Last−Words『ファントムペインとはなんだったのか』



 このゲームの、ラストを振り返ってみよう。

“魔”を巡るVKPの代表としてレアモンデに駆り出された、“裁きの来ない罪人”。
エージェント・キャロ=メルローズを助けるという建前のもとで、
もはや犯罪者としての標的ですらなくなったシドニーに導かれしアシュレイ=ライオット。

自分のせいで永遠の命を棄てることになった父の最期に、その鳥カゴから抜け出した偽悪者。
父を助けるための力を渇望しながら人の戦いを見つめるうち、
次第に父の意志を学んでゆくこととなったシドニー=ロスタット。

「自分のためだけの自分」という執念に
不死ならぬ肉体を捧げたローゼンクランツが死んで、
レアモンデを得ようとする野望の持ち主は、残すところ唯一人となった。

己が思想のもと、選別と称し、世界の在り方を作り変えようとする聖騎士。
法王庁の奴隷に過ぎぬということも、生贄に捧げる女を己が本当に愛していることも、
この男にとってはその行動を束縛することの無い
ただの事実以上でもなければ、それ以下でもなかった。
シドニーを狩り、『血塗れの罪』を取り込み、恋人を生贄にした
法王庁騎士団の長にして、いまや魔都の後継者。ロメオ=ギルデンスターン。

最終決戦の場は大聖堂の屋根。
魔都で最も大きく描かれた聖印の真上であり、魔都で最も夜空に近い場所だった。
アシュレイの対峙した相手が
本当に法王庁のギルデンスターンだったのか、
それとも“魔”に喰われたギルデンスターンの亡骸だったのかは、誰にもわからない。
ただ、結果としてギルデンスターンは消滅し、
アシュレイは妻子に、シドニーは父に、キャロとジョシュアはハーディンに、
それぞれ別れを告げた。

アシュレイが全ての敵の目を欺いて
自分の立ち寄った痕跡を隠蔽しながら
イヴァリースを放浪<ベイグラント>していくのは宿命であって、
そんな今後の“人生”に果たして人としての温もりや喜びがあるのかは不明だ。

キャロもまた、全てを知った身では元の生活――議会の犬には戻れまい。
事後報告書に彼女の証言が無いからといって誰にも断言はできないが、
レアモンデ侵入前の報告を最後に消息を絶った可能性が高い。
彼女は知りすぎた人物だ。彼女の存在を知るバレンディア議会は、彼女の生存を黙認しない。

ジョシュア少年に至っては、バルドルバ家に戻らずして生きてゆく独力を持たない上に、
帰宅すれば議会と法王庁の両方に口封じの標的にされてしまう怖れがある。
キャロが失踪に際して彼を連れ出していれば死なずに済む望みもあるが、
それが果たして“生きてゆける”望みにもなり得るかは、やはり誰にもわからない。


 シドニー、ハーディン、メレンカンプの信者たち。
ギルデンスターン、サマンサ、グリッソム、デュエイン、聖印騎士たち。
ローゼンクランツ、バルドルバ公爵、公爵邸で死亡した人々。
魔都の崩壊に際して命を落とした人々と、殺し合いのためだけに召還された魔界の者たち。
彼らは全員、死ぬか、あるいは消滅した。
当然、「失う」という単語で表せないほどの多大な損失を被ったと言えるだろう。
何を失くしたのかと問われれば、命とも言えるし、人生とも言えるが、
殺された者たちが何を失くすのかという謎かけに、
全ての条件を満たして答えられる者など何処にもいるわけがない。

だが、前述の通り、
言葉で表せないものを失った点においては、残された者たちも同じなのだ。
元の生活には戻れない――
代表としてアシュレイがそのことを証明して見せてくれたところで、物語は終わりを告げる。
皮肉にも“放浪者の物語”の始まりを告げると同時にだ。

そしてゲームのエンディングシーンが始まる。
楽曲と、数々の絵画と、スタッフロールが流れるわけだが、
その前にまず、シドニーの絵と共に画面に映し出された言葉があった。


                PHANTOM PAIN


 ファントムペイン。
これは幻肢痛を意味する言葉であり、
ゲーム中においてはアシュレイの殺人技<バトルアビリティ>のひとつとして登場したが、
エンディングの最初にこの文字を見せられた時に、
それをこの物語に非常に符号した言葉として認識できるかどうかで、
あなたが『ベイグラントストーリー』をどれだけ味わえたか――が明らかになる。

この単語はストーリー前面には、一度も登場していない。
誰の口にも語られていない。
だが、言及されていないだけだ。
敢えて語るまでも無く、ファントムペインは何処にだって存在している。

何故ゲームの製作スタッフたちは、ラストにこの文字を持ってきたのか。
『ベイグラントストーリー』にとってファントムペインは何を意味するのか。
最後の議題として、この言葉の存在意義を問うてみようと思う。
                  

 まずは、この「幻肢痛」という言葉の意味を確認しておこう。

外傷や病に対する医療措置として腕を失くした人間は、
本来ならば腕と共に腕の感覚も失って然りであるが、
実際には彼らは手術後、目を醒ましても、自分の腕が無いことには気付かないという。

特に、首を保定されて視界の動かせない患者であったりすると、
実際に腕が無くなっているということを確認できないまま、
いつまで経っても気付かず、
せいぜいが「右手の感覚がおかしい」と周囲の者に訴える程度に留まるらしい。
それどころか、医師が宣告しても患者は信じないで、
不調ではあるがちゃんと自分の右手には指の感触があると主張する。

手足(手肢)を失うという医療患者の例は珍しいが、
実際に失った者がこういう主張を行うことはさして稀有な症例でもなく、
その者たちは「痛い」「痒い」「何かが触っているような気がする」という違和感を
“手足が無いと理解した後の生活でも”抱き続けることがある。

このような症例は、
「失われた手足」=「もう存在しない手肢」=「幻肢」の痛みとして「幻肢痛」と呼ばれ、
宗教的には「魂の感じる痛み」=「ファントムペイン」と解釈される。
生物学的には
1、知能で理解できても脳が四肢の喪失を理解できない
2、四肢を失っても、それらと脳を繋いでいた神経は残存し、機能し続けている
3、四肢によって送り出される正規の感覚信号以外の要因でも
  そういった感覚神経が興奮してしまうことがある
4、四肢が思うように動かせているかどうかという確認のための信号は
  他ならぬ四肢から発せられるはずのものであったため、
  無い四肢を動かそうとしても、その意思の通りに実際に
  手肢が動いているかどうかを患者は実感できない
などの理由で生じる、神経系のバグ・エラーとして定義されている。

「バッファロービルの本名はルイス=フレンド。
 彼に会ったのは一度だけだ。八〇年の四月か五月。ラスペールという患者の紹介だった。
 二人は同性愛だった。しかし、ラスペールは彼を恐れ始めた。
 ルイスはどうやら、行きずりの相手を殺し、その皮膚をどうにかしてたらしいんだが」
「ルイスの住所と特徴を知りたい」
「・・・なあ議員さん、あんたキャサリンを自分で育てたのか?」
「え?」
「自分の乳を飲ませて」
「・・・おいちょっと待て――」
「ええ。母乳よ」
「乳首が強くなったろう?」
「・・・黙れ、無礼だな!」
人は足を切断すると、なくなった足の先が痒いと言う。
 母親は分身の娘が殺された時、何処で感じるのかな
「・・・このケダモノをもとの収容所に送り返して!」
〜映画『羊たちの沈黙』重犯罪者ハンニバル=レクター博士の登場シーンより抜粋〜
         

 手足が無いといえば、『ベイグラントストーリー』で真っ先に思いつくのがシドニーだ。
彼は両手両足を鎧で包んでいるのではなく、
あれは義手であって、金属の殻の中には彼の場合なんの物体も入ってはいない。
本当なら一歩も動けるはずはなく、
魔都に登場したリビングアーマー系の敵と同じく、金属甲冑の手足部分を
自分の新しい手足として“魔”で強引に動かしているに過ぎない。

だからローゼンクランツに右義手を切断されても容易く接続しなおしていた。
魔都には他に体をバラバラにできたゴーレムという敵が登場したが、
実際にはあれと同じくらい融通がきく、肉体との繋がりに乏しいものなのだろう。

リビングアーマーの根本は、鎧に幽霊(≒魂=ファントム)が取り付いている、
あるいは人型の幽霊が鎧を着て歩き回っているという構図だが、
シドニーは胴体と頭部は繋がっていて、手足だけが無い。
彼は幻肢痛のエラー感覚に鎧を載せて、
外見的に手足を演出するのみならず
他ならぬ彼自身が義手義足を手足として認識している可能性がある。
幻肢痛ではなくファントムペインという言葉にのっとれば、
「人の形をした魂が、人体という器を四肢の部分だけ失ったので
 その四箇所において肉の四肢の代わりに金属の四肢へ袖を通している」
というリビングアーマー・アナロジーを得ることができるはずだ。

「ペイン」とは言うが、痛みとはつまるところ強い知覚刺激のことで、
別に痛みでなくても、痛くなくても、失われたはずの部位から
何かを感じることができればそれは全て幻肢痛である。

つまりシドニーの意識は、常に存在しない手足を感じているわけで、
これがすなわち「ファントムペイン」。
なるほどエンディングシーンで「PHANTOM PAIN」と表示された時の背景が
シドニーのイメージイラスト・書き下ろし版(?)だったわけで、
確かにシドニーとこの単語には切実な繋がりがある。

だが、それが全てだろうか。
                  

 ファントムペインは「失われたもの」の残滓だろうか。
シドニーの四肢は神に捧げたものであり、もはや「現存するはずのないもの」であり、
かつて「実在したもの」であり、本来なら「現存していたはずのもの」でもあり、
そして厳然たる事実として今「実在していないもの」でもある。
ファントムペインという言葉は、このうちのどれを条件として求めるのだろう?

上記『羊たちの沈黙』抜粋を踏まえた上で、ハーディンに焦点を合わせてみよう。
ハーディンには、かつて幼い弟がいた。そして今はもう生きていない、つまり実在していない。
そしてハーディンは肉親を含めて「大切なもの」を喪った人間なら誰もがそうするように、
死んだ弟の面影を赤の他人に見つけて、
まるでそれが自分の弟であるような、弟がまだ生きているような認識の倒錯を起こしていた。
これは言葉の原意に背くものの、
原理的にファントムペインの条件を満たしている。
ハンニバル=レクターはまた別の、捻ったセンスのファントムペインを提示しているが、
ここに共通するのは、ファントムペインの概念には様々な応用が利くという視点だ。

 さて、ではここで、我々も応用にちょっとした捻りを加えてみよう。
シドニーの手肢はファントムペインに通じている。
ハーディンの弟は本人の体の一部ではないが、幻肢と同じ類の疼きをもたらしている。
ならば、アシュレイの場合はどうだろうか?
アシュレイには妻子の記憶がある。
その妻子は今現在「実在していないもの」であり、「現存するはずのないもの」ではあるが、
過去に実在していたのかどうか、甚だ怪しい。
実在すらしなかったものは最初から失う余地をもたないが、それでも彼は
ハーディンと同様の喪失感と、
その喪失の記憶そのものを取り上げられることによる新しい欠落をシドニーたちに強いられてしまった。
後者が訪れたからといって、前者が去るわけでもない。
アシュレイは妻子に関するだけでも既にこのふたつの“疼き”を宿命付けられているのだ。

 それをファントムペインと呼んでいいのかどうか――という問題はもちろんある。
先のハーディンの例やレクターの言の時点で既に議論の余地はあるだろう。
しかし、この議論にさしたる価値は求められないと私は主張する。
厳密な意味での「幻肢痛」であるかといえば、ハーディンやアシュレイの例は
定義から外れている以上すべて「NO」が模範解答だ。
しかし、「確立の敵わない可能性に煩悶する」ことに変わりは無い。
シドニーの幻肢も、
ハーディンの弟も、
アシュレイの妻子も、どれも有と無の境界を認識がさまよって悩み人に苦痛をもたらす。
あるいは幸福感という名の疼きをもたらす。その幸福は得られるはずの既に無くなったものであり、
その欠落=無がまた新しい疼きを生む。
ファントムペインなど何処にでもある。
手肢だけが特別ではない。
得られなかったものに対する全ての苦痛と煩悶が、ファントムペインに等しい。
                   

 言葉の定義=外枠に拘ることをやめて、
ひたすらファントムペインに似た構図ばかりを物語に求めてみると
実に多くのアナロジー=類似構図に出会うことができる。
簡単な例もあるが、ここでは敢えてサマンサなど事情の繊細な例を挙げたい。

サマンサはギルデンスターンに依存していた。
ギルデンスターンの態度はそれに報いていた。
が、ギルデンスターンの本心は、少なくともサマンサの期待通りのものではなかった。
大聖堂の屋根の上、
抱擁と同時にサマンサの腹部へ刺し込まれる短剣。彼女が呟く。
サマンサ
「…な、……何故なの?」
ギルデンスターン
「すまない、サマンサ。きみの“魂”が必要なのだ。我々の理想のためと思ってくれ」
サマンサ
「“あなたの理想”ね……私が入り込む余地など…ない……夢のため…」
ギルデンスターン (よろめきながら後退するサマンサへ、ギルデンスターンは穏やかに語る)
「愛しているよ、サマンサ。本当だ」  
サマンサ
「…私も……そう思っていたわ」(サマンサ、屋根から落下)

彼女が最期にギルデンスターンの言葉を信じたとはとても思えない。
しかし、彼女はギルデンスターンが自分の愛を利用していた男であるという認識をもってもまだ、
ギルデンスターンに「恋人」宛ての切ない視線を向けていた。
自分の愛に応えてくれるギルデンスターンがサマンサにとっての幻肢とは言えないだろうか。
己が手肢という物体が自分の一部ならば、記憶や大切な誰かも自分の一部である。
ギルデンスターンという自分の一部を失った苦悶、
あるいはギルデンスターンという自分の一部が最初から無かったことを認識しての苦悶。
前者はハーディンの苦痛に近く、後者はアシュレイの第二の苦痛に近い。

 他にも、グリッソムの肉体、バルドルバ公爵の自己矛盾、ジョシュアの無声の絶叫のようなものや、
ハーディンにとってのシドニーとの信頼関係、シドニーにとっての親友としてのハーディン、といった
“最期”に取り戻せたかもしれない、しかし結局無いままで終わっているのかもしれないという
有無の断言ができない欠落も物語では描かれている。
ファントムペインの定義は狭いが、
そこからアナロジーを引き出すのであればいくらでもこじつけで価値のありげな構図が見出せるのだ。
      

 ここで話を戻してみよう。
レアモンデの“魔”に触れた者たちは多くを失ったが、
生き残った者たちは基本的に五体満足で、
失ったのはそういった物理的な意味での“手肢”ではない。

キャロが失ったのはささやかなハーディンとの接点と、「それまでの生活」と「送るはずだった本来の未来」。
後者ふたつに関しては、生きていられるとすれば彼女は何度も夢想にふけることだろう。
もう戻れない状態、世界、日々に焦がれることがあればそれもまたファントムペインだ。

そして、彼女が失ったものはそれぞれ「続くはずだった過去」「来るはずだった未来」とも言い替えられる。
ここまでくるともうファントムペインの定義には外枠すら無くなってしまう。
このふたつのものを失ったり変えられたりして生きているのは物語の登場人物に限らないからだ。
人間関係にしても同じことがいえる。
去ってしまった誰かとの接点を振り返り、時を過ごす者がいる。
そんな誰かと共有できたかもしれない「IF」の体験を夢想する。
まだ会ってすらいない人物と未来への期待で同じ夢を見る者もいる。
岐路を経てから、捨て去ってしまった別の人生に焦がれ、
もう後戻りはできないのに、
まるでまだ自分がその選択を迫られているような心地でいつまでも道を検証してしまう。

 現在の自分が保有・実現できていない全ての事象が人に“疼き”をもたらすというのならば、
そんな事例は世の中に文字通り、無数に存在することになる。
過去、物、人間、人間関係、地位、保証、目的、自分、命、あるいは――自分の手肢。
これら全てをファントムペインと称していいのかどうかは皆さんそれぞれが決めればいい。
問題はこのゲームの製作スタッフがラストの文字「PHANTOM PAIN」を
果たして本当にこの意味で使っていたかどうかで、これは赤の他人には知る由も無い。
製作者の知り合いがいて、質問する機会を得たとしても返答が真実であるかは結局わからない。

私は当コンテンツ『ベイグラントストーリー・ファントムペイン』を作成したが、
このネーミングの時点から、この文書の作成を考慮に入れていたわけでもなければ
この文書にあるようなことを既に考えていたわけではない。
ただ単に「PHANTOM PAIN」という文字を見て
『ベイグラントストーリー』に相応しい言葉だなと感じただけ。
何故そう感じたのかは深く考えたこともなかった。

今までに6つのプロファイル文書を拙いながら作成し、
当初最後にまとめるはずだった内容をその過程でおおむね放出し終えてしまった。
ラストプロファイルとして何を出せばいいのかと悩んだ結果、
たまたまこのファントムペインに関する考察を思いついた。
そしてこの際、いちいち洞察に頭を捻ったわけではなく、
ネタを思いつくことが、文章の趣旨を思いつくことに等しかった。

つまり、私は当文書のような考察を想起したことはなかったが、
その時点で既にある程度の理解を終えていたわけだ。
製作スタッフもこれと同じ心境で「PHANTOM PAIN」と刻んだかもしれない。
これは製作スタッフ当人にも判断がつかないことが往々にしてある。
要するに自分のことすらわからない、というのはよくあることなのだ。
例えば、アシュレイ=ライオットのファントムペインのように――
                            

 アシュレイは、二つの過去をもつに至った。
魔都の後継者となれば強制的に知らずにいられないという可能性もあるが、
少なくともシドニーに「すまない、ライオット」と言われて「わかっている」と応えた時点では、
アシュレイにとっては真偽の定かでない記憶がふたつ存在した。
繋がっているとも千切れているとも言い切れない、
中途半端にぶら下がった状態の二つの手肢が感じられたわけだ。
私の思い描く今後のアシュレイは、どちらが自分の本当の手肢だったのかを結局見出せていない。
が、この空想もまたファントムである。
私の作成した一連の文書がすべて、
信憑性如何にかかわらず確証の無い、確認不可能なものでしかない。
もはやファントムペインですらないほどに外枠の広いものとなったが、
ファントムペインのアナロジー構造を確かにこれらは持っている。

何かを失ったり、得られなかったりすることによる“疼き”は人の成長に関わるものだ。
以前のプロファイルでも近いことを述べたが、
アシュレイはその“疼き”の元――欠落を、記憶においての同じ時間軸上に複数背負うこととなった。
ゆえに、常人にはなかなか体験できない成長を遂げられたのだと私は考えている。
しかし、何度も言うようにこれは何も特別なことではなく、
普通の人間も似たような手法で成長を繰り返して人格を精錬してゆく。

 若輩の私があまり言及しすぎることには問題があるため、
現実社会におけるファントムペイン・アナロジーに関してこれ以上の掘り下げは控えよう。

ただ、物語におけるファントムペインはそれぞれの登場人物に数々の影響を与えている。
ジョン=ハーディンにとっての二大幻肢は亡弟と親友だが、
このふたつのどちらが欠けても、最期の瞬間にキャロとジョシュア少年へ微笑んではやれなかった。
シドニーはロスタロット=「Lost・a・Lot」と名付けられるほど多くのファントムを抱えていたが、
それらもまた、全て最期の福音には欠かせないものだった。

ファントムペインは痛みであり、害をもたらすが、それ自体が毒なわけではない。
人が成長過程で必要とする養分のごとき不可欠要素なのだ。
それゆえに――というと誤謬もあるが、だからこそファントムペインは何処にでも存在するといえる。
先程から私は有無の境界上の苦悶と語っていながら
「有ったかもしれないもの」が「無い」パターンをひたすら語っているが、
アシュレイのふたつの過去からも教訓と成長が得られることからもわかるように、
ファントムはただの仮定・例え話にも含まれる。
いまあなたの手元にある大切なものが、「もし無かったら」という空想も時折
恐怖という名のファントムペインを起こしうるし、そこから今の生活の大切さを学び取ろうとする流れは
既存の多くの宗教にも見られるはずだ。
無論、恐怖で終わる場合もある。
サマンサ、ハーディンあたりは常に近しい者を失うという可能性を無意識下で恐れていたはずだ。

 『ベイグラントストーリー』におけるこの言葉は
シドニーを中心とする多くの登場人物たちの喪失を象徴する言葉であるが、
仮定・例え話の集合体=物語そのものが一種のファントムでしかないという発想が、
最初にファントムペインという言葉の概念を拡げてくれた私でない誰かの偉業と同じように
この言葉を一層価値あるものとしてくれる。
ファントムペインなど、何処にでもある――この言葉すら観点次第で正しかったり間違っていたりする。
ファントムなど、何処にでもある。
大切な何か、さりげない何かの有無に仮定と想像の力を向けたとき、
あなたはひょっとすると、『ベイグラントストーリー』の世界で描かれていた
なんらかの“疼き”を自分の中にも見出すことがあるかもしれない。
それもまたファントム。
その“疼き”もまた、ファントムペイン――
               

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
VagrantStory PHANTOM PAIN 
 
 
 
 ベイグラントストーリー 
  ・ファントムペイン              
 
      〜FIN〜