(6)藤原頼長
登場人物:藤原忠通、藤原頼長、崇徳上皇、後白河天皇、平清盛、平忠正、源義朝、源為義
ただ、この左大臣・藤原頼長は、天下を治める器ではなかったということはありませんでした。我が国と中国の礼儀に通じ、万事の出来事に通じていました。何事にも、事の意味の深い浅いを考え、諸事に浮き沈みをはかり、何事につけても公平で私情を挟むことをしませんでした。まつりごとを執り行う臣下として、古今に恥じる人物ではありませんでした。
そして、頼長は、兄の関白・藤原忠通が、筆跡が美しく、和漢の歌に通じていることをそねんだと思われ、「詩歌は閉所での遊びごとである。ましてや、朝議の要ではない。筆跡が美しくてもそれは一時の興。賢い臣下は必ずしも、筆跡の美しさだけを優先されるわけではない」と告げました。そして、自分はもっぱら、儒教で尊んだ五経書(易経、書経、詩経、春秋、礼記)を学び、仁義礼智信に務め、節会や除目や官奏などでたまたまあやまちを犯しても、すぐに怠状(謝罪状)をしたため、蔵人や文書処理の役人に出しました。役人らが恐縮して受け取らなければ、「左大臣の怠状を受け取り、天下に伝えることは、家の面目であるぞ。さあ、受け取りなさい。ことさら、そうすべきだ」と言い聞かせました。なので、役人も怠状を受理しました。また、身分の低い舎人や、牛飼いであっても、気に障ることがあったら、正否を細かくただし、それらの者にとががないときは、自ら悔い改めました。まことに、理論が明快で、善悪をはっきりさせます。万事につけ、鋭い才能をみせたので、人々は、「悪左のおとど」と呼びました。
このように、兄弟が背を向けあっていましたので、伺候する相手も違いました。関白・忠通はもともとそうだったので内裏の後白河天皇に伺候しました。左大臣・頼長は、忠通に背を向けて、「仙洞」と呼ばれた崇徳上皇の御所に伺候しました。
また、藤原頼長が、「今の世を案ずるに、後白河天皇の世である限り、関白がいるにもかかわらず、摂政が宣旨をもってまつりごとを執り行うわけにはゆかない。すべからく、崇徳上皇の御代となし、関白・忠通を押し込め、まつりごとを我が意のままに執り行いたい」と考えるようになったことは、恐ろしいことです。
頼長のその願いを崇徳上皇が内々に聞き知り、壺に入り、有る時、ねんごろに持ちかけました。
「それ天智天皇は舒明天皇の第1皇子なり。孝徳天皇の皇子はたくさんいたが、孝徳天皇の皇子たちは臣下に連なった。仁明天皇は嵯峨天皇の血を引く。仁明天皇は、淳和天皇の孫たちを差し置き、天皇の位に就いた」
「わが身に徳行はないが、先の帝の第1皇子として生まれ、天下の人々に従われる身となった。前世に十善の善徳を行ったご加護があり、天皇になった。それなのに、鳥羽法皇の一時の寵愛によって、累代の正統であるわが身が差し置かれ、不当な禍に襲われ、親子ともども落ちぶれることとなった」
「先帝・鳥羽法皇が存命の間は、悲しみ深しといえども、祈る場所さえなく、むなしく歳月を過ごした。鳥羽法皇が崩じたこの期にいたり、心の悲しみを抑えることができない。斉明天皇・称徳天皇の先例に従い、再び天皇の位に就くか、もしくは、第1皇子の重仁親王を天皇とし、天皇の父の上皇としてまつりごとを行うか。今このときに至り、天皇の位を得るために争いごとを起こすのは、どうして、神慮に背き、人望にも反することがあろうか。どう思う」
崇徳上皇が、そう謀反をもちかけると、藤原頼長はもとから本意でしたので、答えました。
「故事に『天のあたふるをとらざれば、かえってそのとがめをえ、時の至るを行はざれば、かえってそのわざはいをう』といいます。鳥羽法皇の崩御をもって、時が来たことがわかります。今この時に何もしなければ、ほかにいつ行うというのでしょう。争いごとを起こすべきです」
頼長がそういう以上は、子細におよびませんでした。崇徳上皇は、すぐに謀反の心を固めました。
崇徳上皇が謀反の心を固めてから、後白河天皇方と、崇徳上皇方に伺候する源平の兵(つわもの)たちは、ある者は、父親の命令に背き、別の者は兄弟のよしみを忘れ、それぞれの心に従い別れ別れになりました。父子、叔父・甥、親類、郎党に至るまで皆、敵味方に別れました。およそ、日本国がおおむね2つの陣営に引き裂かれました。
都では身分の高い者も、低い者もささやきあいました。
「今はもう世も終わりだ。死んでしまったほうがよい。新院・崇徳上皇は兄、内裏の後白河天皇は弟。関白・忠通殿は兄、左大臣・頼長殿は弟。内裏の大将軍には、下野の守・源義朝と、安芸の守・平清盛。崇徳上皇方の大将軍には、義朝の父である六条の判官・源為義、清盛の叔父である右馬の助・平忠正。朝廷でも、武士でも、どちらかが勝り、一方が劣るということはない。しかし、合戦の習いなれば、必ずどちらかは負け、どちらが負けるのかは始まってみなければわからない。ただ、果報の浅い深い、運命の厚い薄いに頼しかない」
崇徳上皇がそのときいたのは、鳥羽殿(鳥羽離宮)内の御所「田中殿」でした。鳥羽殿は、鳥羽法皇が崩御した場所で、四十九日の間でしたので崇徳上皇は田中殿にいたのですが、謀反の心を固めてからは、場所が悪いためと、京へ入るとうわさされました。
そのような状況でしたので、何か沙汰があったわけではありませんが、道も、関も騒ぎになりました。都中の家々の門は閉じられ、家財道具を東西南北へ運び出して隠し、身分の高い者も、低い者も、たいへんな騒ぎとなりました。天皇と上皇のお心を凡下の者が詮索すべきでないとはいいながら、鳥羽法皇崩御のわずか7日後のこと。これはどんなことが起こるのかと、深い不安に襲われました。大空の上には星がそれぞれあるべき場所で光り、蒼海では波がおだやかにたっていたのに、世はたちまち乱れたことこそ悲しいと、万人が嘆き合いました。
