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(15)源為朝の夜討ちの進言、藤原頼長の評定

登場人物:崇徳上皇、藤原頼長、源為義、源為朝


 崇徳上皇方の武士が集まった御所・白河北殿では、源為義の推薦を受けた、為義の子・源為朝が呼ばれました。為朝は、為義が立っていた場所に替わりに姿を見せ、畏まりました。為朝の姿は、まさに辺りを興奮させるものでした。崇徳上皇は母屋の御簾をかき分けて覗き込み、その勇士に、ほくそ笑みました。大床にいた左大臣・藤原頼長は、わずかに目を向け、「まことに、勇ましい兵たちだ。一人当千とはまさにこのことをいうのだ」と、感心しました。「為朝よ。合戦の次第をどう計っているか、申してみよ」と告げました。

 為朝は畏まって告げました。

「為朝は幼少より鎮西(九州)に住み、合戦に臨むこと、これまで、20にも、30にもおよびます。ある時は敵を追い落とし、敵に襲われたこともあります。しかしながら、毎回、勝利を呼ぶ先例を考えると、夜討ちしかありません」

「空が明ける前に、内裏である高松殿に押し寄せて、3方から火をかけ、一方から攻めるのです。そうすれば、火を逃れようとする者は矢を逃れることができず、矢を逃れる者は火に襲われます」

「我が舎兄の源義朝だけは、手強く抵抗するはず。義朝は、為朝が正面を承り、射落としてごらんにいれます。そして、他の兵たちに太刀を抜かせて内裏へ攻め込ませ、遠くの敵は進み出て切り落とし、なぎ落とし、はらい落とし、近づいてくる者はかいつかんで張り倒し、太刀を振りおろして斬りつけ、斬っては捨て、あるいは、首をねじり折り、馬にのって駆け巡れば、厄病神はわかりませんが、真っ向から戦ってくる者はおりません。まして、平清盛のへろへろ矢など、ものの数には及びません」

「そうすれば、定めて、後白河天皇は他所へ行幸するために出発するはず。後白河天皇の御車に矢を放つのです。それは、為朝が放つ矢ではありません。天照大神、正八幡宮がお放ちになる御矢なのです。輿の担ぎ手は恐れをなして、御輿を棄てて逃げ出すでしょう。その時、後白河天皇の御輿を奪い、この御所へ運ぶのです。時刻を計るべきではありません」

 為朝は、ものおじすることなく、そう言い放ちました。

 しかし、藤原頼長は告げました。

「その儀はならない。配慮に欠ける。夜討ちなどというものは、10騎、20騎の私闘で行われること。いやしくも、天皇と上皇の国争いに、夜討ちなどあってはならない」

「そのうえ、今度の戦いには、源平両家の武士たちが、家じゅうこぞって両陣営に分かれている。故事の先例に基づき、互いに作戦をたてるべきだ。用意をおろそかにしては、陣営はなりたたない」

「およそ、合戦というものは、はかりごとを持って本とし、勢いをもって先とする。しかしながら、今、院に集まった兵たちは、少ない。すぐに出発することは、するべきではない」

「そのうえ、南都・奈良興福寺の大衆の信実・玄実以下、芳野十津川のさし矢三町、遠矢八町の者たち1000騎余りが、今夜、富家殿(藤原忠実)の屋敷に到着する。明日、卯辰のころには、この御所に来るだろう」

「なので、興福寺の大衆1000騎を伴って、整然と出陣し、合戦すべきだ。ものさわがしく謀っても、必ず後悔する。明日、院の公卿・殿上人を集め、評定を行う。もし、参陣しない者がいたら、すみやかに召し取り死罪にする。首を両3人ほどはねれば、どうして、参陣しない者が出るだろう」

「なので、夜の間は、この御所をよく固め、南都の大衆を待つべし」

 頼長はそう告げました。が、為朝は承知せず、身を乗り出しました。

「信実、玄実を待つというのは、勢力を集結させようということか。勝負を決するためには、時間を無駄にするべきではない。義朝は、まことに合戦に通じた者なのに。しかし、その義朝でも、他人に先手を打たれるとは、まさか思うまい。夜討ちを計画しているはずだ。明日まで待つなどと、そこまで、さし矢三町が大切なのか。『いさかい果ててのちぎりき』(=時機を逸して役に立たないこと)だ。ああ、いくさは、節会や除目などの行事とは違うのに。いくさの作戦は、ただ、義朝に任せて下さればよいものを。口惜しきかな。ただ今にも、敵に襲われて、お味方の兵たちが慌てふためくことよ」

 為朝は、高らかにそうののしり、退出していきました。

 この源為朝という男を、父の源為義が、息子が何人もいる中で推薦した理由は、武勇の道に抜群に通じていたからでした。この為朝という者は、幼少のころから、もってのほかの暴れ者でした。兄たちをもことにせず、我一人が世にいるのだとふるまうので、為義もあきれ、やつを都に置いていては必ず問題を起こすに違いないと、鎮西(九州)に追い出しました。

 為朝は13歳のころから豊後の国に住み、阿蘇の四郎・平忠景の婿になりました。為朝は九州を支配しようとしましたが、誰が容易に従うでしょう。菊池や、原田という豪族をはじめとして、各地で城郭を構え、国々に引きこもりました。すると、為朝は水を得た魚のように、城を落とし、敵を従え、たぐいまれなる働きを示し、あちこちを責め、3年の間に、残らず九州を従え、朝廷から任じられたわけではありませんが、「九国の惣追捕使」と号し、九州で横暴にふるまいました。しかし、狼藉がすぎましたので、九州の者たちがみなで、朝廷に訴えました。為朝に、あるいは、為朝の父・為義に参上するよう命令が下りましたが、どちらも従わず、そのため、為義は処罰を受け、検非違使の職を解かれました。

 父の処罰を聞いた為朝は、「これはどういうことだ。何を思ったのか、為朝こそ、死罪・流罪にもするべきものを。罪もない為義殿が罪を被ったことは捨て置けない。参上して、陳述しよう」と、突然、上洛しようとしました。九州の者たちは、大勢が供を申し出ましたが、「わが身のとがを陳述しようとする者が大勢を引き連れていては、九州から大勢を連れてきた為朝は謀反を起こそうとしているに違いないと讒言され、どうにもならない。志のある者は、追って、上洛せよ」と言い残し、単身、都へ上りました。しかし、為朝に景のように従う兵たちは、めのと子の矢崎、はらいの首藤九郎、山法師だったが還俗した、あきまかずへの悪七別当、討手の正八、手捕の与二・与三郎、高間の三郎・四郎、とめ矢の源太・佐中次、三町礫(つぶて)の喜平次大夫、大矢の新三郎、かなこぶしの八平次などをはじめとし、一人当千の兵17騎。勢力は50騎を超えていました。

2012年6月27日

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