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(16)藤原公教、藤原光頼、藤原顕時

登場人物:藤原公教、藤原光頼、藤原顕時


 鳥羽殿では、故鳥羽法皇の旧臣たちが集まりました。右大臣の藤原公教、宰相藤原光頼、右大弁の藤原顕時以下の人々が嘆きにくれました。

「去る5日の暁に、彗星(ほうきぼし)が東方に出て、いまだ消えてなくならない。(桓武天皇時代に王城鎮護のため東山山上に築かれ、天下に異変があるときは鳴動するという)将軍塚がしきりに鳴動する。占いが示すところによると、天変地異のため深く慎みあるべきとのこと。どのような世の中になってしまうのだろうと心配だ」

「そのうえ、内裏でも、崇徳上皇の御所でも、軍兵を集めており、夜が明けたら合戦になるとうわさされている。どのような世の中になってしまうのだろうと、恐れても恐れたらない」

「崇徳上皇の御所では、左大臣・藤原頼長がまつりごととして公卿・殿上人を集めるさい、『来ない者は皆、死罪にする』と通達すると、誰も召集を逃れることはできないだろう」

「源為朝は、また高松殿に参上し、『火を掛けて攻めるべきだ。後白河天皇が他所へ行幸するようなら、御輿に矢を射るべきです」などと奏上するので、崇徳上皇が心安らかではないといわれていることはなんともけしからん。故鳥羽法皇が崩御して、わずか10日のうちだ。後白河天皇も崇徳上皇も心を一つにして、鳥羽法皇の菩提を弔うことに専念するべきだ。それにもかかわらず、鳥羽法皇の死後、たちまちこのような事態が起ったことの悲しさよ」

「それ、伊勢太神官は、百代までの天皇を鎮護するという。しかし、今、まだ26代の天皇を残し、今の時代に王法が尽きようとしていることは口惜しい」

「しかし、そもそも我が国は神国だ。みもすそ川(伊勢神宮の傍らを流れる五十鈴川の別名)の流れはかたじけなく、74代の御代に渡って日が昇り続けた」

「昔、崇神天皇の時代に、「あまつやしろ」「くにつやしろ」を定め置いてからこの方、神の加護が目覚ましく、そのため、国は豊作長久に恵まれている」

「そのことをかんがみるに、夜の守りも、昼の守りも、どうして怠ってよいことがあるだろう。それだけではない。推古天皇の時代に聖徳太子が世に現れ、物部守屋の邪な心を成敗し、四天王寺を建立し、「勝まん」「法華」の二経を講じてから、仏法が盛んになり国家を守ってきた。また、行基菩薩が世に出て、寺を49か所に建て、国分寺を66か国に分かちました」

「その後、伝教大師が北嶺の近江の地に比叡山延暦寺を開き、山王七社の徳風を天に仰ぎ、日枝神社の7つの社・七社権現の威光を輝かせた。弘法大師は紀伊の国の南山に、仏の身、口、意の3つの働きである三密の法水を四海に注ぎ、春日神社がまつる四座の神を権現とし、それよりこの方、南京の七大寺(東大寺、興福寺、元興寺、大安寺、薬師寺、西大寺、法隆寺)、北京の六勝寺(法勝寺、尊勝寺、円勝寺、最勝寺、成勝寺、延勝寺)、近くは畿内、遠くは七道に至るまで、仏法が繁盛し、神道が盛んなること、昔から現在まで絶えない」

「いはんや、そのうえ、白河法皇、鳥羽法皇の時代に、神祇を敬い、深く仏に帰依したので、日本60余州の国郡の半ばは神領として荘園がたくさん寺社に寄進された。そのため、至るところに、仏が衆生を救うための和光垂迹の居が現れた。東西南北、どこも仏道修行の地となった。かの古代インドの釈迦の時代にあった16の大国をも超え、中国の500の国にもまさっている。神明がわが国を守り、仏はどうして我が国を見捨てようか」

「ましてや、左に青竜、右に白虎、前に朱雀、後ろに玄武を置く四神相応の地として桓武天皇が延暦13年に、長岡京からこの平安京に都を遷してから、嵯峨天皇の時代の弘仁元年9月10日、平城の先帝が乱を起こして世を乱したことはあったが、この平安京は乱れなかった」

「その後、帝王26代、346年の春秋が過ぎた。承平に平将門が、天慶に藤原純友が東西で乱を起こし、天喜に安倍貞任兄弟が謀反を企て、関東8か国を討つと8年まで責め、あるいは、奥州を支配すると12年まで反乱を起こしましたが、それらは皆、辺境の地での出来事。誰がこの平安京をたやすく滅ぼすことができよう」

「南には八幡大菩薩の石清水八幡宮が男山に現れている。北では賀茂大明神が本誓を守っている。鬼門には、日吉神社。大内山近くにはまた、北野天満宮が顕れている。その他、松尾神社、平野神社、稲荷神社、(東山区祇園町の)八坂神社に至るまで、神前に供物を備えることを怠らず、神域の地が顕れている。例え、逆臣が悪をたくらむといえども、どうして、霊神の助けがなかろうか」

 集まった旧臣たちは、そのように告げ、頼もしく思っていました。

2012年7月22日

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