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グレート・ギャツビー/フィッツジェラルド/村上春樹訳のあらすじと読書感想文

2013年3月22日 竹内みちまろ

グレート・ギャツビー(村上春樹訳)のあらすじ


 人類が初めて経験した世界大戦からアメリカ東部に戻ってきた29歳の「僕」(キャラウェイ、愛称ニック)は、いっそのこと世界が軍服を着たまま整列を続けていればいいとさえ思っていました。「僕」は、中西部の名家の出身ですが、戦争から戻り、証券の勉強でもしてみようと思い立ち、もう故郷へ帰ることはあるまいと思いながら、東部へやってきました。有価証券やクレジット(信用)や銀行業の本を買い込み、プロビティー信託銀行に勤め始めました。仲間と、豚肉ソーセージとマッシュポテトとコーヒーの昼食を取ったあと、たっぷり一時間、図書室で有価証券の勉強をしました。騒ぎまわる連中はどこにもいましたが、そういった連中は、図書室にはやってきませんでした。

 「僕」は、ニューヨークのオフィスからは離れていますが、郊外の一軒家を借りました。一軒家は、ロング・アイランドのウェスト・エッグにあり、対岸には、高級住宅街のイースト・エッグがあります。「僕」は、「ものを考えるのにいちいち時間がかかる性格だし、欲望に歯止めをかけてくれるいくつかの規則を後生大事に抱え込んでいる」ため、まずは、故郷に残してきたしがらみをきれいにしておかなければと思っていました。「僕」は、その娘に週に一度は、「ラブ、ニック」と結ぶ手紙を書いていましたが、「僕」が借りた一軒家の隣には、広大なジェイ・ギャツビーの屋敷がありました。

 夏至祭まで2週間という日、「僕」は、旧知のブキャナン夫妻(トムとデイジー)のイースト・エッグの家に夕食に招かれました。「僕」とトムは同じイェール大学に通い、デイジーは「僕」の再従弟の子。ブキャナン夫妻には3歳の娘がおり、新聞のグラビア広告などでも活躍しているゴルフ選手のミス・ベイカーから、「トムはニューヨークに愛人を囲っているのよ」「それにしても、夕食どきに電話をかけてこないくらいのたしなみがあってもいいのに」などと告げられます。「僕」は家に帰り、車を車庫に入れると、芝刈り機の上にしばし腰を下ろしました。隣の屋敷の物陰から人影がひとつ音もなく現れました。それが、ギャツビーでした。

 「僕」は、ミューヨークへ向かう途中にある「灰の谷」の自動車修理工場の2階に、修理工の夫と11年間住んでいるトムの愛人のマートルに会いました。トムといっしょに列車でニューヨークへ向かっている時に、トムがマートルを修理工場から連れ出し、ニューヨークに着いてからは、アパートへ「僕」を連れて行き、酒を飲みました。マートルは、30歳前後のほっそりした妹のキャサリンを呼び出します。「僕」は、キャサリンから、ギャツビーが「ヴィルヘルム皇帝の甥だか従兄妹っていう話ね。そこからお金が出ているんだって」と聞きます。また、デイジーはカソリックではないのですが、キャサリンが、デイジーがカソリックだから「離婚なんて問題外ってわけ」と口にするのを聞きます。「僕」は、「念入りな嘘が作り上げられていることに」ショックを受けます。トムと、マートルは、マートルがデイジーの名前を口にする権利を有するかどうかで口論を始め、トムがマートルの顔を平手で殴り、マートルの鼻がつぶれました。

 「僕」が初めてギャツビーに会ったのは、招かれて出向いたパーティーの会場でした。週末になると、ギャツビーの屋敷では、ギャツビーのロールズ・ロイスが鉄道の駅との間をひっきりなしに往復し、ニューヨークから、オレンジやレモンが何箱も運ばれました。ギャツビーの家のパーティーに集まる連中は、ほとんどが招待されてもいない連中で、ギャツビーの知っている誰かにその場で紹介してもらったり、ギャツビーに会わずに帰っていったりしました。しかし、「僕」の元には、「今夕の『ささやかなる宴席』にご臨席を賜わることができればまことに欣快に堪えません」という、ていねいな招待状が届いていました。パーティーでは女たちが声を潜めて、ギャツビーのことを、「あの人がオックスフォードに行ったとはとても思えないってこと」「あの人は密造酒の商売をしているのよ」「あの人、誰かを殺したことがあると思うな」「戦争中ドイツのスパイだったって話の方がわかるな」などと噂していましたが、ステージの演目が途切れた時に、同年輩の男に、「あなたの顔に見覚えがあります」と礼儀正しい口調で話し掛けられました。最初、「僕」は気づきませんでしたが、その男が、ギャツビーでした。大戦中、「僕」は第3師団の第9機関銃大隊に所属し、ギャツビーは第7歩兵連隊に所属しており、フランスの同じ戦地で戦っていました。「僕」には、ギャツビーは、ルイジアナの田舎町や、ニューヨークの貧民街出身といわれても受け入れられてしまうような雰囲気を持っており、宮殿のごとき豪邸を買い求める人物には見えませんでした。その夏にギャツビーの屋敷を訪れた人の名前を、「僕」は、時刻表の余白に列記しました。

 7月後半の朝9時、「僕」は、車でやってきたギャツビーから食事に誘われます。ギャツビーの物腰からは、きちとん座る訓練を受けていない人に特有の落ち着きのなさがうかがえ、何度か話をする機会に恵まれの中でギャツビーが話題に乏しいことに気付いており、ギャツビーを、隣地で豪華な宴会をする人としか思わなくなっていました。ただ、「僕」がギャツビーといっしょにニューヨークで食事をしたユダヤ人のウルフシャイムは、1時間ばかり話をしただけでギャツビーがひとかどの家柄の人物だとわかったと評します。ウルフシャイムは、1919年の野球のワールドシリーズで八百長を仕組んだ人物とのことでしたが、ギャツビーは、「僕」へ、中西部のサン・フランシスコの裕福な家に生まれたこと(注釈で、サン・フランシスコは、中西部ではなく、西部とある)、家族が全員死んだため大金が入ったこと、ようやく死ねると思った戦争で機関銃分遣隊を率いていた時、敵軍の中で孤立し、2昼夜踏みとどまって、モンテネグロなどあらゆる同盟国から勲章を授与されたことなどを話します。モンテネグロ国王から送られた勲章と教育を受けたというオックスフォードユニバーシティを形成する学寮の一つ・トリニティカレッジの中庭で写した写真を「僕」へ見せます。そして、ミス・ベイカーを介して、「僕」の家でのお茶会にデイジーを招待し、自分(ギャツビー)も同席させてほしと頼みました。デイジーは1917年、出征兵士を見送るためにニューヨークへ行くところを家族に止められていましたが、その出征兵士がギャツビーでした。ミス・ベイカーは、4年間、ギャツビーを見かけたことはなく、4年後に再会してもあの出征兵士だったとは、ギャツビー本人から打ち明けられるまで、気付いていませんでした。

 デイジーを招待した日は激しい雨になりました。夕刻、「僕」とギャツビーが待つ家に、デイジーがやってきました。

グレート・ギャツビー(村上春樹訳)の読書感想文


 『グレート・ギャツビー』は、まず、冒頭が印象的でした。冒頭を引用します。

「僕がまた年若く、心に傷を負いやすかったころ、父親がひとつの忠告をくれた。その言葉について僕は、ことあるごとに考えをめぐらせてきた」

 冒頭に書かれた情報から、いろいろなことが伝わってきました。主人公が「僕」であること、作品が「僕」を語り手とする一人称であること、作品が「僕」の回想であること、「僕」にとって父親が影響を与えている存在であること(「ことあるごとに」「らせてきた」など)、「僕」は感受性が強く探究者であること、「僕」が立ち止まって深く考える性格であること…などです。「僕」は、いうなれば、どうすれば(How)という将来や現在型の思索をするタイプよりは、なぜ(Why)という遡及するタイプだと思いました。少し読み進めると、時代設定が、「失われた時代」とも呼ばれる第1次世界大戦後であることや、「僕」が、欲求の赴くままに人をからかったり、常に食い物になる誰かを探しているような大衆的な人々を覚めた目で見つめており、若者の告白などしょせんは何か別の抑圧への代替え反応でしかないと斜に構えていたり、人間の良識や品位は生まれながらにして不平等に振り分けられていると、あきらめともとれることを言ったりします。ひと夏の物語は、「僕」がトム・ブキャナン夫妻(夫のトムは、学生時代は全米に名前をとどろかせたフットボール選手ですが広く嫌われていた、妻のデイジーは、「僕」の親戚)と夕食を共にするために家を出ることで始まりますが、「僕」は、大学時代から金遣いが荒く東部に移ってきてから更にド派手な生活をしているトムを、トムは終始ひと所に落ち着くことがなく、そのようにトムが各地を転々とするのは大学時代に経験したフットボールの心躍る波乱万丈の展開のようなものを、心の底で求めているからと推測しています。そして、「二十一歳にして限定された分野で突出した達成を遂げ、そのおかげで、あとは何をやっても今ひとつ尻すぼみという、世間にありがちなタイプの一人だった」とさめた目で、結論付けていました。そして、ギャツビーだけは、一見では、「僕」が絶対に我慢ならないと感じるものをすべて兼ね備えていますが、心の底には、「創造的性格」などと呼ばれる上っ面だけの感受性とは別のものを持っており、「ギャツビーは最後の最後に、彼が人としてまっすぐであったことを僕に示してくれた」と記されています。

「果たされることなく終わった哀しみや、人の短命な至福に対して、僕が一時的にせよこうして心を閉ざすことになったのは、ギャツビーをいいように食い物にしていた連中のせいであり、彼の夢の航路を汚すように浮かんでいた、醜い塵芥のせいなのだ」

 最初の数ページだけ読んで、『グレート・ギャツビー』が、ギャツビーという人物を紹介することを手段として、「僕」が、「僕」の内面の旅を語る物語なのだと思いました。「僕」が何を求めているのかはわかりませんが、冒頭だけで、作品の構造を伝えてしまう筆力に脱帽し、同時に、物語にどんどん引き込まれていきました。トムとデイジーに招かれて過ごした、ゆがんだ人たちとの退屈な時間、そして、夕食から戻って、見上げると、ギャツビーが1人たたずんでいたことなど、何か物語が始まる予感がして、第1章を読み終えて、ページを進む手がとまらなくなりました。

 そのまま、一気に読み終えてしまった『グレート・ギャツビー』でしたが、内容を簡単にいうと、ギャツビーは貧しい家の生まれでしたが、大志を抱いていました。ただ、大志というよりも、毎日何かを決意しながら生きるような、哀しい印象を受けました。その辺りのギャツビーの物語は深くは語られないのですが、ギャツビーは、新しい世界を見つけ、東部に豪邸を買い、成りあがって行きました。そして、ギャツビーの周りには、西部からやってきた人々が集まります。集まる人々は家柄がよく、お金には困らない人々。ギャツビーと、ギャツビーが生まれて初めて知った両家の娘で現在はトムの妻となっているデイジーが再会することで、ドラマが展開します。口にはできない真相と短絡的な怒りや性格が重なり合って、殺人事件にまで発展してしまいます。

 読み終えて一番印象に残ったのは、「僕」が、ギャツビーを、「緑の灯を信じていた。年を追うごとに我々の手からどんどん遠のいていく、陶酔に満ちた未来を」と称えていたことでした。「緑の灯」とは、ギャツビーが購入した邸宅から見える対岸のデイジーの家の明かりなのですが、ただ、昔の恋人を忘れないというラブストーリーとしてだけではなく、突き詰めれば「純真さ」と表現することもできるギャツビーの中にあった心ではないかと思います。

 また、例えばジョーダンを表現する中で、デイジーを引き合いに出している場面もありました。

「この女はデイジーとは違い、ずっと昔に忘れられた夢を、時代が変わってもひきずるような愚かしい真似はするまい」

 この「愚かしい」には、「愚かしい(けど愛しい)」というような反語が隠されているような気がしました。「僕」は、デイジーにも、ギャツビーが殺されたあとのデイジーの態度に納得できなくなるまでは、ギャツビーと同じものを見ていたのではないかと思います。

 「僕」は、ギャツビーを、「もしそうだとしたら、かつての温もりを持った世界が既に失われてしまったことを、彼は悟っていたに違いない。たったひとつの夢を胸に長く生きすぎたおかげで、ずいぶん高い代償を支払わなくてはならなかったと実感していたはずだ」と語っています。ギャツビーが、デイジーから電話はないかもしれないし、なくてもかまわないとギャツビーは思っていたのでは、と「僕」が考える場面の出来事ですが、「たったひとつの夢を胸に長く生きすぎた」ギャツビーへ向けた、「僕」の尊敬にも値する「まなざし」を感じました。

 ギャツビーは、殺されたとたんに、まったく誰からも相手にされなくなりますが、「僕」は、「人はたとえ誰であれ、その人生の末期において誰かから親身な関心を寄せられてしかるべき」と、憤りを感じています。

 『グレート・ギャツビー』は、ギャツビーの恋の物語ではありましたが、数年たってから記憶から消えてしまったギャツビーを思い起こし、また、ギャツビーと同じ時間を過ごしていた当時は何とも思わなかったことが数年後の今では大切に思えてくるような「僕」の内面の旅の物語だと思いました。「僕」の回想をとおして語られるのは、喪失の時代とも呼ばれた世界を生きる「僕」の不安や冷めた心であり、それでもなお、尊厳や、故郷や、人生を真摯に生きることを求める、「僕」の誠実な本能ではないかと思いました。




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