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(7)平基盛・源親治

登場人物:信西、平基盛、源季実、平惟繁、平資経、宗助繁、平実俊、藤原忠通、藤原伊通、中御門宗能、源親治、伊藤、斎藤、後白河天皇、藤原公親


 鳥羽法皇が崩御した保元元年(1156年)7月2日から都に集まってきた兵たちは、道理もわきまえずに狼藉をはたらいていると言われました。そのため、5日、少納言入道・信西が宣旨を賜り、検非違使を召して、関所を固めるよう命じました。そして、宇治路には安芸の判官・平基盛(清盛次男)を、淀路には周防の判官・源季実を、山崎には隠岐の判官・平惟繁を、大江山には新判官・平資経を、粟田口には判官・宗助繁を、くらま路には判官・平実俊を、それぞれ宣旨をもって、固めるよう、関所の警護に向かわせました。

 信西は、「崇徳上皇の御所へ向かおうとする者がいれば、すぐに召し取れ。もし、言う事を聞かなければ、ただちに誅罰せよ」と命じました。検非違使らは命令を受け、畏まって御前を退出し、出発しました。

 その日の夕方、関白・藤原忠通と、大宮の大納言・藤原伊通(これみち)が内裏に参上して、議定しました。鳥羽殿にいた春宮の大夫・中御門宗能は、召集がかかりましたが、参内しませんでした。

 6日、官位を得た武士らが、各々の軍勢を率いて、それぞれの守りにつくために出発しました。平清盛次男の平基盛は、300騎余りを率いて、宇治橋警護のため、大和路を南へ進みました。

 平基盛は、法性寺の一の橋辺りの場所で、大和の国の方からと見える、鎧甲の兵30騎ほどと、正面から行き合いました。300騎を一面に並べた基盛は、少し前へ進み、中心に位置しました。そのときの基盛は、白青の狩衣に黒糸で威した鎧を身に着け、黒馬に鞍を置いてまたがっていました。弓を持ち直し、馬を進めて告げました。

「誰が、どこから、どこへ向かうものか。近日、謀反のうわさがあり、おびただしい軍兵が都へ入っている。都中が大騒ぎだ。そのため、命令を受け、宇治橋を守護するため、向かっている」

「何家の誰と思っているだろう。我こそは、桓武天皇12代の末えい、平将門の8代の末えい、刑部の卿・平忠盛の孫、安芸の守・平清盛の次男、安芸の判官・基盛である。子細を受けたわまり、お通しする」

 基盛が告げると、上洛する兵の中の主と思える、面構えの誠にいかめしい大男が1騎、進み出てきました。その男は、かちんの直垂に、小桜を黄色に彩った鎧を着て、黒い羽ではいだ矢を24本差した箙(えびら)を高らかに背負い、竹の節ごとに藤を巻いた、にぎるところの太い弓を持ち、黄川原毛の太くたくましい馬に銀色に縁取った鞍を置いていました。男は、馬のあぶみで足をふんばり立ちあがって、高らかに、答えました。

「宣旨(天皇の命令)を受けた御名と、御祖先の系図はつぶさに承った。また、都へ向かう我らを何者と思っているだろう。我こそは、清和天皇から10代の末えい、六孫王の末えい、摂津の守・頼光の弟、大和の守・頼親の5代、中務の丞・頼治の孫、下野の守・親弘の嫡子、大和の国の住人、宇治の七郎・源親治と申す者」

 平基盛は、「御名は承った。後白河天皇の宣旨によって上洛するのか、崇徳上皇の院宣に従うのか、お聞かせ願いたい」と続けました。

 源親治は何を思ったのでしょう、矢を入れた箙(えびら)をしきりに背負い直し、甲の緒を締めました。矢を射る時に敵へ向ける左肩の鎧を前へ出し、甲を深くかぶり、しばらく、「後白河天皇の内裏へ従い上洛すると答え、ここを無事に通るか。それとも、はっきりと崇徳上皇のもとへ参るよしを告げ、思い切って討ち死にするか。いかが答えるべきだろう」と思案しました。源親治は、「そもとも弓矢を取る者は、少しでも偽りがあれば、後代の武名に傷がつく」と思い、答えました。

「さるころ、左大臣・藤原頼長殿から参上するように要請され、了解した。そのため、崇徳上皇のもとへ参る」

 平基盛は、敵と定め、「甲の緒を締めよ」と、馬を立て直しました。そして、告げました。

「そのようなことを言うな。早く帰りたまえ。ああ、報われないことだ。願わくは、同じ一天の君の宣旨にこそ従いたまえ。隠居の崇徳上皇の院宣に従うことなかれ。王の国に住みながら、どうして、朝敵となるのか。すみやかに、何の問題もない体で、内裏へ参られよ。もしくは、基盛といっしょに宇治橋を守れ。どちらかを行えば、事の次第も穏便に済まされるのでは」

 源親治はあざ笑い、答えました。

「それこそ、安芸の判官の言葉とは思えない。弓矢を取る者が一度口にしたことを変えることはない、院宣に従う親治が、宣旨だからといっていまさら翻そうか。源氏の家に生まれ、2人の主を持つものか。貴殿の教訓には従えない。我が高祖・大和の守の源頼親からこの方、奥の郡にとどまってから未だ武略の名を落としていない。駆けよや、駆けよ、若者ども。命を惜しむな。名を惜しめ。敵の真ん中をかき分けて、通せや、通せ」

 源親治が命じると、30騎は、馬の轡(くつわ)を並べて、わめきながら突撃しました。

 平基盛も、「それなら、1騎も逃すな、もらすな。討ち取れや、討ち取れ、組み取れ」と、敵を囲みました。

 源親治方は決死の覚悟なので、縦、横、斜めに散々に駆け巡り、平家の陣を破りました。平家の大軍が追いかけてくると、源氏は踵を返し、打ち掛かり、2時間ばかり、駆けまわりながら戦いました。源親治の郎党は10余騎が討ち取られました。基盛の兵も、たちまち、8騎が撃たれ、手傷を負った者ははかりしれません。基盛も、危ない目に遭い、進退が極まりました。

 そうしているうちに、一の橋に朝敵が現れたと伝えられ、後白河天皇の内裏に馳せ参じた兵どもが、我も我もと駆け付け、すぐに1000騎ほどになりました。

 基盛は、高い所に上り、「敵はわずかの小勢。味方は大勢。首を取っては無念だ。生捕りが、もっとも大切だ。馬をおし並べ、並べ、組めや、者ども。組めや、組め」と命じました。

 伊賀・伊勢の伊藤・斎藤をはじめとし、我劣るまいと、駆け回りました。1騎が組むと7、8騎馬、10騎と合流し、敵に刀を抜かせず、腹をも切らせず、源氏の武者は心はたくましくとも、親治をはじめとして、郎党12人が、故事に「王事もろき事なければ」といわれたように、おめおめと生け捕りにされました。無慚なことです。

 基盛は、よき敵をからめ捕ったと勇み、晩に、内裏へ帰還しました。基盛は、たいへん晴れ晴れしく見えました。12人の敵はすぐに、陣を通され、後白河天皇の前に出されました。子細を尋問された後、みな禁獄されました。

 後白河天皇はたいへん感心し、夜になってから、左大臣藤原実能の子で、頭の中将の藤原公親に命じ、臨時の除目を行い、基盛を「正五位の下」に叙しました。除目の叙位任官の理由を記した文書には、「親治以下の朝敵追討の賞なり」とありました。時に際して、最高の栄誉と思われました。崇徳上皇はそのことをかえり聞き、捨て置けないと思われました。

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