平時子について
平時子(二位の尼)は、平清盛の妻で、安徳天皇の祖母で、安徳天皇の母の建礼門院平徳子の母です。いうまでもなく、『平家物語』は資料ではなく、物語(エンターテイメント)なのですが、『平家物語』を読んでいて、平時子について、改めて思うことがあったので、書いておこうと思います。
壇の浦の戦いで敗戦が濃厚となると、安徳天皇が乗っていた平家の御船では、女房たちが、叫び、わめき、大混乱に陥りました。
そのとき、既に用意していた黒服に身を包んだ平時子が、三種の神器の勾玉(神璽)を片手の脇に抱え、草なぎの剣を腰に差し、安徳天皇を抱き上げ、「われは女なりとも、敵の手には懸かるまじ。主上(安徳天皇)の御供に参るなり。御志思ひ給わん人々は、急ぎ続き給へや」と告げ、「しづしづと」船の端へ歩み出ていきました。
8歳の安徳天皇は大人びており、それまでの敗戦に次ぐ、敗戦で、自らの置かれた立場を感じ取っていたとは思いますが、それでも、時子の言葉の意味が理解できず、「われをどこへ連れて行くのだ」と聞きます。時子は、心を尽くしてなぐさめたあと、「あの波の下にこそ、極楽浄土といって、めでたい都がございます。そこへお連れします」と告げました。安徳天皇が念仏を終えたとたんに、安徳天皇を抱き上げて、「波の底にも都がございます」と、安徳天皇に言い聞かせ、「千尋の底」へ沈みました。
一般的には、「安徳天皇の入水」として紹介されるか、「水底の都」や「草なぎの剣」などにスポットが当てられる場面ですが、この場面を読んで、印象に残ったことがいくつかありました。
まず、安徳天皇の母親である建礼門院・平徳子が、安徳天皇の入水の場面には、いっさい、登場してこないことが心に残りました。平清盛と清盛嫡子の重盛、清盛嫡孫の維盛はすでに世を去っており、維盛の子で幼い六代御前は都にいました。平家の棟梁は、重盛の弟・宗盛でしたが、安徳天皇入水の場面では宗盛も登場しません。わずかに、平家の運命が尽きたことを悟った宗盛の弟・知盛が、御所の船(安徳天皇が乗る船、波の上を漂っていた平家は船を(里)内裏としていた)に来て、見苦しいものは海に捨てて、最期を迎えるために船を清めることを命じたくらいです。安徳天皇は大人びたかしこい人物だったのですが、8歳の幼さでした。
一番に印象に残ったのは、女房たちがうろたえる中での、平時子の毅然とした態度でした。平時子にしろ、安徳天皇にしろ、源氏に捕まっても、殺されることはないかもしれません。しかし、時子には、自分が生き延びたり、安徳天皇の命を助けたりという発想は、まったく持っていないように感じました。逆に、安徳天皇に念仏を唱えさせ、安徳天皇がけなげに念仏を終えたとたんに安徳天皇を抱き上げて、海に身を投げました。その姿から、毅然とした決意や、意志を感じました。
もはや、最期という場面に至り、平清盛の妻の時子が一人で、平家一門そのもの、あるいは、「平清盛」という人物を、体現したのかもしれないと思いました。
【追記:2012年2月19日】
上記文章は、「平家物語」で、壇の浦の戦いが語られた個所を読んだ後に書きました。建礼門院がまったく登場せず、二位の尼の毅然とした態度だけが印象に残りましたが、「平家物語」の本編の「巻の十二」のあとに添付されている「灌頂の巻」を読んだら、壇の浦の戦いでの、建礼門院と二位の尼のやりとりが語られていました。「灌頂の巻」は、後白河法皇が、出家して大原の奥に籠る建礼門院を訪れる場面をメインにした短い「巻」です。
建礼門院が後白河法皇に語ったところによると、二位の尼は、以下のことを建礼門院に告げました。
●壇の浦の戦いで、平氏の男たちはことごとく死ぬだろう。
●平家一門も滅び、遠縁の者たちは生き残るかもしれないが、安徳天皇をはじめ自分たちの菩提を弔ってはくれないだろう
●女は殺さない習いなので、建礼門院は生き延びて、自分たちの菩提を弔ってほしい
二位の尼は、建礼門院へ一門の後生のことを託して、自身は安徳天皇を抱いて入水したようです。
いずれにせよ、二位の尼には、自らが生き残るという発想はなく、安徳天皇と共に、平家一門の誉れや、平清盛の名誉を抱いて、水底の都へ身を投げたのではないでしょうか。
→ 平宗盛(平家の家督)
→ 平宗盛(人物像)
→ 平家物語の価値観について
→ 平家物語の時代の天皇
(2012年2月9日)
