プロファイル03-01
ジャン=ローゼンクランツの流儀
プロファイル03-02
ギルデンスターンとローゼンクランツ(導入編)
プロファイル03-03
物語中の軌跡
プロファイル03-04
ギルデンスターンとローゼンクランツ(検証編)
プロファイル03-05
両者の未熟




    ――ジャン=ローゼンクランツの流儀――

 元『リスクブレイカー』であり、現在は公爵のエージェント。
更にその素性を明かした上でレアモンデ内の聖印騎士団と契約し、情報を提供する。
ローゼンクランツ自身は相手に何も要求しなかったので一見すると飼い犬になったようだが、
彼は例えるならイソギンチャクの隙間に隠れ潜む小魚のように自らの安全を確保し、
シドニーの追跡に不足している人手を、その場その場で少しずつ情報を公開することで利用する。
実質的には、ローゼンクランツは聖印騎士団を完全に手玉にとっていたことになる。
(ギルデンスターンを大聖堂に先行させて協力的な関係をアピールしながら、 
 その目を逃れてシドニーに接触し、儀式を行わせて“後継者”になろうとするあたりが彼の強かさを表している) 
 結果的にシドニーの“魔”の限界を見誤ったことで敗北したが、それ以外は彼は
一切の不備をきたさず“後継者”への道へ突き進んでいた。

 そんな彼は徹底した個人主義者だった。
それは、おそらく『リスクブレイカー』として、人と人の「殺す殺される」の繰り返しを見たからだろう。
人が人を殺すのは良くないことだと云われる――だが、
人は生き方次第ではどうしても命のやり取りをせねばならないときもある。
そんな生き方をしてはいけないのだと言われたこともあったかもしれない。
だが、彼ならば
「俺たちが“そんな生き方”をしてるから、お前らは人を殺さない生き方が出来るんだぜ」
と言い返したことだろう。
彼が当初、人殺しを含む「他人を屠る行為」をどう考えていたかは定かではない。
だが、『リスクブレイカー』であるうちに、
次第にその理念が欺瞞と自己満足の結晶だと見抜いたのは確かだ。
「仕方が無いときは殺してもいいって法律があるが、仕方無しなんてことが真にあると思ってんのかよ。
 そんなもんは後で根拠無く決めるもんだ。自分で自分につく言い訳さ。宗教家や理屈屋に堕ちてな。
 てことは、殺す瞬間には、他に方法があろうと無かろうと関係無いンじゃねえか?
 ついでに言うと、人が死んでいくのを止めなかったのなら、その上で生きてくんなら、
 殺人者が自分だろうと他人だろうと、殺害現場が近くだろうと遠くだろうと関係無いンじゃねえか?
 結局人は善悪を自分で作る。善悪が決まるのは「後」だ。
 人は正しく生きることも出来なければ、間違って生きることも出来ないンだよ。
 人は価値観や倫理観に従って生きてるんだと自分では思ってるが、
 実際には正反対もいいところだ――行動した後に、それが悪とならないよう嘘をつくんだよ。
 自分の知らないところでその嘘が事実と符合していようがいまいが、関係無い。
 悪意はある。欺瞞はある。事実と照らし合わせるのが嫌だという気持ちがある。
 わかるか? 善悪なんてもんは虚構なんだよ。ま、“悪意”なら実在すんのかもしれねえがな。
 人を殺しちゃいけないって倫理も、人を殺してもいいって倫理も、全部都合のいい理屈なんだよ」
だが、社会にはわりかしはっきりとした善悪の共通観念、所謂常識というものがある。
人それぞれが勝って気ままに作る嘘がまとまるわけはない。ならば、何故か。
可能性は2つ。
1つは、より大勢の人間が同じ嘘をつき、別の嘘をついた少数派を弱者たらしめた場合。
1つは、ある嘘をついた誰かが、その嘘で多くの他人を洗脳した場合。
どちらも、共通点がある。結局、勝ち組とでも言おうか、
強い力を手にした者だけは自分のついた嘘を曲げずに、主観的な正義を維持できたという点だ。

「別に自分を正しいと思いたいわけじゃないンだよ。今更だしな。
 ただ、全部わかってみて、欲しいものができたってだけさ。わかるだろ? 力だ。
 思えばわかる前の俺は、赤の他人が作った嘘で塗り固められてたような部分があった。
 あの時の俺が感じたどす黒い気分は、俺の自業自得じゃなく、仕方の無い摂理でもなく、
 俺のいる場所よりも高い場所に立ってた奴が、
 物理的・社会的・主観的な保身のために俺を利用してたからなンだよ。
 俺を虫ケラのように扱ってた奴らがいるんだ!
 そして、そいつらが俺より上に立ってる限り、それは続く――いや、違う!
 そいつらだけじゃねえ! 俺より上に、誰か1人でも立ってる限り、これは続くんだ!
 俺の目的は復讐。俺を肥やし扱いにした奴らに復讐してやる。
 そして、そいつらの代わりに俺が1番上に立つ。これがもう1つの目的だ。
 その両方を達成するに、俺はより強い力が、人間の間で1番強い力が、
 バレンディアで1番上に立とうとしてる法王や国王ででさえも渇望する力が必要なんだよ。

 そのためにレアモンデのことを調べた。徹底してな。公爵に取り入ったりしてだ。
 おかげで俺は、シドニーや公爵の次ぐらいに“魔”に詳しい人間になった。
 しかも“魔”の習性や魔都の現状に関してなら公爵に調査報告書を出せる、
 事実上の第一人者にまでなったンだ。
 だが、さすがにシドニーを出し抜きながら“後継者”になるには無理がある。
 何しろ奴にはメレンカンプって組織力があるんだからな。

 でも事実上どん詰まりになってた頃にシドニーが1悶着起こしてくれやがった。
 レアモンデに、法王庁と議会から精鋭が送り込まれてくる。これは絶好のチャンスだ。
 クリムゾンブレイドとメレンカンプに潰し合ってもらおう。
 ちょいメレンカンプの方が部が悪いから、魔物に無差別に暴れてもらう。どちらかを唆せばいい。
 俺だけギルデンスターンのコバンザメになって安全を確保させてもらうぜ。
 アシュレイは“魔”に関して何も知らない。こいつもギルデンスターン同様に利用できそうだ。
 最後の最後にクリムゾンブレイドの首脳と潰し合ってくれるとありがたいんだがな。
 気になるのがシドニーだ。行動の動機がわからん。奴は公爵の敵なのか味方なのかどっちだ?
 だが、俺には“対シドニー用”とも言える“負の能力”があるからな。
 これで、俺の未来への道を阻むものは無くなる。俺の勝利だ!」

 彼からすれば、ギルデンスターンも手駒に過ぎなかった――メレンカンプ殲滅のための。





    ――ギルデンスターンとローゼンクランツ(導入編)――

 どちらも徹底した個人主義者だが、その主義に基づいて抱いたエゴが違った。
ローゼンクランツにとっての個人主義とは徹底して「個としての自由を得る」という1点のみにあった。
ギルデンスターンにとっての個人主義とは「自分の思想を成就する」という1点のみにあった。
それぞれの目的が成就された場合、得るのものはなんだろう。
それぞれの流儀において、彼らが大切にしていた言葉を並べてみよう。
前者:「自分」「個人」「自由」「人間」「欲望」「混沌」「利益」
後者:「――」「全体」「秩序」「社会」「思想」「安寧」「正義」
ほぼ対称的な言葉ばかりだが、「自分」に対応する対極の語が存在しないのは
ギルデンスターンがもともと全体としての利益しか考えていないので
「誰の利益か」という発想を結局持たなかったからであろう。(権力者に利をもたらす気も、多分無かっただろう)
もともと利益を求めていなかったとすら言える。ローゼンクランツとは
発想の原点からして違っていたのだ。

 ローゼンクランツの目に、ギルデンスターンの志はガキっぽく見えた。
そもそも彼は「大志」「正義」という言葉全般を見下す傾向にある。
法王庁という、自分以外のものの「命令」と、自分の「目的」を完全に一致させているのも、
いかにも上に立つ権力者にとって都合のいい存在に成り果ててしまったようで愚かしい。
しかもそれを絶対的に正しいものだと考えているのだから尚更である。
何もわかっていないガキか、嘘を疑うのが恐い欺瞞の徒か、そのどちらかにしか見えなかっただろう。
それに比べて自分はどうだ。誰の嘘にも染まっていない。純粋に自分のために生きている。
誰にも敗北せず、青臭い思想にも捕われず、そして事実、目的に順調に邁進している。
人を殺す殺さないなどということに関しての下らない理想論の上を自分は行っている。
もうすぐ俺は1番上に立つ。その時に証明してやる。

 ギルデンスターンにとって、人間の意思や感情はつまらないものでしかない。
個人の幸福に価値があるとも思えない。だから、大勢を幸せにすることも偉業とは思わない。
この大地に生きる全ての人間は、それぞれ個の利益と、その先にある幸福を求めて生きるが
幸福になったところで何が待っているというのかわからない。
彼がクリムゾンブレイド団長として重視するのは、「個人」ではなく「社会」「世界」といった大きな枠組。
人が意思のために人生をかけて必死になるつまらない営みなどではなく、
それらの行動を全て制御・統制・支配できる社会の在り方。秩序という言葉で表せるものだ。
「営みなどというものに価値は無い。不安定な混沌から生まれる偶然の産物など価値を持たない。
 私は個としての利益に興味は無い。
 揺らぐことの無い、偶然に頼ることの無い、絶対且つ不変なものへと世界を作り変える。
 普遍的秩序をこのバレンディアにもたらす。そしてやがて全ての世界を完全なものにする。
 そのためには、“完全”を1度作り出せるだけの価値観と、それを維持できるだけの恐怖が必要だ。
 その2つはレアモンデの力で成すことができる。
 法王庁の全てが正しいとは言わない。だが、法王庁がそれを成すというなら私は与しよう。
 私の志とは、世界に完全な秩序をもたらすこと。そして、この信念を正しいと信じることだ」
彼はレアモンデの覇者に、自ら成ろうとする。
だがそれはローゼンクランツのように法王庁を出し抜いて、1番上に立ちたいからではない。
だからといって法王庁のための駒になろうとしているからでもない。
ただ、法王庁の中では自分しかなれそうな者がいないという、単純な「適材適所」思考の結論故だ。

 彼の目的は明確な形を持っている。だからこそローゼンクランツと反発した。
目的も価値観も流儀も拠り所も違うのだから当然だろう。





    ――レアモンデ内ー―

「・・・本当だわ。あなたの言うとおりよ。
 後から刻んだ文字もあるけど、よく見るとキルティア文字がどの壁にも刻まれてるわ。
 レアモンデを取り囲む城壁にはすべてキルティア文字が刻まれている・・・。どういうこと?」
「これは“呪詩”だ。・・・レアモンデを“呪詩”がぐるりと囲んでいる。
 おそらく、街中の建物すべてに刻んであるはずだ。
 この街は二千年以上の前から姿を変えていないからな。
 風化し、地震で崩れたとはいえ、その機能は残っていよう。・・・感じてはいたが、
 街の中央、大聖堂へ近づくほど”魔”が強いようだ。街全体が巨大な魔方陣なのだッ!!」
「お見事!」
サマンサが振り返る。ローゼンクランツが立っている。
「さすがアカデミーを主席で卒業しただけはある。すばらしい洞察力だぜ、アンタ」
「知っていたな、貴様?」
「知っているもンだと思ったぜ。・・・レアモンデが牧場として機能しているゆえんがそこにある。
 アンタ達が探しているグラン・グリモアとはこの魔方陣のこと。
 つまり、レアモンデ全体がグラン・グリモアなんだよ」
「何故、黙っていた?我々を裏切るつもりか?」
ローゼンクランツは黙ったまま二人に歩み寄る。
「どういうつもりだッ!!」
ギルデンスターンは“魔”の力を叩きつけるが、ローゼンクランツは平然と歩きつづける。
「無駄だぜ。忘れたのか?おれに“魔”は通用せンよ。
 ・・・オレはアンタたちの仲間になった覚えはないぜ。公爵と組んでいるのも、一時的なもンだ」
「貴様には“志”というものがないのか!」
「あるさ。他人のために人生を棒に振るなんてマッピラだぜ」
「その時々の利益で動くとはな。見下げた男だ」
「こんな平和な時代だぜ。戦場で敵を殺していればのし上がれた時代とは違うンだ。
 その時々のチャンスを的確に掴まないとな。そうだろ、ギルデンスターン?
 アンタだって、オレを利用していたンじゃないか。
 オレというチャンスを利用していたンだろ?アンタにはまだオレが必要だ」
「貴様は娼婦だな。生まれながらのゲスだよ、ローゼンクランツ。
 貴様をリスクブレイカーから免職したリサイトは有能だったというわけだ」
ローゼンクランツは痛痒を感じぬかのような態度で深々と礼をする。
「お褒めにあずかり、まことに光栄でございます」
「“鍵”はどこだ?」
「さあて」
ギルデンスターンは剣を抜き放つ。
「言わぬならここで死ぬまでだぞ」
「オレを倒せるとでも?これでも元リスクブレイカーなンだぜ?」
二人は睨み合う。
「どういうこと?」
突然の声に、ギルデンスターンがサマンサのほうをふり返る。
サマンサは虚空を見つめ、当惑している。
「ここはどこ? 私はいったい何を見ているの?私はここにいるのに」
「しっかりしろ!サマンサ!!」
「どこ?どこにいるの?」
「・・・リンクしている。今度はサマンサが同調しているンだ、ギルデンスターン」
「ヤツか!」
アシュレイは建物の壁に身を寄せる。
「近くにいるわ・・・。姿を隠した」
サマンサは立ち上がる。
「大丈夫か?」
ローゼンクランツが広間から出て行く。
「ティーガーと合流するぞ」
「ええ」
二人も広場を立ち去る。

広間から出ようとするアシュレイ。
開けようとしたドアが内側から開き、中からギルデンスターンとローゼンクランツが出てくる。
「シドニーがこのエージェントに何をさせたがっていたのか確かめたかったが・・・
 見られた以上これまでだ。ローゼンクランツ。貴様が始末するんだ」
「わかっているよ」
ギルデンスターンは再び広場から出て行く。
「・・・あんたとこうやって戦うハメになるとはな。ずーっと戦いたいと思っていたンだ」
「どういう意味だ?」
「俺は昔からあんたを知っているンだ」
「!!」
「アンタがVKPの犬になったきっかけを作ったのはこのオレさ。
 そして、オレがこうなったのはアンタのせいなンだぜ」
「なに?」
「思い出させてやるよ。真実をなッ!!」
この後、アシュレイとローゼンクランツの一騎討ち。アシュレイが勝利を収め、
ローゼンクランツは、自分は暗殺者時代のアシュレイと知り合いだったと告白することになる。





    ――ギルデンスターンとローゼンクランツ(検証編)――

 ただ敵だったというわけでないことがおわかりだろうか。
例えば、ギルデンスターンにとってはシドニーとアシュレイも敵だが、
彼らに対するギルデンスターンの接し方と、ローゼンクランツに対する接し方では、ある点で大きく異なる。
大聖堂でギルデンスターンは、シドニーに自己の主義を語っている。
だが、レアモンデ外周付近でローゼンクランツと言い合っているときは、相手を否定することしかできない。
自分は正しい、とも言っていないのだ。

 シドニー相手には違う。演説ぶって自慢げに自らの思想を語る。
それは、現実にそうはならぬであろうが、時と場合が異なれば
この不死なる男も自分の思想を理解できるようになれたであろうという「余地」がまだある。
敵であっても憎くはない。特に、感情で動かないギルデンスターンにとっては。
それはローゼンクランツに対する彼と比べればいかに紳士的だっただろう。
大聖堂の最上階で、シドニーがもしもギルデンスターンの言葉に納得したならば
ギルデンスターンはシドニーを理解者と認めたかもしれないのだ。右腕として。
だが、ローゼンクランツが何を言おうと、ギルデンスターンはそれを信用せず拒絶しただろう。

 これはじぇすとーな<私>個人の考えであるが、
ギルデンスターンはシドニーと敵対したし、その考え方も否定したが、
シドニーの考え方を(間違ってはいながら)主義思想の在り方の1つと認識していた。対照的に、
ローゼンクランツの考え方は主義思想などではない、卑小で低俗なものと考えていたのではないだろうか。

 つまり、ギルデンスターンにとって、ローゼンクランツという男はそれほどの異常な存在だったのである。
敵対関係とかそういう客観的なこととは関係無い。
本来「主観」と「客観」が完全に一体化しているはずのギルデンスターンも、
何から何まで違うところだらけのローゼンクランツの前では心掻き乱される。全てを否定されたようで。
ローゼンクランツとは、ギルデンスターンの全てを、何から何まで否定する存在なのである。
ただ理屈に対して反論をするならばまだしも、
「否定するならば反論という方法で何かを訴えるべきだ」という考え方すら否定される感覚である。
全く生き方が違う。
決して相容れることが無い。
互いに否定し合うしか未来が無い。

 ここで少し話がズレるが、「絶望的に相性の悪い相手」というものは大抵2つに大別できる。
1つは、あまりにも自分と性質が違いすぎるために、コミュニケーションが成立しない相手。
1つは、自分の中にある嫌な部分を露わにしてくる相手。
この2つは自覚と実態という2つの観点から見れば奇妙な関係を成立させている。

 例を挙げてみよう。
現実社会で「あいつは弱いから嫌いだ」とかいう人は、自分はそれよりも強いのだと信じ、
人間関係は先に述べた2つのうちの前者であると主張する。
「あいつと一緒にするな」「俺はあいつと違う」といった本音が付随する。
だが、そういう人間関係は、実は本人が前者と自覚しているのに反して、実態は後者だったりする。
自分は強いと信じる。自分が弱くある事態を嫌う。
だが、その一方で、自分は強いのだと確信できるに足る証拠はほぼ確実に無い。
自分はひょっとしたら弱いのかもしれない。でも嫌だ。
そう思う人にとって、「弱い人間の可能性」を目の当たりにすることは心の底から気味の悪いものである。
まるで、自分の弱い部分を見ているような気になるのだ。
あまつさえそういう奴と自分に明確な差が無いと実感させられるような経験などが1度でもあれば、
目の前にいる、自分より弱いはずの人間が、自分と似たような挙動や細かな失敗を1度でもすれば、
彼はその人間を見ていることができなくなるだろう。
「俺はああなりたくはない」という気持ちは、「俺もああなのかもしれない」という気持ちと同じである。
似たような体験はあるだろうか。思い当たる節があるならば思い出してみて欲しい。
あるいは、前述したような気味の悪さ、いたたまれなさを感じたことがあるならば思い出してみて欲しい。
あなたが「こんな奴は大嫌いだ」と思う瞬間は(それが例え話ではなく実在する人間についての話だという前提の下に)
そいつが、何か失敗をしたか、逆に何か成功をした瞬間ではないだろうか。
そういう時に感じる嫌悪感は、相手よりも自分が上だと改めて信じようとする精神活動の結果である。
相手よりも自分が上だと信じたい、そう願う私たちが差異を探し、言い訳を作る瞬間である。
あなたが、何か自分の内面の一部分を否定したがっている時に、
それを体現したような人間を意識すると、その両方を攻撃せずにはいられなくなるのだ。
「俺にもそれくらいできる」
「それくらい誰にだってできるんだよ」
「お前にできるわけないだろ」
「俺にはできる」
「それができたからって、俺と同じとは思うなよ」
「俺にできなくてお前にできるからって、お前が上だってことにはならない」
「俺にもお前にもできないからって、俺たちが同格ってことにはならない」
思えば、こういう衝動が「虐め」という行為の源泉であろう。

 こういう人間関係は、ゲームの中にも複数存在する。
例えば、シドニーへの自分の信頼は本物だと信じたつもりになっていたハーディンにとって
それを否定するメルローズは(“体現”する存在ではないので少し例外的だが)そういう意味での天敵だ。
(じぇすとーな<私>は、シドニーがメルローズを連れて行った理由は
 メルローズにそういう天敵になって欲しかったからだと思っている。そうなれる器の持ち主だと“魔”で見抜いたのだろう)
自分の実力と誇りを強く信じるグリッソムにとって、その更に上を行き嘲笑うシドニーも類似する存在。
女々しさを嫌うニーチにとって、男に頼ることしかできないサマンサなどまさにその典型であろう。

 では、ローゼンクランツとギルデンスターンについてはどうだろう。
結論から言うと、ローゼンクランツがギルデンスターンを嫌うのは、
自分が否定する生き方まさにそれをギルデンスターンが歩んでいるからであり、上記でいうところの前者である。
自分が否定したがっているものを中心に据えながら、しかもそれを崇高とする者は
彼にとって絶対の“敵”“天敵”“仇敵”“禁忌”であり、
ローゼンクランツが自らの道を信じて生きることと、ギルデンスターンを否定することは等価なのだ。

 ギルデンスターンのローゼンクランツに対する感情は、逆向きのそれに比べて明確な形を持っていない。
彼の価値観の全く外に生きる存在であるため、理解が追い付かない――そういう形だ。
だからといって別にギルデンスターンの方が幼稚というわけではない。
例えば、イルカには「仲間を攻撃する」という概念を持たない。
そういう行為がこの世に存在するということすら知らない。
そのイルカに「仲間を傷付けることをどう思う?」と尋ねても、答えは返ってこない。
彼の混乱はそれに近いものと捕らえるべきだろう。
ただ視野の次元が低いだけで、それぞれが持つ視野の中で抱いている確信は他の誰よりも深いのだ。

 またローゼンクランツも、ギルデンスターンのような“禁忌<タブー>”存在するからといって
自分に自身を持ちきれていないとも言えないだろう。
彼の確信とギルデンスターンの確信はどちらも、「揺るがない」という点で『VagrantStory』における最高峰なのだ。





    ――両者の未熟――

 この2人の意思の固さが好きだという方は多いはずだ。
かくいう私もそんな1人で、キャラの作り込みの深さに驚嘆したクチである。
ギルデンスターンなど見方次第ではただの悪者にしか見えかねないというのに、
私は彼をどんどん良い方にイメージして、絶対に賛成はしないが
魅力、カリスマという点ではとことん惚れ込んだ。

 だが、その上で、彼らが決して「頂点」ではないということも、クリア後随分経った今ではわかっている。

 私がそれを実感することになったきっかけは、映画――ジブリ宮崎監督作品『もののけ姫』に触れたことだ。
一説には「旧作『風の谷のナウシカ』のパクリでしかない」との批評もあるが、それは大きな間違い。
「失う」「奪われる」被害者側しか描くことの出来なかった『ナウシカ』に対し、『もののけ姫』は
有限の世界における営みと無常の様を「奪う」「壊す」加害者側と
前述の被害者側の両方の要素を物語に盛り込み、更にその境界線を取り去ってしまった名作である。

 大筋をここで説明しておこう。
『もののけ姫』には独立して行動する人間も含めて、4つの主な勢力がある。
A.右腕に猪神の呪いを持つアシタカ
 右腕に『タタリ神』という神<もののけ>の断末魔の呪いを受け、
 鬼神の如き強さと引き換えに呪いの痣に食い殺される宿命を背負わされた青年。
 彼は故郷を離れて呪いを解く方法を探すうちに、≪シシ神の森≫と踏鞴場の闘争の場に行き着く。
B.シシ神とその守護者たち、そしてもののけ姫サン
 ≪シシ神の森≫に住む神(意思を持つ獣。山犬、猪、猿などがいる)たちと、
 人間に見捨てられ、山犬に育てられた少女。彼女たちは森を守る使命を帯び、人間たちと戦っていたが
 今では人間に対する恨みに心を奪われ、≪森≫に住まう神たちはその結束を完全に失っている。
C.エボシの大踏鞴
 ≪森≫のある山を削って砂鉄を掘り、鉄を作ることで生計を立てている踏鞴場(たたらば)。
 鉄山の取り合いをしに侵攻してくる下界からの侍たち、そして≪森≫の神たちと戦い続けている。
 頭領は烏帽子<エボシ>と名乗る女性。≪森≫の山犬頭『モロ』とは憎しみ合っている。
D.唐傘連と師匠連、そして天朝(大和朝廷)
 『シシ神』の首に不老不死の秘薬としての価値があると信じ、踏鞴場に石火矢(鉄砲)の技術を与えた者たち。
 神たちを殺すための技術に長けており、その技術・秘術と踏鞴場の人員を利用して『シシ神』の首を狙う。
 ジコ坊(直坊? 児々坊?)を名乗る破戒僧が筆頭で、結果的に踏鞴場や≪森≫が失われることには興味が無い。

 この物語の登場人物は、何かを大切に思いながら何かを憎んでいる。
『モロ』とサンは≪森≫に生きる全ての命とその営みを愛し、エボシを含む“人間”全てを憎む。
エボシは踏鞴場の人々を愛し、『モロ』とサンを憎む。
アシタカははじめ神々を攻撃するエボシを憎んだが、
やがてこの地には否定されるべき“悪”がいないことに気付き
『シシ神』との邂逅も経て「生きる」ことに価値を見出し、
「憎しみに身を委ねる」生き方こそを否定するようになる。

 だが、1人だけ例外がいる。ジコ坊。この映画の中での悪役「唐傘連」の筆頭である。
彼は朝廷天皇の命で『シシ神』の首を狙う。
そのために一方では自ら危険を冒して敵情視察、また一方でエボシとの調停を行う。
悪口を言われてもまいったまいったと頭を掻き、
わざと自分を弱く見せ、その癖下手(したて)には絶対に出ない。
彼の「天土の間にある全てを欲するは人の業と云うものだ」と弱肉強食を肯定する強かさは
他人の前で見栄を張ることになんの関心も持たない(ふりをしていた)ローゼンクランツを彷彿とさせる。
だが、その一方で目的に自己の利益を持っていかないところはギルデンスターンに近いのだ。

 何故『もののけ姫』の話を引き合いに出したかというと、ギルデンスターンとローゼンクランツが、
その信念の固さの一方で抱えている弱点「敵愾心」を、このジコ坊が完全に克服しているからである。

 彼の視野は広い。それも、ローゼンクランツと違って他人に利用されている段階で既に気付いている。
その上で利用されている状況からの脱却を考えず、
更に他者を彼が利用し、それが人の営みなのだと豪語する。
彼にとっては正義とか、悪とかいう考え方は生きる指針になんの関係も無い。
人が生きる上で弱肉強食に身を投じるのは自然の成り行きであり、
それに反してもまた新たな業の世界に身を投じることにしかならない。
“自分を取り巻く環境に刃向かうのではなく、その中で強かに生きる”ことが彼にとっての至上。
彼は自分の環境にケチを付けない。何も変えようとしない。
変えずに自分のアイデンティティを保てる。それがジコ坊の強さだ。
たしかに『シシ神』の首を持ち帰れば彼は帝より莫大な褒美を得るだろうが、
私は、帝に従う理由を問えば彼はこう答えると信じている――「おまんまを食ってくためだ」と。
そんな彼にとっては正義を考えるギルデンスターンも、
個人の執念に全てを捧げるローゼンクランツも、ただの小童(こわっぱ)に見えただろう。

 だが、彼らを小童扱いする最大の理由はそこではない。
彼は前述した通り、愛憎に満ちた映画『もののけ姫』の世界における例外。
彼は何も、憎まなかったし、何も否定しなかった。否定されても心乱さなかった。
たとえばローゼンクランツがアシュレイを見下したように、彼にはアシタカの青臭さを鼻で笑うこともできた。
だが、彼は物語の最後に、結局青臭さを手放さなかったアシタカを思い出してこう言ったのだ。
まいったまいったと言うときと同じ仕草で頭を掻きながら、“満面の笑みで”「やれやれ。馬鹿には勝てん」と。

 自分の生き方を否定する存在、
自分の生き方の対極を歩む存在、
自分の最も嫌うものの化身のように振舞う存在。
そういうものを、人は否定せずにいられない。それが意志である。
固い意志の持ち主は、そういった敵を前にして、自分の意思や生き様を曖昧なままにはしておかない。
曖昧なままで誤魔化そうとする弱い人間との差がそこにあり、
それこそが、ギルデンスターンとローゼンクランツを魅力的に見せるエッセンスである。
彼らには敵対するだけの意志があり、それこそが信念であり、信念は彼らに現実での力を与える。
彼らはその力で誰の目にも明らかに、強く生きる。
否定を表層に表さぬように苦汁を嘗めた経験を持つ私たちには、彼らの生き様が眩しい。

 だが、果たして否定することが、真に崇高な意志の証なのだろうか?
結局、自分と違うものを拒絶しているに過ぎないとは言えないだろうか。
シドニーやアシュレイが、結局彼らと違う道を選んだのはそこに気付いたからではないか?

 自分と相手の差を認識して、その上で否定せずに、且つ自分の強い意志を失わない。
それこそが真の強さではないだろうか。敵を殺さなくても生きていける者こそが真の強者ではないだろうか。
敵対者と出会っても心乱さず、慈しむことさえ出来る。
それが、ギルデンスターンやローゼンクランツが至ることの出来なかった信念の境地である。

 彼らは自分を正義と信じて生きた――誰かを否定しながら。
彼らは生きてさえいれば、この境地に至ることが出来たのだろうか?