「同人誌・ミニコミフェア」として続いていく。「第4回同人誌・ミニコミフェア」の募集要項には、「マンガを書きながら売る風景も」という説明文つきで会場風景写真が紹介されている。また、「同人誌・ミニコミフェアは、ファンジンとしての文芸、漫画同人誌、ミニコミ、タウン誌、サークル誌、個人誌、詩集等の発行者、グループが集って、本の展示即売会を通して、制作者と読者、制作者同志の交流のきっかけを作る場所なのです」と記されている。「ファンジン」とは、「ファン(愛好者)」と「マガジン(雑誌)」を足して作られた言葉のようで、同人誌そのものを指す場合もあったという。
募集要項の中で、わざわざ、「ファンジンとしての」とただし書きをした理由は、文芸同人誌には仲間内の回覧物という伝統があるためと思われる。コピー機などがない時代、たとえば、明治・大正のころ、書いた小説を仲間に読ませたいと思ったら、一般的には、原本を渡すか筆写するかしか方法がない。複数の仲間にいっぺんに読ませたいと思えば、人数分を筆写するか文芸同人誌を作るかしかなかった。
「ミニコミ・同人誌図書館」では「ミニコミ」が先にきて、「同人誌・ミニコミフェア」では「同人誌」が先にきている。その理由はわからないが、前者の設立者が「ミニコミ誌」の人間で、後者の主催者が「文芸同人誌」出身だからかもしれない。
*捕捉(2013年4月21日):ページを読んで下さった方から、「1977年に「同人誌マーケット−−同人誌・ミニコミ即売会」が大田区産業会館(東京都)で開催されている。」という個所について、開催日がわかりませんか? というご質問をいただきました。お問い合わせ、ありがとうございました。
手元にある資料で調べましたら、開催日は、「1977年5月22日(日)らしい」という所までしかわかりませんでした。具体的に、「5月22日に開催された」という報道記事などを確認したわけではないので、「らしい」という形で、追記させていただきました。

1977年5月21日の毎日新聞夕刊2刷の(4)の「イケシンの“招待席”(池田信一)」というコラム記事に、「二十二日(日)午前十時から午後五時まで、国電・蒲田駅東口に近い大田区産業会館4F講堂で『同人誌マーケット−−同人誌・ミニコミ即売会」を開く」という記述あり。

1977年9月10日の毎日新聞夕刊3刷の(4)の「イケシンの“招待席”(池田信一)」というコラム記事に、主催者コメントとして、「ぼくらが主催する“フェア”は、五月にも開いたんですか、初めての試みにもかかわらず、意外なほど好評で、…」という記述あり。

1977年5月21日と1977年9月10日の毎日新聞
(29):ミニコミ誌と同人誌の違いのまとめ その2
(2011年3月4日)
ミニコミ誌と同人誌は何が違うのかという質問を知人から受け、その回答をまとめた。前回の記事では、「ミニコミ」「同人」という言葉に焦点を合わせ、歴史を振り返った。記事概要を記すと、「ミニコミ」という言葉は社会運動の中から生まれ、「同人」は志を同じくする仲間を意味するという内容になった。その記事を読んだ知人から、昔のことはわかったので今どうなっているのかを知りたい、と続けて質問があった。
今どうなのか。結論からいってしまうと、現在は、人々の価値観が多様化し興味が細分化されているので、「ミニコミ誌とは何か」「同人誌とはどういった雑誌なのか」という定義を追求するよりは、それぞれの価値観は何か、その人やグループの興味がどこへ向いているのかを、そのつど確認したほうがてっとり早い。“ミニコミのイベント”でも、ミニ(小規模な)コミ(コミック・まんが)のイベントだったり、“同人誌”の中に、芥川龍之介や中原中也など著作権保護期間が過ぎた著名な作家の作品が収録されていることもある。
また、「ミニコミ誌」や「同人誌」よりもより細分化された現象や事象を差し示す言葉でも、複数の意味や概念が内包されるようになっている。ミニコミ誌の中の一つとして認識されてきた「タウン誌」という言葉を例に挙げれば、現在では、複数の意味で使われている。ある炭鉱の街やある川の流域で起きた出来事や情報を広く社会に発信する雑誌も「タウン誌」であり、特定の地域に住む人々やその場所へ興味がある人々へ向けられた雑誌も「タウン誌」と呼ばれる。東京都にある板橋区高島平など人口が急激に増えた地域では、新聞に、その街を取り上げた「タウン誌」が折り込まれ配達されることもある。大手新聞には全国のニュースと都民版のニュースが掲載され、それに加えて、その地域のニュースが載っている「タウン誌」が手元に届く。
問題提起や主張、情報発信としての「タウン誌」があるいっぽうで、表現や記録としての「タウン誌」もある。日本は雨の国であり、古来より、移りゆく気候や季節は詩歌や文学の主要な題材となっている。自然だけではなく、人は、変わりゆくものや、なくなりつつあるものを記録しておきたいという欲求を持つ。子どもの成長記録や記念写真、紀行文や記録文学をはじめ、一昔前であれば東京タワー、現在なら東京スカイツリーの、日々変わりゆく建設風景を、絵画にしたり、写真に撮る人は多い。市井の生活者が自らの視点で街や人を見て、発見したものを表現する「タウン誌」もある。
結論を繰り返すと、ミニコミ誌や同人誌という言葉に出会ったら、何をもって「ミニコミ誌」という言葉が使われているのかや、「同人誌」という言葉が何を指しているのかを、その都度、何らかの方法で確認しておいたほうが、適切な、あるいは、円滑なコミュニケーションができるだろう。相手に直接「ミニコミ誌って何ですか?」「同人誌ってどういった雑誌のことですか?」と聞くかどうかはさておくとしても。

建設中の東京スカイツリー、両国の旧安田庭園から2011年2月15日撮影
(30):立教大学・共生社会研究センター
(2011年4月19日)
高円寺の「みじんこ洞」さんで、「立教大学・共生社会研究センター」のパンフレットをいただいた。ミニコミに関するイベントが立教大学・共生社会研究センターで予定されており(2011年3月に発生した震災直後だったため中止)、イベントのチラシをいただいた時にいっしょにもらった。
パンフレットの「ご挨拶」を読むと。立教大学・共生社会研究センターは、ミニコミ等約24万点/各種活動・運動資料/宇井純さん、鶴見良行さんの研究資料などを埼玉大学から引き継いで設立された、とある。立教大学・共生社会研究センターは埼玉大学からの資料移管やそのための協議らを受けて新規に設立されたのか。勝手な思い込みで、もともとあった立教大学の共生社会研究センター(あるいは同類の研究機関)が埼玉大学からの移管を受け入れたのだと思っていた。
立教大学・共生社会研究センターの活動は2つの方向性を持っているという。所蔵資料を研究資源として活用する方向と、市民と協働する方向。運動者、活動者、これから運動・活動をしようとする人、研究者、行政などあらゆる人や団体に門戸を開き、立教大学・共生社会研究センターの利用資格は「とくにありません。……どなたでもご利用いただけます」。さすが。
また、パンフレットには、「主な所蔵資料」と「沿革」が図になって記載されていてわかりやすい。「国内発行の機関誌・ニュースレター類(ミニコミ)約18万点」「海外発行の機関誌・ニュースレター類(ミニコミ)約6万点」はすでに埼玉大学から移管済みで、2012年に「旧『ベ平連』運動資料」や「鶴見良行文庫」などが移管予定であるそうだ。
【沿革(History)】は興味深いのではまとめておく。
1973年:アジア太平洋資料センター(PARC)設立
1976年:住民図書館開設
1997年:埼玉大学経済学部に社会動態資料センター設置、PARC収集の海外市民団体発行誌・旧『ベ平連』資料らを保存・公開
2001年10月:上記が、学内で、「共生社会研究センター」に改組
2001年12月:住民図書館閉館、資料は埼玉大学へ
2008年:埼玉大学共生社会研究センターが再編
2009年:立教大学と埼玉大学が資料移管の覚書を締結
2010年3月:資料移管を開始
2010年4月:立教大学共生社会研究センター発足
2010年11月:学内・学外者向けの閲覧・複写サービス開始
→ ミニコミ誌とは、その4 (31):ミニコミ誌・同人誌関係の年表


