平宗盛(人物像)


 『平家物語』を読んでいて、平宗盛という人物が気になり、気が付いたことを書いた2回目です。

 早世した子ども等を抜かすと、平宗盛は、平清盛の次男です。平清盛の存命中に、清盛嫡子(宗盛の兄)の平重盛が病死しました。清盛が熱病で他界したのちは、宗盛が平家の棟梁として、一門をまとめました。

 平家物語は歴史資料ではなく、物語(エンターテインメント)であり、人物ごとに、これは悪い者、これはいい者と、キャラクターを設定してしまう傾向があるように感じます。「清盛=悪者」というのが一番わかりやすい例ですが、宗盛=小物という先入観もあるような気がします。実際にどうだったのかを知るには、一次資料にあたる必要があるのですが、今回は、「平家物語」から見えてきた宗盛について考えてみたいと思います。

 「平家物語」の後半から終盤にかけては最重要人物の一人として活躍する宗盛ですが、指導者や武士としての資質をさておくと、けっこう、いいやつだったのではないかと思いました。

 壇の浦の戦いでは、宗盛が大将軍で、血気盛んな宗盛の弟・平知盛が副将軍という位置づけです。平家方に、阿波民部重能という四国の武士がいました。子どもが源義経のもとに捕らわれているのですが、平家恩顧の者で、斜陽の平家の味方として、壇の浦の戦いに参戦してきました。

 しかし、知盛は、開戦の前に、阿波民部重能は裏切る可能性があるから切ってしまいましょうと宗盛に詰め寄ります。宗盛は、さしたる根拠もないのに平家によく仕えてくれる阿波民部重能を切るわけにはいかない/疑いがあるなら本人を呼んで確認してみようと、阿波民部重能を呼ぶことを命じました。宗盛は、ストレートに真意を問いただし、阿波民部重能はストレートに平家に二心はないと答えます。そばにいた知盛はその光景をはがゆく見つめ、太刀を掴んだ手を音が出るほど握り締め、宗盛へ、阿波民部重能を切るべきだとサインを送ります。しかし、宗盛の許しはなく、阿波民部重能は、宗盛の御前を退出していきました。

 結果は、阿波民部重能が戦いの途中で平家を裏切り、源氏につきました。そして、弱い兵をあえて配備した大型船(唐船)を攻撃するために近寄ってきた源氏の船を、強兵を配備した小舟で包囲して殲滅するという平家の作戦が源氏に筒抜けになりました。源氏は大型船には目もくれず、小型船へ攻撃をはじめました。

 阿波民部重能にしても、恩賞目当てに裏切ったり、最初から二心を抱いていたわけではなく、戦いの途中で、結果として、旗色を替えたような印象を受けますが、将軍としては、知盛の見る目が正しかったといわざるをえません。

 このように、宗盛は、「将軍としては」「一門の棟梁としては」「武士としては」という条件がついた場合に、壇の浦で自ら海に身を投げて命を絶たなかったなど、ふがいない人物になってしまいます。実際に、当時の価値観からいえば、壇の浦で死ななかったのは恥ずかしいことなのかもしれません。

 なぜ、宗盛が壇の浦で死ななかったのかは、宗盛自身の口から語られます。それは、息子の清宗のことが心配だったからのようです。

 また、宗盛のなじみの女房が産後の肥立ちが悪くていよいよという時に、宗盛へ、生まれた男の子を乳母に預けるようなことをせずにそばで育ててくださいと遺言します。宗盛は、朝敵を倒す時は清宗を大将軍にして、この子を副将軍にするぞ、と約束し、男の子に「副将」という名前をつけました。

 宗盛は、親として子をこよなく、そして、分け隔てなく愛し、男として女を愛おしく思うことができる人物だったように感じられます。そんな宗盛に仕える家族や、女房たちは皆、宗盛を心から慕って、信頼していた様子も伺えました。

 しかし、源義経や、源頼朝に命乞いをするような態度は、「ああ、みっともない。そんな心構えだからこそ、このような目にも遭うのだ。居住まいを正して畏まったところで、今更、命が助かるわけがない。西国で死ぬべきだった人が、生け捕りにされて、ここまで連れてこられるのも道理だ」(頼朝に面会する時に、宗盛が居住まいを正した様子を見て武士たちが口にした言葉)というふうになったようです。

 宗盛が生きた時代は激動の嵐が吹き荒れて、宗盛自身も乱世に散りました。しかし、宗盛は、平和な時代に生まれていたら、一人の人間として、立派な人生をまっとうしていたのかもしれないと思いました。

→ 平時子について
→ 平宗盛(平家の家督)
→ 平家物語の価値観について
→ 平家物語の時代の天皇

(2012年2月19日)

平家物語のあらすじと登場人物、番外編