女神/久世光彦のあらすじと読書感想文
■ 解説者の視点
文章について考えてみたいと思います。久世光彦の「女神」という作品を取りあげます。
「女神」は、銀座のホステスの物語です。戦中の混乱と戦後の復興のなかで咲き乱れた一人の女性の回想記です。「女神」は3つの章からなる作品です。物語の基本軸は、自殺するまでの数日間をヒロインが一人称でつづるという形式になります。3日かけて掃除したアパートはきれいに整っています。あとは古道具屋を呼んで余分なものを引き取ってもらうだけです。ヒロインは、十七歳のときにあやしげな倶楽部の地下室に連れて行かれた話や、なつかしい祖母と暮らした故郷の風景を思い浮かべます。確実に死ねる量の薬も買いそろえてあります。ヒロインは、すでに人間社会とそこを駆け抜けてきた自分自身の半生を達観しています。恨みつらみもありますが、すべてを水に流すという境地に至っています。そんなヒロインがひたすら思うのは、子どもだったころに大好きな祖母と過ごした時間でした。もうすぐお墓に入って祖母のかたわらで眠ることができると思うと、ヒロインは自殺することが嬉しくなってきました。ヒロインのそんな心が、東京で出会った人たちや、自分の体を通り過ぎていった男たちの思い出をはさみながら語られます。第1章を読み終えて、物語世界にどんどん引き込まれました。第1章に描かれていたのは、言うなれば、一切の望みを捨てた先にある憂いの国の物語だと思いました。第1章からは、地獄の門をくぐるだけの著者としての覚悟のようなものを感じました。
第2章に入ったとたんに違和感をおぼえました。インデントを下げてヒロインの一人称からは視覚的に隔離された文章がことあるごとに挿入されはじめました。ヒロインの一人称では仮名となっていた人物の実名を紹介したり、ヒロインの思い出を生きる人物が実際にはどうであったのかを説明したり、別の人物の著作から引用してヒロインの客観的な姿を解説したりしていました。「女神」は実在の人物をモデルにした作品ですが、「女神」には、ヒロインの一人称とは別に、客観的な情報収集者としての立場から読者に説明をするという視点がありました。挿入された文章はその視点から書かれていました。例えば、ヒロインが一人称で、オート3輪の助手席に乗って引越しを繰り返した思い出を語ります。そこでふと、ヒロインは自分とは縁のなかった「結婚」というものに思いをはせます。もし結婚するのであれば、何も荷物を持たずに身一つで相手のところに飛び込みたいと思います。前の男の汗が染みた布団を持っていかないのが女のお行儀だと思います。そんな一人称の回想がたっぷりと語られたあとに、例の挿入文が入ります。挿入文はたとえばこういう感じの文章です。
「ほんとうの気持ちはわからないが、睦子には<結婚>して当たり前の女になりたがっていた向きがあったと青山和子は言う。婚約に近いところまでいったことは何度かあった。まずは、昭和6年、京橋の≪ウィンゾア≫を手伝っていたとき、結城こと小林秀雄に結婚を申し込まれたのが最初だった」
このあとにヒロインの男性遍歴が解説されます。「結城」とは「小林秀雄」のことで、「蒲池」とはだれそれのことでと、一から十まで実名で説明してくれます。もちろん死んだ人間の「ほんとうの気持ち」など誰にもわかるはずがありません。ただ、一人称で語るのなら、一人称を貫いてその「ほんとうの気持ち」に著者なりに迫るのが小説であるような気もしないではありません。第2章をしばらく読み進めてから、「女神」は、小説というよりは、ルポルタージュなどの部類に入る作品かもしれないと思いました。第1章を読み終えたときは、ヒロインの一人称で憂いの国の物語がたっぷりと語られると期待したのですが、もちろんそれは、みちまろが一人で勝手にそう決め付けたに過ぎません。第2章にはいってからは気持ちを切り替えて、「女神」は(みちまろ的には)小説作品ではないと割り切って読み進めました。第3章も、第2章と同じ形式で書かれていました。ヒロインの一人称という基本軸は変わることがありませんでしたが、途中で説明や解説が挿入されているので、(読者としては)ヒロインといっしょに物語世界のなかを旅してヒロインといっしょに半生を歩んでくることができませんでした。
「女神」は、どんなジャンルに分類される作品なのだろうと思いました。「小説」ではないと思いました。かといって、「ルポルタージュ」でもありません。なんだかわけがわからなくなりました。そこで視点を変えて、著者は何を描きたかったのだろうかと考えてみました。現実を生きた一人の女性の半生を追いたければ、「女神」のような形式を取るよりは、ルポルタージュを書けばいいような気がします。モデルはモデルとして、それとは別に、物語世界を作りあげたければ、「女神」ような形式を取るよりは、(事実と違うとごちゃごちゃ文句を言われることは甘んじて受ける必要はありますが)、ヒロインの一人称を貫いて著者なりの「ほんとうの気持ち」に迫ればいいような気がします。みちまろがはじめから「女神」は小説であるという先入観を持っていたことが悪いのですが、読み終えて、なんだかきつねにつままれたような気がしました。「女神」はどんな作品と思えばいいのかわからなくなりました。そこで、「女神」に似ているような形式の作品はどんなものがあるだろうかと考えてみました。「そうだ!」と思いました。「テレビ番組に似ているんだ!」と思いました。NHKの特番でもいいし、民放のドキュメンタリー番組でもいいのですが、映像やセリフや音響を利用して物語を提示したあとに、ナレーターや司会者が、これはこうで、あれはああで、この件について有名人はこう言っていて、専門家の間でもこのような解釈に落ち着いているなどと、説明を加える方法と同じだと思いました。
ふだんからあまり「女神」のような形式の本を読んだことがないので、「女神」は物語世界というよりは、内容とは別の次元にある形式や語り方がとても興味深い本でした。たとえば、「花影」という小説の著者を芥川龍之介の「地獄変」の登場人物にたとえると、地獄絵図を描いてしまった絵師になろうかと思います。それがいいことなのかどうかはわかりませんが、「地獄変」の絵師は地獄の門をくぐってしまいました。「女神」の著者は、「地獄変」に登場する横川の僧都かもしれないと思いました。卓越した観察眼と誰からも尊敬される人格と豊かな表現力と確固たる社会的地位を持ち合わせています。そして「憂いの国」から送られてくる作品を社会に語り伝えます。「女神」を読み終えて、そんなことを考えました。
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(2006年10月29日)
