(5)崇徳上皇・藤原忠通
登場人物:藤原頼長、源義朝、光員、崇徳上皇、藤原忠通
鳥羽法皇崩御の後、左大臣・藤原頼長の居所である「東三条殿」には、崇徳上皇方の兵(つわもの)たちが、夜は集まって謀反を詮議し、昼は木の影や山の上から「東三条殿」のすぐ南にあった後白河天皇の仮の御所である「高松殿」をうかがっているといううわさが流れました。そのため、鳥羽法皇が崩御した翌日となる保元元年(1156年)7月3日、下野の守・源義朝に命じて、少監物(中務省に属し、大蔵省、内蔵寮の出納をつかさどる役職)の光員(みつかず)以下の兵士3人をからめ捕らせました。昨日、鳥羽法皇が崩御したばかりなのに、今日にはこのようなことが起こるとはどのようなことになるのだと、万人が不安になりました。都中で謀反のうわさがささやかれ、東西南北から、武具を馬や車に隠しながら積み込んだ軍兵が続々と都へ入ってきました。ほかにも、平穏が危ぶまれることばかりが多く続きました。
新院・崇徳上皇は親しい者にこぼしていました。
「そもそも、帝位を継ぎ、天皇の位に就くことは、必ずしも嫡流でなければならないというわけではないが、一方では、器量、才能の有る無しに従い、また一方では、外戚(母方の親族)の身分の高い低いに従うべきだ。それなのに、鳥羽法皇は、現在の后が産んだ子が愛しく、私は、遥かの末弟である近衛の院に天皇の位を奪われた。誰に対しても面目が立たず、ことあるごとに恥辱を受けてきた。しかしながら、先帝・近衛の院は、頼りなくも若年にして崩じた。これはすでに、明らかに、天が、近衛天皇の即位を受け入れなかったことを示している。従って、ときにいたり、嫡流の重仁親王(崇徳上皇の第1皇子)が皇位に就くことがまっとうだ。また、重仁親王も皇位に就くにふさわしい人物。それなのに、あまつさえ、まともな人物であるところが一つもない四の宮(雅仁親王=後白河天皇)に、頭を超えて、皇位を奪われた。遺恨の至り。恨みを晴らすすべを知らない。どうしたものか」
後白河天皇と崇徳上皇の仲はこのように非常に悪かった。また、臣下同士の仲も同様でした。
というのは、今の関白の藤原忠通という人は、後に法性寺の大殿とも呼ばれた人物で、藤原忠実の嫡男。また、宇治の左大臣・藤原頼長という人は、同じく忠実の子で次男。関白・忠通の弟です。また、忠通・頼長兄弟の間には親子の契りがあり、ことのほか、礼儀正しくありました。
しかし、その2人の契りがたちまち反故になりました。そのわけは、この藤原頼長という人が公達の中でことのほか寵愛を受け、去る久安元年(1145年)正月10日に、関白の忠通をさしおき藤原摂関家の「氏の長者」となり、政治全般を内見し、政務を代行する「内覧」の宣旨を受け、天下の大小事を執り行ったからです。およそ、摂政関白のほかに、政治上の実権を持つ臣下が存在することは、ほとんどないと言われました。
このように頼長が実権を掌握しましたので、関白・忠通は、知録を得るだけの名ばかりの存在となり、天下の政治からはじき出され、政治を他人事として見ざるをえませんでした。
藤原忠通は憤りました。
「先祖藤原良房公からこのかた、摂政が内覧、氏の長者になった例はない。それなのに、忠通が政(まつりごと)を執り行っているときに、両職とも、左府・頼長に奪われた。それは面目を一時的に失うだけでなく、後代にも恥を残す。口惜しい。そうはいうが、頼長が政務を執り行っているかぎり、政を正しき道に戻すには、忠通が関白を辞して頼長を関白にするか、頼長が内覧と氏の長者を辞し、忠通を内覧と氏の長者にするかのどちらかだ。どちらにするか、天皇の裁定を仰ぎたい」
藤原忠通はこのようにしきりに後白河天皇に訴えました。後白河天皇も、忠通の訴えはもっともとしました。しかし、忠実から何の働きかけもありませんでしたので、忠通は力及びませんでした。
