HOME

(1)近衛天皇

登場人物:白河法皇、堀川天皇、鳥羽院、崇徳上皇、近衛天皇、美福門院・藤原得子、待賢門院・藤原璋子(たまこ)


 平安末期の政変「保元の乱」(1156年)。鳥羽法皇の崩御により、王家や藤原摂関家、武家に潜在していた対立が表面化し、後白河天皇方と崇徳上皇方に分かれて武力衝突に発展しました。その「保元の乱」を描いた「保元物語」は、作者や制作過程などは謎のままですが、「名古屋市合蓬左文庫蔵・保元物語<平がな本>翻刻上下(近藤政美−愛知県立大学『説林』第37号・第38号)をもとに作成された『保元物語』(編者:近藤政美、伊藤一重、濱千代いづみ/武蔵野書院)を現代語訳してみたいと思います。

  ***

 あまり遠くない昔、帝王がいました。御名を、仏門に入り専心修行された鳥羽の法皇といいます。天照大神46世の末えい、神武天皇から74代にあたりる帝。第73代の堀川天皇(在位1086-1107)の第一皇子で、母は皇太后の称号が贈られた藤原一門の閉院の大納言・藤原実李(さねすえ)の娘。康和5年(1103年)正月16日に生まれ、同年8月17日に皇太子に立ちました。嘉承2年(1107年)7月9日、堀川院が崩御。同月19日、5歳にして天皇に即位。天皇在位16年の間、国中が鎮まり、天下がおだやかになりました。雨風も、季節も、自然の摂理に従いました。

 鳥羽天皇が21歳の保安4年(1123年)正月28日、天皇の位を第一皇子に譲り、崇徳天皇が即位しました。崇徳天皇は、崇徳上皇として保元の乱を戦い破れて配流されたのちは讃岐の院と言われた人物です。大治4年(1129年)7月7日に、鳥羽院の父である白河法皇が崩御。その後、鳥羽院が、院政で、天下を治めました。忠のある者に恩賞を与え、聖代の聖君の先例に従いました。また、罪あるものをも悔い改めさせて、仏の広大な慈悲にも違いませんでした。国は富み、民は安心して暮らしました。君主の広大な恵みが温かく国を照らし、国土が豊かになりました。仁徳による恵みを受け、人々はあますところなく、豊かになりました。

 その後、保延5年(1139年)5月8日、鳥羽院の后の美福門院(びふくもんいん)・藤原得子(なりこ)に皇子(近衛天皇)が誕生。同年、8月17日、春宮(皇太子)に立ちました。永治元年(1141年)12月7日、3歳にて近衛天皇として即位。近衛天皇の即位後は、先の天皇(崇徳天皇)を「新院」と、鳥羽上皇を「一院」と呼びました。そして、崇徳天皇の退位と、近衛天皇の即位のため、鳥羽上皇と崇徳上皇が不仲になりました。崇徳上皇はさしたる落ち度がなかったのに、退位させられたのでした。ひとえに、現在の后である得子への鳥羽法皇の寵愛のためでした。

 同年7月10日、鳥羽上皇は、京都市伏見区下鳥羽にあった離宮・鳥羽殿で、髪の毛を剃り、仏門に入りました。御年39歳。年齢もまだ若く、お体も健康でしたが、前世でなした善行を内に持っているので、その縁が表に表れ、仏の恩に報いる真実の道に入りました。

 そのようにして年月が流れるうちに、久寿2年(1155年)の春のころから、近衛天皇が病気になりました。そのため、仏教、仏教以外の祈祷がさまざまになされました。しかし、回復の兆しが表れません。禁中でも、人々の住み暮らす世界でも、何の沙汰もでないまま、8月15日になりました。その日は、毎年8月に諸国から献上された馬を天皇がご覧になる儀式「駒引き」ということで、内裏の厩を司る左馬の寮の使者が、国々の牧で育った馬を受け取ります。役人が、近江と山城の国境にある逢坂の関に出向いて、馬を受け取ります。その駒引きの儀式は、毎年替わることはありませんでしたが、今年は、帝が病気なので、中止になりました。京都男山の石清水八幡宮の、捕らえた生き物を放す法会「放生会」は、恒例で大切な神事なので、型どおりに行われました。

 内裏では、南殿の御簾も上げられず、詩人や楽を奏する人たちの参上もありませんでした。すべてのものが冷え切ったように映りました。そのような状態でしたが、おりしも、近衛天皇の病状がやや回復しました。夜が更けてから、御簾を、2、3間ばかり上げられました。近衛天皇が内裏の月を眺めたら、名をも得た、また、和漢朗詠集に詠われた十五夜の夕べで、折しも空は澄みきっていました。「秦でんの一千里凛々として氷とけり漢家の三十六宮澄々として粉紛れり」と詠われた中国の長安の周囲千里に広がる風景や、漢代以来の三十六の宮殿などを思い出したのか、このまま見過ごしたくないと思われ、その場に居合わせた公卿と殿上人の中から心得のある人々を選び、臨時の歌会が催されました。詩文を献じ、楽を奏しました。

 詠われた歌はどれも、めでたいものばかりでした。しかし、その中に一首、今わの道をすでに覚悟されていたのでしょうか、かたじけなくもあわれに思われました。

  虫の音の よわるのみかは すぐる秋を

    をしむ我がみぞまづ消えぬべき

 居並んだ人々はこの歌を拝聴しました。ある者は感じ入り、別の者は惜しみました。そんなことがあり、明けて16日、病気が重くなり、急な退位もあるといわれましたが、その夜の戌の刻ほどに、崩御しました。

次へ(後白河天皇)

トップページに戻る