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(14)女たちの会津戦争−死んで後世の審判を仰ぐ

(2012年5月11日)

 新書『女たちの会津戦争』(星亮一)を読みました。会津戦争とは、明治維新の時代に、薩摩藩と長州藩を中心とする新政府軍と、会津藩の間で行われた、会津若松の鶴ケ城開城(会津藩の降伏)をクライマックスとする東北戊辰戦争の中の激戦です。非戦闘員を含めて、おびただしい数の死者を出し、女性たちは蛮行や強姦の餌食になりました。会津藩主の松平容保(かたもり)は一橋慶喜や孝明天皇から乞われ、京都守護職に就いたのですが、その当時は、まだ会津藩は薩摩藩と協力関係にありました。しかし、薩長同盟成立と江戸城無血開城後は、“会津憎し”の声のもとに新政府軍は進軍を続け、会津藩には、藩主切腹か、徹底抗戦しか道はなく、当時の概念や、会津人の気質から、前者はありえなかったことが記されていました。

 『女たちの会津戦争』は、その会津戦争に女性たちがどう立ち向かっていたのかが紹介されていました。

会津藩攻撃

 新政府軍が会津領内に入るルートとして、いくつかの国境の峠が想定されていました。新政府軍は、慶応4年(1868)8月21日に母成峠(ぼなりとうげ)を超えて会津藩領に侵入し、一気に猪苗代湖まで兵を進めました。23日早朝には、激しい雨の中、会津若松の城下へ乱入。会津軍の主力はいまだ国境にいました。

 新政府軍が乱入すると、城下ではけたたましく半鐘が鳴らされました。男は城へ向かいました。敵軍が攻め寄せてきてからの避難命令となり、武家の家では、話し合いや祖父や祖母らの判断で、敵が侵入してきた際は、城に入って籠城・避難・家を焼いて自害など、あらかじめ対処方法が決められていました。しかし、城に入ろうとしても守備兵がいないため城門が閉じられていたりと、大混乱に陥りました。

 一方、城では、唯一まとまった部隊が少年で構成される白虎隊のみ、銃を持った者は百名たらず、兵糧米と弾薬はまったくなしというありさま。新政府軍が統制のとれた大隊を一つ出して攻め寄せれば落城という事態でしたが、地理に不案内で城内の事情も分からなかったため総攻撃をためらい、砲撃のみを続けました。

 会津藩には、戦争前に白米の貯蔵を発議した役人がいたそうです。「籠城戦などない」と一蹴され、おまけにその役人は罷免されたことが記されていました。著者は、会津戦争は地獄だったと指摘していますが、同時に、悲劇の多くは人災でもあったと記していました。

「死んで後世の審判を仰ぐという壮絶な会津武士道の発露」

 西郷頼母(たのも)は会津藩の筆頭家老。西郷家の本姓は保科で、藩祖・保科正之の分家。一方、藩主・松平容保(かたもり)は、尾張藩の支藩・美濃高須藩からの婿養子。激高しやすく血筋や身分を絶対視する頼母と、生まじめで内向的な年若い容保の間には確執がありました。頼母は容保の京都守護職就任に大反対しましたが、義理を重んじる容保は受け入れ、また、すでに、一橋慶喜らに周りを固められて、容保は断れない状態にいました。

 身分で人を差別して、他人の意見に耳を貸さず、すぐに激高する頼母は、20代の山川大蔵や内藤介右衛門ら重臣らから反感を買い、藩のためにならないと考えた、会津藩の主導権を持っていた若手の政務担当家老・梶原平馬によって追放されました。梶原平馬は内藤介右衛門の実弟で、内藤家から梶原家に入っていました。

 しかし、容保は、会津が徹底抗戦へと追い込まれると、頼母に、白河口の守備を任せました。このときは、梶原平馬の奔走で、薩摩の江戸屋敷を砲撃していた庄内藩と軍事同盟を結び、東北と越後が一つになるという画期的な奥羽越列藩同盟が成立していました。梶原は、大鳥圭介の旧幕府歩兵部隊と、榎本武揚の旧幕府艦隊の合流を模索し、さらに、新天皇として仰ぐ、会津藩を擁護した孝明天皇の義弟・綸王寺宮公現法親王を迎え入れていました。榎本艦隊が仙台と新潟の制海権を確保すれば、戦いを長期化させることができ、和平の道が開けるとふんでいました。

 だが、白河での戦いは、会津藩の軍事総督である西郷頼母が気付いたときには、薩摩・長州兵が白河城下に潜んでおり、午前中の戦いで大勢が決してしまいました。仙台藩は1000人以上の軍隊を白河へ送っていましたが、唯一戦争経験がある会津藩があっけなく敗れたことにより、同盟から脱退する藩も現れました。著者は、白河の戦いこそが東北戊辰戦争の天王山であり、京都で恨みを募らせていた新政府軍は、白河を突破して、真っ直ぐに会津へ向かいます。会津戦争を回避することは、「主君容保が切腹し、城を明け渡し、領地も差し出せば、可能だったかも知れない。しかし武家社会でそれは百パーセントあり得ないことだった」と書かれていました。「槍をとったら日本一だったが、槍では戦えなかった」とも。

 筆頭家老だった西郷頼母の家では、2歳の季子をはじめ頼母の家族、居合わせた親族の家族、譜代の家臣ら全員が自害。土佐藩兵が西郷の屋敷に入ったとき、17、8歳の息絶えだえの女子がいて身を起こすと、「そなたは敵か味方か」と尋ねたそうです。「味方なり」と答えると、懐刀を刺し出し、土佐藩兵は、介錯して立ち去ったといわれています。

 会津国境が破られた時点で、会津藩の命運は尽き、会津人は、懐に遺書を忍ばせて玉砕しました。著者は、「死んで後世の審判を仰ぐという壮絶な会津武士道の発露だった」と記しています。

『女たちの会津戦争』の感想

 『女たちの会津戦争』を読み終えて一番に感じたのは、人間は産み落とされる環境や時代を選ぶことはできませんが、倫理や道徳などの信じるものを自分で持ち、自分ではどうにもならない環境や時代の中にあっても、信念と使命感を持って生きれば、たくましく、また、美しくなることができるのかもしれないということです。会津の女性たちの死に様、生き様は、良いとか悪いとかではなく、美しいと思いました。また、中野竹子の辞世の句

ものの夫(ふ)の猛(たけ)き心にくらぶれば

  数にも入らぬ我身ながらも

は、見事だと思いました。




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