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(10)源為義

登場人物:源為義、源義朝、藤原教長、崇徳上皇、源義憲、源頼賢、源頼仲、源為宗、源為成、源為朝、源為仲、藤原家長


 崇徳上皇方は、その夜、六条の判官・源為義を呼びました。為義には、後白河天皇の内裏からも声掛けがありました。そのため、為義はどちらにも参上せずに、世間の様子をうかがいながら、屋敷に籠っていました。

 為義は、常日頃は、崇徳上皇方へつくと返事をしていたのですが、今度はどう思ったのでしょうか、崇徳上皇方へ参上しないような返事をしました。そのため、崇徳上皇方から藤原教長が為義のもとへ来ました。

 為義は、あいさつをしてから、教長に告げました。

「為義はいやしくも弓矢の家に生まれ、先祖代々の跡目を継ぎ、朝家の固めとして召し使われるといえども、まさに手をおろして合戦したことはいまだ一度もありません」

「先年、叔父で、源頼義の次男で義家の弟の源義綱が朝敵となり、近江の国の甲賀の山にたてこもった際、宣旨を受けたわまり追討へ向かうと、義綱の子息・郎党らはみな自害しました」

「義綱を生け捕りにすると、奈良法師が一万人の大軍で比叡山延暦寺を攻めるというとき、再び、勅命を受け、くりこ山から追い返しました。合戦は、その2度だけです。その他に、国々の狼藉を、郎党や、若者たちに鎮圧させたことは何回もありますが、数えるに足りません」

「嫡子の義朝こそ、関東育ちで、武勇の道に長じています。義朝は、故鳥羽法皇の遺訓なので、内裏へ参りました。義朝の外にも子はたくさんいますが、一方の大将軍を任せられる器の者はいません。はるかの末子の為朝こそ、鎮西(九州)育ちで、弓矢を取ってもおそらく父祖を超え、打ちものを取っても達者。合戦の道もよく心得ています。為朝を参上させましょう」

 為義が告げると、教長が答えました。

「明言されたい。ただし、子息の義朝殿が内裏方へ参上したゆえではない。貴殿が院へ伺候することに何の苦しみがあるというのか。このたびはみな、親は親、子は子。例え、子息・為朝殿を参上させるといっても、親子共々が連れ立って参上してこそ忠誠を尽くすことになるというもの。それなのに、為義殿はとどまり、子息だけを参上させるのは、いかがというのだ」

 教長が告げると、今度は、為義が重ねて告げました。

「およそ、残念に思うことは、為義は先年、鎮守府将軍の宣旨を望みましたが、許されませんでした。祖父の頼義の例に習い、伊予の国を所望したさいも、地下の検非違使から伊予の国司になった例はないと、許されませんでした。父・義家の任国だった陸奥の守を所望しても、陸奥の守はお前の家には不吉だと、許されませんでした。そのため、為義は白髪頭になり、それでも、最後の目標はとげたいと思います」

「内裏へも、院へも、どちらへも奉公すべきですが、このたび、あまりに心が重くなる夢をみました。先祖代々に伝わる薄金、膝丸、月数、日数、楯無、おもだか、七竜、八竜などという鎧たちが風に吹かれて四散する夢でした。そのため、心重くなり、どちらへも参上しなでいることにしました」

 為義が告げると、教長が言いました。

「それは聞き届けるわけにはゆかない。そのように所望するなら、今度、忠節を尽くすべきです。貴殿の父祖は、東国の賊・安倍貞任、宗任を攻め、また、清原武衡、家衡を追討してこそ、昇殿を許され、頼義、義家2代にわたり、将軍の宣旨が下されたのです。いわんや、今度の天皇と上皇の国をかけた争いに参加し忠節を尽くせば、たとえ公卿、大臣の位にのぼることでも難しかろうか」

「まして、今いわれた望みは簡単なことではない。いやしくも、天下の乱れを鎮圧した家の者が、これ程の大事をよそ見するなど、してはなりません。また、そもそも、貴殿ほどの大将軍が夢などと言うことこそ、恐ろしい。そんな夢の話を崇徳上皇に伝えるわけにはいきません。どうあっても、院宣の返事をいただいて、崇徳上皇に奏上します」

 教長が、そのようにさまざまに言い聞かせましたので、為義は力尽きて、院宣を承諾しました。為義は、三郎先生・源義憲、左衛門の尉・源頼賢、掃部(かもん)の助・源頼仲、六郎・源為宗、七郎・源為成、八郎・源為朝、九郎・源為仲の7人の子と、7人の子息を連れて、崇徳上皇の院の御所へ参上しました。

 源為義の参陣に、院の御所では、身分の高い者も低い者も、みな力を得たように見えました。崇徳上皇は感激のあまり、近江の国の「伊庭(いば)の庄」と、美濃の国の「青柳の庄」を為義へ与えました。その上、為義は、上北面に、能登の守の藤原家長によって、任命されました。

前へ(崇徳上皇の白河殿への御幸)

次へ(藤原頼長と信西)

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